« 2006年6月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年1月

2007年1月 9日 (火)

ダニエル・ユイレ オマージュ上映会(於シネマテーク・フランセーズ)

 昨年秋に惜しまれつつ逝去した D・ユイレのオマージュ上映に出かける。三つあるうち最も大きい「アンリ・ラングロワ・ホール」は文字通りの超満員。プログラムは何人かのスピーチ、そして短篇をいくつかと『エンペドクレスの死』の上映で構成されている。
 ジャン=マリ・ストローブとダニエル・ユイレは実は現在わたくしの訳している書物と関係がある(あるいは訳者として関係があると考えている)。翻訳を主題とするものだが、この本の翻訳のために見直しておきたい映画がいくつかあった。ジャン=リュック・ゴダール『新・ドイツ零年』、そしてジャン=マリ・ストローブとダニエル・ユイレによるヘルダーリン的作品である。『新・ドイツ零年』には、ハンス・ツィシュラー演ずる諜報員=翻訳家がその妻と翻訳について語りあう素晴らしいシーンがある。「フランスではこういう場合 mais って言うわ……」。
 ともあれ、この上映会のことを「訳者あとがき」で少しだけ触れようと考えていたのだが、そのアイデアは没となった。備忘録に書き留める次第である。

 ***

[…]幸いにとはいうまい、『エンペドクレスの死』を見る機会は、惜しまれつつ逝去した D・ユイレへのオマージュ上映という形で恵与された。作品上映に先立つ短く潔いスピーチを主賓のストローブはひとつの外国語単語で締めくくる。オキーーヨーーー。アルザス出身の映画作家が妻のために選んだのは日本語だった。ミゾグチのある作品から……といって、ひとしきり「オキーヨー」と叫〔おら〕んでからその痩躯は、舞台を降りつつさらにこういい添える。別にミゾグチでなくともいいんだ、何だって……。だが少なくともそれは外国語でなくてはならなかったろう。彼らの作品は、字幕なしの外国語映画というに等しい「試練」をいずれの言語圏においても課さずにいないものだったからである。
 科白回しの素人に語らせること。文をズタズタに断ち裂くこと。それはヘルダーリンやクロソウスキーの訳業にも比さるべき言葉の運動なのであって、そのとき言葉が、言葉そのものが立ち現れる。ストローブ=ユイレは自分たちの作品においてこそ「ヘルダーリンがドイツで初めて本当の意味において聞き届けられた」ことを自覚していたが(Barton Byg, Landscapes of Resistance. The German Films of Danièle Huillet et Jean-Marie Straub, Berkeley, University of California Press, 1995, p. 201)、それはドイツ語が軋みを立てて外国語になったというのと同じことだ。外国語? そう、日本語話者にとっても「オキヨ」はやはりひとつの「異なるもの」となったのである。ストローブ氏は上映中も解説に大忙しだった。人々が真剣に耳を貸していたかどうかわからない。(ケルンの大聖堂を見ながら「これはケルンの大聖堂だ」と解説されても、ねえ……。)それでも、ひとりひとりの言語領域のうちに、そのひとつの「異なるもの」のための場所が新たに拓かれたのは確実である。彼方からやって来たもののための宿という言葉の意義をその晩わたくしは改めて、あるいは初めて理解した……

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年6月 | トップページ | 2007年6月 »