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2007年10月23日 (火)

Getting away from 10 ――ジョニー・ウィルキンソンのこと

『プラネット・ラグビー』サイトで大会ベスト XV が発表されている(21 日付)。順位づけや採点というのはあまり真剣に受け取りすぎてはいけないものだが、ワラビーズ(つまりベスト 8 止まりのチーム)からただ一人モートロックが選ばれているとか、フランスから三人も選出されているとか(右 WTB クレール、オープンサイド FL デュソトワール、タイトヘッド PR ド・ヴィリエ)、興味深いところも少なからずある。そして 10 番にはジョニー・ウィルキンソン。決勝戦でのパフォーマンスは今ひとつだったと思うが、準決勝 2 試合および準々決勝 4 試合それぞれのベスト XV にも選ばれており、大会を通じての活躍に対する評価ということだろう。

 ところで、同サイトに興味深い記事が二本ほぼ同時にアップされていた。いずれもウィルキンソンに関係するものである。ひとつは HC アシュトンの「功績」に対するイングランド XV からの評価(ただし匿名)を紹介するもの、もうひとつは決勝でのウィルコのパフォーマンス、より具体的にはそのプレー選択に疑問を呈する署名記事だ。
 後者の疑問、というより批判の要諦は次の通り。ウィルキンソンは、展開プレーの形が出来ているところで、あるいはトライを獲りに行かなくてはならない場面で、なぜドロップ・ゴールを狙ったのか。
 一つ目の DG は前半、イングランドがラインアウトをクリーンキャッチし、FW の突進でゲインしてから右にライン攻撃を展開しようとしていた場面でのもの。記者マーカス・リーチは「なぜウィルキンソンは、まだ 15 分が経過したにすぎず、点数的にも 6-3 という僅差の場面で、完璧に整った攻撃陣形(a perfect attacking platform)を犠牲にしてまでドロップゴールを選択したのか」と、「問題」の所在をはっきりさせている。他に選択肢がないなら別だが、ここはそういう場面ではなかったろうというわけだ。DG 自体が仮に成功していたとしても、である。
 二つ目の DG は後半、遠い距離を無理に狙って届かなかった場面だが、リーチ氏は「〔絶望の果ての〕やけっぱち」の試みと断じている。最終的に勝利を手にすることは適わなかったとしても、やはりトライで逆転を目指すべきではなかったかと。

これまでウィルキンソンのドロップゴールはイングランドにとって値段をつけられぬほど価値のあるものだった。だが土曜のゲームでは、ドロップゴールに対する彼の強迫観念がイングランドには〔逆の意味で〕高くつくこととなった。ボールをワイドに回して攻撃をしかけるプレーの機会は、この晩のパリ〔スタッド・ド・フランス〕でもそうだったように、決勝戦ともなればプレミアがつくほど稀少なものなのであり、早い時間帯でそうした輝かしいチャンスを潰えさせてしまった彼の責任は重大である。

「プレー選択の誤り」自体がそもそもウィルコらしくなかったとリーチ氏は付け加えている。ワイドな展開プレーがほとんどなかったという結果を踏まえての、そういう意味での結果論ではあるけれど、言いたいことはよくわかるし、「フィールドの幅を一杯に使う攻撃的ラグビー(attacking rugby on the front foot)」のチャンスが潰えたことをわたくしも氏と同様に惜しむ。

 ただ、その責任をスタンドオフ一人に帰してよいかどうかは難しいところで、というのは、もう一方の記事で、一人のプレーヤーがこう証言しているからである。

コーチング・スタッフはウィルコにあまりに多くのことを押し付けてきた。〔…〕彼はゲームをコントロールするよう言われて〔…〕自分が最高の状態にあったときに、死ぬほど自己分析した。その結果、自分の得意とする部分を錆びつかせてしまったんだ〔…〕トンガ戦では、本能のおもむくままボールを手でパスしてしかるべき場面も何回かあったんだが、そうする代わりに彼はあの馬鹿みたいなアップアンドアンダーを選択した。ゲーム・コントロールが信条になってしまっているからだ。

「本能的に」と直訳すれば響きが強くなりすぎるけれども、要するに、難しいこと――例えば(これはもちろん皮肉だが)「タテタテヨコ」とか――を考えるまでもなく、プレーには自然な方向というものがある。ラグビーは横の動き(ボール)と縦の動き(プレーヤー)が、時には逆転しながら、また斜めの動きも交えつつ途切れなく絡み合い、組み合わされることで固有の運動をつくり出すスポーツであるとして、その運動に沿う形で当然ボールを手でパスしてよかった場面があったと、このプレーヤーがいっているのはそういうことだ(むろん時にはそうした当然の流れに逆らうことも必要となろう)。そしてウィルキンソンがナチュラルボーン・ラガーマンであることはおそらく誰もが認めざるを得ない事実である。
 こうした証言を信じるかぎり、イングランドのプレーヤー自身(誰だろう? やはりバックスか)が「馬鹿みたいなアップアンドアンダー」と思っていることがわかるし、またキッキング・ゲームがウィルキンソンの本領では必ずしもなかったと考えざるをえなくなる。同じ匿名証言者はさらにこう言い添える。「ジョニーが得意なのは、10 番の定位置からずれてゆくことなんだ。彼にもう少しスペースを与えてもっとワイドにやらせてみればいい。喜んでプレーするから」。Getting away from 10! 素晴らしい。それこそラグビーというべきではないか。

 ウィルキンソンが代表に定着したのは 1999 年、ワールドカップでもそうだったように、13 番(+キッカー)としてだった。10 番にキャットあるいは P・グレイソン、そして 12 番にはガスコットのいた時代である。もちろん彼はすぐに 10 番に固定されるわけだが、すでに触れたとおり、実は 2003 年も今大会も 12 番に入ったキャットにゲームメークの点ではサポートを仰いでいる。今回の決勝戦でバックスリーのカウンターアタック時にキャットが後方に下がって相手のキックに対応するなどしたのは、ウィルキンソンの体調が万全ではなかったからだと思うが、とにかく、キッキング・ゲームが彼にかなりの無理を強いる戦術だったとは少なくともいえるのではないか。そして、実際、イングランドの今大会での戦いぶりを虚心に見れば、彼らにとってもウィルコ個人にとっても展開プレーがいかに重要だったか容易に理解されるだろう。わたくしが準々決勝のワラビーズ戦で図らずも感動を覚えてしまったのは、こうしたことと大いに関係がある(FW 陣のがんばりはいうまでもない)。
 パスプレーにおいてウィルコが例えばラーカムやカーターに匹敵しうるかどうかはまた別の話だ。大切なのはゲームを通じて彼の、そして結局はイングランド XV の抑圧がいくらかでも解かれようとしたこと、そしてその解放がしかし決勝戦ではどういうわけか十全に行われなかったということである。何故かと、赤の他人の心理を忖度してみても仕方ないけれど、「オブセッション」となるまでに思い込むのはどうだろうか。抑圧ほどスポーツにふさわしくないものはない。怪我を治して、もっと伸びやかにプレーしてほしい。そのためにはまず――そうだな、プレースキックのあの抑圧的で屈辱的なポーズをやめてしまえ! 元に戻してキッカー職を解かれたとしても、それは抑圧からの解放と肯定的にとらえるべきだし、ぜひとも 10 番の脱領域化(getting away from 10)を志向すべきだ。たとえだめでもセンターとして十分やっていけるだろう。エディ・ジョーンズ氏の考えではテイトは FB で使うのがよいそうだから、そうすると(アシュトンがその助言に従うかどうか知らないが)ちょうどポストが空くし。

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