2020年8月14日 (金)

翻訳(論)について

『他者という試練』が版元で品切れになっていることに気づいた。いつ頃そうなったのかわからない。皆が「ポチッとする」例の通販サイトの該当ページを覘いてみると何と! 一万円を超える――どころか二万五千円などという法外な値がつけられているではないですか。いやーこれはちよつと。六千八百円でも高い(自分が学生だったら多分買えない)と思うのに。
 手元に何冊か置いてあるので、欲しい方に(消費税抜きの定価で)譲ることは可能だろうし、是非そうしたいところだけど、それが結局おかしな値段で転売されてしまえば意味はなくなる。いやあ、困っちゃったなあ、というわけで、差し当たりわたくしに出来ることはないので、来るべき重刷に備えて訳文を見直すこととする。重刷がいつになるのか、その際、版を修正することは可能なのか、またそもそも重刷されるのかわからないけれども。

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 翻訳論ってやはり難しい。自他の訳業の不備を指摘したり、改善策を提案したりするのは技術的に充分可能としても、それを翻訳行為の本質に結び付ける形で論ずるのはそう簡単なことではない。例えば小説の翻訳に即していうと、文学について、言語について、またもちろん原作についての思考が必要ということがひとつ(それなしでは昔日の「誤訳の指弾」と大して違わなくなるわけだから)。そして、実務との距離が他の研究におけるより近いということも大きい。
 要するに、原文の性質に応じ変わってくる「翻訳」のあり方それぞれについて別箇の考究が必要となるからだろう。その点に思い至らず十把一絡げに「翻訳」と称するものだから、云々。
 一例として、昨今の「翻訳研究入門」みたいな本で必ず一章が割り当てられている「字幕翻訳」。まず名称がおかしい、というのは古えの無声映画で挿入される説明文の翻訳としてなら妥当であろうけれど、現代の有声映画では文字列は、ゴダール作品か、さもなくば劇中で発せられる外国語(米語作品におけるスペイン語など)の説明としてしか殆どそもそもは用いられまい。つまり、「字幕翻訳」と称される作業は――それ自体はもちろん必要なものだが――実のところ原典では声として発せられる言葉を文字に変換し、それをフィルムというか映像に被せているわけで、これは厳密にいうなら、文書の翻訳とは種類の異なる営みだろう。「変換」と、だからとりあえず表現したわけだが、そしてしかしこの「変換」は、いうまでもなく、拡大された「翻訳」として、考究さるべき営みではあるけれども、「字幕翻訳」研究者はおそらくそこまで考えてはいないよね。無声映画時代に活動を始めた作家(たとえばヒチコック)はもちろんのこと、有声映画時代の才ある作家も音声なしで語る術を心得ているはず。それは北野武の作品を観れば例えば直ちに諒解される。初期傑作群の掉尾に位置するだろう『キッズ・リターン』(1996)で不可欠な台詞は一番最後の「まーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな――ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ」だけだよね! それ以外の台詞はなくてもさして困らないはずなので、ええつまり、申し上げたいのは、映像で勝負しているだろう作品の、その映像に、元は存在しなかった文字列をスーパーインポーズすることの意味を、皆さんは一体考えたことがあるのかと、ささやくように問いたいのです、わたくしは。
 現状はというと、制度的な翻訳研究は、そうしたことを考えさせるようにはなってゐないと思う。語られる言葉を書き付けるという営みは、人間一般の言語活動にとって重要というのみならず、実のところ日本語の誕生という世界史上の一大事件にさへ触れている、決して軽々しく扱ってはいけないもののはずだが、そうした事柄とほとんど無関係に産出される論攷の数々にわたくしはうへえとなる。なる。
(うへえとならない為に、翻訳とは別の「現地化 localisation」として例えば考究してはどうかと提案しているのだが、どうなることやら。)

 閑話休題(なんと便利な表現だろう!)。関西大学大学院で講師をしていたとき、院生諸君の笑いを獲得する「鉄板」のネタが少なくともふたつあったことをあなたは知らないでしょう。ひとつは、わたくしはフランス語領域担当ということもあり(他の二人は独語と英語)、ルネサンス前後のいわゆる「知の移転」の概要を講ずる役割を担っていた。というか自分でそのように決めたのだったが、この translatio studii と現代の translation studies、これら両者は字面は似ているよね、ちなみにこのことを指摘したのは世界で私が初めてです――という冗談は受けた(あるいはむしろ、院生さんが優しさをもって笑ってくれたというべきでしょうか)。
 いまひとつ、笑われたのは、例えばイタリア南部の農夫の日常を描いた小説を日本語に訳した場合に、主人公のイタリア人がトマトを握りしめながら「なんでやねん!」などと上方言葉を発するのはありえないというような話(むろん笑いはホワイトボードに「なんでやねん」と書き付けたときに起こる)。
 大切なのは、(日本とまるで無縁な)イタリア農民が日本の一方言を話すことなどありえないということ(これは皆さん理解してくれた)と同時に、ではなぜ共通語は喋ってよいのかという点である。よくよく考えてみればわかることだが、日本のことなど何ひとつ知らぬ、どころか興味さへもたぬイタリア人農夫が、上方の言葉はいうまでもなく、共通であれなんであれそもそも日本語を話すわけがない。話すわけがないのに皆――というのはつまり翻訳された外語人たちは皆――共通の日本語を巧みに操っている。驚くべきことだが、驚くより先にまづはそれが不自然(fremd, étranger, strange)なことと思える感性が翻訳論には必要だとわたくしには思われる。

« […]. – Mais alors, il y a une différence immense entre une toilette
de Callot et celle d’un couturier quelconque ? demandai-je à Albertine.
– Mais énorme, mon petit bonhomme, me répondit-elle. […]. »(Proust : À l’ombre des jeunes filles en fleurs (1919), À la recherche du temps perdu, édition de J.-Y. Tadié, t. II, 1988, p. 254)

「[…]。じゃあ、カロの装いとそこら辺りの仕立屋の装いではたいへんな違いがあるんですか? 私はアルベルチーヌに尋ねた――もちろん段違いよ、坊やね」。彼女は私にそう答えた。

 井上究一郎は文章が上手い。本当に上手い。だがしかし、フランス人が「坊やね」などというだろうか。いいはしまい。というより、「私」やアルベルティーヌはそもそもなぜ日本語で話をしているのか? そこのところに何の疑いも抱かぬような人はたぶん翻訳を論ずるにあたって最重要の資質を欠いていると、わたくしには思われる。
(念の為にいい添えておくなら、そうした資質がなくとも翻訳は可能だし、立派な訳業が産み出されることさえあるだろう。)

 中井秀明さんがウェブサイトをひとつにまとめられるとのことで、以前読んだ評論(2009年2月)を再び読む機会があった。わたくしが上に述べたような事柄が別の角度から触れられている。文章の主題ではないけれども、初読の際に印象に残った箇所である。

「カフカが『aller(行く)』と言うと、訳者たちは『marcher(歩く)』と言う」。このクンデラの言い分がほんとうに正しければ、訳者たちの不忠実は、「aller」と「marcher」の違いが明らかなのと同じだけ明らかだ。でも注意したい。『城』の仏訳者たちはけっして「aller」(フランス語だ)を「marcher」(フランス語だ)に言い換えた(これなら「類義語化」でもいい)わけではないのだ。正確には、「gehen」というドイツ語を「marcher」というフランス語に翻訳したのである。この違いはあいまいにしておいてはならない。なぜなら、このように正確に認識することで、「行く」と「歩く」に対するのと同じような、自動的な不忠実の判定ができなくなるからである。

 えーつまりカフカはあくまで gehen と書いているのであって、aller と書いてはいないということ。きわめて重要な指摘と思う。そして翻訳研究に携わる人は、この一点に先づは立ち止まる、というか躓いて欲しいと願う。翻訳とは、そもそもが無理な営みであると、外語人にこちら側の言語を無理やり喋らせることなのだと。あるいはむしろ、その外語人がこちら側の言語を学ぶ、その手助けを行なうことであると(ふつう人はまづ共通語を学ぶよね、方言ではなく)。
 これまであまり問題とされてはこなかった事柄、あまりに自明だからということだろうか、折角だからベルマンに即していうと、

異国趣味風処理は外国語の土地固有表現を翻訳者の地元の固有表現で訳すことによって鄙俗化へと通じうる。パリの隠語でブエノスアイレスの隠語(ルンファルド)を訳す、あるいは「ノルマン言葉」(parler normand)でロシアやイタリアの農民の言葉を訳すような場合がそれにあたる。しかし残念ながら、土地固有の表現は他の土地の固有表現には翻訳されえない。互いに翻訳し合うことが可能なのは共通言語(コイネー)、「洗練された」言語同士だけなのである。こうした異国趣味風の処理、つまり外国の異なるもの(エトランジェ)を国内の異なるもの(エトランジェ)で訳すというやり方が行き着くのは原典を虚仮=滑稽にすることでしかない(ベルマン『翻訳の倫理学』68頁)。

「互いに翻訳し合うことが可能なのは共通言語(コイネー)、「洗練された」言語同士だけなのである」という点について著者はこれ以上展開してはいないけれども、『他者という試練』などの議論を敷衍して次のように説明することができるだろう。すなわち、ロマン主義者たちが詩と翻訳を同一視したのは、日常の言語から生み出される詩の言葉がある次元においてその日常言語から切り離されている(そうでなければ詩とはいえない)のと同じように、翻訳は元の作品が土着の言語から切り離されるある次元を見つけ出すことによって、その作品を別の言語へと移し替える(そうでないと翻訳は成立しない)という、形式的な同一性のゆゑだった。そして共通語が実のところ誰のものでもない言語、通辞のための便宜上の言葉にすぎないとすれば、まさしくそこにこそ、そしてそこにおいてのみ、翻訳の入り込む余地があるということである。

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 ところで、実務に携わる人は躓いているだけでは駄目で、そこから起き上がって翻訳しなくてはならないのでしょう。元々外語人が書いたものなのだから、すらすら読める方がむしろおかしいのだと、個人的には強く強く思うけれど、売れるためには、あるいはともかく商品として売り出されるためには、いくらか妥協が必要である。

 実はある小説を翻訳しようかと思い立ち、翻訳可能性を測るため、久しぶりに読み返してみるということがあったのです。大家の名作のひとつだがなぜか日本では現代語訳がなく、ずいぶん昔のおそらく英語を経た重訳があるのみという、少々変わった扱いを受けている作品。地の文は何とかなりそう、だが問題(わたくし個人の課題)は台詞の文体で、現代日本語における言葉遣いの性差がただただ煩わしいなあと、もやもやしていた。しかるべき方言を恃みにすれば言葉の性差の問題はほぼ解決されるのになあ、云々と。要するに職業としての翻訳家になりたいわけではないので妥協は本当に厭なわけです(わたくしが翻訳に手を染めるのは主として使命感からである)。そうして逡巡しているうちに、ある出版社のサイトで当該作品の翻訳がついに出ることを知り、一般人として純粋に喜ぶとともに、もやもやから(意図せぬ仕方ではあれ)解放されたことに安堵したのだった。

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 他にも書くべきことがあったような気がするけれど、一旦ここで留め擱く。

 

 

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2019年9月28日 (土)

日本 対 アイルランド(A)

 日本 対 アイルランド 19-12(9-12) トライ数 1-2 公式統計

 公式サイトでは対スコットランド戦がプール・ステージにおける好取組の上位に挙げられていたけれども、それはノックアウト・ステージ進出の懸かった対戦ということが大きかったと思う。わたくしとしてはこちらの試合の方により感動した。感動というのはこの場合、涙と洟を盛大に垂れ流したということである。
 前半にトライをふたつ取られたもののペナルティ・ゴールで食らいつき、後半 20 分のトライで逆転という、まるでシックス・ネーションズのような渋い展開が予想を裏切るものだった。2017 年の日本での対戦では二試合とも力の差を見せつけられる形で大敗していたからで(22-50、13-35)、譬えていうなら、我が子にいつの間にか背丈を越されていたことに驚きつつ、しかし(もちろん)歓喜したというところだろうか。
 しかも、前回大会の対南アフリカ戦のように日本の逆転トライで試合終了という形ではなく、20 分を残してのとりあえずの逆転だった、ということはつまり、その残り 20 分の間、アイルランドを完封したのだから、いや本当に力がついたなあと、1991 年、1995 年W杯での対戦を知る者としては深い深い感慨を覚えたのだった。実際、例えば 95 年の試合ではスクラムを完全に支配され惨敗を喫したわけで、そのスクラムで互角に渡り合うことができた今チームのフォワードにとりわけ祝福を送りたいと思う。

 NHK の解説で広瀬俊朗が同種のサインプレーが今秋の対フィジー戦でも有効だったというので見返してみると確かに、同じように敵陣右側でのスクラムから左方向の 12 番中村へのパス(対フィジー戦では 10 番田村を経由して)そしてクラッシュ、そこから逆に右方向へのパス、走りこんだ 14 番松嶋がそのままゴールポスト下へのトライという、見た限りでは非常に単純に見えもするサインが功を奏していた(前半 19 分頃)。対アイルランド戦では、そこまで簡単にはいかず、14 番(すなわち左ウィンガー)レメキがゴールポスト前で捕まったところから、左方向へのラックの連取を経てのトライとなったわけだが、なるほど、一発でトライに至らぬ場合のいわゆる「プラン B」も周到に準備されていたのだなと、舌を巻いた。そしてこのトライに結実する田中→中村→ラファエレ(13)→福岡(23)のパスは、日本代表のそれとしてはわたくしの知る限り最も美しいもののひとつだったと思う。

 それにしても、「ラグビー文化」などということを五月蠅くいう人もいる中で、観客は例えばゴールキック(コンバージョン、ペナルティ)の際にはキッカーに静寂を提供するというようことが出来ていたのには驚いた。シックス・ネーションズでいうと、まさにアイルランド代表の本拠地でしか――終始ガヤガヤしているパリやローマはいうまでもなく、ロンドンやカーディフでも――体験できないような作法をいつ身につけたのだろう?

(未了)

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2018年5月 3日 (木)

憲法記念日

 この春は実に久方ぶりに新しめの音楽作品を入手した。歳を食うと音楽鑑賞に対する熱意が下がるというのはわたくしにも当てはまる現象だったようで、新作はとりあえず買うことにしている贔屓の音楽家もいるにはいるのだが、その人たちもいい加減草臥れてきているのだろうね、熱心に活動しているようには見受けられない――というかそもそも現役なのか怪しまれるところがあるので、近年は CD を購入したりする機会が非常に少なくなっていたわけです。ザ・キンクスさん(レイ&デイヴ・デイヴィスさん)、アルト・リンジーさん、スクリティ・ポリティさん(グリーン・ガートサイドさん)におかれましては如何お過ごしでいらっしゃるのでしょうか。
 そういうわけで今聴いているのはサンダーキャット『酔ってしまって』(Drunk, 2017)とケンドリック・ラマー『蝶からピンはねする』(To Pimp a Butterfly, 2015)。うーん『蝶に春を売らせる仲介をしてその上前を撥ねる』ということなんだが、でも「ピン」が語源通り「一割」を掠め取るという意味なら、音がたまたま似ているからといって to pimp を「ピン撥ね」で受けるのは無理があるかもしれない。DeepL でフランス語に「翻訳」すると "de proxénète un papillon" となる。構文解析の失敗。Google 翻訳によれば「蝶をポン引きします」って(笑)、逆だろ。まあええわ。とにかく〈羽ばたこうとしているものを搾取する〉ということで、その意味では、CD ジャケットに butterfly というより moth に見える生物の写真があしらわれているのも(初見で笑ってしまいましたけどね)意図されたことなのかもしれない。人間が「搾取」する蝶類といえば専ら蚕という蛾なのだから。(ちなみにわたくしは庭の柚子や山椒で誕生した揚羽蝶の幼虫を部屋で育てて成虫を世に送り出すという慈善事業を毎年行なっている。)
 ともかく、どちらのアルバムも楽曲、編曲が大変によく出来ている。名曲の名演というやつ。今年はこの二作、それに買おうか買うまいか迷っているカマシ・ワシントンで過ごせそうな気がするよ。いづれにせよもはや、白人のいわゆるロックを新たに開拓するという選択肢は無い。無い。

 憲法を変えるという話はひとまず将来的な目標ということに落ち着いたのかな。わたくしは個人的には九条改変にはさほど関心がなく、大勢に従うつもりでいる。戦争はむろん無いに越したことはないけれども、世界の何處かで日々戦闘は行なわれているわけだしねえ。ちなみに日本が戦争を仕掛けることが仮にあるとすればその相手はアメリカ合衆国(と敢えていうならロシア)を措いて外にはないはず。そして戦争は、やるからには勝たなくては意味がない。今はまだその時ではないだろう。
(ちなみにいうと、今後核兵器が仮に実戦で使用されるとすれば被弾するのは日本以外にはありえないともわたくしは考えている。唯一の被爆国という事実、そしてそこから立ち上がったという事実は決して軽くはないのである。さらに福島における放射性物質汚染がそこに付け加わるとすれば!)
「九条改変」に反対する似非左翼の「戦争が出来る国にしてはならん」といった類の議論にどうにも苛立ってしまうのは、アメリカの意向に逆らえないという前提がそこに認められるからです。逆らえないがゆゑにアメリカ主導の戦に駆り出されぬよう憲法を護るべしという話ですね。顚倒というのはまさにこういうことをいうのであって、憲法が国内最高法規ではないという現実を改めること、その手始めに他ならぬその憲法に「アメリカには従わないぞ」と書き込むというようなことは端から思考の埒外に置かれているわけです。結局こうした連中も自民党同様、現状に居心地の好さを覚えているんでしょうね。アメリカ従属という現状を前提として様々な問題をのらりくらりとやり過ごすというのは、ひとつの戦術としてはアリとは思うけれど(辺野古への米軍基地移設問題とか)、戦略としては完全に間違っている。現実的な戦略というのは、変革さるべき現実をまさに変革すべく企みを巡らすことです。その第一歩は「日本国憲法は日米安保条約ならびに地位協定より上位である」と憲法に書き込むことを措いて外にはないと思う。改憲ですよ、改憲。もちろん書き込んだだけでは駄目だけど。ああこの文章はダ行がやたら多いなあ。書き込んららけれはらめらけろ。今度はラ行ばかりになってしまった。ええい、日本語は難しいなあ。これでどないだ!「書き込むだけでは全く不十分だけど」。

「全く」で思い出した。ある翻訳書を読んでいて、「……はまったく容易ではない」といういい方が気になった。原文が pas facile du tout / pas du tout facile というような全否定表現であることはそれこそ容易に察せられるけれども、わたくしの語感では「全く……ではない」は時としてむしろ部分否定の表現となる。全く(容易というわけ)ではない、のように。わたくしなら多分「……は容易ではまったくない」などと書くだろう(肝腎なのは〈全くない〉をひとまとめに扱う点である)。まあいいんですけど。

 似非左翼についてもう一言しておくと、前川前文科事務次官を矢鱈もち上げるのも莫迦の証だと思う。文科省高官ということは、日本の教育を(一層)駄目にした張本人か、あるいはそうでなくともその質の低下に対し何も手を打たなかった人物ということだろう。安倍憎し、というのはよい。安倍は糞である。しかし斬る材料が「加計学園問題」(だけ)というのはあまりに情けない話ではないか。獣医学部はもうひとつくらゐ新設してもよかった、とするならば、それが四国、つまり九州や山陰以上に冷遇されてきた地に創設されたことはむしろ僥倖なのでは? 新幹線だの高速道路だの、合理的判断とは別の次元で誘致がなされた例はこれまでにも少なからずあったろうに。何を今更、聖人君子のようなことをいっているんだ。しかも御前さんは公務員の〈職権を濫用した再就職〉に加担していたわけだろう?
 だいたい――段々腹立ちの度合が増して参りましたよ――東大法卒の「高級」官僚といったって、しょせん学部卒だろう? それはつまり大学の半分しか経験していないってことぢゃないか(わたくしは「文I→法」の連中に莫迦にされがちといわれる文卒だけど大学院博士課程まで進学したよ)。なぜそういった連中が大学のあり方を決められるのか。教員たちもチッターやブロッグでこっそり「忙しすぎて云々」などと愚痴を零すのはやめにして、そろそろ正式に抗議すべきではないだろうか。

 わたくしは実は安倍晋三に密かに注目しておりました。注目というのは、「日本をとりもろす」といった世迷言を信じて期待を寄せるということではありませぬ。CIA の狗として誰もが知る人物を祖父にいただく政治家としてアメリカとどのような関係を築くのか――その点にいくらか関心を寄せていたということです。
 で、注目していたのですが、狗の仔はやはり狗ということで最終判断を下すべき時が来たようです。彼の成したことの内、評価できるのは金融緩和(円の流通量を増やすことでドルに対して円安に導くこと)だけですしね。その効果もしかしながら消費税率を引き上げることで少なくない部分を打ち消してしまったわけですから、本当に白痴というほかありませんね、この御仁は。
 それに対し、失策は山ほどあるといって差し支えないでしょう。消費増税もそうですが、最大の罪は、第一次内閣時に明らかとなった、東電福島原発の津波対策の不備を放置したことですね。野党が何故そこを突かないのか理解に苦しみます。パブリックエネミーなるものを認定しうると仮にすれば安倍と東電・勝俣、経産省・松永の三人がダントツでナンバーワンでしょう。一回死ぬだけでは到底贖えぬほどの罪です。それに比べれば「森友・加計問題」など(醜悪ではあれ)何ほどのこともない。

 本題が何だったか見失ってしまったけれどもとりあえず筆を擱く。

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2017年10月21日 (土)

第48回衆議院議員総選挙

(投開票日の前日に識す。)

 電子式投票が採用されたら楽だし若者の投票率も(たぶん劇的に)上昇するだろうにと、いつも思う。しかしそれでは民主主義選挙の原則である投票の匿名性が保障されなくなってしまう。個人認証はログイン時のみで、投ぜられた一票と投じた者の関連付けは記録に残さぬようなプログラム設定はむろん技術的には可能だろうけれどね。

 小池百合子「劇場」を遠目に眺めるともなく眺めていたのですが、どうということもないよくある無定見な政治家だねこれは、でもまあ東京のことだから関係ないやと冷笑していたら、国政進出の暴挙に出たので、さすがに無関係といって済ますわけにもいかなくなってしまった。
 もっとも、大阪の小選挙区には候補者はいないし、候補が立てられたとしてもわたくしは投票しないだろうし、という次第で、特定の政党の公約ではなく、いくつかの争点について個人的な覚書を記すことにする。

 ちなみにいうと、わたくしは大阪の政治に限定すれば維新の会を支持しており、それ以外の政党を支持する連中は――利害関係者は仕方ないけど――莫迦だとさえ思っている。増税に頼るのではなく、無駄を省いて必要な政策を行なおうとしているところを評価しているわけです。
 ただ、ひとつ違うなと思うのは、省かれるその「無駄」の中に議員数が含まれている点で、私見では国会議員、とりわけ衆議院議員はもっと増やすべきだろう。一人当たりの歳費は確かに多すぎるけれども、数人、数十人分を削ったところで、高が知れている。むしろ議員の総人件費は現状のまま、人数を大幅に増やす(ことで一人頭の給費を減ずる)ことが必要なのではないか。現状のように馬鹿ばかりだと議員なぞ要らんと思わないでもないが、英語で law maker と称される意味での議員が足りていないから官僚主導になってしまうわけで。それに、高い給料によって優秀な人材を確保するという理屈は(事務方を含む公務員全般の場合)とっくに破綻していると思う。

・消費税増税の「凍結」
 消費税というのは、低所得者の「富」を企業(厳密には株主)や高所得者に移転する装置であって、「可及的速やかに」廃止されなくてはならない。「凍結」や「延期」はだから生ぬるいといわざるをえないけれど、とりあえずの措置としては支持する(他に維新や立憲民主、共産も同様の立場)。
 自民党、というより安倍はおそらく官僚との駆け引きを行なっているので、政権が維持されれば延期の可能性はある。
 「軽減税率がんばります」みたいな話に巧妙にすり替えている公明党は学会ともども地球上から消えて無くなればいい。

・基礎所得(俗にいうベーシックインカム)導入
 これが実現されることで、役所仕事(したがって公務員人件費)が減る、さらに最低限の生活が保障されることによって(少なくとも仕事上の)ストレスから解放されるという点では賛成したいところだ、が。
 真っ先に財源が問題にされるけれど、それはどうとでもなるはず。成立するように行政の仕組を作り直せばね。
 働く人間がいなくなるといった心配は杞憂に終わるだろう。最低限の衣食住しか保障されないのだから、多くの人はやはり仕事に就くことが見込まれる。
 問題はその仕事の種類で、具体的にいうと、いわゆる汚れ仕事を引き受ける人がいなくなるかもしれないという点。零にはならないとしても、相当な人員不足に陥るはずで、その穴を誰が埋めるかといえばもちろんそれは、基礎所得への権利を有しない外国人労働者だろう(わたくしの理解では、国籍が要件となる)。
 つまり基礎所得という制度は少なくとも日本のような国では、「帝国」化と通じていることになる。うーん、これだと諸手を挙げて賛成するのは難しいなあ。各種経済団体・業界団体が切望しているらしい大規模かつ公的な移民労働者導入との違いがあまりないように見える、ということは結局のところ、「発展途上国」の犠牲の上に成り立つ「先進国」という帝国主義的図式の内面化でしかないように見えるので。単純作業に従事する外国人労働者の管理ならびに彼らの基本的人権の保障がいずれも上手くいっていない現状に鑑みるとこれは、小ぶりな政府による福祉国家という高邁な理想の裏にある非人道的真実なのかもしれない。

・憲法改正
 安倍の主導するような改革案は論外だが、たとえば沖縄を始めとする米軍基地所在地における人権侵害に異を唱える社民党や共産党が「護憲」をいうのもおかしい。そうした人権蹂躙はそもそも、現在の憲法が国内最高法規ではないがゆゑのことなのだから。本当に――というのはつまり「55年体制」を維持したいがための見せかけでなく――駐日米軍による被害を無くしたいのであれば、「日米安全保障条約」(を含む類似の条約・協定)の上に置かれるよう憲法を改正しなくてはならないはず。自国民の基本的人権を守れぬ憲法など何の役に立つのかという話だ。

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2016年12月23日 (金)

決定的なイマージュ

 テレビジョンというメディア(ないし装置)の可能性はまだ十分に汲み尽くされてはいないと思うけれど、現状はといえば、九割五分五厘くらゐは資本主義の走狗、より正確には資本主義を利用して富の不公平な分配を推し進めようとする資本家の走狗となってしまっているわけで、すぐれたプログラムといっても自ずと限界はあるに違いない。
 その点をひとまづ措くなら、『逃げる恥だが役に立つ』はよく出来たドラマだったと思う。まあ初めは「どうせガックスがただただ可愛いだけのドラマだろう」と高を括っていたのだが、そしてもちろんガックスは最後までチャーミングであり続けたわけだが、想定以上に頑張っているなあと。
 物語の内容についてはすでに多くの人たちが語っているのだろうし、そこにさらに何かをいい添えようという気はない。ただ、テレビドラマとはいえ映像作品であるからにはやはりそこにはいわゆる〈決定的なイマージュ〉が無くてはならないはず。このドラマには少なくともふたつ――勿論ガックスその人の声や姿は別として――ずっと記憶にとどめておきたいイマージュがあった。

 ひとつ目。
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 別角度からのショット。
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 原作にこういう場面があるかどうかわからないけれど、これは素晴らしい。字は下手だが。ありえないほど(念の為に、これは「素晴らしい」にかかっていますよ)。資本家の狗にすぎぬ放送局が一体どの口で……などと野暮な事をいうのはぐっと堪え、ただただ惚れ惚れとしてしまう。美女と黒板(あるいは文字)といえばゴダールを思わせるが(ガックスをA・ヴィアゼムスキーに置き換えてもこのイマージュは成立する)、そういえば次のイマージュもゴダール的といえるかもしれない。

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 類似からの思考。性差を越え、人と機械の種別を越えて、ペッパー君、君はなぜこんなにもガックスと似ているのか(いやむしろ逆にガックスがペッパー君に似ているというべきなのか)。
 あれはいつ頃だったか、確か人工知能学会機関誌の表紙に描かれた女性型家事代行ロボットが物議を醸し、かなり強く批判されたことがあった。この場面もそうした批判に通ずるものといえるのではないだろうか。
(もっとも、物語では残念なことにガックスがこのロボットを抱擁することで批判の鋒先を鈍らせてしまっている。ガックスはむしろ助走をつけてペッパー君に跳び蹴りを喰らわすべきだったと思う。)

 今更ゴダールか(しかも60-70年代の「政治的」な)!というような小賢しい(笑)指摘は「役に立たない」。だって日本のテレビはゴダールの水準には全く及びもしていないのだから。とにかくこうした決定的イマージュがあったというだけでも、このドラマは素晴らしいと、冒頭の留保のことなど忘れ去って、強くいいたいのです。

 気になったこと。クールの途中でガックスの顔が変わったように見受けられた。彼女の顔は、額と眉、やや腫れぼったい瞼と奥二重で切れ長の眼の塩梅が南の島の人っぽくってよかったのだが、疲れて瞼の肉が落ちたのだろうか、目が大きくなっていった。だからこそペッパー君と似てしまうということにもなったわけだが、少し脱線して私事を書いておくと、同じような南の島出身の女の知り合いと初めて出会ったとき、誰かに似ているなあ、ああガックスだと感心したことがあった。歳はずいぶんと下だが彼の女は不肖のわたくしに多くのことを教えてくれた。ひとつは〈迎合的な笑い方〉。この笑い方をわがものとした時、自分が大人になったなあと実感したのだった。

 星野源のことは名前そのものを含めて何も知らなかったけれど、声がいいね。少し黒人っぽい響きがあるかと思っていたが(つまりオバマ大統領も声がいいよねというような素材の話です)、あるとき、あっそうだ、スティーヴ・ウィンウッドに似ているのだと思い当った。ああだからある種の、そういった意味での「ソウル」が感じられたというのもあながち間違いではなかったということになるだろう。歌の純粋な上手さという点では比較にならないし、そもそも比較するのがおかしいのだが、何處となく似たところがあるということで。

 ※ 映像はすべて著作権者に帰属します。

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2016年6月25日 (土)

憲法改正、あるいは『朝まで生テレビ !』

 あー観なければよかったといつも思う番組(とはいえこれまで数回しか観ていないけれど)。
 理由のひとつ、たぶん最大の理由は司会の田原総一朗その人だろうね。なぜ人の話を遮るのか。「老害」とはいうまい。この御仁は前からそうだった。ひとつには根本的に莫迦だから。もうひとつ、こちらの方がより重要と思うが、莫迦な一般大衆でしかない視聴者にはこの番組での議論は理解できまいと思い込んでいるから。そのような前提に立ち、敢えて初歩的な質問を次から次へと繰り出すことで結局議論の展開を阻害するというのは、番組の、引いては電波の私物化以外の何ものでもない。予備知識のない、すなわち啓蒙される必要のある「一般大衆」がこんな番組を見るわけないだろう。本当に苛々する。早く引退してくれないかな、この糞爺。
 田原氏くらゐの知名度がなければこの種の番組は主宰できないとでもテレビ朝日は考えているのだろうか。この日のパネリストに名を連ねた三浦瑠璃でもたとえば十分に務まるだろうよ。まあ、議論の質がどうしようもなく退屈なので司会を受けることはなさそうだけど。
 もっとも、三浦氏の各種分析にわたくしは十分に説得されたことは実はない。聡明なのはわかるが、その論理展開には何か誤魔化し、といって悪ければ偏向があるような気がする。突き詰めて分析したことはないけれど。
 それにしてもこの人は自身のエロティシズムに気づいているのだろうか。『ケイゾク』というドラマの主人公・柴田純のような無意識過剰な東大生など現実にはほとんど存在せず、東大女子は実際は人一倍自意識が強いもので、当然(というのはつまり見世物としてテレビに出ようかという人ゆゑ)、三浦氏も自分がどう映っているかには気づいているだろう(自意識の制禦を放棄したような東大男子・玉木雄一郎との対比が興味深かった)。エロといってもそれは、鼻が亀頭みたいな形をしているからではなく、衣装の胸元にスリットが入っているからということでもない。まずは言葉とのかかわり方に宿るある種の資質のことである。『マゾッホとサド』(知らない人は是非読んでくださいね!)のジル・ドゥルーズ風にいえばマゾ的な関わり方なのかもしれない(未確定)。
 念のために急いでいっておくと、この女性をどうにかしたいとかいうことでは全くなく、見世物としてのテレビにおける(自己)演出というテーマに沿った注目です。だってテレビにはそれしかないんだから。
 それから、権力とそのエロティシズムのかかわり。三浦氏はこの場では明らかに一種の権威を身にまといながら(つまりだからそういう演出なので)発言している。そ……

 とはいえ、この日のプログラムで一番重要なのは「憲法改正」の部分である。田村憲久は憲法の何たるかを根本的に理解していない、あるいはむしろ理解しようとしない下種野郎だが、この種の連中が自民党には掃いて捨てるほどいる。たとえば第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢甚遠は「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」(2012年創生「日本」東京研修会)と述べたらしい。ありえない。こんなのパブリック・エネミー・ナンバーワンでしょう。東大法学部から旧労働省。こんな奴が法務大臣とはね――と書いたところで時間切れだー。三十分後に日本対スコットランド戦が始まる。

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2016年6月18日 (土)

日本 対 スコットランド 其之一(六月のテストマッチ・シリーズ)

 日本 対 スコットランド 13-26 (トライ数 1-2)

 日本代表がウェールズ代表に初めて勝った試合から三年。あの時は一本目半、どころか下手すると二本目でしかないレッドドラゴンに対する勝利に歓喜の声をあげたのだが、現在のブレイブ・ブロッサムズが置かれた状況はその頃とはまるで違ったものになっている。

 要するに、昨秋の対スプリングボクス戦勝利の興奮冷めやらぬなか――そうですとも、わたくしは今だに涙と洟なしにあの試合を観ることができないんです――、悪くとも「善戦」(つまりは惜敗)、ということはすなわち実質的に「雪辱」の勝利を日本協会代表チームは期待されていたからである。
 ただし、こうしたテスト・シリーズでは最終戦が本番ということに一応なっていて、だからこの日行われた第一戦は双方にとって半ば予備戦的な位置づけではあった。
 ワールドカップ準々決勝でワラビーズに惜敗し、また今春のシックスネーションズではフランスを十数年ぶりに破ったチームとほとんど変わらぬ「ガチ」のメンバーを組んでくれたスコットランド協会には本当に感謝しなくてはいけないけれど、対する日本チームはといえば、例の南ア戦のそれと比較すれば顔ぶれ・コンディションを合わせて三割から四割くらい力の落ちた条件で試合に臨むことになった――というよりむしろ、これまでの積み重ねが残されているかどうか判らない新チームと称すべきかもしれない。とするなら、敗れたとはいえこの点差(オールブラックス対スコットランドないしウェールズ戦を考えてみればよい)に収まったこと、また戦い方によってはあるいは勝利も不可能ではなかったことには素直に喜ばなくてはならないのだろう。

 ラグビーは野球などとは異なって本当の意味におけるチーム・スポーツだと思うがそれでもたいていの場合、選手個々の力量が点差に如実に映し出されてしまう残酷な面があることも否定できない。キャップ数がそれなりにあるメンバーについていくつか感想を記すなら、10番田村クンはゴール・キッカーとしては申し分ない出来でしたが、攻撃の起点としては「無難」以上とはいえなかった。9番や12番との連係、サイン・ムーブはそれこそチームとしての戦略そして戦術にかかわるものだから現段階では仕方ないとしても、もっと自分から仕掛けないと、12番の負担が多くなりすぎてしまうのではないか。
 その12番の立川クンは、10番として出場した三年前の対ウェールズ戦で既に厳しいマークを受けていたわけだが、この試合でもエイトのマフィとともにマークの主たる対象となっていた。それでも攻守にわたって立派なパフォーマンスを披露できるのだから大したものだ。ジャパンの12番がフィジカリティで互角に渡り合える日が来るとは、素直に感動しないわけにはいかない。われわれは少なくとも、パスは上手かったけど接触局面では必ず腰の引けていた平尾誠二とパスの巧さも身体の強さも中途半端なままキャップだけ無駄に増やした元木某のことは忘れてよいのではないだろうか。
 9番の内田クンはこの水準では厳しいなー。表情が無駄に偉そうという点は措くとしても、まずラックへの寄りが遅いよ。スクラムハーフの仕事はまず、ラックに誰より早く、可能ならばラックが形成されるより前に寄ることではなかったか? だというのにこの人は「余裕をこいて」挙句にボールを奪われているのだから。日和佐クンにもそういう傾向があってわたくしは全然評価できなかったのだが、ワールドカップではその悪しき癖が解消されていましたね。田中クンや茂野クンが出られないとすれば日和佐クンを選ぶべきでしょう。レフェリーが笛を吹く前にラックから強引に球を出してしまえばいいのに、一体何度奪われているんだという話です。内田選手はテンポもよくないね。わたくしは単純なスピード信仰をもってはいないけれど、テンポそしてタイミングはやはり重要だと思う。そして最後にやはり判断。対カナダ戦やこの試合で茂野クンの代わりに内田クンがトライの起点になれたかというと、残念ながら否といわざるをえません。他に人がいないのかな。

 この試合の個人的ハイライトは後半20分のスクラムでした。どう見てもスコットランド贔屓のレフェリー(NZ協会)の判断の誤りを実力で証明して見せたフロント・ロー、とりわけ一番の稲垣クンの頑張りには胸が熱くなりました。ボールがよく動くラグビーもよいけれど、双方一歩も引かぬ、ほとんど静止したかに見えるスクラムがえんえん続くのもわたくしは好きなのです。

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2016年5月21日 (土)

「電通は日本のメディアを支配しているのか」にかこつけて

 日本放送協会がさる番組においてあるジャーナリストの系譜を調査し、それなりに由緒あるものと思われたので公にしたところ、その系譜の本家から誤りを指摘されたという。テレビに出るというのはすなわち見世物になるということで、要するに何でもありなのだろうし、その「詐称」の事実にはさしたる興味もないけれど、番組内で調査結果を知らされたそのジャーナリスト氏の感想が気に障ったので少し書いておこうと思いました。彼は祖先が関ヶ原の戦いでいわゆる西軍側についていたことを知って、おのれの「反権力」的立場に歴史的(系譜的)根拠が与えられたかのように感心していたからです。
 なぜ似非左翼は揃いも揃って莫迦なのか? 関ヶ原の戦いというのは豊臣秀吉死後の権力をめぐる争いだろう。そして石田三成はそもそも権力の中枢にいたわけで、正統性の主張もむなしく、権力を奪われてしまっただけの話でしょう。当然のことながら、もし西軍が勝っていればジャーナリスト氏の「先祖」も権力の側に立ってそれなりの利益を享受していたはず。翻って現代的な、というかジャーナリズムが旨とするような「反権力」とやらは、むしろ権力から身を引いて批判するというあり方を指すのではなかったか。むろん実情がそうではないということ、それをこのお笑いジャーナリストは精神分析的に――とは要するに無意識のうちに――暴き立てたのだが。
 実際、ある程度の規模のメディアは陰に陽に既成権力(エスタブリッシュメント)の一部を成しているのであって、「反権力」など笑止の至りというほかない。

 一部界隈で話題となっているらしい、在日フランス人ジャーナリストによる論説「電通は日本のメディアを支配しているのか」。わたくしも一応、原文ならびに内田センセの丁寧な翻訳に目を通しましたけれど、特に目新しいところはありませんでした。この程度の記事で今更のように騒ぎ立てるなんて……というような厭味は控えますが、一点、気になるところがありました。
 フランス人ジャーナリストM・ゴレーヌ氏は、メディアと電通の関係の分析を専ら広告収入の有無(ないし多寡)という観点から行なっており、必然的帰結として日本放送協会が権力から相対的に独立しているかのごとく論を展開することになるわけですが、果たしてそうか。受信料の法的根拠をめぐるさまざまな問題は別として、NHKが権力から独立しているとはとても思えない。NHKが享受するはずの独立性を脅かすことになる(とゴレーヌ氏は主張する)籾井の会長就任より前からの話です。

 わたくしがずっと気になっていたのは、NHKのプログラムに出演する芸能人、すなわち俳優やタレント、コメディアンの類が多過ぎはしないか、また年を追うごとに増えてきてはいないかということです。例えば朝の連続テレビ小説に続く「あさイチ」ではジャニーズが司会だし、その後近畿圏では吉本が「ぐるっと関西おひるまえ」で司会を務めている。太平サブローは別段嫌いではないけれど、大阪の民放で飽きるほど目にしている人をわざわざNHKで見たいとは思わないし、ジャニーズを見たければ、「ぷっスマ」とか「鉄腕DASH」とかあるでしょう。まあそういったバラエティ番組はまだよいのです。見ないという選択肢があるから。困るのは真面目なドキュメンタリーの場合で、その種の番組の語りにもタレントを起用する事例が増えている。
 巧い人がやるならまだ許せる。たとえば先日の「羽生名人と人工知能」みたいなプログラム――NHKの文化系ドキュメンタリーは実のところ内容がどれもこれも浅薄で、満足したことは一度もないんだけど!――における林原めぐみはやはり巧かったし、それ以上に彼女の声自体が内容に合致していた。反対に、少し前に観覧した「人の住まなくなった福島で猪が栄える」という趣旨のプログラムにおける伊勢谷友介、あるいは若冲を取り上げたNHKスペシャルの小松菜奈は最悪だった。起用の必然性も全く感じられなかったし、それ以前の問題として、単純に下手すぎるよ。ナレーションが出しゃばってよいような番組ではないでしょう。その意味で新・映像の世紀の山田孝之もあまり感心しなかった。

 それで、個々のタレントの技倆の高低や起用必然性は措いておいて、何がいいたいかというと、かくもタレントが出演するようになったことの意味です。というのは、彼らの出演にはまさしく電通を始めとする広告代理店が噛んでいるわけで、つまりこういうことでしょう。テレビ出演で生計を立てている大多数のタレントの言動は、民放であれNHKであれ、電通の検閲を免れえないと。民放で原発問題に対して口を閉ざすタレントがNHKで反原発キャンペーンを展開するというようなことは、どうしたって不可能なのだから。フランス人ゴレーヌの提示するような「NHK/民放」という区分を芸能プロダクションや広告代理店は超越している(これがグローバリズムと同形である点は強調するまでもないでしょう)わけで、要するに、NHKの番組でも矢張り、間接的にではあれ電通チェックが効いていると見た方がよい。裏返していうなら、増加の一途をたどるタレント起用はNHKのノンポリ化の重要な部分を成しているのである。
 もっとも、NHKが権力批判という点でまともなジャーナリズムを体現していたかといえば、むろんそんなことはない。彼らの高給は権力の狗だからこそのものであって、財務の「自立」にもかかわらず権力の代弁(批判しないという姿勢もまた代弁のひとつのあり方なのだから)に勤しんでいるという批判を躱すべく、タレントを表に立てているともいえるし、またそもそも、そうした財務の「自立」などないともいえるだろう。

      *

 渦中の人、舛添要一。自民党を離れて新党を創設したとき誰もついていかなかったことからして、この人は人望がまるでないんだなー、政治家に向いていないよなー、厚労大臣としても何もできなかったしなー等々とずっと考えてきましたが、案の定、醜聞に塗れてしまっている。都民のことを思うと酒が旨いわけだが、この人は結局学者だろうね。『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)という著書がありまして、憲法についての考えは立派というかまともなんですけどね。あるいはむしろ、他の自民党員がひどすぎるといった方が正確か(ウェブで読める同書関連記事http://gendai.ismedia.jp/articles/print/38416)。高市早苗や片山さつきや西田昌司のような糞野郎共は少なくとも改憲問題に関しては舛添(結局のところ同じような糞野郎だとしても)の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。いずれにしても、2005年発表の「改正憲法草案」に事務局次長としてかかわった経験を綴った同書に示されているのは、舛添の官僚的な意味における有能さであって、政治家のそれではない。今回の醜聞についての釈明会見でも官僚的な論理を弄んでいるよねえ(法律に則っているかぎり何をやってもよいというのは、天賦人権説や法の支配という思想とは相容れない唯の法治主義なのだから)。秘書官なんかが向いているんぢゃないかなと愚考する。
 今次の醜聞に(憲法改正問題で明らかに対立している)安倍晋三が一枚噛んでいるということはありえぬことではないでしょう。でも、たとえば橋下徹は税金を猫糞(ねこばば)したりしないわけでね。ああ、念の為にいい添えておけば、橋下も自民党の2012年改憲草案には反対の立場を明確にしています。

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2015年10月11日 (日)

アルゼンチン 対 ナミビア(C)

アルゼンチン 対 ナミビア 64-19(36-7) トライ数 9-3 公式統計

 久しぶりに見たホアン・マルティン・エルナンデス。二本目のFHみたいな扱いを受けているのはなぜだろう。しかもゴールキッカーではなくなっている(この試合では13番ゴンザレス・イグレシアスが務めた)。まあ怪我の絶えない人だし、彼の存在を前提としないチームづくりがなされてきたのだろう。実際、SHからのパスを、エルナンデスではなくCTB(特に12番のソシノ)が受ける場面も少なからず見られた。パスの受け手を複数置くというのはよいことである。また、これはそういう戦術なのだろうけど、例えばフィールド右寄りのスクラムからの展開であらかじめエルナンデスとソシノが位置を入れ替えていることもあった。スクラムサイドの防禦の観点から位置を入れ替えるというのは比較的よく採られる配置だが。

 とにかく、圧倒的な地力の差を背景に、プーマスがパスプレーを中心としつつ走り勝った試合。

 準々決勝の相手はアイルランド。対オールブラックス戦を見ないまま適当に放言してしまうと、ブレークダウンで勝つか少なくとも対等にならない限り、結構な差で負けそうな気がする。
 いい換えれば、準々決勝四試合のうち唯一、ヨーロッパのチームの優位が予想されるということである(大方はそういう見方に立っていることでしょう)。しかしわたくしは、アルゼンチンを旧来の「北対南」の構図には入らぬ新興国と考えるので――アイルランドの悲願に共感しないでもないけれど――やはりロス・プーマスに勝ち上がってほしいかな。

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2015年10月 4日 (日)

アルゼンチン 対 トンガ(C)

 

アルゼンチン 対 トンガ 45-16(20-13) トライ数 5-2 公式統計

 先月行なわれたニュージーランドとアルゼンチンの対戦(26-16)は見逃したのだが、この対トンガ戦前半を見ながら(そして後半を見ながら書いております)、このディフェンスでオールブラックスをよく20点台に抑えたものだと、不思議に思った。実際、ロス・プーマスもトンガもファースト・タックルが甘く、数え切れぬほどのラインブレークが見られたのだった。もちろんこの水準のチームでは二線防禦が相応に機能するため(この点ではアルゼンチンに一日の長があると感じられた)、トライ合戦という風には必ずしもならないけれども、ファースト・タックルの緩さゆゑという一面をとりあえず措いて、双方のライン攻略のさまを楽しむことができた。公式統計によると、ゲインライン突破回数は「アルゼンチン 45 - 62 トンガ」。参考までに他の取組では例えばこうなっている(左が多い方のチーム、下線は勝利した側)。

ニュージーランド 73- 45 アルゼンチン
トンガ 54 - 50 ニュージーランド
イングランド 51- 26 フィジー
オーストラリア 39 - 34 フィジー
ウェールズ 55 - 36 フィジー
南アフリカ 62 - 49 日本
日本 59 - 35 スコットランド
日本 68 - 48 サモア 

 観戦の印象としては第一に、両チームともボールの扱いが巧い。その上で、トンガのパス・プレーはループあり、リターン・パス(フワッと浮かせてラインブレーク)ありと、非常に魅せるものだった。試合開始直後こそ、首へのタックルなど規律の問題が見られもしたが、普通に好チームである。
 アルゼンチンについては、このチームはスクラムの強さを恃みにすることができず、またブレークダウンでの反則すれすれのプレーを平然と行なうようなタマもいないため、素早いボール・リサイクルと、小柄だが俊敏・俊足のバックスで勝負することになっているようだ。わたくしの愛した2007年のチームとはほとんど別物だが、エルナンデスが在籍するかぎりは――とはいえこの試合には登場しない!――、そしてまたトップ8の多様性(従来はスコットランド、アイルランド、ウェールズが犠牲となってきた)のために応援せざるをえない。
 他方でわたくしは太平洋の島々のチームにも肩入れしており、結果として、どちらが勝ってもよいというか、どちらも勝ってほしいという無理筋の祈りを捧げながらの観戦となった。そして結果的には攻防とも相対的にしつこい側、とりわけディフェンスの懐のより深いチームが勝利した。トンガの「懐の浅さ」というと語弊があるけれど、たぶん、次のフェーズをあまり考えずに瞬間瞬間で思い切り事に当たるという気質は、継続の観点からすると、また引いては勝敗の観点からしてやはり不利に働くのだろう。一発でトライまでもっていけなければターンオーバーされるということだから。そういうところを「改める」と結局どのチームも変わりがなくなってしまうわけで、難しい問題だー。
 両チームの対戦は初めてだそう。こうした取組も祭りとしてのワールドカップの長所ですよね。

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