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2007年10月

2007年10月30日 (火)

(No) Getting away from 10!――フレデリック・ミシャラクのこと

 スタンドオフにばかり注目するのはいかにも「にわか」丸出しだが(三田誠広のあの小説がそれなりに読ませるものとなりえたのはセンターの二人を中心に据えたものだったからだろうか)、それでもやはり要のポジションには違いない。フランス語では le demi d'ouverture や l'ouvreur などという。英語風に言い換えると「オープン・ハーフ」あるいは「オープナー」、つまりは「開く人」だ。わざわざフランス語で考えるのは、何も気取りたいからではなく、フランスの「開く人」が、ワールドカップでは実のところほとんどプレーやスペースを開くことができなかったからである。

 17 日付の『リュグビーラマ』の記事(N. Augot による)だから、準決勝でイングランドに敗れ、三位決定戦に備えている段階のことだが、フレデリック・ミシャラクの談話が紹介されている。準々決勝でのランやアイルランド戦でのキックは確かに素晴らしかったけれども、それ以外の場面でミシャラクの芳しい働きはあまり見られなかった。浅いアタックラインと相手ディフェンスの早い上がりのために「開く人」へのプレッシャーは相当なものだったろうが、イングランド戦、そしてその翌週のアルゼンチン戦では、SH から供給されるボールを、前に出ることなくただセンターにパスして預けるだけだったからである。ボールが横に動きはすれど前には進めないという、この四年間われわれが何度となく目にしてきたプレー、というかプレーの失敗が大事なところで繰り返されてしまったわけで、それは要するに「開く人」が「開く」仕事をしなかったからに他ならない。
「われわれのラグビーはとてもみすぼらしいものだった〔…〕このチームのプレーヤーはどんなスタイルのゲームだってこなせるというのに」という言い方でミシューは四年間を振り返っている。

2003 年から 2007 年のあいだ、フランスは停滞しっ放しだった。われわれのゲームはいつも同じやり方で、進歩するということがなかったんだ。あまりに型にはまり(stéréotypé)すぎているので、われわれがどういうプレーをするか誰もが予測できてしまう。だからアルゼンチンもわれわれに勝つことができた。ラックから早い球出しが出来なければフランスは上手くプレーを組み立てられないと対戦相手は皆わかっている。プレーヤー同士で何度も話し合いはした。でも四年間取り組んで身に付いたことをゼロに戻すのは難しかったんだ。

 そこまでわかっていながらなぜ誰も解決しようとしなかったのかという問いかけに対しては「もっと突き詰めて話し合わなかったことは後悔している。でも翌週末〔次の試合〕に誰が出場するのかわからないような状況でそこまでするのは難しい」と、ジョジオンでさえ欠場していた点(この欠場はやむをえない理由もあったのだが)を喚起しつつ答えている。

 ミシャラクは自身のまさにホームチームであるスタッド・トゥールーザンを離れ、南アフリカのシャークスとの契約を交わした。スーパー 14 での彼のプレーぶりは見てみたいが、とりあえず次のシックスネーションズに参加しないことはほぼ確実である。新しいヘッドコーチのマルク・リエーヴルモン(U-21 の世界選手権優勝チームを率いた)は「すべてをそなえた」ゲームを好むといっているけれども、また U-21 代表やダックス・クラブで成功を収めてきた「見て面白い(spectaculaire)と同時に勝てるラグビー」に対する確信が、今回のワールドカップを見て揺らいだと告白してもいる(24 日付『レキップ』 P. Galy によるインタビュー)。フォワード戦で結局イングランドやアルゼンチンに負けたという点ばかりでなく、フォワード戦で勝てなければ何もできないし、また劣勢を打開することもできないというブルーの戦いぶりは、1999 年のメンバーだった彼にかなりのショックを与えたことだろう。あのエリッサルドが日本人に欠けているとした「アダプタビリテ」(梅本洋一「適応することから創造することへ」、日本ラグビー狂会編・著『PLAY ON! 日本ラグビーのゆくえ』双葉社、2005 年など)が本家本元でも発揮されずに終わってしまったのだから。
 
ジャパンにも通ずる教訓としては、「フレア」を発揮するにもそれなりの準備が要るというか、「フレア」を矯めてその発現を抑え込んでしまうようなコーチングの仕方もあるといったことだろうか。リエーヴルモンは「スペクタキュレール」なラグビーと「現実主義(pragmatisme)」的ラグビーとの二元論――後者の筆頭はもちろんスプリングボクスである――を踏まえつつも、ニュージーランド的ラグビーによる勝利を目指したいと(今のところは)考えているようだ。ブラックスをコピーするのではなく、インスピレーション源にしつつフランス風のスタイルをつくりたいと。

 三位決定戦でロス・プーマスのディフェンスがどんどん上がってくるようになると、ミシャラクは「開く」ことができなくなり、代って「開く人」を実質的に務めたのは 12 番のジョジオンだった。だがそうであれば 10 番など不要だろう。理想をいえばジョジオンはペネトレーターのはずであり、少なくとも「オフロード」のつなぎで 13 番の突破を助けることは大いに期待されていたと思うが、ボールと一緒にディフェンスのプレッシャーまですべて預けられてはジョジオンだって大変である。もう少し責任あるプレーが 10 番には求められると思う(「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……」)。新 HC がどんな人を選ぶことになるのやら、とにかく期待するほかない。

〔追記 よくよく考えてみると三位決定戦にジョジオンは出ておらず、「12 番」というか第一センターはスクレラだった。〕

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2007年10月23日 (火)

Getting away from 10 ――ジョニー・ウィルキンソンのこと

『プラネット・ラグビー』サイトで大会ベスト XV が発表されている(21 日付)。順位づけや採点というのはあまり真剣に受け取りすぎてはいけないものだが、ワラビーズ(つまりベスト 8 止まりのチーム)からただ一人モートロックが選ばれているとか、フランスから三人も選出されているとか(右 WTB クレール、オープンサイド FL デュソトワール、タイトヘッド PR ド・ヴィリエ)、興味深いところも少なからずある。そして 10 番にはジョニー・ウィルキンソン。決勝戦でのパフォーマンスは今ひとつだったと思うが、準決勝 2 試合および準々決勝 4 試合それぞれのベスト XV にも選ばれており、大会を通じての活躍に対する評価ということだろう。

 ところで、同サイトに興味深い記事が二本ほぼ同時にアップされていた。いずれもウィルキンソンに関係するものである。ひとつは HC アシュトンの「功績」に対するイングランド XV からの評価(ただし匿名)を紹介するもの、もうひとつは決勝でのウィルコのパフォーマンス、より具体的にはそのプレー選択に疑問を呈する署名記事だ。
 後者の疑問、というより批判の要諦は次の通り。ウィルキンソンは、展開プレーの形が出来ているところで、あるいはトライを獲りに行かなくてはならない場面で、なぜドロップ・ゴールを狙ったのか。
 一つ目の DG は前半、イングランドがラインアウトをクリーンキャッチし、FW の突進でゲインしてから右にライン攻撃を展開しようとしていた場面でのもの。記者マーカス・リーチは「なぜウィルキンソンは、まだ 15 分が経過したにすぎず、点数的にも 6-3 という僅差の場面で、完璧に整った攻撃陣形(a perfect attacking platform)を犠牲にしてまでドロップゴールを選択したのか」と、「問題」の所在をはっきりさせている。他に選択肢がないなら別だが、ここはそういう場面ではなかったろうというわけだ。DG 自体が仮に成功していたとしても、である。
 二つ目の DG は後半、遠い距離を無理に狙って届かなかった場面だが、リーチ氏は「〔絶望の果ての〕やけっぱち」の試みと断じている。最終的に勝利を手にすることは適わなかったとしても、やはりトライで逆転を目指すべきではなかったかと。

これまでウィルキンソンのドロップゴールはイングランドにとって値段をつけられぬほど価値のあるものだった。だが土曜のゲームでは、ドロップゴールに対する彼の強迫観念がイングランドには〔逆の意味で〕高くつくこととなった。ボールをワイドに回して攻撃をしかけるプレーの機会は、この晩のパリ〔スタッド・ド・フランス〕でもそうだったように、決勝戦ともなればプレミアがつくほど稀少なものなのであり、早い時間帯でそうした輝かしいチャンスを潰えさせてしまった彼の責任は重大である。

「プレー選択の誤り」自体がそもそもウィルコらしくなかったとリーチ氏は付け加えている。ワイドな展開プレーがほとんどなかったという結果を踏まえての、そういう意味での結果論ではあるけれど、言いたいことはよくわかるし、「フィールドの幅を一杯に使う攻撃的ラグビー(attacking rugby on the front foot)」のチャンスが潰えたことをわたくしも氏と同様に惜しむ。

 ただ、その責任をスタンドオフ一人に帰してよいかどうかは難しいところで、というのは、もう一方の記事で、一人のプレーヤーがこう証言しているからである。

コーチング・スタッフはウィルコにあまりに多くのことを押し付けてきた。〔…〕彼はゲームをコントロールするよう言われて〔…〕自分が最高の状態にあったときに、死ぬほど自己分析した。その結果、自分の得意とする部分を錆びつかせてしまったんだ〔…〕トンガ戦では、本能のおもむくままボールを手でパスしてしかるべき場面も何回かあったんだが、そうする代わりに彼はあの馬鹿みたいなアップアンドアンダーを選択した。ゲーム・コントロールが信条になってしまっているからだ。

「本能的に」と直訳すれば響きが強くなりすぎるけれども、要するに、難しいこと――例えば(これはもちろん皮肉だが)「タテタテヨコ」とか――を考えるまでもなく、プレーには自然な方向というものがある。ラグビーは横の動き(ボール)と縦の動き(プレーヤー)が、時には逆転しながら、また斜めの動きも交えつつ途切れなく絡み合い、組み合わされることで固有の運動をつくり出すスポーツであるとして、その運動に沿う形で当然ボールを手でパスしてよかった場面があったと、このプレーヤーがいっているのはそういうことだ(むろん時にはそうした当然の流れに逆らうことも必要となろう)。そしてウィルキンソンがナチュラルボーン・ラガーマンであることはおそらく誰もが認めざるを得ない事実である。
 こうした証言を信じるかぎり、イングランドのプレーヤー自身(誰だろう? やはりバックスか)が「馬鹿みたいなアップアンドアンダー」と思っていることがわかるし、またキッキング・ゲームがウィルキンソンの本領では必ずしもなかったと考えざるをえなくなる。同じ匿名証言者はさらにこう言い添える。「ジョニーが得意なのは、10 番の定位置からずれてゆくことなんだ。彼にもう少しスペースを与えてもっとワイドにやらせてみればいい。喜んでプレーするから」。Getting away from 10! 素晴らしい。それこそラグビーというべきではないか。

 ウィルキンソンが代表に定着したのは 1999 年、ワールドカップでもそうだったように、13 番(+キッカー)としてだった。10 番にキャットあるいは P・グレイソン、そして 12 番にはガスコットのいた時代である。もちろん彼はすぐに 10 番に固定されるわけだが、すでに触れたとおり、実は 2003 年も今大会も 12 番に入ったキャットにゲームメークの点ではサポートを仰いでいる。今回の決勝戦でバックスリーのカウンターアタック時にキャットが後方に下がって相手のキックに対応するなどしたのは、ウィルキンソンの体調が万全ではなかったからだと思うが、とにかく、キッキング・ゲームが彼にかなりの無理を強いる戦術だったとは少なくともいえるのではないか。そして、実際、イングランドの今大会での戦いぶりを虚心に見れば、彼らにとってもウィルコ個人にとっても展開プレーがいかに重要だったか容易に理解されるだろう。わたくしが準々決勝のワラビーズ戦で図らずも感動を覚えてしまったのは、こうしたことと大いに関係がある(FW 陣のがんばりはいうまでもない)。
 パスプレーにおいてウィルコが例えばラーカムやカーターに匹敵しうるかどうかはまた別の話だ。大切なのはゲームを通じて彼の、そして結局はイングランド XV の抑圧がいくらかでも解かれようとしたこと、そしてその解放がしかし決勝戦ではどういうわけか十全に行われなかったということである。何故かと、赤の他人の心理を忖度してみても仕方ないけれど、「オブセッション」となるまでに思い込むのはどうだろうか。抑圧ほどスポーツにふさわしくないものはない。怪我を治して、もっと伸びやかにプレーしてほしい。そのためにはまず――そうだな、プレースキックのあの抑圧的で屈辱的なポーズをやめてしまえ! 元に戻してキッカー職を解かれたとしても、それは抑圧からの解放と肯定的にとらえるべきだし、ぜひとも 10 番の脱領域化(getting away from 10)を志向すべきだ。たとえだめでもセンターとして十分やっていけるだろう。エディ・ジョーンズ氏の考えではテイトは FB で使うのがよいそうだから、そうすると(アシュトンがその助言に従うかどうか知らないが)ちょうどポストが空くし。

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2007年10月21日 (日)

決勝 南アフリカ 対 イングランド

南アフリカ 対 イングランド 15-6(9-3) トライ数 0-0

 ディフェンスの堅いチーム同士の決勝戦だからこうしたゲームになることは予想されたけれども、それでも互いにひとつずつくらいはトライを取るだろうと思っていた。スプリングボクスの潜在的な決定力はいうまでもないが、イングランドの方もトライの意義を十分に、少なくともチームに勢いをつけるという意味での価値は完全に理解していたはずだからである。ハーフバックスに大きなプレッシャーがかけられ、ウィルキンソンの DG もそう多くは望めないことが予測できたし、足の速さや突破力にすぐれる「切り札」マシュー・テイトを(ルーシーの抜けた)ウィングではなく引き続きセンターで起用したのも、なるべく多くプレーに参加させるための策だったはずだ(ただし両チームのウィングはディフェンスでよく働いた)。そしてテイトは一度素晴らしい突破を見せ、トライ目前まで――ゴールライン寸前で止めた殊勲はマットフィールド――行ったのだから、また FW のサイド攻撃以外での仕掛けも(ある程度の)ワイドな展開も南アフリカよりは多く見られたわけだから、イングランド側としてはだいたい想定通りにゲームを運ぶことができたのだと思う。
 だが、ボクスはほぼすべての局面でイングランドを上回り、勝負をものにした。点差以上の力量差をあらゆる人が感じたに違いない。前半、CTB ステインの突破からワイドに展開した攻撃も見応えがあったけれど、とりわけ FW のブレークダウンやタックルの力強さやスピード、ミスしないという意味での正確さ、またラインアウトの制圧はただ感嘆するほかない。後半は両チーム FW のラッシュを主体とした連続攻撃も見られたが、特にボクスの攻撃は「怒涛」というにふさわしい圧倒的なものだった。圧力に耐え切れずイングランド FW の犯した反則を確実に得点に換えた冷静さと、最後まで衰えなかった力強く、そして相手 SH にしつこく絡まなくても守り切れるだけのディフェンス力は素晴らしかった。

 そういうわけでイングランドは、ロビンソンが途中退場してしまったり、三列の控えがいなくなったりという不測の事態が仮になくとも勝つのは難しかったかもしれない。テイトの突破をトライに結び付けられず PG で済ませたのが惜しまれる。点数の問題ではなく、勢いに弾みをつけるという意味であの場面はトライを狙うべきだった。後半早々のことだから無理もないとはいえ、ボクスが終始余裕をもってプレーしたのと対照的にイングランドはギリギリのところでやっていたのだから、四年前のように 3 点の積み重ねを計算することは不可能だったはずである。実際、ボクスの堅固なディフェンスのために PG の機会は二回のみに抑えられ、さらにハーフへのプレッシャーによってウィルキンソンは DG を余裕のないところで試みざるをえなかった(二回試み二度とも失敗)
 つまりイングランドは、望んでのことではないにせよ、トライを狙わないと勝てないような状況にあったということだ。おそらく準々決勝の対ワラビーズ戦からすでにそうだったのかもしれない。わたくしは何故かあの試合に心を動かされてしまい、マッチ直後の覚書では少々ほめすぎてしまったけれども、ローゼズはそもそもモートロックのキックの調子がよければ負けていたのだった。個人的にイングランドに注目したのは、(ウィルコの不調といった)消極的理由によるとしても、とにかくボールを果敢に回してトライを獲りに行かなければ勝つことができないチームとなっていたからである。逆にいうと、南アフリカの勝利を素直に喜べないとすればそれは、ボクスがトライをわざわざ狙わなくても勝ててしまうからだ。
 
前回大会におけるイングランドの強さ、トライを狙わなくても勝てるチーム作りや戦略に対抗すべく各チームはそれぞれにアンチテーゼ(例えばオールブラックスやウェールズ)を突きつけようとしてきたわけだが――フランスはチーム作りに失敗し迷走を重ねたけれども、前回準決勝での敗北がその要因だったという意味でやはり大きな影響を受けた――、今大会を最終的に制したのはまさしくそのトライを狙わなくても勝てるチームだったということになる。DG なしでも勝てるばかりか、余力を残しているようにさえ見えるという意味では 2003 年のイングランド以上の完成形といえるかもしれない。今年のイングランドは、いうなれば四年前の自分に対しアンチテーゼを突きつけることで何とか勝ち続けることができたチームなのであり、そのアンチテーゼが最後の最後で、しかもゲームの最中に放棄された(と思われる)のが個人的には残念だった。

 ただし、このスタイルがラグビー界の主流になるという危惧は共有できない。あらゆるチームがスプリングボクスのように戦えるわけではないし戦いたいと思わないという、当たり前の事情がやはりあるからだ。二大会続けて同じようなチームが勝ってしまったのでは確かに面白くない。しかし、プロ化・大型化の趨勢を踏まえるならば、こうしたスタイルが採用され、威力を発揮するのは不可避なのであって――だから、これは多様なスタイルのうちの単なるひとつなのではなく、ラグビーの本質とかかわるかもしれない一種の特権性をもつスタイルである――、少なくともしばらくの間は、2003 年イングランド=2007 年スプリングボクス型というテーゼに対するアンチテーゼの提起が、各チームの目標となるのではないだろうか。そうした試みが最終的にスタイルの二極化に収斂してしまうとすれば強く異を唱えたいと思う。それはスタイルの多様性とは別のものだからである。しかし、さしあたってラグビーが過渡期にあると理解しておくことは可能だろう。いずれにせよその「各チーム」の中には、体格的に対極に位置するだろうジャパンはもちろんのこと、今大会のイングランドがそうであったように、南アフリカ自身が含まれてもよい、というかそうなることを期待する。

 もっと矮小な次元でいうと、ワールドカップ優勝の価値を一定程度に抑える方策を考えないと、その準備のためにテストマッチが軽視されることになるし(フランス、南アフリカ)、決勝がいつも禁欲的なゲームになってしまってつまらない。四年に一度のお祭りなのだから、フィナーレにあたる決勝戦こそが最高の祝祭になって欲しいと思う。

〔付記 スペクタクルを一度見ただけでどれくらいのことが書けるか、あるいはそもそもどれくらいのことを記憶できるかを見極める実験として、この覚書はよい機会となった。そういった意味での練習、そして個人的な慰み以上の価値はなく、客観的にいっても噴飯物の夢想が入り混じったただのメモでしかないはずだが、お付き合い下さった方がいらっしゃったなら、篤く感謝申し上げる。〕

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2007年10月20日 (土)

三位決定戦 アルゼンチン 対 フランス

アルゼンチン 対 フランス 34-10(17-3) トライ数 5-1

 ラ・プチット・フィナル、「価値の低い方のファイナル」と、フランス人が言えば自虐の意味合いを帯びてしまうが、そこに価値を見出せなかったフランスと、高低ではなく、三位という価値を見出したアルゼンチンとのモチベーションの差が出てしまった。わたくしはアルゼンチンのプレー、つまりボールを動かすという意味でのプレーを期待していたので十分楽しめたけれども、レ・ブルーにとっては残酷な結果となった。

 マッチに先立つ舌戦――「まだリュグビー・シャンパーニュとやらにお目にかかってない」「アルゼンチンはモールとラックだけ」――、あるいはフランスの何人かのプレーヤーによる自チーム戦術の批判(とりわけミシャラクによるもの)からして、熱く、そしてボールの動くゲームが予想された。フランスはタッチ・キックをほとんど蹴らずにエルナンデスに蹴らせてからカウンターを仕掛けることに決めていたのだろう、前半から果敢に攻めた。カウンターはすべて成功したわけではないけれども、舌戦の一方の主役である FB ポワトルノーによるものなど、いくつかよい突破があり、その後の展開が期待された。
 しかし、今日もプーマスのディフェンスは堅かった。ラインの上がりが非常に早く効果的だったし、ブレークダウンの攻防でも開幕戦同様に勝つ。反則すれすれの絡みも少なくなかったが、フランスの最大の敗因はサポートの遅さである。それはモール(ブルーが唯一勝てた部分)以外のほぼすべての局面にもいえることで、個人が突破して後が続かないというのでは、ロビンソン頼みの――と人はいう――イングランドのことをあれこれ言うことなどできまい。実際、感嘆するようなつなぎを見せたのはアルゼンチンの方だった。つまり、フランスがやりたかったであろうワイドな攻撃もパスによる連続攻撃も、アルゼンチンにやられてしまったわけである。エルナンデスも DG を一本(?)しか狙わなかった。DG を狙う必要もなかったし、FW でごり押しする必要もなかったということだ。
 後半のなかば、アルゼンチンが三本目のトライを奪って 24 点差(27-3)をつけたところでゲームとしては終わってしまった。戦法がある程度読めるオールブラックスは 20 点に抑えることができたが、何をやってくるかわからない今日のプーマス相手には、気持が切れてしまったこともあり、ディフェンスが追いつかなくなってしまった。攻撃面では、展開プレーが持ち味なのだとしても、ブルーの基盤はずっと FW にあったはずであり、そこで完敗してしまった以上この結果は仕方ない。

 アルゼンチンには今日のようなゲームを南アフリカ相手にやって欲しかったと思う。今から一年近く前、2006 年の 11 月にアルゼンチンとフランスはテストマッチを行なっている(スタッド・ド・フランス)。大雑把にいうと、フランスが再三の突破を見せてトライを気持ちよく奪ったのに対し、アルゼンチンの方はパスを積極的に回したもののハンドリング・エラーが多発したというような試合である。後半の後半にプーマスの追い上げがあり、最終スコアは 26-27 という接戦になったわけだが、負けは負けである。この敗戦を教訓とした戦略がすなわち、ディフェンスを整備し、ミスを最小限に抑えるべくパスを極力減らすという今大会の戦い方だったのだと思う。ディフェンスに関して象徴的な場面をひとつだけ挙げれば、後半 FB に回ったエルナンデスの自陣からのボックス・キックにポワトルノーがタッチ寸前で追いつく。ブルーの FB はバウンドを慎重に見極めるためもあったろうが、プーマスの FB が目前に迫っているのに緩慢にキャッチし、ステップでかわそうとする。逆を突かれ一度は振り切られたかに見えたエルナンデスはしかし、巧みに――というか、この身のこなしは天才的だ――反転し、辛うじてジャージに手をかける。最後まで諦めぬディフェンスの大切さが身に染みていることの現われだろう。
 三位表彰式でアルゼンチン側は歓喜を爆発させた(エルナンデスさえ喜びを隠さなかった)とはいえ、この試合は結局のところ負けてもよい試合だった。だからこそ積極的な展開プレーが可能となったといえぬこともない。それに、フランスのディフェンスがさほど厳しくなかった点を忘れてはならないだろうけれども、とにかくそうしたゲームもやろうと思えばやれることはわかった。今後の戦い方が実に興味深い。

 波乱に満ちていると言われた今大会のその波乱の主が実は他ならぬフランスであるということがよくわかるマッチだった。が、ともかくスペクタキュレールなゲームで、それなりに楽しめた。明日のイングランドもがんばってスプリングボクスに反撃して欲しいものだ。

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2007年10月19日 (金)

イーストウッド、1995 年のスプリングボクスを映画に?

 オーストラリア『デイリー・テレグラフ』紙サイトの「ラグビー・ユニオン」コーナーのウリのひとつはデイヴィッド・キャンピージーのコラムである――というよりむしろ、そのコラムに対する読者コメントを彩る罵倒の数々が面白い。ああ、キャンポはやっぱり愛されているんだなと得心させられることも度々だが、18 日のコラムでは「イングランド・スタイルは退屈きわまりないがプレーヤーたちのガッツは見事だ」という趣旨の投稿が読者の賛同を勝ち得ていた。個人的には 2003 年ほどに退屈を感じないのだが――つまり四年前とは似ているが違うのだとわたくしは考えているのだが――それはいい。「ギタウを SH に!」などと主張して容赦ない痛罵にさらされるラグビー・レジェンドを見るのはつらいことだから、たまには暖かく迎えられればよいと思う。

 ついでにいうと、同じ『テレグラフ』の別の記事では、エディ・ジョーンズの「ラグビーのためにはスプリングボクスが勝った方が良い」という趣旨の発言が紹介されている。「この大会でわれわれはおそらく最高の攻撃力をもっているのだが、まだ十分にそれを発揮するまでには至っていない。〔…〕だからこの週末にわれわれが良いディフェンスをし、良いアタックをして勝利を収めれば、ラグビーにとってはよい幕切れとなるだろう」。ボクスが負ければラグビーの将来は暗黒だとまで言っているわけではないが(彼はただ a good result「よい結末のひとつ」と言っているだけだから)、ジョーンズは、イングランドが優勝すればそのスタイルこそが「ラグビーの正しいあり方」になってしまわないかと危惧しているわけだ。

 これはかつてワラビーズ=ブランビーズ・スタイルがラグビー界を席捲したことに対する反省も込めた発言なのだろうか。それなら傾聴に値するが、というか、そうでなければまともに取り合う必要のない単なる杞憂だが、いずれのチームが勝つにせよ、そのような事態にはならないだろう。どのチームも結局は自分たちにできることしかできないのだから。もちろん「勝った者が正しい」とかいう考えはラグビーのためにならない。ラグビーにとって大切なのは――そしてE・ジョーンズも深いところではこう言いたいのかもしれないが――多様なスタイルの共存(並存)である。

 ところで、「ユニオン」コーナーの記事のひとつが、ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の伝記映画プロジェクトを紹介している。95 年大会のスプリングボクスを中心に据えた映画で、クリント・イーストウッドが監督を務める可能性もあるとのことだ(Jon Geddes, "Eastwood will make Boks' day")。

 マンデラ氏の大統領就任とスプリングボクスの表舞台への復帰とに合わせて主催したワールドカップで優勝し、これ以上ないほど象徴的に「ワールド・イン・ユニオン」を印象付けるという、いささか出来過ぎの感さえある物語をイーストウッドがどのような映画に仕立てるのかという点、また国を挙げての歓喜や昂揚とその後に来る現実とのかかわりがどのように理解されるのかという点で興味深い(「ユニオン」の多義性を恃んだ言葉遊びはここでは無視しよう)。

 さらに、プレーの場面があるかどうかわからないけれど、アメフトとは異なるフットボールをイーストウッドがどう捉えるかという点にも興味が引かれるし、彼はアクション映画をきちんと撮れる人なので(戦争物、西部劇、『ファイヤーフォックス』、『ミリオンダラー・ベイビー』)、実現するなら大いに楽しみである。しかし 77 歳の高齢で南アフリカに出かけたりするのだろうか。

 配役では、マンデラ氏役のモーガン・フリーマンがすでに決定しており、優勝チームの 6 番・主将フランソワ・ピナール役としてマット・デイモンが予定されているというが、イーストウッドがキャスティングすればおそらく別の人選になったろう。個人的にマンデラと交流があるというフリーマンは仕方なかろうが、二人とも、顔を見ただけでは何を考えているかわからない(もちろんそれにはさまざまな理由がある)ピナールやマンデラとはだいぶ違うような気がする。顔立ちが、ではない。 たとえばピナールの一種異様な眼の輝き、あるいは端的にチェスター・ウィリアムズのような人を擁すチームの主将の顔は、デイモンのそれとは別種のように思われる。体格その他はまるで違うが、目の輝きだけでいうなら、むしろ若い頃のハリソン・フォードやトム・クルーズの方が近いように思う。あるいは、それだけにイーストウッドの演出に対する期待がますます高まるというべきか。

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2007年10月18日 (木)

シンポジウム (於フランス国立図書館フランソワ・ミッテラン館)

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2007年10月15日 (月)

準決勝 アルゼンチン 対 南アフリカ

アルゼンチン 対 南アフリカ 13-37(6-24) トライ数 1-4

 アルゼンチンの総括をしたかったのだが、ミスがこう多くては――それも実力のうち?――まとめるのは難しい。勝負としては、PG を狙わずクイック攻撃を選択して得点機を逸した後半の判断ミスと、そしてとりわけラインアウトの失敗が大きかった。スプリングボクスが終始余裕をもって対応していたということは否めないにしてもブレークダウンは互角、サイド攻撃(ハンドリングエラーが今日は多かったものの)もそれなりに通用していたし、スクラムは優勢でさえあっただけに惜しまれる。全体的には南アフリカを脅かすところまでは行かなかった。

 前半初めのラッシュは見応えがあった。12 番からのパスがインターセプト(デュ・プリーズ)されたプレーでは、フィールド左側に大きなスペースを作り出してからの展開だったのでゲインを期待させたが、ラインの浅さが裏目に出てしまった。パスの受け手は FW だったように思うが、つい焦って前がかりになってしまったのだろうか。それほど慌てなくともよかった。後半、試合終了間際のインターセプトはハバナに狙われていたはずだが、紙一重のところをすれ違いざまに抜こうとしたものだろうからやむをえない。プーマスの両ウィングは小柄だがスピードもあり、身体の使い方も上手いので(14 番のボルヘスは当然としても、11 番のアグラは地元のアマチュア・クラブに所属する大学生である)、今後の活躍に期待している。
 FW が優位に立てなかったときにロス・プーマスがどうするか――というようなことを考えていたが、FW と BK は結局同じ一つのフィールドで同時にプレーしているのだから、実際にはそう簡単に切り離せるものでもない。このゲームの戦略としては、FW 戦での劣勢の可能性を考慮して、ラインへの展開を織り交ぜる、あるいは展開プレーを織り交ぜることによって FW 戦の優位をできるかぎり保とうということだったのだと思う。が、今日はとにかくミスが多過ぎて判断できなかった。トライネーションズやシックスネーションズとのマッチをもっと見てみたい。

 ボクスは確かに強いが、ジャパンとはあらゆる点で対極にあるチームなので、どうも醒めた目で見てしまう。フォワード戦で拮抗し膠着状態になったとき、両チームがどう打開しようとするかに注目しようと思う。

〔付記 BBC サイトにイングランドのゲーム・スタイルについての記事があった。決勝に残ってしまったので、批判的意見も当然強くなるだろう。同記事では 95 年大会優勝チームの SO ストランスキーの意見などが紹介されている。それに対し前回のチャンピオン・チームの SH マット・ドーソンは「今回〔キッキング・ゲームで〕優勝したとして、次の四年間に限っても人々はスタイルのことなどどうでもよいと思うだろうし、もっと先の将来においてもそれは変わらないだろう。勝つことがすべてなんだから」と断じている。一方、現 HC のブライアン・アシュトンはこう述べる。「土曜の対フランス戦では、選手たちがラグビーをやりすぎている(played too much rugby)と思う時が何度かあった。たとえば後半、自陣 10 メートルライン付近に 10 分ほど釘付けになっていた時間帯がそうだ。〔…〕われわれ〔スタッフ〕はこう思った、相手陣にボールを蹴りこんで、フランスに攻めさせてみろと。〔…〕というのは、後半の後半がそうだったように、キックでボールを渡しても、フランスは大したことはできないということは明らかだったからだ〔…〕だからわれわれは、そういった〔批判的〕意見には同調しない…」。
 やはりイングランドのスタッフはラグビーの敵だ。勝ち上がったからといって、前回大会における「王者のスタイル」が復活しているわけではないのに。ウィルコがいなかったにせよ南アフリカに零封された時点でもはやイングランドは王者ではなくなっており、以降はただの挑戦者であるにすぎない。誰に対する「挑戦」かというのはとりあえず措いて、とにかくプレーヤーはゲームを通じて、つまり「過剰なまでにラグビーをやる」ことによって、自らのスタイルを模索しているのだ。その点を忘れてはいけないと思う。ちなみにローレンス・ダラーリオ――今大会では途中出場で目立った活躍もしていないため「彼はとにかくゲームセットの笛をフィールドで聞くのが好きなのだ」と揶揄する向きもある――はこういっている。「ノックアウト・ステージで対戦した二チーム〔豪、仏〕に関して驚かされたのは、彼ら以上にわれわれの方がラグビーをしていた(played more rugby)ということなんだ」。

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2007年10月14日 (日)

準決勝 フランス 対 イングランド

フランス 対 イングランド 9-14(6-5) トライ数 0-1

 開幕戦と決勝戦が同じ組合せという、何だか漫画のようでもある展開は実現しなかった。結局のところ、トライネーションズとアルゼンチン、それに英仏の六ヶ国は、総合的な実力にはそう差がないわけだから、劣勢が予想される場合にのみ真の力を発揮するというあり方ではフランスはいつまで経ってもエリス・カップを手にしえまい。フランスらしいといって片づけてもよいだろうが、優勝する力は十分にあるだけに惜しまれる。

 全体的にはミスも少なく、締まったゲームとなったが、前半はフランスの攻勢が目立った。ラックサイドの突進と外への展開(とりわけラインアウトがクリーンキャッチされたとき)とをバランスよく組合せ、ボールの保持と陣地の獲得に成功した。またハイパントを含むキックも当然多用され、細かなミスもありゴールラインを陥れるところまではいかなかったものの、開始早々事故のようにして与えた「ハンデ」といえるだろうトライの 5 点を、無理せず PG 二本で 17 分に引っくり返す。つまりは堅い試合運びをしたわけだ。
 イングランドも実は同じような攻め方をした。サイド攻撃に長く拘泥せず、前進が止められると――今日は実際あまり前進できなかった――SH ゴマソールは早め早めにウィルキンソンに回し、ウィルコはかなり無理な状態で一度 DG を狙った以外は、基本的に展開する。スクラムとラインアウト、ブレークダウンはほぼ互角、モールはややフランス優勢、となれば、一体どこで差がついてしまったのか。
 フランスはトライを取る気がないように見えた。例の「いざとなればいつだって取れる」という一種の余裕が感じられたということだ。開幕戦のように、といって差し支えなかろう、点数的にはほぼ同じなのだから。実際、レ・ブルーのパス回しはイングランドのそれと比べるときわめて滑らかで、ラインブレークも期待されたのだが、綺麗な形でのブレークはついに一度もなく、ノートライに封じられた。イングランドの防御は確かに固かったけれども、要するにそれを上回るスピードが欠けており、「数的優位」や「ズレ」を作り出すことができなかったということだ。積極的にミスマッチの局面を作り出そうとしているようにも見えなかった、というよりむしろ、F・プルースが勢いをつけてウィルキンソンに当たっていっても、逆に(負傷で)退場を余儀なくされたりするわけだから、ミスマッチなど成り立ちようもなかったというべきかもしれない。「バランスよく」というのは言い換えれば中途半端ということであり、要するにフランスが攻めたというより、イングランドに攻めさせられたということではないだろうか。

 後半になりミシャラクが出てきても状況は変わらなかった。スクラムやラックからの球出しが特に遅れたわけではない(エリッサルドはすぐれた SH である)けれども、回しても前進できない、悪いときのワラビーズのような展開を繰り返すばかりだった。われわれはこのようなブルーを幾度となく見てきたが、今日も悪い流れを打開することができなかった。大外で「余った」状況を作り出すという点では、むしろイングランドの展開プレーの方が可能性を感じさせたとさえいえる。
 3 点の積み重ねで勝つのでもよい――そうした気持がフランスにはあったのではないだろうか。だからこそ展開も、ボールを失わないための消極的なプレーとなってしまったのではないか。SO のキック選択が(タッチキックは除くと)イングランドより多い(35-25)というところにも消極性は現れている。後半は自陣からなかなか出られない時間帯も長く続いた。このあたりのゲーム運びはイングランドの方が一枚上手だった。

 イングランドの展開志向――正確には DG の濫用の自戒というべきかもしれない――はいつまで続くのだろうか。ウェールズなら抜けているのにとヤキモキさせられる場面もしばしばあるが、攻守両面にわたって今のところは一定の効果が得られているように思う。FW も依然好調である。南アフリカとの再戦も興味深いけれど、個人的にはアルゼンチンとのマッチを、しかも双方が展開プレーに活路を見出さざるをえないようなゲームを希望する。

〔付記 確かに外国語固有名詞のカナ表記は厄介ですよね。「ゴマサル」はついフランス式発音をそのまま転記してしまいました…。英語での発音を聞いたことがないのですが、村上晃一さん他を信用して「ゴマソール」と訂正します。それはそれとして、耳で聞こえるというのも個人差や方言差が関係してくるので絶対とはいえないわけで、結局は表記と発音の対応を(それが発音に忠実かどうかはさておいて)規則づけるのが一番混乱が少ないやり方ではあるでしょう。
 とはいえ、カナでそもそも表せない発音という問題がさらに出てくるので、ややこしくなりますけど、例えば「ミユー」、フランスのプロップの名前ですが、これは「ミユー」でも「ミルー」でもないというか、敢えていえばその中間の音なんですね。彼より遥かに有名なフランス人、ダンサーのシルヴィ・「ギエム」が実は「ギレム」でもあるというか、そのどちらでもないというのと同じです。小学生の頃いたでしょう?「ゴリラ」の「リ」を上手く発音できない級友が。遠い記憶を辿る限りでは、あの「リ」(の子音部分)は、この「ミユー」でも「ミルー」でもない音と近いような気がします。ちなみにいうと、
L 音と Y 音が近づくというのは、音価自体は違えど英語にも起こることで、oil や soil の実際の発音は「オィオ」(ないし「オィユ」)とでも表記するほかありません(「湿音」の L)。
 
フランス語は英語と比べて表記と発音の対応がより規則的ですが、固有名の場合はその対応が緩くなります。TF1(や France 2)のアナの発音では「ミユー」と聞こえる時が多いのですが、他方、グラウンド・リポーターの F・ランドロー(2000 年にブラックスを破ったブルーのフッカー)は「ミルード」と発音しています。フランスのラグビー関係者は南部の人が多く、あちらの方言というものも考慮しなければならず、厄介です。もっとも、リュグビーメン本人たちはこんな細かいこと恐らく気にしていないでしょうけどね。ガルチエもラクロワもパリで「訛り」をガンガン聞かせていますし。

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2007年10月11日 (木)

ロラン・バルト通り 1 番地

Rue_roland_barthes1_3 ロラン・バルト通りが出来たのは 1997 年、12 区リヨン駅北側の地画整備に伴い開通した。Rue_roland_barthes3_2 「通り」(rue)と名づけられてはいるものの、実態はどちらかといえば「広場」(place)や「遊歩道」(allée)に近い。駅舎と背中合わせになった SNCF 関連(と思われる)ビルと、P・H・グローウィン(Grauwin)通りという車道とに挟まれた曖昧な espace である。人が行き交い、斜めに横切り、もちろん随意に立ち止まることさえできる不思議な空間。Velib' のステーションがあるけれども、自動車は通行を許されていない。そのことに何か救われる気がする。

 車にはねられて逝去したバルトの名が冠されるにはふさわしい通りといえるが、Rue_roland_barthes2_3 立地はきわめて地味だ。日の射すことがないような裏通り。事件の現場である「学校通り」(rue des Écoles)を改称するのはさすがに難しかろうが、このような場所でなされる「交通安全祈願」は果たして人々に届くのだろうか。いやこの慎ましさがバルト的なのかもしれない。

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2007年10月 8日 (月)

準々決勝 フィジー 対 南アフリカ、アルゼンチン 対 スコットランド

フィジー 対 南アフリカ 20-37(3-13) トライ数 2-5

 南アフリカが終始ゲームをコントロールしたマッチ。双方共にボールが手につかぬ場面が多く、全般的にはやや退屈した。しかしセットプレーが強く、それでトライが取れるというのは大きな強みには違いない。バックスにも錚々たる面子を揃えているが、しゃかりきになって展開する必要もなかったというところだろう。
 それでも、後半のフィジーの反撃にはやはり興奮させられた。ボールを持つと一人一人が必ずゲインするのは日本人としては不思議で仕方ないのだが、ともかく二つ目のトライはそうした個人の強さを活かしつつもよくつないでとったもの。SH ラウルニは本当に好選手である(フィジーが勝っていたら MVP だったろう)。ウェールズ戦に続くデラサウの「待ってろよ今行くから」トライ(TF1 のアナウンサーの言い方 un attends-moi-j'arrive essai を直訳したもの。戯れに英訳すると a wait-for-me-I'm-coming try)は天性のものとしかいいようがない。かなり遠くからのキックがタッチ・イン・ゴール手前で戻ってくるかのようにバウンドするというのはさすがに練習できないだろう。楕円球は「どちらに転ぶかわからない」というので例えば人生の譬喩として用いられたりするけれども、実はワンバウンド目は弾む方向をだいたい計算できる(力の入れ加減にもよるが)。だが、その先は運を祈ることしか出来ないはずだから。
 それにしてもフィジーというチームは、モール対策を今後も放棄し続けるのだろうか?

アルゼンチン 対 スコットランド 19-13(13-6) トライ数 1-1

 スコットランドがどのような戦い方をするかで注目された二試合目は、結果的に点数の競った胸が締め付けられるようなマッチとなった。最終スコアは開幕戦のアルゼンチン対フランスとそっくりである。
 創造性という観点からするとちょっと苦しいが、スコットランドは賢いゲーム運びをした。陣地獲得で少なくとも前半は優位に立ってプーマスの PG・DG の機会を最小限に抑える。とともに FW 戦で奮闘して勢いづかせぬようにする。キックでも FW のファイトでも少しずつアルゼンチンが上回ったように思うが、ほぼ互角と見える時間帯もあった(アイルランド FW はこのレベルまで行かなかった)。またアルゼンチンと同じようにハイパントを果敢に蹴り上げ、よくチェースした。体格・強さを誇るバックスを走らせ、力ずくで突破させる場面も再三見られたし、トライに結びついた連続攻撃は見応えがあった。
 全体的にはスコットランド側の狙いが奏功し、アルゼンチン FW のラッシュはかなり抑えられたと思う。プーマス側がどちらかといえば受けに回ったのも影響しているはずだが。しかし結局、上回るというところまでは行かなかった。失トライは SO パークスのキックがチャージされたもので、確かに防御が完全に崩されたとはいえないけれど、それでもやはり押し込まれてはいたということだ。
 アルゼンチンの方は、FW で負けない限りは同じ戦い方で臨むのだろう。これしかないのか、それとも何かを隠しているのか、それが明らかになるはずの次の南アフリカ戦が非常に楽しみである。今日のような出来だとボクス FW を上回ることは難しいと思う。バックスによるパスプレー(エルナンデス、F・コンテポミ、コルレト、ボルヘス)であわや抜けるかという場面もあったが、途中でパスが乱れてしまったのが惜しかった。

 準決勝はほとんど誰も予想しなかったはずの組合せで戦われることになった。フランスは 6 ネーションズでイングランドに敗れた(このマッチは見ていない)ものの、大会直前のウォームアップ・シリーズでは快勝している。どちらが勝つのでもよいが、前回大会準決勝(フランスが FW 戦で完敗し、ウィルコのキックで大量に得点を奪われた)のようなゲームにはならぬことを祈るばかりだ。点数の予想などはできないけれども、二試合とも拮抗したものになるのではないだろうか。

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2007年10月 7日 (日)

「途方もない」? 準々決勝 フランス 対 ニュージーランド

 フランス 対 ニュージーランド 20-18(3-13) トライ数 2-2

 前半圧倒的に攻め込まれ、かつ数少ない得点機会を逸したフランスが、後半 15 分、展開プレーの末にデュソトワールのトライ(コンバージョン)でついに追いつく。点数としては「振り出し」に戻ったことになる。しかし、ゲームの流れをずっと追っていればはっきりわかったと思うが、それは 0 対 0 で試合が一からやり直されるということでは全くなかった。オールブラックスはほとんど平常心を失いパニックに陥っていたからである。前回とまるで同じではないか。フランス側がそこまで読んでいたとすれば――読んでいたのだと思うが――完全な作戦勝ちである。Lequipe_07102007_3『レキップ』紙は『青と黒』第一章の Énorme に続いて第二章を Immense と称えた。形容詞をそんなに安売りすると、第三章には Colossal くらいしか使えなくなるかもしれない。ただし、ゲーム内容としてはむしろ、昨年のワールドカップでブラジルに守り勝ったサッカーのレ・ブルーの方により近いかもしれない。39 分にマカリスターが試みたドロップ・ゴールは、ロナウジーニョのフリーキックと同じだった。

 ボール支配率 70 %超、地域獲得率 60 %超、タックル数 50 回対 200 回という数字が示すように圧倒的に攻めながらオールブラックスは敗れてしまった。確かにフランスはディフェンスを頑張った。だが、タックル成功率 90 %という割には、一次防御はパスとランで何度も突破されていたのだから、ブラックスとしては、キック合戦に付き合わずどんどん走って攻め続けた方がよかったと思う。
 前半、たとえば、フランス 13 番マルティがラインから一歩飛び出してしまって出来たギャップをカーターが見逃さず、ワンテンポずらしたパスをふわりと浮かせてつなぎ、鋭いダッシュで斜めに走りこむマカリスターを突破させたプレー(トライ、ゴール)などはさすがと唸らされた。いずれのプレーも瞬時の判断によるものだろう。逆に後半のラックサイドの執拗な攻撃は、あれだけの時間と体力を費やしてトライを一つしか奪えなかったわけだから――これもやはりラグビーには違いないのだが――この試合でのプレー選択としては大いに疑問が残る。

 対するブルーは、不安視された FB の仕事をトライユが見事に果たしたどころか、不調に見えたボクシス(やや萎縮したか?)の分まで、少なくともロングキックの点では立派にカバーした。パント処理のミスはエマンスに一度あっただけで、トライユ自身は全く危なげなく、ポワトルノー以上の安定感があったとさえいえる。さらに、後半 29 分の同点トライの起点となったプレーが素晴らしかった。タックルで倒れる寸前に放たれたミシャラクへのパス、そしてミシャラクのランとジョジオンのサポートも見事。ショートサイドをフルバックが突くというブランコ推奨のサインプレーだったと思うが、このトライには痺れた。

 それにしても、準々決勝最初の二試合がいずれも二点差という――かつて森重隆がテレビ解説で多用した扇情的レトリックに従うと「こうなれば 0 対 0 と同じですから」――僅差で戦われたのは、見る分には申し分なかった。心理戦なしに、いわばニュートラルな状態で互いのスタイルをぶつけ合うという理想的なゲームが見られるともっとよいと思う。

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「それでもやはりこれはラグビーである」 準々決勝 イングランド 対 オーストラリア

 イングランド 対 オーストラリア 12-10(6-10) トライ数 0-1

 開始早々、つかみ合いはもちろんのこと、血が次々と流され、ワールドカップ準々決勝にふさわしいただならぬ雰囲気が感じられた。この試合はジョニー・ウィルキンソンがドロップゴールを狙わなかったマッチとして記憶されるのだろうか。それもよいだろう。だがここでは、高名な映画批評誌のかつての言い方を借りてこう表現したい。「これは(最高レベルではないかもしれないが)それでもやはりラグビーである」(C'est du rugby)と。そしてイングランドは勝負をものにしただけではなく、ラグビーにおいてもワラビーズに堂々と勝利した。こういうマッチを見ると、われわれが嫌いなのは実はイングランドではなく、サー・クライヴ・ウッドワード(的なもの)なのだということがよくわかる。
 ザ・ローゼズの得点はすべてペナルティ・ゴールによるものだが、それ自体は「ウィルコ・ショー」というほどのものではない。ウィルキンソンはそもそもこのチームのキッカーなのだから、単におのれの「務め」を果たしたというにすぎないし、7 本中 4 本成功というのは仕事としてはむしろ平凡である。虚心に振り返っていうなら、イングランド FW が積極的に攻めかつ守り、その結果として得られた相手側反則をチームとして必要最小限利用したということだ。

 実際、FW はよく走り、果敢にボールをつなぎ、ラックで相手ボールを奪い(ターンオーバー 9 回はすごい)、そしてよく守った。まるでアルゼンチンのように――これは単なるレトリックとしていうのではない。ラグビーを取り巻く否定しがたい閉塞感、その打開のために何が出来るかという問いに対し、母国イングランドも自分たちなりのやり方で回答を示そうとした。それが図らずもロス・プーマスの戦い方に接近したように思われる点が感動的なのだ。イングランドが意識的に学んだのだとすれば感動はいっそう増す。イングランドが本来の戦い方を思い出したといってもそう違いはないだろうが、わたくしは母国(のプライド)に対する敬意や尊重よりも、この歴史的な感動の方がラグビーのために有益だと思う。
 そしてその感動が、やはりというべきか、ウィルキンソンのプレーぶりによってさらに増幅される。ドロップ・ゴールを(実質的には)一本しか狙わず、狙ったドロップ・ゴールをことごとく外し、SH ゴマサルからのボールをほとんど展開したからだ。だがそれがよかったのだと思う。FW もつなぎに積極的に参加していたはずだが、パスも走りこみも――ウェールズに比べるとテンポは少し遅く感じられるが――上手かった。重要なのは、見ていて面白いという以上に、展開することによって FW に、ということは結局 XV 全員にラッシュする推進力を与えた点である。攻撃時はもちろんのこと、ディフェンスにもそのラッシュは活かされた。ワラビーズがいつものように最小限の人員でラックを形成する。そこにイングランド FW は(ほぼ)全員で飛び込んで――と、これは譬喩である、飛び込みは反則なので――押し込み、ボールを奪う。さらに、最初のスクラムこそぎこちなかったものの、二回目以降はどうやら完全に組み勝ったようで、ここでも相手ボールを奪う場面が少なからずあった。スクラムを制圧するとノックオンが怖くなくなるという副次的効果もあったかもしれない。そして、FW も BK もよくタックルした。実際にはつなぎやパスによって少なからずディフェンスは突破されたのだが、前半のトライの場面を除き二次・三次防御で止めることができた。
 さらにいえば、展開してボールを散らすことで、プランか結果的にそうなったのかわからないけれども、ラックを起点とするワラビーズの攻撃陣形が整うのを最大限妨げることができたように思われる。ワラビーたちより常に多い人数でラックに参加しボール争奪戦を制するということは、要するに走り勝つということに他ならず、それを実現しうるだけのフィットネスが今日のイングランド FW には確かに備わっていた。称賛に値する。
 モートロック型 CTB であるファレルの負傷を承けベテランのキャットがセンターに入ったことも戦術に影響しただろう。ウィルコはパスしたあといつものように忠実にサポートし、ラックにも「まるでフランカーのように」飛び込んでいく――これも譬喩――わけだが、キャットが次の展開のために控えているのが大きかった(前回大会でも SO ウィルキンソン・CTB キャットのコンビネーションが勝利に大きく貢献した。詳しくは梅本洋一氏の
準々決勝「イングランド対ウェールズ評を参照されたい)。同じくベテランのゴマサルも落ち着いていてとてもよかった。36 歳と 33 歳、次もどうか頑張って欲しい。

 オーストラリアの方は、ラックでの劣勢を跳ね返す、あるいはかわす戦い方がついに出来なかった。グレーガンのラスト・ゲームとしては寂しいかぎりだし、また負傷欠場したラーカムが本当にこの大会で代表を引退してしまうとすれば、非常に残念なことである。それはそれとして、バーンズはこの試合でもトライの場面で決定的な仕事をした。順調に伸びていって欲しいと思う。

〔追記 フランシス・マルマンドはパリ第七大学の教授で、日本にもしばしば招かれています。現代フランス文学が専門ですが、ジャズの演奏家でもあり、ジャズ雑誌の編集にもかかわっていました。
 その二 確かに、柔道の母国としての日本のプライドは蹂躙されていますね。ただ、「格闘技」はボクシングと柔道しか見ない素人のわたくしからしても明らかな事実は、柔道/Judo の試合で最も美しいのはやはり日本の選手だということです(柔道はまた日本人が美しく見える「スポーツ」のひとつでもありますけど)。男子のほとんど、そして女子では少なくとも谷亮子は常に、腰の引けた他国の選手より圧倒的に美しい。「美しい」というのはもちろん、審美的観点だけの話ではなく、おそらく柔道というものの根本とかかわるような姿勢のあり方を指しますが、そういう意味では、今のところ日本柔道は他国から学ぶことはありませんよね。しかしながら「ポイント制のスポーツ」としてこれほどまでに普及してしまった以上、そして「美しい」という事実だけではプライドが満たされないとするならば、それは結局勝つこと、美しさこそが「正しい」のだと試合で(つまりはポイントで)証明することによってしか保ちえないような気がしますね。そのようなやり方が本来的にいって正しいのか、わたくしにはわかりませんが。

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2007年10月 5日 (金)

アート・リンゼイ「ベイジャ・メ」ビデオクリップ

 ファッション畑で知られるブラジルの写真家マルセロ・クラジルシックが制作した「ベイジャ・メ」のビデオクリップを見ることができた。制作者本人がミュージシャンの諒解を得てアップロードしているように思われるのでたぶん無問題だろうし、すぐに消されることもないだろうと思われるが、備忘録として書き留めておく(http://www.youtube.com/watch?v=mOJ-nxWDs1U)。

 ベイジャ・メとはつまり「私に接吻して」という意味のポルトガル語で、ブラジル音楽のスタンダードをアート・リンゼイがカバーしたもの。アルバム『インヴォーク』の最後を飾る曲である(Arto Lindsay, "Beija-me", Invoke, 2002)。日本盤ではボーナストラック「フォゲーテ・パルティクラ」のカバーが後に続いており、肩の力の抜けたゆるいゆるいゆるい雰囲気を心地よくも増幅している。

 ヒロインがボサノバ・ギターに合わせて――合っているんだか合っていないんだかわからないいい加減な感じに見せつつ深いところでやっぱり(つまりベースラインに)合わせて――踊っているところに左右から交互に、リンゼイ本人も含む男性たちが次々と現れては「接吻」するという前半、ベースとドラムスだけの間奏に合わせて(?)男性たちが妙な舞踏を決めてから、ヒロインと一緒にサッカーボールを手で運ぶ遊戯――え、もしかしてラグビー? ウォークライ?――に興じる中盤、そしてエンディングでリンゼイがヒロインと同じ衣裳でゆらゆらしているところへ、今度は逆にヒロインが登場して接吻するという構成は、深遠な意味などなくそのまま歌の雰囲気を伝えているだけなのだが、とてもよい感じだ。ブラジルはいいなあと、改めて、無責任だがそう思った。ブラジルのラグビーってどんなだろう、是非見てみたいものである。

 細かいことをいうと、前半部・エンディングの秀逸なアイデアは、実はすでにエルヴィス・コステロの「アイ・ワナ・ビー・ラヴド」のクリップで使用されている(『グッバイ・クルエル・ワールド』1984年、クリップはエヴァン・イングリッシュ&ザ・リッチ・キッズ監督)。が、こちらは豪州メルボルンのとあるインスタント証明写真撮影ボックス内でコステロ本人が次々にキスされるという対極的なもの。歌詞に合わせ、チャーミングではあるが同時にややシニカルでほろ苦い感じが強調されている(http://www.photobooth.net/music/musicvideos.php?musicvideoID=7)。ビデオとしての出来栄えも素晴らしいけれど、同じアイデアが全然違った風に活用されているのが何より面白い。そういえばこの曲もカバーであった。

 挨拶のキスにはいまだ慣れないし、日本も採り入れればよいのになどとはまったく思わない。しかしそれが習慣となっている人たちの所作を見るのは素敵な体験である。コミュニケーションの仕方にもいろいろあるのだなと感心する。そういえば、フランスに来て、人々が力を全く込めずに握手するということを発見し軽く驚きました。

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2007年10月 1日 (月)

アルゼンチン 対 アイルランド 30-15(18-10) プール D

 アイルランドが 4 トライ以上とり、かつアルゼンチンにポイントを許さず(つまり 3 トライ以内に抑えるとともに 8 点差以上をつけて)勝つと、フランスのプール一位――つまりオールブラックスとの対戦を決勝まで回避できる――とアイルランドの二位が決まるという、勝ち抜けのドラマとしてはこれ以上ないほど複雑な状況だったが、アルゼンチンはそんなドラマの非現実性をおそらくは嘲りながら、一番シンプルな解決策を提示した。完勝である。
 ラグビーのゲームとしては、アルゼンチン側のほぼ完璧なゲーム・コントロールと、それを可能にした FW の集散やラインディフェンスの上がりのスピードに改めて瞠目するほかない。アイルランドは逆に FW が動けず、組織プレーが成り立たなかった。敵陣ゴール前ラインアウトからのムーブ一発でしかトライ(というかラインブレーク)できないのでは仕方ない。B・オドリスコルの個人技はさすがだが、主将としてはこの試合に限っては主導力を発揮できなかった。準々決勝で対戦するスコットランドには BOD さえおらず、焦点はディフェンスがどれくらいアルゼンチン FW に抵抗できるかという点に絞られるとさえいってよい。

 アルゼンチンは、バックスのラインディフェンスはやや劣るようだ。失トライはいずれもセンターのところで対応しきれず突破されたものである。だがそれ以外の局面では圧倒的な優位に立っていた。
 大きくて強く、しかも機動力のある FW がいればハーフバックスは楽だろうし、そもそも FW 自身もある意味で楽しいのではないだろうか。SO の J・M・エルナンデスのプレー選択は、対フランス戦ほどハイパントを徹底したわけではないにせよ、やはりキック中心だった。しかし、見ていて退屈を感じないのは何故だろう? アルゼンチンのプレーぶりを見ていると、例えばイングランド FW、あるいはこの日のアイルランド FW のピック&ゴーは、ただボールを失わないためだけに選択された消極的なプレーとしか感じられない。プーマスのそれはずっと積極的なものである。彼ら FW はいわば権利としてプレーしているのであって、一見そう思われるのとは逆に、SO の方が FW に奉仕しているとさえいえるかもしれない。彼らは権利として、つまりは「楽しんで」プレーしているのだから、「下働き」の代償あるいは褒章としてのスクラムトライやモールトライを意地になって狙う必要もない。「セクシー」――2005 年当時のウェールズ HC マイク・ルドックが掲げたスローガン――は言い過ぎだとしても、アルゼンチンの FW 主体のゲームがある意味で爽快なのは、そういうことではないだろうか。そのプレーが高度な技術を伴っていることはいうまでもない。
 それにしても、エルナンデスに奉仕させるというのは、考えてみれば贅沢な話である。たとえばプーマスが絶好調のスプリングボクスやオールブラックスと対戦することになったとき、つまり FW 戦で上回れないような状況になったとき、ピチョット以下、バックス陣の真価が問われるかもしれない。

 いささかもって回った言い方をしてしまったがそれは、アルゼンチンを称えたくないからでもなければ(わたくしは特にアイルランドを応援していたわけではない)、バックスによるパスプレーを信奉しているからでもない。ひとつには、プーマスがまだ全てを出しておらず、速断は避けたいということがある。けれどもそれ以上に引っかかるのは、もしかするとアルゼンチンのラグビーは従来なかった、いってみれば全く新しいラグビーなのではないかという気がちょっとするからである。やっていることは結局「ガリー・オーウェン」、「テン・メン・ラグビー」だろうと反論されるかもしれない。しかしアルゼンチンがまだトライネーションズに当たっていない点を考慮する必要があるだろう。とにかく最終判断は保留したまま、自分で眉に唾をつけつつ書いておこうと思う。

 ラグビーが真の意味で世界的なスポーツになれば、今もなお人々の口にのぼる「北半球対南半球」とか、「ホームユニオン(対新興国)」とかいった言い方は本質的には意味を失うはずである。サッカー批評でよく見られることだが、ヨーロッパ人でも南米人でもない人間が「ヨーロッパ対南米」といった図式に満足する気が知れない。そういう図式よりも、それぞれの「半球」における、ということは結局それぞれのチーム相互の違いに注目する方がラグビーのためになるのではないだろうか。
 アルゼンチン・ラグビーについて感じるのは、彼らがラグビーの歴史と独特の関係をもっているのではないかということだ。歴史と切り離されているとはいわないまでも。
 とくに「ホームユニオン」を口にする人に顕著であるけれども、いずれにせよわれわれは皆、折に触れて「ラグビーはサッカーとは異なるフットボールだ」とか「ラグビーはもうひとつのフットボールである」とかいった言い方をついしてしまう。サッカーに対する劣等感ばかりでないにせよ、複雑な感情という意味でのコンプレクスがそこに働いているのは間違いない。そして、そのコンプレクスを解消すべく、たとえば(イングランドの)ラグビー協会が設立された 1871 年を「そもそもの始まり」といってみたりする。だがそのようにして歴史を遡っていくことには大きな罠が潜んでいるのであって、なぜなら「どこまで遡ればよいか」というのは人為的な問題だからであり(パレスチナは「歴史的」に誰のものか?)、いずれ恣意性を免れることはできないからだ。実際、1871 年まで遡ってみたところで、ラグビーの起源は明らかとなりはしない。そこから先は神話時代である。もちろん「原始フットボール」と呼びうるものが行われていたことは確実なのであろう。しかしそうなるとラグビーの固有性はどうなるのか。
 「神話」という言い方はしたものの、ウィリアム・ウェッブ・エリス少年の神話を全くの嘘といって切り捨てる気にはわたくしはなれない(そもそも事実と思っている人はいないだろうが)。神話というのは一般に、歴史とのある種のかかわり方を指すものだからである。物の本によると、その神話が語る 1823 年の「フットボール」の試合で 16 歳のエリス君は、今でいうフルバックのポジションに就いていたという(Henri Garcia, La Fabuleuse histoire du rugby, Genève, Minerva, 2001, p. 83)。ボールをもったフルバックが相手ゴールラインを目指す。カウンター? そう、ラグビーの「起源」は何と FB のカウンターアタックだったのである(FB を積極的に攻撃参加させる戦術を一般化させたのはジャパンだと聞いたことがあるけれど、それが事実だとすれば歴史的にも興味深い)。だが、もっと重要なのは、フルバックが前線に出ることで全員がオンサイドになることだ。祝祭? そう、ラグビーは、あるいはスポーツは抑圧的なものであってはならない。エリス神話がある種の真実をそれでもやはり伝えているとすればそれは、このように二重の意味でこの神話がわれわれを解放するものだからである。そして、ロス・プーマスのラグビーにわたくしが漠然と感じるのも同じ種類の、つまり歴史と(全く切り離されたというよりむしろ)新たな関係が結ばれていることから来るように思われる解放感なのである(ちなみにいうとアルゼンチン協会の設立は 1899 年で、日本などよりよほど古い歴史を慎ましくも誇っている)。

 さらに眉に唾をつけるとすれば、そこには、アルゼンチン・サッカーとの関係が影響している可能性もある。今大会ベスト 8 に残った国・地域のうちで、サッカーにおいて真のスタイルをもつ大国といえるのはアルゼンチンだけである。しかも社会的格差(俗にいう「階級」)と特定スポーツとの強い結びつきを今なお残す国でもある。つまりアルゼンチンにおいてサッカーは、単に国内ナンバーワン・スポーツというにとどまらず、ラグビーとは比較しえぬ隔絶した地位にあり、そうであるがゆえにロス・プーマスはサッカーに対するあらゆるコンプレクスからかえって自由になっているということだ。逆説的なことにエルナンデス、才能があり余るといわれるエルナンデスのキック・フォームはサッカーのそれと非常に近い。だからラグビー・プレーヤーという感じが今のところあまりしないのだが――ディフェンス面は別として、ウィルキンソンとの比較は面白いだろう――、それを否定的に考える必要はあるまいと、今のところわたくしは考えている。いずれにせよ彼の真価が問われるマッチはこれからである。

 こうして夢想を書き連ねているとプーマス対オールブラックスが見たくなってきた。その対戦が実現するには、それぞれ南アフリカとオーストラリア(NZ はフランスも)を倒さなければならないが、いずれにせよ楽しみなことである。

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