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2006年4月

2006年4月 9日 (日)

ジャン・ユスターシュ『不快な話』

 冒険的結構をもつこの1977年の名高い作品をようやく見ることができた(Jean Eustache, Une sale histoire)。シネマテーク3-4月期の特集「ダンディズム」の枠組での上映。パリのとあるカフェ地下の女性トイレの扉に開いた覗き穴をめぐる「不快な話」を登場人物が友人たちに語って聞かせる、ほとんどただそれを撮影しただけなのだが、冒険的なというのは、この物語を作ったジャン=ノエル・ピックが実際に友人たちへ語って聞かせる第二部に先立つ第一部で、プロの俳優たちがほぼ同一の脚本で演じてみせるからである。聞き役のひとりとしてジャン・ドゥーシェが顔を出しているのも一興だが、何といっても素晴らしいのは語り手を務めるミカエル・ロンズダールである。「迫真」の演技とはまさにこうしたものをいうのだろう。映画における「真実」とは何かという問題が、作者本人の語りによる第二部が結果的・構造的に呈すこととなる「弛緩」ぶりから浮かび上がるという仕掛けになっている。
 その「不快な話」の方はどうかというと、これがまたかなり面白い。ただ、窃視癖の実際はどうということもない。問題の穴が垣間見せるのは sexe(フランス語で性器)にすぎず、家でさんざん妻のそれを目にしてきたのは確かだが、それはまた別なのだ、いってみれば「sexe... doméstique ?」だからというギャグが笑いを誘ってはいたけれども、全体的に特に人を昂奮させるものではないからだ。
 面白いのは、男が突き止めるオブセッションの原因というかメカニズムである。曰く、欲望装置としてのこのカフェの機能ぶりから推論されるのは、最初にカフェがあってその地下トイレのドアに穴が穿たれたのではなく、まず初めに穴があり、そこから扉、地階、地上階という具合に出来上がったのであって、ギャルソンが給仕のふりをしているのも、客がコーヒーを啜るそぶりを見せるのも「すべては穴のため(tout ne fonctionne que pour le trou)」なのだと。原因と結果(手段と目的)の取り違え。フェティシズムという倒錯の構造が鮮やかに示されるばかりか、一部と二部の逆転(演じられる順序、さらには価値の)もこの構造に由来することを知るときわれわれは、この「倒錯の解剖学」的作品が紛れもない小傑作だと感心するほかなくなる。
 男が窃視行為の強迫からいかに帰還しえたか、その詳細は語られないが、とにかく彼はいま友人たちに語って聞かせうるくらいにはオブセッションから自由となっているようだ。さて、問題はしかし、これほど明晰な解剖学が、作家自身を解放へと導きえたかという点である。ユスターシュが残念なことに選ばざるをえなかった自死とのみ結びつけることは控えたいと思うが、一般論としてこう問うことは可能だろう。明晰はつねに人を救うものなのかと。

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