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2007年9月28日 (金)

ミア・ハンセン=ラヴ監督『すべては赦される』

 どういう筋か、監督はどのような人かといった予備知識なしに漫然と見進めてゆくと、これはカップルの破局の物語であったかと一瞬とまどうかもしれない。一人娘に対しては良き父親として振る舞いながらも、精神に一種の失調をきたしつつある夫は、仕事を放棄し、ドラッグに溺れた果てに恋人をオーバードーズで死なせる事件を起こしてしまい、ついに妻から離別を宣告される。

 -- Est-ce que tu peux pardonner ? 〔赦してくれるかい?〕
 -- Je crois pas... je veux plus jamais te voir... 〔赦すなんてできないと思う、もう二度と顔を合わせたくない……〕

上映時間 1 時間 45 分のうちかなりの部分を割いて的確にまた効果的に語られてきた事の顛末を知るわれわれは、妻の「赦すなんてできないと思う」をもっともな言葉と思う。しかしこの映画のタイトルは「すべては赦される」(Tout est pardonné)である。だからここで終わるわけではない。
 続く後半で映画は 11 年後の娘を中心に展開する。17 歳の彼女はある日、自分たちを捨てて何処かへ消えたと思っていた父が同じパリに住んでいることを知らされる。「捨てた」のが自分たち母娘の方であることも。勇気を奮い(だが友人に連れ添ってもらって)会いに来た娘を、父は近くの植物園に連れて行く。人工的に造られた高台に潅木の間を縫って登る三人。その姿を後ろから、その上方の空まで含めて捉える仰角のショットが素晴らしい。上昇の運動によって「赦し」――ただし誰が誰を赦すのかは問題ではない――がなされていることを瞬間的に言い切る技倆は見事だと思う。また、このシーンによって、再会のぎこちなさにもかかわらず、二人が同じ空間を共有していることが強調されることにもなる。
 そして次に今度は二人きりで父に会った娘は、自身の記憶がかなり曖昧であること、だが父と過ごした日々の記憶がとりわけアパルトマンの部屋の様子と結びついていることを父と共に確認することになる。初の長篇作品とはいえ、監督ミア・ハンセン=ラヴの確かな技術をわれわれは知らされる。瞳が落ち着きなく左右に揺れ動く娘コンスタンス・ルソーを襲うほとんど実存的な動揺を目撃しながらわれわれは、彼ら親子が過ごしたウィーンやパリの部屋の様子をきわめて鮮明に思い出すことができるからだ。

 急逝した父の葬儀を済ませ、祖父や母とバカンスを再開する最後のシーン、娘は庭先のテーブルでの茶を途中で辞して独り散歩に出かける。なだらかな斜面を下ってゆくコンスタンス・ルソー。部屋にこもって嘆き悲しむというやり方がさりげなく退けられている点に注意しなくてはならない。そして同時に、もうひとつ、決定的な選択がなされている点にも。そう、ここでは斜面を登ってゆくというやり方も可能であったろう。パリの植物園で演じられた「赦し」のドラマの反復として。
 ここでの選択は決定的である。同じ行為を繰り返しても、その高みにもはや父はおらず、したがって、斜面を登ってゆくという上昇の運動によって映画は悲劇として昇華するほかなくなる。それはいわば「赦し」が完結するということである。しかし娘は父の不在をすでに 11 年生きてきたのだから、「すべてが赦される」としても、それで彼女の生が大きく変わってしまうことなどありえない。実際、父と会い、手紙を交換することによって失われていた記憶を補綴する作業は、それ自体として大切なものではあれ、彼女の生のほんの一部を占めるにすぎないことが簡潔なやり方で示されている。「すべてが赦される」とは、過ぎ去った 11 年が取り戻され、無に帰されるということではなく、つまり生を悲劇として完成に導くことではなく、時間のなかで「赦し」を生きてゆくことにほかならない。だから彼女は斜面を下ってゆく。草叢の間をどこまでも。〔Mia Hansen-Løve, Tout est pardonné, 2007〕

〔付記 本作は『すべてが許される』として公開されるようです。〕

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