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2007年12月 1日 (土)

IRB 委員会決定を承けての雑感

 IRB(国際ラグビー評議会)の委員会でいくつか重要な事項が決定/確認されたようだ。まず 2011 年ワールドカップ・ニュージーランド大会出場国数が 20 に据え置かれる。サッカーの場合とは異なり、ジャパンより明らかに強いにもかかわらず今回出場しなかったチームはないのだから、次回も出場自体はほぼ確約されたといってよいのではないだろうか。アジア代表枠が仮になくなって世界予選のようなものが課せられるとしたところで、8 ヶ国のうちにはいくらなんでも入るだろう。
 また、ワールドカップの合間に「ワールド・シリーズ」のような国際大会が開かれる可能性が検討されているらしい。形式的にはふたつのオプションが議論の俎上に乗せられているとのことで、出場チームは 6 ネーションズ、3 ネーションズ、それにアルゼンチンなどを加えた 10 ヶ国ないし 12 ヶ国。今秋から南アフリカとウェールズの間で新たに定期カップ戦が始まったりしているが、そういった「対抗戦」を包摂する仕組になるのだろうか。

 さらに、アルゼンチン代表の 6 ネーションズ参加不可が確認された。英仏のクラブと契約しているプレーヤーを主体としたチームで 3 ネーションズ対抗戦に参加するのは時期的に難しかろうが、かといって彼らを除いた「ロス・プーマス」では相手にならないだろうから、現実的には中南米でのネーションズ・カップ(参加各チームはアマチュア主体となる)に別の形のテストマッチ・シリーズをプラスするといった風になるのではないだろうか。
 この件についてはいろいろな意見がさまざまなレベルで交わされていたけれども、例えば BBC サイトの読者フォーラムでは 6 ネーションズでアルゼンチンが見られるのは素晴らしいことだという意見・願望も少なからず表明されていた。アルゼンチンにとってもそれが最善だったろうが、それはもちろん不可能である。しかしそれは公式に説かれるようにアルゼンチンが「南半球」の国だからという以上に、端的に「6 ヶ国対抗戦」が「ヨーロッパ選手権」以外の何ものでもないからだろう(「7 ヶ国対抗」が日程的に困難であるという、いわば技術的な理由づけにはここでは触れない)。

 面白いのは、アルヘンティーナが実は中南米においておのれの「ヨーロッパ」性を誇る鼻持ちならない国だという点である。メキシコ人の友が断言していたことだが、アルゼンチン人は自分たちが特別だと思って憚るところがないという。その理由は――人を暗澹とさせるに十分なものだが――この国が「白人」主体だから、つまり土着民族の血が他に比べて薄いからなのである。あゝ、ヨオロツパよ! 白人よ!

 とはいえ「白人」批判、ヨーロッパ批判をここで展開しようというのではない。ふだん括弧に入れて棚上げしている事柄をわざわざ書き付けるのは他でもなく、人は自分が何事かを括弧に入れているということ自体をしばしば忘れてしまいがちだからである。折に触れてそうしたことを思い出すのも悪くはない。
 例えばラグビーの起源。太陽信仰などとも結びついたりする玉遊びは普遍的な事象であるけれども、現在のわれわれが熱狂の対象とするような蹴球の原型はイングランドやフランス北部における、いわば町全体をフィールドとするような祝祭だった(ということにしておく)。だからラグビーやサッカーの起源――これはエリス神話などよりずっと根源的なものだ――は、障害物が多々あり、また全体を見通すことも難しいようなフィールドが、四角四面の芝のフィールドに押し込められ置き換えられた時点にこそ求められなくてはならない。その背景にはいうまでもなく大英帝国の世界「進出」がある。早い話が、あれら麗々しく整備された芝のグラウンドは、非「白人」に対する苛烈な収奪の賜物としてとりわけ上流中流階級の「白人」子弟に恵与されたとんでもない代物なのである。しかも規格化されたこの芝のフィールドは、そのままの形で再び全世界へと「輸出」されることになる(もっとも極東では芝はなかなか根付かないのだが)。

 むろん、こんなことを今更指摘してみても仕方ない。だからこそ人は括弧に入れてとりあえず棚上げするのである。それでも、起源の記憶というものはやはり失わずにいた方がよいように思う。実際、クリエイティブなラグビーとは、こうした意味での起源とかかわりをもつことが多いからだ。すなわち、スペースの創造。四角に切り取られたフィールドを――タッチラインは踏み越えずに――逸脱すること。われわれを真に仰天させるのは、2m 級の大男が当たり前のようにラインアウトのボールを確保する場面ではなく、人もスペースも尽きたかに思われた次の瞬間、まるで 16 人目、17 人目がいたかのように、どこからともなくプレーヤーが現れ出て新たなスペースを切り拓くような場面だからである。失われた時=空間を求めて。何か途方もないものを目撃してしまったと人が思うのは、往々にしてこうした起源を垣間見せるプレーではないだろうか。
 スペースの創造は横方向に限定されるものではない。だからフアン・マルチン・エルナンデスはパントキックを蹴り上げる。上方へのスペース創造はまだ始まったばかりである(まあ、ラインアウトのサポートも含まれるのかもしれないが、ここでは割愛する)。ほどよい高さの「ハイ」パントにはもう飽き飽きしているが、エルナンデスの異次元的ハイパンには何かわけのわからぬ可能性が秘められているように思われる。そういうわけだから、批判など気にしないで、とりあえずどんどん蹴ればよい。高く、高く、"Up and up and up and up and up, and you'll never come back..."

 話が何段階にもわたりあらぬ方へと逸れてしまったが、要するにアルヘンティーナは、ホーム・ネーションズからひとまず非「ヨーロッパ」と決め付けられてしまったわけだから、変な色気を出すことなく、これまで通り臆せずやんちゃなラグビーに邁進するのがよろしかろうということだ。そういえばピチョットが三位決定戦でアリノルドキ(この人はバスク人なのだが)に putain! といっているのがテレビにはっきり映っていた。ただし、唇の形からして「ピュ……」ではなく「プ……」というスペイン語風発音だったが、その種の柄の悪さにはしばらく目を瞑るから、そして中南米での「白人」的振る舞いは差し当たって括弧に入れるから、とにかくラグビーのプレーでやんちゃぶりを発揮して欲しいと願う。
「空気の読めぬ田舎者」と叱責される中尾氏(まあ教育的ポーズ以上のものではないと思うが)のお気持もわかるけれど、「白人」と非「白人」の間で妙な位置を歴史の因果も手伝って占めることになった日本、少なくともフランスでは良くも悪くも「脅威」にあらずと見なされて久しい日本人のことを考えてみるなら、「白人のジェントルマン」(「紳士」は四民平等とも男女平等ともまるで無縁の歴史的概念である)に認められ取り立てられるばかりが能ではあるまいと、そういう風にも思う。「黄色くて弱そうな連中が頑張っているようだからここはひとつ応援してやるか」といった、判官贔屓とは似て非なる、人種差別的とでもいえばよいか、とにかくある種の憐憫の情に支えられて「善戦」するという段階を、日本ラグビーはいつになったら卒業できるのだろうか。もちろんこれはジャパン XV だけの問題ではなく、白人たちの側の問題でもある。

〔追記 タックルした後なかなか放そうとしないアリノルドキに対するピチョットの悪罵の場面には、続行しているプレーを追うのではなく、「田舎者」の非「紳士」的行為をこそ世に伝えようとするTV ディレクターの悪意が感じられた。悪態を吐くくらいのことは多くの人がやっているだろう。だからといって免罪されるわけではないけれど、こうした印象操作の方がいっそう罪深いものであるとわたくしには思われる。〕

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