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2007年6月

2007年6月26日 (火)

シルヴィ・カスパールに恋して ARTE 賛江

 フランスのテレビは日本のそれに比べると総じて退屈とされているようである。御当地の斯界で誰が人気者なのか知らなければ、見ていてつまらないということはあるかもしれない。テレビとは、一面において人気者、「旬」の人をいわば野次馬的に眺めるものだからだ。概していうと、ケーブルテレビ等は発達しているものの、フランスは日本ほどテレビというものに期待を寄せていないように見受けられる。ニュースや討論の番組をぼんやり眺めるともなく眺めるのが普通の接し方なのだ。
 そういえば『ル・モンド』でも取りあげられるなど最近話題となったジョーク・サイト「
公徳心と密告を司る省」で、密告さるべき「不審人物」の特徴として挙げられているなかに「TF1を見ない」という項目があった(TF1 は視聴率一位の民放局)。内容はすべて冗談だからニヤニヤしつつ読み飛ばすのが正しいと思うけれども、このサイトの存在自体は、権力というものの発現に対する一種の批評になっている。他人の噂話に詳しい者がある種の権力を掌握するのは多分、偶然ではないからだ。他の項目はこんな感じである。「左翼の遺伝子をもっている」「公共交通機関を利用する」「似つかわしくないほど美しい妻がいる」「バカンスにヨットを貸してくれる友人がいる」「ジョニー・アリデーを聴かない」(笑)「「変」である」「本を読む」(笑)「外国人の友(黒人を含む)がいる」「ジャンマリ・ビガールのギャグで笑わない」「年中日焼けしている」「自分よりいい暮らしをしている」……。
 閑話休題。わたくしの場合、ふだん見るものはだいたい決まっていて、臨時で特殊な番組を除くと、ラグビーなどスポーツ観戦とニュースのザッピング以外では、ほとんどARTE(アルテ:Association Relative à la Télévision Européenne)を見ている。
 アルテは素晴らしい。法律的にいうと、公営企業体アルテ・フランスおよびアルテ・ドイッチュラントTV を構成要素とする、法人格を有した「ヨーロッパ企業連合体」(Groupement européen d'intérêt économiqueの試訳)のひとつであり、1992 年から公共放送として(CM はたまに入る)、一定の水準を保った文化的番組をフランスならびにドイツ(とその周辺地域)に提供してきた放送局、ということになる。仏独二ヶ国語放送を基本としているものの、視聴率はフランス側での 4% 前後に対し、ドイツ側では 1% を切るという不均衡状態が続いている。それでも、1990 年のドイツ統一を見据えつつ、(フランス側では以前の「ラ・セット」を)仏独共同放送局へと発展的に解消した点、フランス側政権が左派から右派に変わっても存続した点はやはり評価さるべきである。日本が韓国や中国、台湾などとこうした放送を運営してゆくことができるようになればどんなによいだろう! ともあれアルテには質を落とすことなく放送を続けてもらいたいと思う(しかし歴史家ジョルジュ・デュビーに続くフランス側の二代目監修責任者が BHL だったとは……)。
 ところで、わたくしがアルテをついつい視聴してしまうのには、プログラムの内容自体もさることながら、実は各番組の合間に入るプログラム紹介を「朗読」する声に魅惑されているからでもある。原稿を「読む女」の名は Sylvie Caspar(シルヴィ・カスパール、実際の発音では「キャスパー」に近い)。前身のラ・セット時代に見出されたというから、彼女のキャリアはそのままアルテの歴史でもあり、実際インターネット・ラジオ「アルテ・ラジオ」で聴くことのできる彼女へのインタヴューは「シルヴィ、アルテの声」と題されている(8 分 37 秒、この下に Shockwave flash プレーヤーがあります、表示されない場合はこちら。また同サイト内検索にて "voix d'arte" を入力するとキャスパーによる朗読作品が見つかります。また "Fictions-Lectures"タブからは例えばヘルダーリン詩篇の独仏バージョンを聴くこともできます )。

 聴けば分かるが、どことなく舌足らずというかたどたどしい響きから、最初「この人は外国人(アルテだからドイツ人)ではないか」という印象を抱いた。しかし抑揚は紛れもなくネイティブ・スピーカーのそれである。シルヴィ・カスパールの声の魅力のひとつはおそらく、彼女が非常にゆっくりと喋るところから来ている。一般のフランス人は全く意識していないのだが、フランス語は基本的に「早口」で話される言語であって、事実、ふつうのネイティブ・スピーカーに「ゆっくり喋ってくれ」といってみても、彼らは「ゆっくり」喋ることができないし(政治家やお年寄りはゆったり喋るがそれはまた別の話だ)、「ゆっくり」喋るということがどういうことなのかそもそもわかっていないのである。試みに別のチャンネル、例えばフランス 3 の同様の番宣を聴いてみればよい。そちらの方はこれでもかといわんばかりに「早く」喋っていて、思わず笑ってしまうほどだが、実際にはそれこそが(ふつうの)フランス語なのである。ちなみにそのフランス 3 の声には非常にエロティックな響きがあって、声自体になまめかしさが含まれているという以上に、その艶が息を継ぐ一瞬に顔を覗かせるように思われる。これも実はシルヴィ・カスパールの声なのではないかと疑っている(恋は「聾者」とはよくいったものである)のだが、それはどちらの場合も、話す、というよりただ声を発することの純粋な喜びが聞き取れるからである――と、脱線はこれくらいにして、ともかく、原稿ををゆったりと朗読することによって、いわばフランス語の襞が開かれ、ふだんは抑圧されている別の肌理がそこに呈されるといえばよいだろうか。そうした「発見」にまずわたくしは惹き付けられた。
 声質自体の魅力はいうまでもない。aérien(空気のように軽やか)でありながら同時に官能的でもある。「ゆっくり(話す)」を parler doucement すなわち「甘美な仕方で、快く(話す)」というけれども
、そのこととも関係づけられるかもしれない。声だけの存在、たぶん彼女は表へは出ないことに決めているのだが、そうした une voix off としての官能性はどこから来るのだろうか。フランスの大多数の女性テレビ人が腹に力を込めて声を出すのとは違って、ささやくように声を出す点がまず大きい。だがそれは甘えているのでも媚びているのでもない。彼女はいわば誘惑しているのである。インタビューを聴けばそれが自覚的であることがわかるが、「シレーヌといわれればそうかもしれない」と慎重に言葉を選びつつカスパールは、自分の声としてのあり方を「古代の〔仮面〕劇」になぞらえている(この辺りはふつうに教養人である)。
『読む女』、すなわちラ・レクトリスという小説がある。ミウミウ主演でかつて映画化されもした『読書する女』(レイモン・ジャン著)である。物語行為が孕みうるエロスを改めて喚起した点では一定の評価を与えらるべき作品ではあるが、主人公の女性が肉体をあっさりと与えすぎるせいで、結局のところ声自体は主人公になり損なっている点が惜しまれる。声の――したがってテクストの――フェティッシュ化を回避するために、女の「生身の肉体」を現前させるやり方がいかにもフランス的というか西欧近代的であるが、実のところ声にも肉体はある。古代仮面劇的マスクもまたそうだ(近代の仮面舞踏会的マスクはそうではない)。そしてマスクの向こう側に何もないのと同様、シルヴィ・カスパールの声の向こう側には何もない。重要なのはその点であり、そのことは彼女自身によって自覚されている。つまり声の存在に自らを限定して聴く者の想像力を強く刺戟しつつ、フェティッシュとなることは巧みに避けているわけだ。インタビュアーが「少し ironique」といったのに対し本人は「確かに ironique なところはあるかも」と答えているが、そうしたところにも彼女の十分に知的な選択が見て取れるのではないだろうか。この場合、ironique は「皮肉を利かせた」というよりむしろ「ユーモアを湛えた」あるいは「いたずら好きな」と翻訳されなくてはならない。
 実際、ただ内容の伝達のみに奉仕するのではないカスパールの声は、必然的にテクストとの間にいくらか距離をとることになる。それが「いたずら好き」ということだ。わたくしは見聞していないが、後期フランス革命を「恐怖政治」によって主導したジャコバン派ロベスピエールの手になるテクスト「フランスに与えらるべき憲法について」を、彼女のそうした声に朗読させるという面白そうな試みがあった。
オリヴィエ・バルダンの 2004 年の展覧会である(Olivier Bardin, Sur la Constitution à donner à la France,  galerie cent 8, Paris)。問題のテクストは、実施されぬままに終ったものの最初の民主的な憲法として知られている1793年のいわゆるジャコバン憲法の精神を、その採択に先立つ国民公会で説いたものだが、こうした危なっかしい代物を扱うのに彼女の声は、その知性、その距離の感覚においてうってつけであるように思われる。こうした文脈においても「アルテの声」が 100%(ミーハー的に)肯定さるべきか迷うところだが、政治と現前のプロブレマティックに関わるものであるとはいえるだろう(この展覧会は雑誌 Art Press, no 303, juillet-aôut 04 でも紹介されている)。

(とはいえ、一度耳にすれば忘れられない声ゆえ賛否両論があることは記しておかねばなるまい。例えばあるブログでは、カスパールの声を絶賛した男性(?)が数名の男女からかなり激烈に批判されており、中には「この声のせいでアルテを見なくなった、放送局はつまるところ視聴者の半数が女性であることを考慮していないのだ」とまでいっている女性(?)もいる。他には嫌悪感もあらわに「アルテの番組宣伝がこんなに官能的でいいのか」と、「階級闘争」(!)といったものまでもち出しながら執拗にいい募る男性もいる。こうした反対意見が「ヤラセ」でないとすれば、わたくしも他人のことをとやかく言えた義理ではないけれども、ただ能天気に賛美していただけのブログの主はさぞ驚いたことだろうと気の毒になる。「階級闘争」うんぬんというなら、しかしマルクスはちゃんとフェティッシュの危険性を認識していたのだが。)

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