2016年12月23日 (金)

決定的なイマージュ

 テレビジョンというメディア(ないし装置)の可能性はまだ十分に汲み尽くされてはいないと思うけれど、現状はといえば、九割五分五厘くらゐは資本主義の走狗、より正確には資本主義を利用して富の不公平な分配を推し進めようとする資本家の走狗となってしまっているわけで、すぐれたプログラムといっても自ずと限界はあるに違いない。
 その点をひとまづ措くなら、『逃げる恥だが役に立つ』はよく出来たドラマだったと思う。まあ初めは「どうせガックスがただただ可愛いだけのドラマだろう」と高を括っていたのだが、そしてもちろんガックスは最後までチャーミングであり続けたわけだが、想定以上に頑張っているなあと。
 物語の内容についてはすでに多くの人たちが語っているのだろうし、そこにさらに何かをいい添えようという気はない。ただ、テレビドラマとはいえ映像作品であるからにはやはりそこにはいわゆる〈決定的なイマージュ〉が無くてはならないはず。このドラマには少なくともふたつ――勿論ガックスその人の声や姿は別として――ずっと記憶にとどめておきたいイマージュがあった。

 ひとつ目。
  123456789_2

 別角度からのショット。
 456789123_2

 原作にこういう場面があるかどうかわからないけれど、これは素晴らしい。字は下手だが。ありえないほど(念の為に、これは「素晴らしい」にかかっていますよ)。資本家の狗にすぎぬ放送局が一体どの口で……などと野暮な事をいうのはぐっと堪え、ただただ惚れ惚れとしてしまう。美女と黒板(あるいは文字)といえばゴダールを思わせるが(ガックスをA・ヴィアゼムスキーに置き換えてもこのイマージュは成立する)、そういえば次のイマージュもゴダール的といえるかもしれない。

 234567891

 345678912

 類似からの思考。性差を越え、人と機械の種別を越えて、ペッパー君、君はなぜこんなにもガックスと似ているのか。
 あれはいつ頃だったか、確か人工知能学会機関誌の表紙に描かれた女性型家事代行ロボットが物議を醸し、かなり強く批判されたことがあった。この場面もそうした批判に通ずるものといえるのではないだろうか。
(もっとも、物語では残念なことにガックスがこのロボットを抱擁することで批判の鋒先を鈍らせてしまっている。ガックスはむしろ助走をつけてペッパー君に跳び蹴りを喰らわすべきだったと思う。)

 今更ゴダールか(しかも60-70年代の「政治的」な)!というような小賢しい(笑)指摘は「役に立たない」。だって日本のテレビはゴダールの水準には全く及びもしていないのだから。とにかくこうした決定的イマージュがあったというだけでも、このドラマは素晴らしいと、冒頭の留保のことなど忘れ去って、強くいいたいのです。

 気になったこと。クールの途中でガックスの顔が変わったように見受けられた。彼女の顔は、額と眉、やや腫れぼったい瞼と奥二重で切れ長の眼の塩梅が南の島の人っぽくってよかったのだが、疲れて瞼の肉が落ちたのだろうか、目が大きくなっていった。だからこそペッパー君と似てしまうということにもなったわけだが、少し脱線して私事を書いておくと、同じような南の島出身の女の知り合いと初めて出会ったとき、誰かに似ているなあ、ああガックスだと感心したことがあった。歳はずいぶんと下だが彼の女は不肖のわたくしに多くのことを教えてくれた。ひとつは〈迎合的な笑い方〉。この笑い方をわがものとした時、自分が大人になったなあと実感したのだった。

 星野源のことは名前そのものを含めて何も知らなかったけれど、声がいいね。少し黒人っぽい響きがあるかと思っていたが(つまりオバマ大統領も声がいいよねというような素材の話です)、あるとき、あっそうだ、スティーヴ・ウィンウッドに似ているのだと思い当った。ああだからある種の、そういった意味での「ソウル」が感じられたというのもあながち間違いではなかったということになるだろう。歌の純粋な上手さという点では比較にならないし、そもそも比較するのがおかしいのだが、何處となく似たところがあるということで。

 ※ 映像はすべて著作権者に帰属します。

|

2016年6月25日 (土)

憲法改正、あるいは『朝まで生テレビ !』

 あー観なければよかったといつも思う番組(とはいえこれまで数回しか観ていないけれど)。
 理由のひとつ、たぶん最大の理由は司会の田原総一朗その人だろうね。なぜ人の話を遮るのか。「老害」とはいうまい。この御仁は前からそうだった。ひとつには根本的に莫迦だから。もうひとつ、こちらの方がより重要と思うが、莫迦な一般大衆でしかない視聴者にはこの番組での議論は理解できまいと思い込んでいるから。そのような前提に立ち、敢えて初歩的な質問を次から次へと繰り出すことで結局議論の展開を阻害するというのは、番組の、引いては電波の私物化以外の何ものでもない。予備知識のない、すなわち啓蒙される必要のある「一般大衆」がこんな番組を見るわけないだろう。本当に苛々する。早く引退してくれないかな、この糞爺。
 田原氏くらゐの知名度がなければこの種の番組は主宰できないとでもテレビ朝日は考えているのだろうか。この日のパネリストに名を連ねた三浦瑠璃でもたとえば十分に務まるだろうよ。まあ、議論の質がどうしようもなく退屈なので司会を受けることはなさそうだけど。
 もっとも、三浦氏の各種分析にわたくしは十分に説得されたことは実はない。聡明なのはわかるが、その論理展開には何か誤魔化し、といって悪ければ偏向があるような気がする。突き詰めて分析したことはないけれど。
 それにしてもこの人は自身のエロティシズムに気づいているのだろうか。『ケイゾク』というドラマの主人公・柴田純のような無意識過剰な東大生など現実にはほとんど存在せず、東大女子は実際は人一倍自意識が強いもので、当然(というのはつまり見世物としてテレビに出ようかという人ゆゑ)、三浦氏も自分がどう映っているかには気づいているだろう(自意識の制禦を放棄したような東大男子・玉木雄一郎との対比が興味深かった)。エロといってもそれは、鼻が亀頭みたいな形をしているからではなく、衣装の胸元にスリットが入っているからということでもない。まずは言葉とのかかわり方に宿るある種の資質のことである。『マゾッホとサド』(知らない人は是非読んでくださいね!)のジル・ドゥルーズ風にいえばマゾ的な関わり方なのかもしれない(未確定)。
 念のために急いでいっておくと、この女性をどうにかしたいとかいうことでは全くなく、見世物としてのテレビにおける(自己)演出というテーマに沿った注目です。だってテレビにはそれしかないんだから。
 それから、権力とそのエロティシズムのかかわり。三浦氏はこの場では明らかに一種の権威を身にまといながら(つまりだからそういう演出なので)発言している。そ……

 とはいえ、この日のプログラムで一番重要なのは「憲法改正」の部分である。田村憲久は憲法の何たるかを根本的に理解していない、あるいはむしろ理解しようとしない下種野郎だが、この種の連中が自民党には掃いて捨てるほどいる。たとえば第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢甚遠は「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」(2012年創生「日本」東京研修会)と述べたらしい。ありえない。こんなのパブリック・エネミー・ナンバーワンでしょう。東大法学部から旧労働省。こんな奴が法務大臣とはね――と書いたところで時間切れだー。三十分後に日本対スコットランド戦が始まる。

| | トラックバック (0)

2016年6月18日 (土)

日本 対 スコットランド 其之一(六月のテストマッチ・シリーズ)

 日本 対 スコットランド 13-26 (トライ数 1-2)

 日本代表がウェールズ代表に初めて勝った試合から三年。あの時は一本目半、どころか下手すると二本目でしかないレッドドラゴンに対する勝利に歓喜の声をあげたのだが、現在のブレイブ・ブロッサムズが置かれた状況はその頃とはまるで違ったものになっている。

 要するに、昨秋の対スプリングボクス戦勝利の興奮冷めやらぬなか――そうですとも、わたくしは今だに涙と洟なしにあの試合を観ることができないんです――、悪くとも「善戦」(つまりは惜敗)、ということはすなわち実質的に「雪辱」の勝利を日本協会代表チームは期待されていたからである。
 ただし、こうしたテスト・シリーズでは最終戦が本番ということに一応なっていて、だからこの日行われた第一戦は双方にとって半ば予備戦的な位置づけではあった。
 ワールドカップ準々決勝でワラビーズに惜敗し、また今春のシックスネーションズではフランスを十数年ぶりに破ったチームとほとんど変わらぬ「ガチ」のメンバーを組んでくれたスコットランド協会には本当に感謝しなくてはいけないけれど、対する日本チームはといえば、例の南ア戦のそれと比較すれば顔ぶれ・コンディションを合わせて三割から四割くらい力の落ちた条件で試合に臨むことになった――というよりむしろ、これまでの積み重ねが残されているかどうか判らない新チームと称すべきかもしれない。とするなら、敗れたとはいえこの点差(オールブラックス対スコットランドないしウェールズ戦を考えてみればよい)に収まったこと、また戦い方によってはあるいは勝利も不可能ではなかったことには素直に喜ばなくてはならないのだろう。

 ラグビーは野球などとは異なって本当の意味におけるチーム・スポーツだと思うがそれでもたいていの場合、選手個々の力量が点差に如実に映し出されてしまう残酷な面があることも否定できない。キャップ数がそれなりにあるメンバーについていくつか感想を記すなら、10番田村クンはゴール・キッカーとしては申し分ない出来でしたが、攻撃の起点としては「無難」以上とはいえなかった。9番や12番との連係、サイン・ムーブはそれこそチームとしての戦略そして戦術にかかわるものだから現段階では仕方ないとしても、もっと自分から仕掛けないと、12番の負担が多くなりすぎてしまうのではないか。
 その12番の立川クンは、10番として出場した三年前の対ウェールズ戦で既に厳しいマークを受けていたわけだが、この試合でもエイトのマフィとともにマークの主たる対象となっていた。それでも攻守にわたって立派なパフォーマンスを披露できるのだから大したものだ。ジャパンの12番がフィジカリティで互角に渡り合える日が来るとは、素直に感動しないわけにはいかない。われわれは少なくとも、パスは上手かったけど接触局面では必ず腰の引けていた平尾誠二とパスの巧さも身体の強さも中途半端なままキャップだけ無駄に増やした元木某のことは忘れてよいのではないだろうか。
 9番の内田クンはこの水準では厳しいなー。表情が無駄に偉そうという点は措くとしても、まずラックへの寄りが遅いよ。スクラムハーフの仕事はまず、ラックに誰より早く、可能ならばラックが形成されるより前に寄ることではなかったか? だというのにこの人は「余裕をこいて」挙句にボールを奪われているのだから。日和佐クンにもそういう傾向があってわたくしは全然評価できなかったのだが、ワールドカップではその悪しき癖が解消されていましたね。田中クンや茂野クンが出られないとすれば日和佐クンを選ぶべきでしょう。レフェリーが笛を吹く前にラックから強引に球を出してしまえばいいのに、一体何度奪われているんだという話です。内田選手はテンポもよくないね。わたくしは単純なスピード信仰をもってはいないけれど、テンポそしてタイミングはやはり重要だと思う。そして最後にやはり判断。対カナダ戦やこの試合で茂野クンの代わりに内田クンがトライの起点になれたかというと、残念ながら否といわざるをえません。他に人がいないのかな。

 この試合の個人的ハイライトは後半20分のスクラムでした。どう見てもスコットランド贔屓のレフェリー(NZ協会)の判断の誤りを実力で証明して見せたフロント・ロー、とりわけ一番の稲垣クンの頑張りには胸が熱くなりました。ボールがよく動くラグビーもよいけれど、双方一歩も引かぬ、ほとんど静止したかに見えるスクラムがえんえん続くのもわたくしは好きなのです。

| | トラックバック (0)

2016年5月21日 (土)

「電通は日本のメディアを支配しているのか」にかこつけて

 日本放送協会がさる番組においてあるジャーナリストの系譜を調査し、それなりに由緒あるものと思われたので公にしたところ、その系譜の本家から誤りを指摘されたという。テレビに出るというのはすなわち見世物になるということで、要するに何でもありなのだろうし、その「詐称」の事実にはさしたる興味もないけれど、番組内で調査結果を知らされたそのジャーナリスト氏の感想が気に障ったので少し書いておこうと思いました。彼は祖先が関ヶ原の戦いでいわゆる西軍側についていたことを知って、おのれの「反権力」的立場に歴史的(系譜的)根拠が与えられたかのように感心していたからです。
 なぜ似非左翼は揃いも揃って莫迦なのか? 関ヶ原の戦いというのは豊臣秀吉死後の権力をめぐる争いだろう。そして石田三成はそもそも権力の中枢にいたわけで、正統性の主張もむなしく、権力を奪われてしまっただけの話でしょう。当然のことながら、もし西軍が勝っていればジャーナリスト氏の「先祖」も権力の側に立ってそれなりの利益を享受していたはず。翻って現代的な、というかジャーナリズムが旨とするような「反権力」とやらは、むしろ権力から身を引いて批判するというあり方を指すのではなかったか。むろん実情がそうではないということ、それをこのお笑いジャーナリストは精神分析的に――とは要するに無意識のうちに――暴き立てたのだが。
 実際、ある程度の規模のメディアは陰に陽に既成権力(エスタブリッシュメント)の一部を成しているのであって、「反権力」など笑止の至りというほかない。

 一部界隈で話題となっているらしい、在日フランス人ジャーナリストによる論説「電通は日本のメディアを支配しているのか」。わたくしも一応、原文ならびに内田センセの丁寧な翻訳に目を通しましたけれど、特に目新しいところはありませんでした。この程度の記事で今更のように騒ぎ立てるなんて……というような厭味は控えますが、一点、気になるところがありました。
 フランス人ジャーナリストM・ゴレーヌ氏は、メディアと電通の関係の分析を専ら広告収入の有無(ないし多寡)という観点から行なっており、必然的帰結として日本放送協会が権力から相対的に独立しているかのごとく論を展開することになるわけですが、果たしてそうか。受信料の法的根拠をめぐるさまざまな問題は別として、NHKが権力から独立しているとはとても思えない。NHKが享受するはずの独立性を脅かすことになる(とゴレーヌ氏は主張する)籾井の会長就任より前からの話です。

 わたくしがずっと気になっていたのは、NHKのプログラムに出演する芸能人、すなわち俳優やタレント、コメディアンの類が多過ぎはしないか、また年を追うごとに増えてきてはいないかということです。例えば朝の連続テレビ小説に続く「あさイチ」ではジャニーズが司会だし、その後近畿圏では吉本が「ぐるっと関西おひるまえ」で司会を務めている。太平サブローは別段嫌いではないけれど、大阪の民放で飽きるほど目にしている人をわざわざNHKで見たいとは思わないし、ジャニーズを見たければ、「ぷっスマ」とか「鉄腕DASH」とかあるでしょう。まあそういったバラエティ番組はまだよいのです。見ないという選択肢があるから。困るのは真面目なドキュメンタリーの場合で、その種の番組の語りにもタレントを起用する事例が増えている。
 巧い人がやるならまだ許せる。たとえば先日の「羽生名人と人工知能」みたいなプログラム――NHKの文化系ドキュメンタリーは実のところ内容がどれもこれも浅薄で、満足したことは一度もないんだけど!――における林原めぐみはやはり巧かったし、それ以上に彼女の声自体が内容に合致していた。反対に、少し前に観覧した「人の住まなくなった福島で猪が栄える」という趣旨のプログラムにおける伊勢谷友介、あるいは若冲を取り上げたNHKスペシャルの小松菜奈は最悪だった。起用の必然性も全く感じられなかったし、それ以前の問題として、単純に下手すぎるよ。ナレーションが出しゃばってよいような番組ではないでしょう。その意味で新・映像の世紀の山田孝之もあまり感心しなかった。

 それで、個々のタレントの技倆の高低や起用必然性は措いておいて、何がいいたいかというと、かくもタレントが出演するようになったことの意味です。というのは、彼らの出演にはまさしく電通を始めとする広告代理店が噛んでいるわけで、つまりこういうことでしょう。テレビ出演で生計を立てている大多数のタレントの言動は、民放であれNHKであれ、電通の検閲を免れえないと。民放で原発問題に対して口を閉ざすタレントがNHKで反原発キャンペーンを展開するというようなことは、どうしたって不可能なのだから。フランス人ゴレーヌの提示するような「NHK/民放」という区分を芸能プロダクションや広告代理店は超越している(これがグローバリズムと同形である点は強調するまでもないでしょう)わけで、要するに、NHKの番組でも矢張り、間接的にではあれ電通チェックが効いていると見た方がよい。裏返していうなら、増加の一途をたどるタレント起用はNHKのノンポリ化の重要な部分を成しているのである。
 もっとも、NHKが権力批判という点でまともなジャーナリズムを体現していたかといえば、むろんそんなことはない。彼らの高給は権力の狗だからこそのものであって、財務の「自立」にもかかわらず権力の代弁(批判しないという姿勢もまた代弁のひとつのあり方なのだから)に勤しんでいるという批判を躱すべく、タレントを表に立てているともいえるし、またそもそも、そうした財務の「自立」などないともいえるだろう。

      *

 渦中の人、舛添要一。自民党を離れて新党を創設したとき誰もついていかなかったことからして、この人は人望がまるでないんだなー、政治家に向いていないよなー、厚労大臣としても何もできなかったしなー等々とずっと考えてきましたが、案の定、醜聞に塗れてしまっている。都民のことを思うと酒が旨いわけだが、この人は結局学者だろうね。『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)という著書がありまして、憲法についての考えは立派というかまともなんですけどね。あるいはむしろ、他の自民党員がひどすぎるといった方が正確か(ウェブで読める同書関連記事http://gendai.ismedia.jp/articles/print/38416)。高市早苗や片山さつきや西田昌司のような糞野郎共は少なくとも改憲問題に関しては舛添(結局のところ同じような糞野郎だとしても)の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。いずれにしても、2005年発表の「改正憲法草案」に事務局次長としてかかわった経験を綴った同書に示されているのは、舛添の官僚的な意味における有能さであって、政治家のそれではない。今回の醜聞についての釈明会見でも官僚的な論理を弄んでいるよねえ(法律に則っているかぎり何をやってもよいというのは、天賦人権説や法の支配という思想とは相容れない唯の法治主義なのだから)。秘書官なんかが向いているんぢゃないかなと愚考する。
 今次の醜聞に(憲法改正問題で明らかに対立している)安倍晋三が一枚噛んでいるということはありえぬことではないでしょう。でも、たとえば橋下徹は税金を猫糞(ねこばば)したりしないわけでね。ああ、念の為にいい添えておけば、橋下も自民党の2012年改憲草案には反対の立場を明確にしています。

| | トラックバック (0)

2015年10月11日 (日)

アルゼンチン 対 ナミビア(C)

アルゼンチン 対 ナミビア 64-19(36-7) トライ数 9-3 公式統計

 久しぶりに見たホアン・マルティン・エルナンデス。二本目のFHみたいな扱いを受けているのはなぜだろう。しかもゴールキッカーではなくなっている(この試合では13番ゴンザレス・イグレシアスが務めた)。まあ怪我の絶えない人だし、彼の存在を前提としないチームづくりがなされてきたのだろう。実際、SHからのパスを、エルナンデスではなくCTB(特に12番のソシノ)が受ける場面も少なからず見られた。パスの受け手を複数置くというのはよいことである。また、これはそういう戦術なのだろうけど、例えばフィールド右寄りのスクラムからの展開であらかじめエルナンデスとソシノが位置を入れ替えていることもあった。スクラムサイドの防禦の観点から位置を入れ替えるというのは比較的よく採られる配置だが。

 とにかく、圧倒的な地力の差を背景に、プーマスがパスプレーを中心としつつ走り勝った試合。

 準々決勝の相手はアイルランド。対オールブラックス戦を見ないまま適当に放言してしまうと、ブレークダウンで勝つか少なくとも対等にならない限り、結構な差で負けそうな気がする。
 いい換えれば、準々決勝四試合のうち唯一、ヨーロッパのチームの優位が予想されるということである(大方はそういう見方に立っていることでしょう)。しかしわたくしは、アルゼンチンを旧来の「北対南」の構図には入らぬ新興国と考えるので――アイルランドの悲願に共感しないでもないけれど――やはりロス・プーマスに勝ち上がってほしいかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 4日 (日)

アルゼンチン 対 トンガ(C)

 

アルゼンチン 対 トンガ 45-16(20-13) トライ数 5-2 公式統計

 先月行なわれたニュージーランドとアルゼンチンの対戦(26-16)は見逃したのだが、この対トンガ戦前半を見ながら(そして後半を見ながら書いております)、このディフェンスでオールブラックスをよく20点台に抑えたものだと、不思議に思った。実際、ロス・プーマスもトンガもファースト・タックルが甘く、数え切れぬほどのラインブレークが見られたのだった。もちろんこの水準のチームでは二線防禦が相応に機能するため(この点ではアルゼンチンに一日の長があると感じられた)、トライ合戦という風には必ずしもならないけれども、ファースト・タックルの緩さゆゑという一面をとりあえず措いて、双方のライン攻略のさまを楽しむことができた。公式統計によると、ゲインライン突破回数は「アルゼンチン 45 - 62 トンガ」。参考までに他の取組では例えばこうなっている(左が多い方のチーム、下線は勝利した側)。

ニュージーランド 73- 45 アルゼンチン
トンガ 54 - 50 ニュージーランド
イングランド 51- 26 フィジー
オーストラリア 39 - 34 フィジー
ウェールズ 55 - 36 フィジー
南アフリカ 62 - 49 日本
日本 59 - 35 スコットランド
日本 68 - 48 サモア 

 観戦の印象としては第一に、両チームともボールの扱いが巧い。その上で、トンガのパス・プレーはループあり、リターン・パス(フワッと浮かせてラインブレーク)ありと、非常に魅せるものだった。試合開始直後こそ、首へのタックルなど規律の問題が見られもしたが、普通に好チームである。
 アルゼンチンについては、このチームはスクラムの強さを恃みにすることができず、またブレークダウンでの反則すれすれのプレーを平然と行なうようなタマもいないため、素早いボール・リサイクルと、小柄だが俊敏・俊足のバックスで勝負することになっているようだ。わたくしの愛した2007年のチームとはほとんど別物だが、エルナンデスが在籍するかぎりは――とはいえこの試合には登場しない!――、そしてまたトップ8の多様性(従来はスコットランド、アイルランド、ウェールズが犠牲となってきた)のために応援せざるをえない。
 他方でわたくしは太平洋の島々のチームにも肩入れしており、結果として、どちらが勝ってもよいというか、どちらも勝ってほしいという無理筋の祈りを捧げながらの観戦となった。そして結果的には攻防とも相対的にしつこい側、とりわけディフェンスの懐のより深いチームが勝利した。トンガの「懐の浅さ」というと語弊があるけれど、たぶん、次のフェーズをあまり考えずに瞬間瞬間で思い切り事に当たるという気質は、継続の観点からすると、また引いては勝敗の観点からしてやはり不利に働くのだろう。一発でトライまでもっていけなければターンオーバーされるということだから。そういうところを「改める」と結局どのチームも変わりがなくなってしまうわけで、難しい問題だー。
 両チームの対戦は初めてだそう。こうした取組も祭りとしてのワールドカップの長所ですよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月 2日 (金)

ウェールズ 対 フィジー(A)

ウェールズ 対 フィジー 23-13(17-6) トライ数 2-1 公式統計

 ようやくJ sports に加入することができた。
 今大会のベストマッチ候補であろう(少なくとも日本人にとっては)対南ア戦の再放送にぎりぎりのところで間に合うというタイミング(八月に申し込んでいたというのに何故こんなに時間がかかるのか)。
 読売テレビの放送では削除されていた映像を見ることができてよかった。試合終了後の選手同士の挨拶では、スカルク・バーガーが笑顔で日本側選手たちを称賛する場面が素晴らしかったと思う。三大会目のトンプソンと大野は頑張った甲斐ががあったね。
 
 とにかく何度見返しても――またJスポのYアナや解説の小林さん、村上さん、日本ラグビー狂会の佐々木さんや中尾さん、そしてもちろん故梅本洋一といった面々の歓喜・号泣(?)を想像して――その都度泣いてしまう好ゲームである。

     *

 それで早速、A組のウェールズ対フィジーの試合を見たわけだが、実況担当者が賢しらに解説までやってしまうので、申し訳ないけれど副音声に切り替えた。「ゴ(ール・ト)ラーイ」の日テレの実況の方がまだ許せる――と思う一方、日テレのアナウンサーにも不満がないではない。例えばこの人はなぜかイングランドに肩入れをしている気味があって、イングランドとイギリスの区別がついているのだろうかとか、「ロイヤル・ファミリー」と一括りにしているけれど、兄王子と弟王子でジャージの色が違っているだろ!とか、あるいはそもそもイギリス皇太子がウェールズ公を名乗るゆゑんを御存知ないのかとか、サッカーでもラグビーでもイングランド・チームを応援するのは世界中で「イングランド人」だけなのにとか、いろいろ不安を抱かせる人ではあった。しかしそれでも、実況本番で取り乱してしまうという、スポーツ・アナに欠かすことのできない資質に恵まれてはいるということにしておきたい。

 ウェールズとフィジー。2007年の対戦ではレッド・ドラゴンが「椰子の木」チームを力で抑え込もうとして失敗し、ある意味で非常に馬鹿馬鹿しい点の取り合いの末に後者が勝利した。2011年の対戦では、陰惨なまでに前者が後者を叩きのめすという結果となった。
 今回の対戦が示したのは、ウェールズはやはりワールド・ラグビーというかラグビー・ワールドに不可欠なチームであるということだったと思う。フィジーのような something different の可能性があるチームを活かせるか否かというのは、世界のラグビーの多様性にとりきわめて重要だからである。

 もっとも、現在のフィジーにそれほどの魅力があるかといえば、実のところかなり大きな疑問符を付けないわけにはゆかない。
 パス・プレーにしても、ウェールズのそれが、長短やタイミング、また空間の活用法などの点でまさしく多様性を体現していたのに比べれば、フィジー側のそれは均質性に傾きがちだったと思う。

 というか、「フィジアン・マジック」なるものは本当に存在する(した)のかと、われわれはまず問うべきなのかもしれない。そういうものが本当にあるとして、それはしかしオール・ブラックスによって「つねにすでに」体現されているのではないかと。
 同様の神話として名高いものに「フレンチ・フレア」がある。基本的には駄目なチームがしかし時折「閃き」を得て驚嘆すべきプレーを見せるというような話だが、これはフランスの真摯なラグビー・ジャーナリストによって否定されているらしい(木村安寿「なぜフランス人はかくもラグビーが好きなのか? ふたつの神話をめぐって」日本ラグビー狂会編『日本ラグビー 世界への始動』双葉社、2009年)。

 しかしそれでもやはり、フィジーが「らしさ」の片鱗というか、正確には(一度死んだものの再生の)萌芽を垣間見せたのは、ウェールズの「セクシー・ラグビー」(こちらはむしろ死にかけた中での残余というべきかもしれないが)に触発されたからではないだろうか。実際、この試合ではウェールズのスクラムやモールが一度ならずフィジーFWに負けたのだった。
 ウェールズでは例えば、長らくスクラムを支えてきたタイトヘッド・プロップのアダム・ジョーンズが大会の代表選考に漏れるということがあった。おそらく彼がいれば、対イングランド戦やこの試合でスクラムが劣勢になることはなかったろう。それは十分予測されたことであって、それでもなおフィールド・プレーに重きが置かれたのであるとすれば、それは今後のラグビーも潮流を示唆するものなのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年9月21日 (月)

南アフリカ 対 日本(B)

 南アフリカ 対 日本 32-34(12-10) トライ数 4-3 公式統計

 「異論はありうるだろうが」(arguably)ラグビー・ワールドカップ史上、そしてさらにはラグビー・ユニオン史上最大の番狂わせ――という表現、これは確かに試合の痛快な一面を扇情的にいい表したものではあるけれど、反面、日本チームがそれほどまでに弱いと見なされていたということでもあるわけで、どちらかといえば不名誉なことなのかもしれない。
 これまでW杯史上最大の番狂わせといえば、1999年大会準決勝のフランス対ニュージーランド戦だった。しかしフランス(およびイングランド)はそもそも南半球三ヶ国に実力で伍することのできる、つまりまぐれでなく勝つことのできるチームなので、同列には論じられないはず。

 というわけで、この試合結果が日本の実力を反映したものかどうかは、少なくとも今大会のこれからの結果、もっといえば次の大会(日本で開催される)での戦い方如何にかかっている。まあ、数年に一度、気紛れのように番狂わせなり「ジャイアント・キリング」なりを仕出かすチームというキャラクターも悪くはないけれど!

 それはそれとして確かなのは、われわれはもはや日本代表の過去の「善戦」に言及する必要が――個々の素晴らしいプレーは別だが――なくなったということである。

 素晴らしいプレーはこの試合でももちろん披露された。例えば残り10分少々、南ア陣22m付近からの右オープンのサイン・ムーブがそうだ。SH 田中→インサイドCTB立川→FH小野という変則的なパスに続き、小野の背後に忍んでいた左WTB松島へのリターン・パス。これは個人的な記憶では例えば2007年大会でワラビーズにやられたもので、ラーカムと相対していたFL佐々木が対応しきれずトライにまでつながったプレーである(まあこれ以外にも山ほどトライを献上したのですが)。今回の日本のムーブでは、相手CTBの世界的名選手デヴィリアスが小野につられて全く対処できなかった。これほど痛快な出来事もない。身体の重心を外に移しながら内側にパスをした小野の技倆に目が覚めるというか、すでにとどまるところを知らなかったわたくしの涙と洟がいっそうひどくなったのでした。

 そういえばわたくしは前半30分くらいのドライビング・モール(英語ではrolling maulというようです)によるトライ辺りからずっと洟を啜りながら泣いていたのだった。日本の――というか弱い方のチームの――モール・トライはだいたいにおいて感動的なのだが、この日はとりわけ、小野や立川らバックスが駆け付けて押し比べに参加したところで涙腺が突発的に開いたと思う。
 観客を味方につけ、南アフィフティーンから冷静さを奪うところまで計算されていたとすれば(むろんそこまで計算づくだったと思うが)、エディ・ジョーンズ氏は本当に凄い、というか凄かった。なぜこのような人を手放すのかといえばそれは、ひとえに日本協会幹部が揃いも揃って馬鹿だからである。先般の新国立競技場騒動で世間を呆れさせた河野一郎のごとき下種野郎に長らく牛耳られていた組織ゆゑ仕方のないことではあるものの、もう何というか、岩渕健輔くんに早く偉くなってもらうほかない。
 近頃話題の清宮父氏はこの試合を見て、たいそう技癢を感じたことだろう。もちろん彼にはそれなりの(周到に用意された)「番狂わせ」の実績があるわけだが、FWコーチのマルク・ダル・マゾもEJとともに去ってしまうわけで、日本選手権のようには行かない可能性がある。それでも薫田某よりはだいぶましと思うけれど。

 選手全員が最善を尽くしたことにはただ賛辞を贈るのみだが、個人的には立川の復調が嬉しかった。以前にも書いたことがあるけれど、日本のバックスは立川が自らゲインしなければ苦しくなるので、今日の彼のプレーは非常に効果的だった。もしかするとこの水準のゲームではCTBの方が向いているのかもしれないね。それは次のスコットランド戦ではっきりするはず。

 プレーとは直接の関連はないけれど、ヴィクター・マットフィールドの諦念を翳された表情も印象に残った。

 このゲームをスタジアムで観た人は本当に幸運だと思う。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年9月19日 (土)

イングランド 対 フィジー(A)

 イングランド 対 フィジー 35-11(18-8) トライ数 4-1

 ワールドカップの開幕戦では開催国(正確には協会)チームが同じプールの中堅チームと相見えることになっている。中堅チームとはここでは、例えば1999年、2003年ならびに2007年の大会でウェールズ、オーストラリアそしてフランスと対戦したアルゼンチンのように、強すぎも弱すぎもしない、つまり試合をぶち壊すことなく、しかし開催国の面子をつぶすこともないと想定される、或る意味で「都合のよい」チームの謂いである('95年の南ア対豪州という取り合わせもありましたが!)。
 もっとも、アルゼンチン協会代表チームは2007年大会で痛快なことに開催国フランスの面子を二度にわたって踏みにじるという狼藉を働くことで、関係者各位を大いに見返すこととなった。ロス・プーマスが今やトップ8の一角を揺るぎのない仕方で占めていることは皆が知るとおりで、われらが日本協会代表も、せめて「そこそこ強い嚙ませ犬」くらゐの地位が与えられるよう頑張ってほしいものである。

 さて、今大会の「嚙ませ犬」はフィジー代表。愛称は知らないが、エンブレムは椰子の木。他とは異質なラグビーで知られていたものの、近年はその象徴を返上しなくてはいけないほど「グローバル・スタンダード」の波に洗われているチームである。
 試合としては、どうせイングランドが勝つんだろうと高を括っていたこともあって、予想外の展開にかなり引き込まれた。フィジーはもう少し上手くやれたのではないかと悔やまれる。
 フィジー代表についてはいろいろ思うところあって、ああそういえば四年前にはどんなことを書いたんだったかと振り返ってみれば、こんな感じでした。

2011年10月 2日 (日) ウェールズ 対 フィジー プール D

 ウェールズ 対 フィジー 66-0(31-0) トライ数 9-0

 試合前からウェールズのノックアウト・ステージ進出がほぼ確定しており、今日の興味の焦点は How much are they going to play rugby? ということに尽きる。この場合の to play rugby とはもちろん、競技としてのラグビーをするということではなく、パス・プレーをするという意味になる。
 ウェールズのゲームがそうなるだろうことは想像できたが(負傷も避けなくてはいけないわけだし)、わたくしの個人的関心は、いわゆるフィジアン・マジックの復活とまではいかなくとも、少なくともフィジーが対南ア戦や対サモア戦のようなクラッシュ一辺倒の戦い方ではなく、奔放なパス・プレーを復活させることができるかという点にあった。つまりウェールズの「プレー」ぶりに触発されて、抑圧したはずの欲望を解き放つのではないかと期待しているのである。降雨などこの際関係ない。[…]。
 前半が終わった時点でウェールズが 4 トライを奪って 31-0。やる気どころか、もしかするとやる意味さえ見い出せていないのかもしれぬフィジアンをウェールズが無慈悲に――細かいミスも少なくはないが――攻め立てた。この調子で試合が終わってしまうと、ずっと瀕死状態にあったひとつのスタイルが(とりあえずは)死に絶えるという意味で、世界ラグビーの大きな損失が最終的に計上されてしまうことにもなりかねない。フィジアン・スタイルの壊滅とは、日本のラグビー――横井章氏のブログやまた『日本ラグビー 世界への始動』(日本ラグビー狂会編著、双葉社、2009)所収の同氏インタビューなど参照――の長期低迷に匹敵するくらいの出来事なのであって、憂慮する人も決して少なくないと思う。
 1999年大会だったか、フィジー相手に苦しんだフランスが FW 戦を挑んで彼らのスタイルを抑圧し、何とか勝利するということがあった。前回大会でもウェールズが同様にスクラムでねじ伏せようとしたものの力足らずで跳ね返された試合はまだ記憶に新しいと思うが、今回のレッドドラゴンは、その時より力がずっと上だし、今日は勝敗に拘る必要もないので、抑圧的とはなるまいとわたくしは踏んでいる。

 話を今大会に限定すると、フィジーのゲームがまったくつまらないのは、パス・プレーがほとんどないという以前に、何をするにもテンポが一様だからである。たとえばウェールズなら、今日の前半、ショートサイドを攻めたロバーツのトライがそうであるように、パスの長さやタイミングを変えることでプレーを変調させることができるだろう。それはつまりあれほどの狭いスペースを実質的に拡張できるということにほかならない。超ロングパスや、フィールドの端から端までのキックパスも同じことで、詰まってしまったところに突如、物理的・地理的に隔絶したはずのスペースがつながってしまう点が素晴らしいわけである。ガンガン身体を当ててゆくのも悪くはないけれど、そればかりでは退屈してしまう。だから、

 ……フィジー不発。ガッカリです。

 

 一読して半分くらゐは賛成できるかなあ――いや、観方としては今も大差ないけれど、結局のところは日本代表同様に、個性の出にくいセットプレーの整備から再出発するしかないのだなという、諦念にも似た、しかし肯定的な感慨を抱いた。
 以下、雑駁な感想などを列挙する。

 
 ・双方ともハンドリング・エラーが多かったが、これは雨もあり、また開幕戦ということもあって、仕方あるまい。
 ・ゲーム内容も天候に応じたもので、両チームともに大した特色は出さなかった。
 ・フィジーの敗因の第一はプレースキックの不調。
 
 
 
 ・フィジーは足技に秀でている。(フランスやアルゼンチンもそう。)
 ・イングランドのバックスはパスがそこそこ巧いけれど、ラインが浅い、つまりパスを受けてから駆け出すために、数的優位にあるか、もしくはミスマッチが生じていないかぎり、トライに結びつけるのは難しいだろう。
 ・イングランドは傑出した才能は見当たらないが、いずれの選手も計算の立つ好選手と思われた。手堅い選手選考といえる。しかし準決勝進出がせいぜいのところで(プール・ステージを二位で通過すると準々決勝の相手は南アフリカとなる)、優勝は無理だろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年8月13日 (木)

「すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを」?

 今最も熱い事案のひとつ、東京オリンピックのために作られたエンブレムの「剽窃」問題に関連して。

 これが剽窃かどうかについて語る言葉をわたくしはもたないけれども、佐野研二郎氏が仮にリエージュ劇場のエンブレムを本当に知らなかったとして、しかし調査不足というか不勉強の謗りは免れがたく(この辺りは学術論文でも同じことだ)、味噌が付いてしまった以上は他のものを改めて選ぶのが妥当ではないかと思う。

 視覚的にいって、非常に辛気臭い感じを与える(要するに気の滅入る)ものが選ばれた点に首を傾げる人は少なくなかろう。ただの印象論だが、まあ何というか、これは喪章だよねと。こういう絵面が恰好よいみたいな感覚はすでに時代遅れだと個人的には思うけれども、それは措くとして、画面構成にどれだけの深遠な思想があるのか調べてみたところ、

世界は、2020年に東京で
ひとつのTEAMになる歓びを体験する。
すべての人がお互いを認め合うことで
ひとつになれることの
その大きな意味を知ることになる。
その和の力の象徴として、このエンブレムは生まれました。
すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。
すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。
そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動。

When the world comes together for Tokyo 2020, we will experience the joy of uniting as one team. By accepting everyone in the world as equals, we will learn the full meaning of coming together as one.
The Tokyo 2020 emblems were created to symbolise the power of this unity.
The black colour of the central column represents diversity, the combination of all colours. The shape of the circle represents an inclusive world in which everyone accepts each other. The red of the circle represents the power of every beating heart.

Lorsque le monde se réunira à Tokyo 2020, nous aurons la joie de ne former qu'une seule équipe. En nous acceptant les uns les autres à travers le monde, nous comprendrons ce que cela signifie vraiment de ne faire qu'un.
Les emblèmes de Tokyo 2020 ont été créés pour symboliser le pouvoir de cette unité.
La couleur noire de la colonne centrale représente la diversité, l'addition de toutes les couleurs. Le cercle représente un monde ouvert à tous où chacun accepte l'autre tel qu'il est. La couleur rouge du cercle représente le pouvoir de tous les cœurs battant à l'unisson.

ということだそうです。気持ち悪いことがいろいろ書いてあるなあ。言葉づかいの水準で厭味をいうと、主語の後に読点を置かずにはいられぬ感性にまず苛立つ。それに「ダイバーシティ」、「インクルーシブ」、「ハート」(「TEAM」は際どいところだけど、T と頭韻を踏むのは英語だけなのにと指摘することは可能だろう)。

 文意もよくわからないな。「ユニティ」と「ダイバーシティ」はどう関係しているのか。「すべての色が集まれば黒になる」というけど、たんに集積するだけではおそらく黒にはならんよ。混ぜて溶け合わせないかぎりは。
 というより、これはもしかして人種的「坩堝」のことをいっているのだろうか。妥当性が何十年も前に否定された理論なのに。完璧ではないにせよ「サラダボウル」や「パッチワーク」、あるいは「モザイク」の方がまだしも現実に近いというのが現在の常識だろう。誰が混ぜ合わせるのか知らないけれど、「坩堝」では目論見とは逆に「ダイバーシティ」とやらが否定されてしまうのではないかな。人種や土地を色に喩えるのもどうかと思うが、それは問わぬことにして、エンブレムの下部を構成している「五輪」、すなわち五つの色は、まさに混合の不可能性をいっているのだろうし、また、それでもなお「手をつなぐことは出来る」と説いているわけだろう。つまりこの意匠は上と下で矛盾をきたしていることになる。デザイナーの意図はだから、矛盾ではなく、「五色 → 黒」という昇華(?)の視覚化・意匠化という点にあったのだろうけれど、一度黒になってしまった各色は分離できず黒のままではないだろうか。ということは結局、「ダイバーシティ」ではなく、「ユニティ」こそが強調されていることになるような気がする。個人的に感ずる気持ち悪さの原因はこの辺りにあるのだろう。
(補足:五輪のうちの黒い輪はアフリカ大陸のことなんですね。その黒と今次のエンブレム上部の黒とは如何なる関係にあるのか。その辺りは突き詰めて考えられては当然いないでしょう。そういう意味では、真剣に検討するのが阿呆らしくなるような意匠ではありますね、そもそもからして。)

 なお、この一文はいわゆる「減法混合」のことをいっているわけだが、それは理屈の上での事柄に過ぎず、現実には真黒になりはしない。ウィキペディアでもこんな風に説明されている。

CMYKはCMYから派生した、減法混合に基づく色の表現法である。理論上ではCMYによって全ての色を表現できるはずであるが、実際にはCMYのインクを混合して綺麗な黒色を表現するのは技術的に困難であり、せいぜい鈍い暗色にしかならない。このため、プリンターなどの印刷機で黒色をより美しく表現する目的としてCMYKが採用されている。また見た目の美しさ以外にも、黒を表現するのに必要なインク量が少なくなるためにCMYの場合と比べてランニングコストが下がる、乾燥が速く高速印刷に向く、といった利点がある。

 鈍い暗色、つまりは鈍色であって、黒ではないということ。屁理屈を捏ねるなといわれそうだが、実際にパレットに絵具を展開して紙や帆布を彩色した経験があれば、こんなことはすぐわかる。理屈を捏ねているのはむしろこのエンブレムの方だろう。閉じられた色彩理論の世界でしか通用しない理屈――いやそうではなく、もやは手や紙を絵具で汚すことのないDTPの世界でのみ通用する理屈。だってこれは要するにイラストレーターに類するソフトの(擬似)パレット上で「黒」をちょちょいのちょいと選択してみただけでしょう? それでは人に感銘を与える意匠にはならんよ。スポーツのフィールド(室内競技も水上競技も含む)とはもはや何の関係もないのだから。
 おそらくこのエンブレムのデザインは、競技場で行われるスポーツとテレビで中継されるスポーツとの混同を戯画的に象徴するものなのである。テレビ観戦に慣れてしまうと、混同とは感じられなくなるけれども、時としてそれが錯覚に過ぎぬことをわれわれは思い知らされる。たとえば今年カナダで開催された女子サッカーW杯決勝における、アメリカチームの先制点。画面の外から矢庭に現われてボールをゴールに蹴り込んだロイド選手は、まさしく画面枠の外が存在すること、あるいはむしろ画面の外にこそフィールドが、世界があることをわれわれに暴力的に思い出させはしなかったか。あのプレーとは異なり、佐野研二郎氏の思想はテレビ画面の外にはまったく届いていないし、そもそも外部なるものがあるなどと微塵も考えてはいないように見受けられる。だから糞なのだとはいわない。他の使い途はあるかもしれないから。でもスポーツには向いていないな。穿った見方をすれば、スポーツの死を宣する喪章、乃至スポーツの死と引き換えに生き長らえようとするメディアの勝利宣言ではあるかもしれないけれど、オリンピックがすべてではないわけだし(来月にはラグビーワールドカップが始まります)。

 もうひとつ理屈をいうならば、「すべての色」とはそもそも何だろう? 色、正確には色の名は無限に存在しうるのだから(われわれは色の名を無限に発明することができる)、あらゆる色を「集める」ことなど、現実には誰にも出来ないはずである。そういった意味でも、本当に浮世離れした、そう、やっぱり、敢えていってしまおう、糞のような思想であると。

 

 それから同時に発表されたパラリンピックのエンブレム

(未了)

| | トラックバック (0)

«大阪都構想 後日譚