2012年1月15日 (日)

回顧 2011 年

(意見表明というより、自分の考えを整理するために書いているので、いつものように乱雑なままです。)

 2011 年はもちろん「東日本大震災の年」として公式には記憶されるのだろうけれど、個人的にはむしろ震災をめぐる状況の方が興味深かった。影響を蒙らなかったわけではない。仙台の友人は不便を耐えなくてはならなかったし、関東にも友人知己や親族が引き続き暮らしている。それに、企画がひとつ無期限のペンディング――実質的には「没」――となったのも少々痛かったが、この場合、震災は口実ないしきっかけであって、実際には長い不況のせいと考えている。

 震災をきっかけとして前景化した状況というのは、いわゆるエスタブリッシュメントの機能振り、つまり「原発問題」や「東電問題」などに先鋭的に表れているだろう、社会的富の分配における不公平性・不公正性である。パブリック・エネミーはこいつだと、あらゆる方向から繰り返し名指されても当の御仁は何ら痛痒を感じないという状況。
 もっとも、つい擬人化して語ってしまったけれど、その「公敵」が人とは限らない、というかむしろ本当の「敵」がいるとすればそれは構造やシステム、制度(インスティテューション)というに近い何ものかであるだろう。東電会長の×俣だの、経産省前事務次官の×永だのは、そうした仕組の「エージェント」(「エージェント・スミス」といったりするときのエージェント)にすぎない。
 ちなみにいえば、選挙で落とされる可能性がある国会議員の地位はそれより一段劣っている。いわばエージェントのエージェントだ。定数を多少削減しても大勢に(体制に?)影響がないと予想されるのはそのためだが、実際、いま政権を握っているような連中ならば、半分に減らしたって何も変わりはしまい。
 しかしだからといって減らせばよいということにはならない。消費税率引き上げの代償として国会議員が「身を切る」、すなわち定数を削減する可能性も議題にのぼっているけれど、そんなことをすれば役人の思う壺だろう。ローメーカーの数はむしろ逆にもっと増やさなければならない。財務省の操り人形や、バカ(「ガソリンプール」とか元 NHK の原稿読みとか)、無為徒食(小沢とか三宅とか)は排除し、歳費を大幅に引き下げるという条件で。
 つまり、議員定数削減と公務員人件費削減はしばしばセットとして扱われるが、それらは別の事柄なのであって、いま必要なのは後者である。
(※公明党は民主党の定数削減案に対し「断じて反対だ。改めてもらいたい。身を切る改革であれば、国会議員が等しく効果を被らなければならない。(恒久的な)歳費削減が妥当だ」などと述べている(1月19日付産經新聞)。理由や思惑はわたくしとは全く異なるし、大阪で公明党が強いのは遺憾に思っているが、この点については是非ともがんばってちょ!)

 そういう次第で、11 月に行なわれたいわゆる大阪 W 選挙にはわたくしも注目していました。いや、注視しただけではなく、ちゃんと投票にも行きましたよ。市長選の投票用紙が来ていれば「勝ち馬」に票を投じていたでしょう。
 現職陣営に勝つ気が見えなかったことからして、結果はほぼ明らかだった。具体的な政策をほとんど打ち出さなかったのは、実績を見てもらえばそれで十分というつもりだったのか。だがそういうことをいえるのは、支持率が八割、九割を超えているような場合だけだろう。

 興味深かった点をいくつか。

 ・たんなる地方選挙だというのに、全国から「リベラル」と称する連中が平松候補の応援に馳せ参じたこと。

 中にははるばる北海道から駆けつけた者もいた。御苦労なことだが、なぜそのような事態となったか。理由は、日本共産党が同候補の支持に回ったのと同じ、というのは要するに、公務員の地位が脅かされたからである。

 どうも公務員は、税として徴収された金はすべて自由に差配してよいと思い違いしている節がある。それなりの権限が与えられているからこその錯覚だが、重要なのは、彼らは失敗の責を――犯罪行為・服務規程違反でもないかぎり――問われることがない点だ。責任のない権限。世の中にこれほど素晴らしいものがあるだろうか、いやない。対して議員には、権限だけでなく、責任が課せられる。変なことをすれば選挙で落ちる可能性があるからだ。それが橋下新市長のいっていることである。責任をとる者(=選挙の試練を経た者)にこそ権限を集中させるべきだと。
 役人の無責任は、「官僚の無謬性」なる神話に連なるものだが、官僚や役人はいわれるほど優秀なのだろうか。あれだけの予算と権限を手にしながら、今のような状況しか作り出せなかったとすればむしろそれは、「無能」を証していることになりはしないか。
 まあ、無能は政治家にもいえるので、だから政治家が頑張らなくてはと、維新の会は主張しているわけだ。民主党と同じことにならぬ保証はないけれども、大阪ではとりあえず期待が高まっている。

 ・反「維新」論者の多くが、教育行政の改革に関する政策提言を問題視していること。

 大阪維新の会が目指しているのは、あるいは府民が最も期待しているのは、滞った金回りを何とかすることだろう。税収は減る一方なのだし、そもそも地方自治体にできることは限られているのだから、金の動きを変えることで経済の活性化を図るというやり方しかもはや残されていないと思う。結果的に税収がいくらか増加することもあるかもしれない。公務員制度改革や「市役所解体」などの政策案はその一環ととらえればよいだろう。税収に対する公務員人件費率から推察できることは、第一に公務員の金銭感覚がおかしいという点だからである。ああいう人たちに財布を完全に預けるのはちょっとねえ……。
 そうしたなか、確かに「教育基本条例案」は唐突な感じがする。
 まず、「大阪維新の会」の英語名は Osaka Restoration Association という(御存じでした?)。今しがた調べるまでわたくしは Revolution とか Reformation とかを予想していたのだが、Restoration って何だよ、「復元」、「復古」じゃないか。これは明治維新の英訳をそのまま流用しているのだが、あちらの場合、形式上は王政復古だったので、政治体制の名称としては特に問題はない。では「大阪維新」の場合はどうか。ウェブサイトなどで謳われている目標「中央主権、脱官僚政治、真の地方分権、地域主権」は、実は明治維新とは正反対の方向を指している。江戸時代までの「日本」は大小さまざまな「国」が割拠していた。それを無理矢理中央集権化したのが明治政府であって、実際、橋下さんは、大阪市や大阪府という枠組が明治以降に出来た人為的なものと主張している(歴史的には大阪府の北半分は摂津国として尼崎や神戸などとの結びつきが強かった)。
 とすれば、大阪維新の会は明治以前に復すといっているのだろうか。でもだったら、国旗国歌などどうでもよいということになる。そんなもんは江戸時代には存在しなかったのだから。ここら辺りがちょっとわかりにくいよね。

 そういうわけでわたくしはとりあえず、これも結局は公務員の意識改革に連なるものと理解している。税金で養われている以上、政治家(=納税者の代表)に従うのは当然のことだと。
 だって、「子供を護れ」だの「教育の危機」だの、一部で大騒ぎになっているが、条例案を読めば、子供はほとんど関係ないじゃない? 小中高と「君が代」を歌わされても――歌わされたがために?――左翼になる奴だっているだろうし、そういう人たちにもちゃんと生存権が与えられているのだし(これが自由主義の素晴らしい点)、子供はわれわれが考えているよりはずっと利口、ずっと姑息で、だから適当にやり過ごすよ。
 つけ加えておけば、子供は学校は選べても、先生は選べない。だから公立小中高等学校の教員を一定程度管理下に置くというのは十分アリだと思う。条例案の「免職規定」はやり過ぎと考えるが、橋下さんもそれがそのまま実現するとは思っていないだろう。
 わたくし自身の来し方を振り返ってみると、学校の式典などで歌わされた経験はない。では一体いつ歌詞や旋律を身につけたのだろう? 全然覚えていない。ある意味で恐ろしいことですよね。国立競技場でも秩父宮でもスタッド・ド・フランスでも歌うことは決してない(どころか起立さえしない)人間なのに、ちゃんと歌えてしまうというのは。学校=工場というのはやはりある程度まで正しいわけですねえ。

 ともあれ、そうした議論というか、諍いを傍観していておかしいと感ずるのは、多くの論者が、教育=学校教育という前提に立っていることである。学校での教育は、親や兄弟、親類、地域社会(そういうものがまだ残っているとして)それぞれからの影響などとともに、広義の教育作用の総体を形作る一部分にすぎないのではないだろうか。
 みんな学校に期待しすぎ、学校を重視しすぎだと、わたくしなどはつい思ってしまう。確かに、学校でいじめられて自殺に追い込まれる子供がいる。これほど不幸な出来事もそうないと思うが、彼らにとって学校生活はきわめて重大な意義をもっていた、あるいは別の観点からいえば、学校以外の場所、そこに逃げ込むことのできるような場所がなかったということになる。
 それゆゑ、子供を本気で護りたいのなら、子供の人生に占める学校の位置をもっと低くするのが最善である。いじめは多分なくならないのだから。学校は勉強するところであって、それ以上でもそれ以下でもないと。「ゆとり」も「道徳」も「同和」も不要だ。いっそのこと、部活動を含む課外活動もなくしてしまってはどうか。授業が終わればさっさと帰宅する、あるいはともかく下校して外で遊ぶ。教員も雑用から解放されて、本来の業務に集中できる。よいことづくめぢゃないか。

 わたくしの妄想はこれくらゐにしておいて、現実にはそうなっていない、つまり学校に寄せられる期待が高すぎるからこそ、市政改革のうちで「教育基本条例案」が特に問題視されたりするわけだが、たとえば山口二郎などは、今の枠組、それも自分で「官僚的になっている」と正しく指摘しているその現状において教員のやる気を引き出すことが大切だとのたまう。そんな無意味なこという為に北海道からわざわざ足を運んでくれなくて結構ですよ。だいたい「学者」の仕事は「文句をいう」ことではなく、事実や現実を正確に分析することだ。さらにいえば、現状に対して何もせず、追認するだけというのは、「政治的中立」を意味しはしない。政治学者がそんなこともわからないとは。いや、わかったうえで敢えてやっているのか?
 同じことが内田樹にもいえるだろう、前市長の顧問をやっていたわけだから、政治的に中立とは到底いえまい。ただ、内田さんはさすがに山口さんより頭がいい、というか少なくとも理路を追って考えようとしてはいる。彼の教育論、レヴィナスにヒントを得た他者論や時間論に基づく教育談義は、関係者が一度は読んでおくべきものだが、その教育というのは抽象的、ないし大学以上にしか当てはまらないような高等な作用であるとわたくしには思える。神戸女学院という、近畿以外の人はあまり知らないようだが、地域随一の賢女が集う(皮肉や戯言ではなく事実)学校で長年教えてきたこともそこには当然関係しているだろう。早い話が、きわめて恵まれた境遇を踏まえた、そしておそらくはその結果として、学校という制度をやや過大に評価した教育論なのである。
 橋下市長が内田さんの新聞談話を批判している(13 日のツイート。ちなみに何故「ツイット」ではないのだろう?)。

内田樹とか言う大学教授です。まず9日読売新聞では、身の丈サイズの共同体を目指せと言っています。僕がやる大阪都構想は時代遅れの成長路線だと。そしてご自身がやっている150人規模の合気道道場こそが21世紀の都市モデルだと。 (posted at 02:18:24)

この御仁、住民が飯を食っていく糧を生み出す共同体と、コミュニティーの共同体の区別もありません。合気道道場だけで1億2000万人が飯を食っていけるわけがない。成熟した国を持続させるだけの経済を支える共同体は広域行政体。住民の支え合いを軸とする共同体は基礎自治体。(posted at 02:26:44)

共同体には大きく分けて2つある。それらを包含するものが国家。内田氏は広域行政体と基礎自治体を完全に混同している。なぜ学者はこんな稚拙な論を張るのか。それは、考えるだけで何も実行したことがないからである。内田氏は理想論を語り、どんなメンバーでも食わせて行くことが基本原理だという。 (posted at 02:29:02)

いちおう補足しておけば、内田さんの論は都市論の枠組でなされたもので、(東京への)一極集中が結局は最も有効なのだとする市川宏雄の論と並べて掲載されている。内田さんは、失われてしまった「コミュニティー」(地域共同体のごときもの)の再生を自身の都市論の核としているのだが、その合気道道場の周りに集まってきた人々はどうやって日々の糧を稼いでいるかという問題が抜けていますよと、政治の話をしたいんだったら、複数の次元をそれぞれきちんと区別したうえで組み合わせるなり重ね合わせるなりしましょう、というのが市長の反論。
 参考までに「集団の適正な規模」について、内田さんのブログでは次のように書かれている(「ポスト・グローバリズムの世界、あるいは「縮みゆく共同体」12 日付ブログ記事)。

これから世界のすべての国が「普通の国」になる。
グローバリゼーションとは、そういうことである。
でも、行き過ぎたグローバリゼーションに対する補正の動きは当然のことながら「ローカライゼーション」というかたちをとる。
具体的には、「共同体のダウンサイジング」である。
共和党の掲げる「世界の警官」廃業論や連邦政府の権限縮小論がはその適例である。
世界の人口は70億を越えた。中国一国で14億である。14億というのは、19世紀末の世界人口である。
それだけの人間を19世紀的なシステムでコントロールできるはずがない。
というので「世界政府」としての国際連合や、「国民国家の廃絶への道」としてのEUの理念が提示されたのだが、それがうまく機能していない。
サイズが大き過ぎたのだ。
だから、世界は今「ダウンサイジング」のプロセスに向かっている。
というのが私の現状理解である。
私自身、「顔の見える共同体」の必要性をつよく感じていることはこれまでも繰り返し書いてきた通りである。
幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化しているような集団がどうしても必要である。
「倫理」とは原義において「倫(なかまたち)」と共にあるための「理法」のことである。
「なかま」のいない人間に倫理は不要である。
「私には仲間はいない。いるのは手下と敵だけだ」という決めの台詞を何かの映画で見た記憶があるが、そういうのが「倫理のない人」である(たしかにこの人物は邪魔な人間、気に入らない人間をじゃんじゃん殺していた)。
仲間がいると人間の可動域は制約され、自由は抑制されるが、その代わりに「ひとりではできないこと」ができるようになる。
「ケミストリー」と言ってもいい。
自分に「そんなこと」ができるとは思ってもいなかったことが「仲間」の登場によってできるようになる。
一方で何かを失い、一方で何かを得る。
帳尻が合う場合もあるし、合わない場合もある。
「仲間がいてよかった」と思うこともあるし、「いない方がよかった」と思うこともある。
でも進化の淘汰圧は「仲間がいる種」だけを残した。
だから、私たちは「仲間とともに生きる理法」を学ばなければならない。
そして、この理法のいちばん基礎的な取り決めは、「最適サイズ」をどこにとるか、ということである。
倫理がきちんと機能するかどうか、それを決定するのは、実は「サイズの問題」なのである。
どこまでを「倫」(なかま)に含めるか。
それについてある程度筋の通った基準を決めておかないと、「理」は働かない。

 
この限りではいいたいことはわかるし、結構大切なことが含まれていると思うんだけど、でもその道場に集う人たちは、他所で金を稼いで(もしかするとその金を月謝のような形で支払って)いるわけだろう。つまり内田さんがイメージしているのは、食うに困らない人々の集団、経済のことは奴隷に任せておけというような古代ギリシャ市民のあり方にも似た仲間づきあいなのである。マルクスのいう上部構造だけを論じているといってもよい。橋下市長は、異なる次元の物事の「混同」といっているが、そこまでバカぢゃないだろう。むしろ内田さんは、下部構造を敢えて不問に付すことで問題を過度に単純化している、あるいは自身がそうしている点を隠しているのである。なぜそうするかといえば、答えは簡単(でも口に出して指摘するのは少々蛮勇が必要)、彼がそれなりに裕福だから、というかその富なり福なりを、「顔の見える共同体」内部で回せば十分と考えていて、行政という回路を通じて社会に流通させる仕組――最も安易で単純なのは金持ちによる寄付――を新たに考案しようとはしていないからだ。
 それはそれで構わないけれども、それだと政治にはならない。したがって、大阪の行政のあり方という文脈でいえば、橋下市長の議論の方に分があるといわなければならない。
 だいたい、「ダウンサイジング」を主張するのであれば何故、行政単位として日本で第二位の規模をもつ大阪市の分割に反対するのか。適正な規模という観点からいえば、内田さんは平松さんなどよりよほど橋下さんに近いし、前市長はそもそもこうした上等なことは考えていないだろう。

 内田氏は今の行政単位がそもそも人工的に作られたものであることの認識がない。人工的に作られたものを人工的に作り直すのは当り前。内田氏はよほど現状を維持したいのだろう。〔…〕。(posted at 02:55:46)

 これくらいのことはさすがにわかっているはず。まともな批評家にとって、「自然」と制度の区別は基本だから。たぶん、内田さんは理のないところに無理を通そうとして、あるいは何かを隠そうとして、自身の議論に理が無いことを却ってあらわにしてしまったのである。

 こうして見ると、やっぱり内田樹も、共産党や労働組合と同じく既得権益の側の人間であると考えざるをえない。

 東京育ちで兵庫在住の人間がなぜ大阪の問題に口を差し挟むのかという根本問題もある。さまざまな意見を拝聴していると、結局どれも大阪は愚民の集まりみたいな話になっていて、さすがに失笑するほかないが(わたくしはそういう場合に怒るより先におかしみを感じてしまうんです)、大阪人も半信半疑で成り行きを見守っているというところだと思う。

 ・独裁だって?

 いま独裁の最前線にいるのは、どう考えても民主党政権でしょう。国会での議論を経ずにいくつか重要な政策を実行しようとしているんだけど。

 市井の人間は、教員も含めた公務員に対して、「厭ならやめてくれて構わない、代わりはいくらでもいるから」と感じています。実のところ、綾波レイぢゃあないけど「代わりがいる」というのは、藝術やスポーツなど、特殊技能が必要となる仕事を除く多くの労働者に当てはまることで(労働者の存在論ですよね)、でも何かの縁でこれこれの会社にたまたま勤務しているというにすぎない。で、運悪く、解雇されたりということもありうることを踏まえれば、なぜ公務員がそこまで護られなければならないか、普通の感覚では理解できない。当の公務員が抵抗するというなら、共感は覚えないけれど、話としてはわかる。でも公務員ではない人までがどうしてそこまでいきり立つのよ?
 一般論としていうと、小中高の教員は――給料が高すぎる点は是正さるべきだが、それは措いて――よくやっていると思う。問題となっている条例案が仮にそのまま成立し、最高裁判決との整合性をクリアできたとしても、教員と児童・生徒との関係はそう大きくは変わらんよ。内田樹さんがつねづね指摘しているように、学校教育というのはもうすでに悪くなっているのだから。橋下さんなどが声高に主張するまでもなく、親が、そして「世間」が、文部科学省が、「目に見える成果」を要求している。そちらの方がよほど問題ではないかしら? そしてそれは行政がどうにかできる範囲を超えている。平松さんだって何もできていないでしょ(彼の場合はそもそも何ごとかをなそうとしたのかという問題がありうるけれど)。

 (未了)

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2012年1月 8日 (日)

第 48 回大学選手権決勝

 帝京対天理 15-12(12-7) トライ数 2-2

 体格で劣るチームが如何に戦うかという観点からすれば、今回の決勝戦は非常に興味深かった。ここ数年で随一とさえいえるかもしれない。比較対象として――まあわざわざ別のチームと対照させる必要はないという意見はありうる――思い出されるのは、かつての早明戦ではなく、1992 年度大会で優勝した法政だろう。競技のオープン化以前のことゆゑ、今にして思えば牧歌的というか、さまざまな点で異なっていたけれども、軽量だが機動力にすぐれ、よく働くフォワーヅと、決定力のあるバックスから成るチームとしてある程度まで似ているといえるのではないだろうか。
 もちろん、あの時の法政はのちの代表(坂田、伊藤、苑田、秋山)やそれに次ぐクラスのプレーヤー(中瀬とか)を多数擁していたわけで、チーム総合力の純粋な比較というのはあまり意味がないけれど、それでもこうした、やや偏頗な見方が成立するとすればそれは、ただ大学間の試合というにとどまらず、ジャパンの戦い方とどこかでつながっている、あるいはつながっていて欲しいと思わせるところがあるからだろう。
 事実、1992 年当時にテレビの解説をしていた小藪氏は、その後ジャパンの監督となってから、たとえば法政 FW 第一列を起用するなどしていたはずだ(A 代表だったかしら?)。法政のゲームに感心し、しかしそこから何かを学んで代表チームに応用するのではなく、たんにその選手をちょっと使ってみただけというところに、同氏の監督としての浅はかさが表れていると思うし、それが 95 年のワールドカップの惨劇につながったのは間違いないところだが。
 それはともかくとして、法政はバックスのラインを深く敷いていたから、その点では横井章氏の説く方法とも、そして天理のやり方とも異なっていたが、スペースのない状態で攻めることが求められる現代のラグビーに有効なのは、もちろん浅いラインである(もっとも、準決勝の対関東学院戦では立川は飛ばしパスを多用していた)。

 ボールおよび地域支配率で圧倒された天理はよくやったと思う。というか、勝ってもおかしくなかっただけに、プレーヤーも、そして監督も(監督としては)初めての決勝ということもあり、勝ち方、勝ち試合の締め方に甘さがあった点、大いに悔やまれる。
 具体的な敗因としては、ボールを大部分支配されるとう前提でマッチに臨んでいたとすれば、ラインアウトのミスと、ハンドリングエラーということになる。またボール支配率で五分を見込んでいたとすれば、戦略の間違いということになるだろう。
 また、ラック周辺での反則(たとえば横から入るなど)の多さは気になった。レフリーの見逃し・見落としに救われたという面が多分にあって(帝京にも同じことが幾分かいえるけれど)、プレーの質自体がもたらす緊張感は、僅差の勝負にもかかわらず、あまりなかったように思う。

 帝京はディフェンスがやはりうまかった。ボールが取れないこともあって、天理の CTB コンビが辛抱しきれずに強引なクラッシュを仕掛けてしまう場面が目に付いた。天理のフロントスリーは準決勝ではパスのタイミングや受け手の走り込む角度の工夫によって面白いようにラインを突破していたが、今日はブレークできたのはほんの数回だったと思う。それは要するに、帝京のライン DF がバイフとハベアをよく封じたということだろう。クリエイティブという感じはほとんどないが、帝京が総合的に一番強かったのは間違いない。

 手放しで天理を称賛するというのではないけれども、この日のゲームをもう一度ゆっくりと見返していろいろ分析してみたいという気になったし、また例えば早稲田や筑波とのゲームがどのようになるかという夢想に誘われもした。
 立川選手はきちんと育てれば 2019 年の SO になるかもしれない。 早稲田出身の好プレーヤーたちが上手い具合に伸びずに終わるのをわれわれは歯痒い気持で見てきたが、その二の舞にはならぬよう祈るばかりです。

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2011年10月23日 (日)

決勝 フランス 対 ニュージーランド

 フランス 対 ニュージーランド 7-8(0-5) トライ数 1-1

 よい試合だった。決勝ということ、さらにおそらくフランスの防禦が堅いこともあって、オールブラックスがあまり無理をしなかったため両チームの得点は伸びなかったものの、高く張りつめた緊張感が最後まで持続した、今大会における最高のゲームのひとつといってよいだろう。

 フランスはおそらくプランに近い試合運びが少なくとも 70 分過ぎ辺りまでは出来ていたと思う。攻撃では積極的にパスプレーも試みたが、パスのタイミング(タックルされる寸前でのパスが何度通ったことか!)、つなぎ、いずれも彼らとしては最高の出来だった。それでも完全なブレークがほとんどなく、ニュージーランド側の守備力の高さに改めて感嘆させられた(ついでながら、ラックの局面でオールブラックスがほとんど反則を犯さない点は素晴らしかった)。ノータッチの長いキックや、プレッシャーをかけられないタイミングでの不用意なボックスキックが少なかったのは、もちろん相手のカウンターを封ずるためだろうが、要するに考えうるさまざまな局面でのケアが今日の試合では最高度に発揮されていたわけである。
 ほぼ唯一の油断が、トライを奪われた自陣ゴール前のNZ ボール・ラインアウトで、よくあるサインプレーなのだが、今日は、好調を維持し、自信もあったのだろう(実際スチールに何度か成功した)アリノルドキやボネールらがラインアウトで競りに行ったことで、ちょうどラインが割れ――つまり「ブレーク」して――大きな穴ができてしまった。ちなみにウェールズもこのサインプレーはよく用いていたのだが、警戒されるようになって今大会ではほとんどやらなかったと思う。まさかオールブラックスがここでやってくるとは思わなかったのだろうが、ちょっと真正直にやり過ぎたのが惜しまれる。いずれにせよ、ラインアウトもまたラインをめぐる攻防なのだと思い起こさせてくれる点で、この場面は興味深かった。

 攻撃面でいえば、フランスの方が積極的であり、見る分には面白かった。というより、オールブラックス側は、バックスリーが強引な仕掛けをほとんど試みない、またそもそも展開プレーがあまりないなど、総じて慎重だった。そうまでして優勝したいかというような厭味はもちろんいいません。が、物足りなさを感じたのも事実。ただ、第二回大会以降のラグビー・ワールドカップとは、いってみれば〈オールブラックスがいつどのようにして足を掬われるか〉を(NZ 国民を除く?)全観客が心待ちにするイベントでもあったわけで、今回の勝利がそうした鬱陶しいプレッシャーから黒い人たちを解放することになるのであれば、わたくしは心から祝福したいと思う。
 というか、「勝つことを宿命づけられている」などという物語には飽き飽きしているので(讀賣球団ぢゃあるまいし)、今回のような苦しみながらの勝利がそうした神話を壊してくれればと願っているわけです。ちなみに開催国の優勝という点に関していうと、わたくしはむしろ、開催国がこけてしまう筋書きの方が好みだ。

 大会全体についての印象。
 好試合はもちろんいくつもあって、楽しんだのは事実だが、正直なところをいえば、やや退屈でもあった。
 ひとつにはジャパンが一勝も出来ずに終わったからだが、総じてどのチームも、だがとりわけ勝ち進むことのできたチームが、似たり寄ったりの戦術・戦法を採っていたことが大きい。たとえば梅本洋一さんが『日本ラグビー 世界への始動』所収のエッセーで指摘したような「危機」はまったく解消されていないことが改めて感じられた。
 これは今大会に限らない話だが、「ノンストップ」の「高速ラグビー」って、そんなに善いものだろうか。プレーの速度競争を突き詰めていって一体どうなるというのか。単純なスピードが脅威となるような局面は確かにある。しかし、わたくしはむしろタイミング、テンポによって敵を出し抜くというやり方に共感する。だからこそウェールズやフランスを応援するわけだが、後者は何というかグダグダのまま、しかし決勝では底力を発揮してみせたというにすぎず、評価は保留とせざるをえない。前者にも、「セクシーさ」がやや足りないという意味でやはり不満を覚えた。

 プレーそのもの、ゲームづくりそのものによって驚かせてくれるチームがなかったといってもよい。勝敗における番狂わせでは驚くこともありましたけれどね、結局のところ、前回大会におけるロス・プーマス――いわば〈新しい懐かしさ〉でわれわれに感銘を与えた素晴らしいチームだった――のようなチームが出現しなかったということになる。

 とりあえずの感想なので、後からの修正があるかもしれません。

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2011年10月15日 (土)

準決勝 ウェールズ 対 フランス/オーストラリア 対 ニュージーランド

 ウェールズ 対 フランス 8-9(3-9) トライ数 1-0

 一番楽しみにしていた試合だったが、終わってみれば最高に莫迦々々しいゲームとなってしまった。ベッカムといい、ウォーバトン(主将なのに!)といい、「イギリス人」はバカぢゃないのか? クレールが何ともなかったのは幸いだが、どうせならフランス XV も激昂して 12 人対 13 人とかの試合になれば面白かったのに。近年のレ・ブルーは規律が行き届きすぎて少々物足りない。

 ウェールズは 14 人でフランスをトライ零に抑えたという意味では確かによく頑張ったし、やはり防御は堅いといえばいえるかもしれないけれど、実際はフランスが無理にトライを狙わなかっただけの話で、彼我のプレースキッカーの調子からしても、レ・ブルーの側は敗北はほとんど考えていなかったろう(ちなみに公式スタッツに拠ればタックル数はフランス 126 ・ウェールズ 56 、ということはつまりフランスは積極的に攻めなかったということになる)。

 もっとも、ひとり足りないからといって負けが必定というわけでもない。ジャパンと、オールブラックス XIV やフランス XIV、あるいはスコットランド XIV との対戦を想像してみればよい。ウェールズはもっと上手くやれたはずだが、その意味では、ウォーバトンの退場以上に、PR の A・ジョーンズの負傷交代が痛かったと思う。ジェンキンス、リース(負傷で選ばれていない)、ジョーンズというファーストチョイスの一列は、スクラムワークでもフィールドプレーでも一流と思うが、この試合では結局 1 番のジェンキンスしか残っておらず、結果としてスクラムは劣勢、7 人でしのいでバックス勝負(数の上では同じとなる)にもち込むこともかなわなかった(スクラムの大半は 12 番ロバーツが SH 側のフランカーとして参加)。まあ一時間を 7 人で耐えるというのは、いずれ体力的に厳しかったろうが。

 SH フィリップスの存在は、トライを奪ったからというだけではなく、こういう状況では頼もしかったが、「九人目(というか八人目というべきか)の FW」として十分に活かせたかというと、疑問が湧く。
 終了直前、ロスタイムの攻撃でも、ゴールラインの手前までピック&ドライブで進むべきだったのに、中途半端な位置で展開したものだから上手くゆかず、ノッコンとなってしまった。

 準決勝第二試合でニュージーランドが勝てば、漫画みたいな決勝戦となるが(そして漫画のロジックではフランスが優勝するのだが)、さてどうなるのだろう?

(何だか忙しくてようやくビデオを見ることができた。これから(hopefully)その第二試合を観戦する。それまではむろん試合結果のニュースは遮断するのである。)

             *

 オーストラリア 対 ニュージーランド 6-20(6-14) トライ数 0-1

ラグビーといっても色々あるのだなと、準決勝の二試合を見て改めて思いました。戦い方もそうだし、技術・戦術の水準においても。ワラビーズが健闘した前半は、今大会最高の(半)マッチといえるだろう。双方に綺麗なラインブレークがあるなど見所が多く、また得点でも競っていたため、非常に楽しむことができた。

 オールブラックスの充実ぶりが目立つセミファイナルだったが、さて、奇しくも第一回大会と同じ顔合わせとなった決勝(ならびに三位決定戦)はどうなるのだろう。勝敗をある意味で超越しうるという意味で三決が(だからそういう意味で)面白くなる可能性はある。準決勝に悔いが残るであろうウェールズがベストメンバーでないことは惜しまれるが、シェーン・ウィリアムズ最後の大会ということもあるし、「セクシー」路線で行って欲しいと切に願う。

 ファイナルは順当に行くなら開催国の勝利だろうけれど、何をやってくるか読めない、あるいはむしろ、そう思わせる術に長けたチームが優勝する可能性もないではない。
 とはいえ、フランスが勝つか、いずれにせよ僅差の勝負にもち込むとすれば、2007 年のような戦い方、ディフェンスで耐えに耐えるというゲームしか思い浮かばない。あの試合では、ジョジオンのトライで逆転したわけだが、その後、僅か 2 点のリードを確か 20 分くらい守り切ったのだった。オールブラックス相手にこういうことの出来るチームは限られている。今回のレ・ブルーはどうだろう?

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2011年10月 8日 (土)

準々決勝 アイルランド 対 ウェールズ/イングランド 対 フランス/ニュージーランド 対 アルゼンチン 

 アイルランド 対 ウェールズ 10-22(3-10) トライ数 1-3

 個人的には今までのところ最も痺れる試合となった。実力の拮抗した同士の対戦だったけれども、安全第一で PG やDG を狙うというゲームでなかったのがまずはよかったと思う。両チームの持ち味とされる特徴がそれぞれに発揮されることになったからだ。対ワラビーズ戦では 3 点の積み重ねによる辛勝もよしとしたはずのアイルランドも、今日のマッチでは積極的にトライを狙ったように見えた。しかしそれはもしかすると、開始直後のウェールズのトライ(いわゆるノーホイッスル・トライ)が、そのような方向での展開を決定づけたのかもしれない。試合最初の得点がトライであったというのは、その意味で見逃せないポイントだろう。トライこそラグビーの醍醐味だとはいわないけれど。
 もっとも、たまたまプレーが途切れることなくトライまでもって行けたからそうなったという可能性は(双方に)あるだろう。ウェールズが最初に PG を選択していればどのような展開となっただろうか。

 とにかく、違う方法でそれぞれにトライを狙った結果としては、ウェールズの 3 本に対し、アイルランドが 1 本、すなわち前者の完勝である。ただしゲームの内容に即していえば圧勝や快勝とはいえない。ブレークダウンやラインアウトなど、明らかにアイルランドが優勢な部分もあったし、敵陣 22 メートルライン内にいた時間を見ればアイルランド 15 分に対しウェールズは 6 分半と、総じてアイルランドの方がより多く攻めていたのである。実際、アイルランドのピック&ドライブは圧倒的で、ウェールズのそれとは、個々のプレーヤーの突っ込むスピードや力強さの点で、かなりの差があった。第三列ばかりではなく、全員の充実ぶりがうかがえる出来だったと思う。
 それだけに、このゲームで第一に賞賛さるべきは、ウェールズのディフェンスということになる。もちろん反則が皆無というわけではなかったが、アイルランドが PG をほとんど選択しなかった点の評価は、意見の別れるところだろう。ウェールズの防禦は堅いが(対南ア戦のように)
そのうち綻びが出るとの目算はあったかもしれない。実際、ウェールズ側のタックル・ミスは1割以下と精度こそ高かったものの、ほとんどつねに押し込まれていたし、ラックでは、より多くの人数を割かなくてはいけなかったため、応援する者としては気が気ではなかった。今大会でこれほど胸が締め付けられたことはない。

 他に気づいた点。両チームのトライがいずれもフィールドの端だった(J・デイヴィスのはやや内寄りだったが)のは、ミッドフィールドのディフェンスが双方ともに堅かったことの表れだろう。アイルランドが結局一本しかトライを奪えなかったのは、プレーヤーの力とは別次元で、無策というか、工夫が少なすぎたせいではないか。アイルランドのバックスは個々にはそれぞれ素晴らしい働きをしたものの、いわゆるライン攻撃をあまり仕掛けなかったために、防禦する側からすれば的を絞りやすかったということになると思う。反対にウェールズの攻撃は、ショートサイドをしつこく攻めたり、また内側ではロバーツを再三突っ込ませたりとバラエティに富んでいた。医学部学生でもある(あった?)ロバーツ、JPR の後を追うかのようなその経歴にも感心するが、ギャットランドがこの大型プレーヤーをバックスリーからセンターにコンバートしたのは、いわばジョナ・ロムーをミッドフィールドで起用するようなものだろう。現代のディフェンス・システムではそう簡単にラインを破れるわけではないが、少しでも薄くなれば突破されるという意味で、防御側のケア意識が中に向くといった効果は少なくとも見込める。
 またハーフペニーは、キックを受けてからのカウンターアタックは不発だったものの、ハイパントの処理やタックルなど、防禦の点では完璧だった。50m 級のプレースキックはともかくとして、われわれは有賀選手にこうしたプレーヤーになって欲しいと願ったものだが、非我の違いにはいろいろと考えさせられた。

 ジャパンは敗退したが、ウェールズがベスト 4 に進むとは!これほど喜ばしいことはない。運はもちろんあった。アイルランドの戦法はワラビーズに通用したが、この準々決勝の相手がワラビーズなら、ウェールズが勝てたかどうかわからないからだ。しかし、フロントローと 4・9・11 番以外は若いメンバーばかりで、試合ごとに力が上がっているのは間違いない。

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 イングランド 対 フランス 12-19(0-16) トライ数 2-2

 イングランドが展開プレー、フランスがハイパント攻撃という、双方がともに通常のイメージとは逆の入り方をした試合。必勝を期した対戦でなぜイングランドがそのような戦略を採ったのか、やや理解に苦しむところもあるけれども、フランスが真正面からは応じず、意気込み(PG を一本も狙わぬという)がいわば斜めにすかされたことで、結局中途半端な戦い方となってしまったように見えた。

 同じような高速展開といっても、フランスとイングランドとでは差があった。フランスの方はプレーヤーの動きとボールの動き(両者の合わさったものがプレー全体の運動と呼ばれるものだ)が非常に滑らかに連動していたのに対し、イングランドの展開には何処か無理をしているところがあって、あまり効果が得られなかった。習熟度も関係しているのだろうけれど、スペースの使い方がまずいと思われた。たとえばパスを受けるところで複数の選手が重なってしまっている場面がしばしば見られたが、それはどちらかのプレーヤーがスペースを殺してしまっているということであって、要するに活用できていないわけである。ウェールズがショートサイドを執拗に攻略するのと比較してみればそのことは容易に理解されるだろう。
 また、攻撃のスピードを誇るようなチームではもともとなかったが、フランス DF の出足のよさに、その速度がいっそう殺されているようにも見えた。
 ウィルコがどうこうということではなく、トライを積極的に狙うラグビーを志すならば、そのような方向でチームをきちんと鍛えた方がよいだろう。トライへの意志は明らかであって、それを抑圧する必要など少しもないのだから(だって、たかがスポーツなわけだし、ねえ)。

 というわけで、準決勝第一の組合せは、ウェールズ対フランスという、(個人的には)夢のような対戦となった。ノックアウト・ステージのフランスの戦い方には近年、どこか詐術めいたところがあり、それはちょび髭を蓄えたことでまさに絵に描いたような詐欺師然となったリエヴルモンの風貌が示すとおりだが、それがウェールズに通用するかどうか、非常に楽しみである。いずれにせよ好試合となるだろう。

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 ニュージーランド 対 アルゼンチン 33-10(12-7) トライ数 2-1

 ともに一本目のゲームメーカーを欠いた対戦。その分のハンディキャップは、得点方法が限定されてしまったという意味でアルゼンチンの方がより大きかったと思うが、とにかく NZ が順当に勝利した。

 オールブラックスを 2 トライに抑えた点ではプーマスは健闘したといえるだろう。実際、前半のディフェンスはタックルにせよカバーディフェンスにせよまさしく感動的だったし、先に奪ったトライには思わず涙腺が緩みもした(トライ自体がまた実に素晴らしかった)。とはいえ、一方的に攻められるなかで犯してしまった 10 の反則のうち 7 回までも PG を決められてしまったということは、黒い人たちが単に無理を避けたというだけのことで、ロス・プーマスの勝ち味は薄かったといわざるをえない。
 無理矢理というのは、たとえば
ワールドカップでいえば、前回の準々決勝対フランス戦において、意地を張るかのように、過度に時間をかけた末にようやくあげた二本目(だったかな)のトライのようなプレーを指す。今日は最後まで冷静さを失わなかった。

 敗れはしたものの(相手が悪かった!)プーマスのフィフティーンはみな、ふつうに上手いよね、ラグビーが。ボールをつなぐ技術という点にかんしては、スコットランドはもちろんのこと、アイルランドなどより上ではないだろうか。
 後半はさすがに疲れてしまい、タックルも相当甘くなったが、スコットランドやアイルランド、ウェールズという、ティア1の第二グループとは十分に伍してゆけるチームだったと思う。

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2011年10月 2日 (日)

ウェールズ 対 フィジー プール D

 ウェールズ 対 フィジー 66-0(31-0) トライ数 9-0

 試合前からウェールズのノックアウト・ステージ進出がほぼ確定しており、今日の興味の焦点は How much are they going to play rugby? ということに尽きる。この場合の to play rugby とはもちろん、競技としてのラグビーをするということではなく、パス・プレーをするという意味になる。
 ウェールズのゲームがそうなるだろうことは想像できたが(負傷も避けなくてはいけないわけだし)、わたくしの個人的関心は、いわゆるフィジアン・マジックの復活とまではいかなくとも、少なくともフィジーが対南ア戦や対サモア戦のようなクラッシュ一辺倒の戦い方ではなく、奔放なパス・プレーを復活させることができるかという点にあった。つまりウェールズの「プレー」ぶりに触発されて、抑圧したはずの欲望を解き放つのではないかと期待しているのである。降雨などこの際関係ない。PLAY it again, Sam! である(ああ、でもこの台詞をこういう文脈で使うと、PC 的にまずいかもしれない)。
 前半が終わった時点でウェールズが 4 トライを奪って 31-0。やる気どころか、もしかするとやる意味さえ見い出せていないのかもしれぬフィジアンをウェールズが無慈悲に――細かいミスも少なくはないが――攻め立てた。この調子で試合が終わってしまうと、ずっと瀕死状態にあったひとつのスタイルが(とりあえずは)死に絶えるという意味で、世界ラグビーの大きな損失が最終的に計上されてしまうことにもなりかねない。フィジアン・スタイルの壊滅とは、日本のラグビー――横井章氏のブログやまた『日本ラグビー 世界への始動』(日本ラグビー狂会編著、双葉社、2009)所収の同氏インタビューなど参照――の長期低迷に匹敵するくらいの出来事なのであって、憂慮する人も決して少なくないと思う。
 1999年大会だったか、フィジー相手に苦しんだフランスが FW 戦を挑んで彼らのスタイルを抑圧し、何とか勝利するということがあった。前回大会でもウェールズが同様にスクラムでねじ伏せようとしたものの力足らずで跳ね返された試合はまだ記憶に新しいと思うが、今回のレッドドラゴンは、その時より力がずっと上だし、今日は勝敗に拘る必要もないので、抑圧的とはなるまいとわたくしは踏んでいる。

 話を今大会に限定すると、フィジーのゲームがまったくつまらないのは、パス・プレーがほとんどないという以前に、何をするにもテンポが一様だからである。たとえばウェールズなら、今日の前半、ショートサイドを攻めたロバーツのトライがそうであるように、パスの長さやタイミングを変えることでプレーを変調させることができるだろう。それはつまりあれほどの狭いスペースを実質的に拡張できるということにほかならない。超ロングパスや、フィールドの端から端までのキックパスも同じことで、詰まってしまったところに突如、物理的・地理的に隔絶したはずのスペースがつながってしまう点が素晴らしいわけである。ガンガン身体を当ててゆくのも悪くはないけれど、そればかりでは退屈してしまう。だから、

 ……フィジー不発。ガッカリです。

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2011年10月 1日 (土)

フランス 対 トンガ プール A /イングランド 対 スコットランド プール B

 フランス 対 トンガ 14-19(6-13) トライ数 1-1

 トンガが素晴らしいゲームをした。ブレークダウンへの素早い働きかけ、スクラムでの頑張り、ラインディフェンスの鋭い出足。実に感動的だった。プレーヤーのフィジカリティあってこそだとは思うが、特に奇を衒った攻撃を行なうわけではないものの、縦への突進と横への展開の組み合わせが効果的で、フランスにディフェンスの的を絞らせず、美しいラインブレークを何度も繰り返す。綺麗に突破したあとのコース取りがまずく、トライをふたつみっつ奪い損なったのが惜しまれるけれど、ともかく完勝である。

 グループ・ステージで初めて2敗を喫したフランスは依然本調子の出ぬままである。明日のスポーツ紙一面には「苦い教訓(ルソン・ザメール)」とか何とかいう大見出しが躍ることだろう(この見出し、以前に『レキップ』で実際に用いられたことがあります、シックス・ネーションズでスコットランドに負けたとき)。マルク・リエヴルモンの意図ははっきりしないままだが(あるいはむしろ意図を読ませぬようにしているのかもしれないけれど)、ひとつ確実にいえるのは、FW 戦で劣勢のときにどうするかという「プラン B」を用意しておかないと、前回の二の舞になるということだ。
 展開プレーが(日本やカナダ相手の試合はさて措き)さして効果的でないのは、どうもラインに並ぶプレーヤーが外に外に流れて、ウィングのスペースを潰してしまっているからではないかと思う。メダールやクレールは見たところ好調そうだが、やはりスペースがなければどうにもならないだろう。本日行われたイングランド対スコットランドのゲームでは、後半の後半、スコットランドのカウンターアタック局面で、FB パターソンが、自分の右側にいるプレーヤーを活かすためディフェンス二人を引き付けようとして、ぎりぎりまでパスせずにいたのだが、ランのコースとしては外に流れてしまい、スペースを消すことになったし、結果として一人しか引き付けられなかった。外のウィングはもう一人(たぶんアーミテージ)に捕まえられ、トライのチャンスは潰えたのだが、あの場面では、むしろ早めにパスしてサポートに回るという手もあったのではないだろうか。

 この対戦だとわたくしはニュートラルか、どちらかといえばトンガに肩入れするので、試合結果には満足している。今日のような戦いができるのなら、フランスの代わりにトンガが準々決勝に進むのもよかったかもしれない。ただ、トンガはたとえばスプリングボクスに勝つことはあるかもしれないけれど、オールブラックスには絶対に勝てないよね、構造的にいって。フィジーやサモアもそう。だから結局のところは、フランスが進出した方が大会の、ひいては世界の多様性という観点からして好ましいと思う。
 そして、わたくしの個人的好みとしては、イングランドには何とか勝って、しかるのちにウェールズないしアイルランド相手に華々しく散って欲しい。今回はシェーン・ウィリアムズやブライアン・オドリスコル最後のワールドカップなのだから、それに次回のウェールズやアイルランドが準決勝まで進める保証もないので、うん、まあそういうことです。

          *

 イングランド 対 スコットランド 16-12(3-9) トライ数 1-0

 この試合は、スコットランド・アルゼンチン戦のように「塩っぱい」ゲームとはならなかった。ロス・プーマスと同様にイングランドもロースコア戦略にとりあえず付き合ったわけだが、アルゼンチンが知らぬうちにスコットランドの術中に嵌ったといえるのに対し、イングランドの方はむしろ、トライへの欲望を敢えて抑えつつ勝機を窺うという戦い方だったろうからである。

 一時は 9 点差(8 点差以上で負けると敗退が決まる)をつけられたものの、後半に 3 点差まで追い上げたのち、残り 5 分となり、スコットランドがトライを狙わざるを得なくなってから――ということは試合の焦点が PG・DG からトライへと一挙に転換してから――逆転のトライを決める。この通りの未来予想図を描いていたわけでもないだろうが、こうした展開にはそもそも慣れているわけだし、実質的にイングランドがコントロールしたといえるゲームだった。あるいは、それほどの力の差があったということだ。

 ウィルキンソンからフラッドへの交代は(ウィルコが疲れたとか怪我したとかでなければ)、「これで(実質的に)勝った」という監督からのメッセージ以上の意味はないはずで、というのは、トライに結実したのは、フラッドのパスがよかったからではなく(最後の飛ばしパスは素晴らしかったが)、スコットランドがトライを奪うべく前がかりとなっていたことが大きいからである。

 さて、準々決勝のイングランド対フランスはどうなるのだろう。今日の両チームの状態なら、イングランドが余力を残しつつ勝利するだろう。まだ目の覚めていない――というか実はもう目覚めている?――フランスはイングランドからトライがとれるかどうかさえ不明である。ブレークダウンで優位に立てない場合はそれをなるべく避けるようゲーム・プランを変更しなければならないと思うが、試合の最中にそのようなことができるだろうか?

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2011年9月25日 (日)

アルゼンチン 対 スコットランド プール B /フィジー 対 サモア プール D

 フィジー 対 サモア 7-27(0-12) トライ数 1-2

 フィジー代表のラグビーはまったく「普通」になってしまった。モールやスクラムに難があるという点ではずっと同じなのだが、戦い方の点でも、今や他とほとんど変わりのないチームである。対南ア戦同様にピック&ゴー主体の攻撃。まあザウザウ、デラサウのような怪物にトライをとらせるというあり方も別段フィジー的とはいえないわけで、「フィジアン・マジック」はすでに神話的な――つまり、「武士道」がそうであるように、失われてしまったからこそ語ることのできる――ものにすぎないのだろう。

 サモアはフィジーよりパス・プレー主体で、それは対ウェールズ戦と同じだが、フィジーより組織プレーがよく整備されていたために、より多く得点することができた。このラグビーは南アフリカにはどの程度まで通用するのだろうか。

 それにしても今日は両チームともイージーなハンドリング・エラーが多く、興を殺がれた。

         *

 アルゼンチン 対 スコットランド 13-12(3-6) トライ数 1-0

 どちらも決め手を欠く、いわゆる「塩っぱい」ゲームだったが、残り 10 分ほどになったところで、交代したばかりのアモロジーノのトライで逆転したロス・プーマスが、辛くも逃げ切った。スコットランドは次の対イングランド戦に負けるとグループステージでの敗退が決まる。

 前回大会の対戦(準々決勝)ではスコットランドがどれくらい抵抗できるかが焦点だったが、今回はアルゼンチンから「大駒」(ロンゴ、コルレト、エルナンデスら)が引退や負傷のため抜けており、両チームの実力はほぼ同等と考えられた。イングランドにすでに負けているアルゼンチンは後がなかったが、ブレークダウンとスクラムにおいていくらか優位に立っていた以外は互角の戦いで、勝敗がどうなるか最後までわからなかった。
 スコットランドが三点を細かく重ねてゆく戦略を採ったのに対し、アルゼンチンの戦略は――似たようなものだったとは思うが――はっきりとしなかった。スコットランドのディフェンスがよく頑張り、自陣 22 メートル以内への侵入、ひいてはゴール近くからの PG や DG を簡単には許さなかったからだ(エルナンデスがいれば話はまったく別だったろうけれど)。

 ふつうに考えれば、グループ B の勝ち抜けはイングランドとアルゼンチンでほぼ決まりだろう。スコットランドの実に渋い渋い戦略に対しては、共感を覚えることはないままにしかし、公平な立場から「これもまたラグビーである」といわざるをえないけれど、何か人を瞠目させるような瞬間がこのチームに訪れるとはとても思えない。ここから先のステージでは戦力的にだいぶ苦しいとはいえ、アルゼンチンにはそれが感じられる。たとえば思わず出てしまう足技。「サッカーではないのだから」と軽く嫌味をいうことは可能だが、しかしルールはこうしたプレーを禁じてはいない。筋肉に覆われた身体をハードにぶつけて無理に突破を図るスコットランド(やイングランド)のゲームは見ていて息苦しさを感じてしまうことの方が多いけれども、それに比べれば、相対的なものだとしても、身のしなやかさによって相手を躱そうという姿勢の垣間見えるロス・プーマスの方がまだしも自由であると思う。
 この自由は、フランスのプレーにも通ずるものだが、ボールが例えばラックやスクラムから思いがけぬ仕方でこぼれ出たとき、それを両の手でしっかり握ってからダイビングパスというより、咄嗟に片手ではたく、あるいは足で蹴ることによって味方に送る方が、ずっと自然ではないだろうか。アルゼンチンのラグビーが、ある意味では先祖返りの様相を呈しながらも、まさにそのことによって一種の新しさを感じさせるゆえんだ。このまま行けば、クォーターファイナルで NZ に 40-10 くらいの大差で敗れるだろうが、それでもやはりわたくしはプーマスを応援したい。
(オールブラックスのラグビーもそういう点ではきわめて自由なものなのだが、プレーひとつひとつがあまりに精密で、サイボーグがやっているような印象を抱いてしまうことがある。彼らは苦境に陥ったときだけ、いわば人間的になるのである。)

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2011年9月24日 (土)

ニュージーランド 対 フランス グループ A

 ニッフォンをとりあえず見限ってしまうと、ワールドカップというのは純粋に祭り、祝祭となって、それはそれで結構なことだと思う。で、そうすると、ついこの間トライネーションズがあったばかりだから、決勝でニュージーランド対オーストラリア(もしくは南アフリカ)の試合など見たいとは思わない。実際、アイルランドがワラビーズに勝ったことで、そうした組合せの実現可能性は低くなった。わたくしは「北対南」という構図にはこだわらないが、それはそのような考え方ではアルゼンチンや日本の立場をうまく説明できないからであり、また実のところ、この構造こそエスタブリッシュメントにほかならないからである。シックス・ネーションズ対トライネーションズも「南北」の手合わせといえぬこともないが、トライネーションズだけの決勝よりはいい。

 今日はグループステージ最大の試合といってよいだろうオールブラックス対フランス戦。
 フランスの調子はパッとしないが、それはまあ過去の大会でも見られたことだ。それにグループ戦では NZ に手の内をすべて見せるつもりはないだろう。本番はノックアウトステージなのだから。
 また(アイルランド対オーストラリア戦の結果を承けた)組合せからいっても、グループ A 二位通過の方が決勝進出には有利な塩梅となってきたということもある。それはしかし、意図的に負けるということではない。

 レ・ブルーのメンバーは次の通り。

    プクス スザルゼウスキー デュカルコン
          ナレ パペ
       デュソトワール ボネール
          ピカモール

          ヤシュヴィリ
            パラ

   メダール メルモーズ ルージュリー クレール
           トライユ

    (控え セルヴァ(ット)、バルセラ、ピエール、アリノルドキ、トラン=デュック、エステバネーズ、エマンス)

 このメンバーにNZ のプレスは「二本目を出しやがって」と憤慨したりしているそうだが、そうですねえ、15 人ではなく、22 人で戦うと思えば、先発メンバーだけを云々しても仕方ないし、実のところ、今回のフランスで「鉄板」といえるのはデュソトワールとクレールくらいのものだろう(一列は現代では途中交代が前提だから、一本目か二本目かというのはあまり意味がないと思う)。自ら仕掛けることの多いトラン=デュックではなく、パラをもってきたことを「ダブル・ハーフ」戦術と解するなら、ラックをできるだけ避けて展開プレー中心にするか、ラックを中心にするかのいずれかということになるだろうけれど、フランスのスクラムハーフには、専任タイプ(ヤシュヴィリやミニョニ)ばかりでなく、スタンドオフ兼任タイプもいる点を忘れてはならない。ミシャラク、エリサルドがそうだった。
 ……とか何とか。

            *

 ニュージーランド 対 フランス 37-17(19-3) トライ数 5-2

 これもある意味ではひどいゲームといえるかもしれない。開始から10分ほどまではフランスが圧倒的に攻めた。トライなり DG なりを決める機会も数度あったはずだが、無得点のまま NZ の逆襲が始まってしまい、20 分くらいまでに 3 トライ。後半は、50 分過ぎにメルモーズのインターセプトからのトライはあったものの、残り 10 分くらいの時間帯に攻め込んだ(トライ)ほかは見せ場もなく、印象としては完敗だった。一時は 60 点取られるのではとさえ感じられたが、何とか落ち着かせたというところだろうか。

 モチベーションの上がらぬ試合ではこんなものなのだろうけど、ファーストタックルが甘く、敵一人に対して二人でも止められない、ラインディフェンスにすぐ穴ができてしまうなど、防禦はさんざんな出来だった。オールブラックスのメンバーはみな前がよく見えていて、ほんの少しのギャップも見逃すことはなかったし、また目立ったギャップや数的優位がなくとも、FW が並んだ辺りに積極的に仕掛けるなどして、割と簡単にブレークしていた。
 よく見えているという意味では、オールブラックスはフランスの展開プレーをほとんど見切ってもいた。事故のような形で突然に混乱が生じでもしないと、ラインブレークは難しかったと思う。
 スクラムは若干オールブラックスが優位に立っていた。マコウとトムソンが入れ替わっていることがあったけれども、あれはどういう意味があったのだろうか。

 ひどいゲームではあったが、フランスのこすさ、ちょっとした機転、ハーフバックスのキックが連続でチャージされたり(前半)、コンラッド・スミスに両足を抱えられたアリノルドキが倒れず立ったまま押し下げられたり、といった場面でわたくしは声を上げて笑ってしまった。まあ何というか、フランスは違うロジックで動いてるよねと、世界中が―― 99 年や 07 年の対戦を少しばかり思い出しながら――感じたことだろう。
 実際、攻守ともにここまで上手く運んでしまうと、わたくしがもし NZ 人だったら逆に不安を感じてしまうかもしれない。レ・ブルーは、控え選手は全員出場させたものの、必勝のスペシャル・プレーなどは見せずに済ませたともいえるわけで、次の対戦(があるとしての話だが
)は全く違った様相を呈すことになるだろう。

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2011年9月21日 (水)

トンガ 対 日本 プール A

 トンガ 対 日本 プール A 31-18(18-13) トライ数 3-3

 ひどい試合だった。もうワールドカップなど出なくていいんじゃないかと思わせるほどの完敗である。いやもちろん、客観的には対ニュージーランド戦の方がよりひどかったことになるはず――このような「ダブル・スタンダード」の存在は日本ラグビーの後進性の表れに他ならない――が、心あるファンにとっては、今日の対トンガ戦の方が衝撃的だろう。

 ゲーム内容に即していえば、ブレークダウンでの敗北、そして、あってはならないはずのハンドリング・エラーの頻発、これが敗因である。公式スタッツによれば、ターンオーバーがトンガの 9 に対し、日本は零。だがそれは結果であって、ボールを奪われないまでも、球出しはほとんど常に遅らせられ、対フランス戦のような素早い攻撃ができなかった。
 ジャパンの選手たち、とりわけ FW は、トンガのラッシュには試合開始直後から気づいていたと思うが、なぜ最後まで自らの集散の遅れを修正できなかったのだろうか。またスクラムで優位に立てないことを悟れば、ダイレクト・フッキングなど対処のしようはあったはずだが、この点でも修正は見られなかった。
 ダウンボールが相手に取られると思ったら、ボールを抱え込むのではなく、自陣側に強くプッシュしてラックを回避すればよい。SH と打ち合わせておけば特に問題はなかろう。ラック形成によるオフサイドラインはなくなるわけだから、敵プレーヤーはいっそう前に出てくることになるが、トンガの戦略はいってみればそれだけの単純なものだったのだから、その背後を狙って仕掛けるなど、やりようはあったはず。観戦していた人の多くは、ジャパンが何の手も打たないでいることに苛立ったに違いない。

 こうした点、つまり試合中に機転を利かせられなかった点まで JK の責任としてよいのか、わたくしにはわからない。フランスやオーストラリアといった一流どころにおいても、その場での修正が利かないということは少なからず起こっているからである。いずれにしても、大きな犠牲を払って必勝を期した試合に負けてしまった以上、今回のチームづくりはどう考えても失敗だ。すでに書いたと思うが、その失敗は GM や HC の責任であって、協会が健全であれば、彼ら、とりわけ HC との契約更新は当然のことながらありえない。
 ところで、選手たちは日本のために試合を戦ったのだろうか。そうではないだろう。試合に先立って国家を斉唱したりするので事態がややこしくなるけれども、選手はたぶん自分のために、というのはすなわち、自分がやりたいからこそ、やっているのだと思う。だから観客としてはあまり期待しすぎない方がよいだろう。
 ただ、頭があまりに弱いところを見せられると、何か一般の日本人まで同類に見られかねないので、次の対カナダ戦ではその点に気を付けてくれればなあと、ささやかな希望を記しておきたい(政治家に対しても同じようなことはもっと強く感じるが)。
 実際カナダは、この間の対フランス戦で、レ・ブルーがゴール前ハイパントからトライを奪った直後、それとまったく同じやり方でお返しができるほどには機転が利くチームである。前回大会でも、日本のトライライン付近でごちゃごちゃとファイトしている最中に、反対側がぽっかり空いていることにジャパンより先に気づいて(SH だったかな?)、キックパス→トライを成功させていた。

 それに、何といってもジャパンは弱い。近年弱くなったのではなく、ずっと弱かったのだ。ジャパンが強かったことなどこれまで一度もない。いい加減ワールドカップで活躍しておかないと、ラグビー人口の減少という事態もありうるけれども、協会がそれでよしとするなら何もいうことはない。税金を使っているわけではないし――おっと、確か 2019 年大会のために、確かサッカーくじの収益金を流用することになったのだった。財団法人日本ラグビーフットボール協会はサッカーファンからの批判に耐えられるだけの言い訳を用意できるだろうか。彼らはラグビーファンよりずっと手厳しいはず。

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