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2007年12月

2007年12月17日 (月)

ハイネケン・カップ プール第四節

 週末にフランス 2 でハイネケンカップの二試合を観戦する。昨日は「ペルピニャン対ロンドン・アイリッシュ」、今日は「トゥールーズ対ライスター」。ワスプス対クレルモン・オヴェルニュもカーディフ・ブルーズ対スタッド・フランセ・パリも面白そうだったが(そしてスコアを見るかぎり実際にそうだったようだが)仕方ない。プール・ステージの後半に入り、順位争いのための戦略も必要となってくるが、いつも合理的なゲーム運びが出来るわけではなく、僅差敗北ボーナスの 1点を獲得すべくラストワンプレーでトライを必死で取りに行くといった展開が見られるようになるだろう。
 1 組首位のロンドン・アイリッシュは、負けても(双方ともボーナス点なしとすれば) 1 点差で首位をキープできる。6 組のトゥールーズは連敗すると首位陥落、かつ逆転が難しくなる状況だ。日本で放送するかどうかわからないが、こちらのマッチはとても面白かった。Un match à ne pas manquer である。これがワールドカップ準決勝ならなお良かったし、こういうゲームをやればラポルトも、たとえ負けたにしても敬意を受けることができたろう――いや、ワールドカップに多大な期待を寄せるのはやめた方がよいかもしれない、クラブチームだからこそのパフォーマンスというものもある。

 ここまでチーム戦績の数字上は攻撃力(そして失トライの少なさ)が際立っていたロンドン・アイリッシュだが、いったいどのようにトライを取るのだろうと興味をもっていた。マイク・キャットのキックで敵陣深くに入ってから仕掛けるのだろうくらいは想像がつくけれども、問題はその後どうするかである。
 とはいえ、グラウンド・コンディションが今日も悪く、みぞれ混じりの雨が雪、次いで雨に変わり最後まで止むことがなかった。そのせいもあり双方にハンドリング・エラーが多発したが、とりわけロンドンの方はラインアウトも含めチャンスの多くをノックオンで潰えさせてしまった。ラインが揃った状態でボールが SO に渡ると、ふつう回してもよさそうなところでも必ずショートパントやチップキックが蹴られる。これまでもこうやって攻めていたのか。両 WTB がアイランダーということもあり、上手く転がれば(ないし弾めば)前進できるということだったのかもしれない。だが今日はそのキックがことごとく相手ディフェンスに当たり失敗に終わった。リズムが出ないまま組織的プレーも出来ず、ノートライの完敗である。

 ペルピニャンの方は前半20分まで連続して相手陣で攻撃し続けるという、うまいゲームへの入り方をしてリズムをつかんだ。マルティやツイランギの負傷欠場はあったものの、FW 戦で負けることなく、ロンドン側のミス(反則による一時退出も含む)を上手く利用して結局最後まで優位に進めることとなった。ボーナス・ポイントを獲得できなかったのは惜しまれるが、残り二試合での逆転を狙うことになる。ロンドン、ペルピニャンとも連勝はほぼ確実なのでボーナス点の勝負になるだろう。注目の「新人」パーシー・モンゴメリーは、チームがほとんどの時間攻勢だったこと、またライン参加の機会がなかったこともあり、今日は散発的にキックを蹴り返すだけにとどまった。後半途中で退いたが、怪我の具合が心配である。またスコットランド代表 SH のキュイスターは(いつからいるのか知らないけれど)サイド攻撃を継続するのかラインに回すのかの判断が他の選手と噛み合っていなかった。これはまあ修正可能だろう。

 日曜のトゥールーズはパリ同様に快晴(ただし後半からは霧でフィールドが薄く覆われるという、ちょっと見られないコンディションとなった)。芝が綺麗で、キックオフ前の期待がいっそう高まる。スタンドには代表チームを率いるマルク・リエーヴルモンとエミール・ンタマックが並んで陣取り、ゲームを見つめる。先発メンバーのうちライスター側は 2 ・5・6・7・10・12 番、スタッド・トゥールーザン側は 2・4・6・7・9・11~15 番が現代表または経験者なので、顔ぶれだけでいえばほとんどフランス対イングランドである。
 そのフランス代表、いやトゥールーズの戦い方は概していうと、FW は FW の仕事を、BK は BK の仕事をというものだった。FW はラック・サイドのピック&ゴーとラインアウト以外では互角。前者はライスターに一日の長があり、フランス側はどの局面でもあまりドライブできなかった。反対にラインアウトではライスター側が自滅に近く、チャンスを活かせずに終わった(ただし今日はラインアウト自体が少なかったため決定的な要因とは思われない)。SO のプレー選択では、タッチキックと相手に取らせるキックがきわめて少なかった点、そしてトゥールーズ側がハイパントを多用したのに対し、ライスターはほとんどがパスだった点が注目に値する。トゥールーズはバックスが全員トップ・フォームだったこともあり、結果として(あるいは意図的に)何をやってくるか相手が予想できない攻撃態勢をつくることができた。ディフェンスの的が絞れないとき、フィールドは実際以上に広く感じられるものだ。この戦略は奏功したようで、ライスター・ディフェンスが前に出てくればハイパント、待っていればバックス展開というふうにして、攻守にわたって相手の出足を少しずつ遅らせることができたと思う。
 ライスター・タイガーズの方はハイパンをほとんど用いずパスによる展開とラック・サイドの突破でゲームを組み立てた。FW のピック&ゴーは確実にゲインしていたし、アンディ・グッドのパスはスピード、コントロールとも申し分なく、走り込む受け手にドンピシャのタイミングでボールが渡っていたのだが、一時防御を突破したあとのサポートがなかった、あるいは遅かった。もちろんトゥールーズのディフェンスもよかった。

 前半にひとつずつ取り合ったトライはどちらも非常に美しかったが、いずれも FW のラインブレークからラックが形成される前にバックスに展開して奪ったもの。トゥールーズのトライは、相手陣右側でのラインアウトがすぐスロワーに戻され、2 番のセルヴァ(ット)がライン際を疾走(これもまあラインブレークである)したところから始まった。あらかじめ決まっていたのだと思うが、ボールはすぐエリッサルド、クーラン、ジョジオン(背番号は 13 だがやはり「第一センター」)とパスされる。タイガーズのディフェンスはまったく対応できておらず、このまま回すだけでもトライを取れただろうが、11番エマンスが巧みな動きでラインブレークし、ディフェンスを引き付けてからフリッツ→ポワトルノーでトライ(大外にはさらにクレールがいた)。
 そういうわけで、相手に的を絞らせない攻撃の組合せを創出するという点でクーランのゲーム・コントロールはかなりよかった(彼が全部組み立てているとしての話だが)。また、この人は外見がウェールズのガレス・クーパーによく似ているのだが、試合中何度も、ごく自然に SH をこなしており(その場合エリッサルドが SO となる、いわゆる「ダブル・ハーフ」戦法で、実際に二人とも SO として一本ずつ DG を決めている)、基本的に別々の事をしている FW と BK の連携をいっそう円滑にする点で効果的だったと思われる。SO はまだ選考の余地はあるだろうが、フランス代表の BK は今日のメンバーでよいのではないか。敢えていうなら問題はむしろ FB で、クレマン・ポワトルノーの糸の切れた凧みたいなフリーランニングは確かに魅力的なのだが、キック(処理)でのポカが多すぎる。デビュー時からあまり成長の跡が見られないのはどうしたことか。

 だからアンディ・グッドはもっとハイパンを蹴るべきだった。FB が下手糞ならハイパンが常道だろうに。今日は SH・SO のハイパントが非常に少なく、タッチキックや陣地をとりあえず稼ぐキックはもちろんあったものの、基本的にはほとんどパスだった。先週とは違い、ゲインしたあとのサポートがあまりなく、結果的にはさして有効ではなかった。これはディフェンスの的を絞らせないというトゥールーズ側の戦略が奏功したということだろう。まあでもプール二位チームの中で勝ち抜ける可能性は残っている。

 トゥールーズ・バックスのプレーは見ていて単純に面白く、スペクタクルに対する欲望はいちおう満足させられたはしたのだが、ひとつ思ったのは、これは悪くするとサッカーでいうところの「中盤での華麗な(だがその実さほど有効でない)パス回し」に堕してしまいかねないということだ。トライ一本目はサインが上手く決まったからこそのプレーだったわけだし、二本目はハイパントを相手 FB に取らせ、孤立させてボールを奪ったのが起点となっている(ただしマーフィはキャッチングそのものは今日は完璧だった)。素早くウィングに展開し、クレールがW 杯のアイルランド戦と同様、タックルを引きずりながら力業でタッチダウンしたのは素晴らしかった(タックルした三人がコリー、ランベニ、マーフィというのは凄い)けれども、要するにこれは高度なタスク・ラグビーなのであって、筋書き通りに事が運ばないときどうなるかはまだまだ不明である。またたとえばバックスの展開において、パスの速度・タイミングを利用して、またギャップを巧みに見つけて抜こうとするセンスではライスターの方により大きな可能性を感じた。一歩違えばガンガン突破する可能性である。
 むろん可能性は、実現することのない「将来の夢」や果たされぬ約束と同じように、ただの可能性にすぎない。だが、可能性を胚胎する者が眩しく輝き人を引き付けるということもまた真実なのである。W 杯でアルゼンチンを輝かせた M・ロフレダ監督が何を考えているか知らないけれども、できることならタイガーズにも何とか勝ち抜けてもらいたいと思う。

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2007年12月12日 (水)

カバー・バージョン

 翻訳というものを拡大ないし一般化してとらえようとする考え方がある。極端な場合、人間の行なう認識・創造活動すべてが一種の「翻訳」ということにもなる(たとえばミシェル・セール)。そこまででなくとも、小説や絵画、あるいは音楽の製作を「翻訳」と考える人は多い(マルセル・プルースト、多和田葉子ほか)。
 こうした一般的翻訳論がそれ自体として重要であるのは間違いないし、また狭義の翻訳についての思考に必ず何ごとかをフィードバックしてくれるはずだが、問題がないわけでもない。すなわちこの場合、オリジナルは何処にあるのか。「頭の中」というのは答えとして不十分である。というのも、翻訳が素晴らしいとすればそれは、ひとつには原文と翻訳とが並んであるからだ。長い文章、本一冊丸ごとというのではなく、ほんの一語でも全く構わないが、とにかく「この言葉は英語で何というのか」と、深い意味もなく知りたくなるということは多くの人が経験しているはずである。(見た目の)異なるふたつの外国語が、しかし互いに忠実な関係を結びつつ並んでいること、場合によってはただそれだけで純粋な喜びとなりうるのである。
 ところで、小説を書くことが「翻訳」だといった場合、そのオリジナルは、狭義の翻訳の原文があるという意味においてあるとはいえない。オリジナルはそれを誰かが取り出そうとしたかぎりにおいて「ある」(といえばある)。だから間違いだといいたいのではない。ただ、性急に「すべてが翻訳だ」と結論を出す前に、「オリジナルのない翻訳」や「オリジナルという概念」といったことがらについていろいろ考えなくてはならないだろう……

 そうしたややこしい事柄から離れて、音楽のカバーバージョンについて少し考えてみたい。ここでは外国語の歌の各国語バージョンではなく、ごくふつうの意味でのカバーのことを指している。拡大された「翻訳」の一例として。

 面白いことに、クラシックでカバーバージョンが問題になることはなく、グールドがバッハを「カバー」したとか、そういう言い方はふつうされない。ジャズや現代音楽でも基本的にそうだろう。前者は楽曲のスタンダード化が進んでおり、他方、後者は逆に、演者との結びつき(事件性といってもよい)がきわめて強く、簡単にカバーできそうにないからだ。リュック・フェラーリのカバーなど、想像することさえ困難である。ロックやポップスの場合、(他にもさまざまな理由はあろうが)ここでは楽曲とオリジナル演奏との固着関係がほどほどの強さしかもたないからと解しておきたい。
 言い換えれば、時代や演者との結びつきはそれなりに強いものの、楽曲の別の演奏の可能性を探りうる程度の緩さがそこにはあるということだ。それにしても、別の演奏、別の解釈など本当に必要なのだろうか。個人的にいうと、カバーバージョンを特別聴きたいと思わないどころか、積極的に拒絶したいとさえ思う場合はある。「ビニールが擦り切れるほど」といえばよいか「虎がバターになるほど」というべきか、とにかく何十万回と聴いたもの、たとえばマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン・オン』の歌ものカバーなどは個人的には必要を全く感じない。個人の感傷は抜きにして、しかしこうした意味での固着、楽曲と演奏の緊密で親密な結びつきというものは確かに存在している。ということは、「翻訳」としてのカバーとは、楽曲と(オリジナルの)演奏の間にいわば割って入るものなのである。一旦割り込んでみたものの跳ね返されてしまうこともあれば、その後ずっとそこに居座り続ける、つまり乗っ取ってしまうこともあるだろう(演奏の「スタンダード」化)。あるいはまた、とりあえず割り込むことで、楽曲と演奏者との固着を解放/開放して自由にする、すなわち楽曲そのものの別の魅力の探究を通じてその「スタンダード」化に貢献するようなカバーもありうるはずだ。この場合の「スタンダード」は芸術理論にいう「作品」とほぼ同義で、要するに楽曲の自律性とかかわる考え方である。まさにバッハ作品に対するグレン・グールドの態度につながるような仕方でのカバーというものが、ロックやポップスで増えても別に悪くはないと思う。

 とにかく以下は翻訳論的観点からのみ試みられたカバー・バージョンの分類である(売り上げの多寡による功績はもちろんのこと、純音楽的達成度なども考慮しない)。
 各項目の実例も主観性は免れがたく(また教養の無さも手伝って)、試験的・暫定的なものにとどまっている。いずれにせよ、カバー自体はおよそ無数といえるほど存在しているので、ほんの一例にすぎない。なお、ライブ演奏の扱いは難しいところで、名演も少なくないけれど、ここではレコードとして誰もが聴けるものに限定する。

1) 本人やファンにとって、また印税収入が得られるだろう原作者にとってしか意味をもたないカバー

 無理矢理ポジティブな言い方でさらに分けると
 ・元の曲・アーチストに対する好意や敬意が感じられるもの
 ・科学技術やレコーディング技術の進歩を確かにまざまざと感じさせてくれるもの
 などとなるだろう(スティングの「リトル・ウィング」は両方にあてはまるかな)。
 文学における「外国語からの翻訳」と比較すると、忠実さのあり方が異なっているように思われる。

 トッド・ラングレン『フェイスフル』 A 面……うまいとは思いますがねえ、完全コピーしてどうする。
 フィル・コリンズ「恋はあせらず」……同上。
 テイク・ザット「愛はきらめきの中に」……同上。
 
桑田佳祐「ディキシー・チキン」(ライブ)……同上。ただし桑田というかサザンはオマージュ・ソングがどれも素晴らしい。

2) その曲の「スタンダード」的演奏となりうる(いわば「オリジナル」の地位を簒奪しうるような)カバー

 ビートルズのカバーはそれなりに試聴してはいるけれども(コートニー・パインが「64 歳」を吹いたやつとかマーカス・ミラーの「カム・トゥゲザー」とか)感心した記憶がほとんどない。
 彼ら自身によるカバーがここに分類されることからして、またポール自身による例えば「ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア」のカバーが惨澹たる出来であったことからもわかるように、楽曲に対するアプローチの仕方がビートルズはきわめて特殊なのではないだろうか。楽曲を解き放ち「スタンダード」化するといった態度と無縁であるというか、時代やオリジナルの演者との結びつきがあまりに堅固というか。
 しかしながら、あるいはむしろ、だからこそビートルズのカバーはつねに待望されるわけだが(今更ビートルズでもあるまいという意見には同意する)、私見では今のところスクリティ・ポリティによるもの(次の項目参照)以外にはほとんど成功例がないと思う。何十万回と聴いた楽曲であるにもかかわらず、たった今まさにその楽曲が新たに誕生したと思わせるようなカバー。
 むろん、個人的愛着の度合だけが問題なのではない。すでに触れたマーヴィン・ゲイのような例は誰にもあることと思うが
――だからカラオケで椎名林檎を歌おうとするわたくしに待ったをかけた友人の気持はよくわかる――、その一方で、同様に何百万回と聴き親しんだニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの例えば『テンダー・プレイ』など、まだ楽曲の可能性が採掘し尽くされていないように感じられるものもあるからだ。といって誰が N・ケイヴをカバー=翻訳しうるか想像もつかないのだが(今のところジョニー・キャッシュのやつは除いて)、とにかく

 エルヴィス・プレスリー「ブルー・スエード・シューズ」「ハウンド・ドッグ」など
 ザ・ビートルズ「ロング・トール・サリー」「ミスター・ムーンライト」「ツイスト&シャウト」など
 ジミ・ヘンドリクス・エクスピアリアンス「見張り塔からずっと」
 エルヴィス・コステロ「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド」

3) その曲自体の「スタンダード」化を可能にする(少なくとも別解釈の可能性・有効性を示す)カバー

 これがおそらく文学における「忠実な翻訳」に対応するものと考えられる(アプローチはともかく効果という点で)。詳しくはアントワーヌ・ベルマン『他者という試練』のとりわけ第八章を参照されたい。

 ジョン・コルトレーン「マイ・フェイヴァリット・シングズ」……ジャズだが参考例として。
 
ザ・バーズ「ミスター・タンブリング・マン」
 
ザ・フー「バーバラ・アン」「ヒートウェイヴ」「サマータイム・ブルーズ」
 ザ・ローリング・ストーンズ「むなしき愛」

 ザ・バンド『ムーンドッグ・マチネー』

 吉田拓郎「襟裳岬」……元々自身の作曲したものだが。
 ブライアン・フェリー「激しい雨が降る」
 ロバート・パーマー「セイリング・シューズ」

 
ロクシー・ミュージック「ジェラス・ガイ」「ライク・ア・ハリケーン」(ライブ盤)
 バナナラマ「ノー・フィリングズ」(サントラ)……今なら HALCALI がアナーキーをやるという感じか。色物すれすれだが、セックス・ピストルズの楽曲が「スタンダード」化されるとすればそれはとてもいいこと。
 バウハウス「テレグラム・サム」……個人的にはオリジナルの方がずっと好きだが、いちおう。

 ボーイズ・タウン・ギャング「君の瞳に恋してる」

 ラン DMC featuring エアロスミス「ウォーク・ジス・ウェイ」……個人的には 2 でも構わない。
 ロバート・ワイアット「シップビルディング」
 ローザ・ルクセンブルグ「ブルーライトヨコハマ(原宿エブリデイ)」
 トーキング・ヘッズ「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」

 ジョニー・キャッシュ「マーシー・シート」
 スクリティ・ポリティ「シーズ・ア・ウーマン」「テイク・ミー・イン・ユア・アームズ・アンド・ラヴ・ミー」……とりわけ前者はビートルズのカバーとして例外的な成功といえる。
 矢野顕子「Simon Smith and the Amazing Dancing Bear」「海と少年」……もともと楽曲「スタンダード」化志向の強い人で、他にもすぐれたカバー多数。英語をなぞるのではなく、ふつうに英語の歌になっているところも凄い。
 ピチカート・ファイヴ「マジカル・コネクション」
 桑田佳祐「愛の讃歌」……この場合のオリジナルは越地吹雪。CM 用の録音で、部分的カバーにすぎない点が惜しまれる。
 アンビシャス・ラヴァーズ「パラ・ナン・コントラリア・ヴォーセ」
 スマップ「セロリ」……山崎まさよしの歌の上手さがなくともちゃんと曲になっているプロダクションが見事。

 中谷美紀「クロニック・ラヴ」
 
 原田知世「時をかける少女
」(セルフカバー)……歌、うまくなりましたねえ。プロダクションのせいだけではないでしょう。最初聴いたとき、中谷美紀がカバーしているのかと思ってしまいました(中谷さんが特別うまいとは思いませんが、とにかく聴かせてくれた M 氏に感謝します。しかし M さん、あのあとわたくしは、原田さんのオリジナルを Youtube で探し、テレビでの生歌唱を聴いたのですが、率直にいって腰を抜かしましたよ)。
 デイヴィッド・ボウイ「アメリカ」(ライブ)
 スキップカウズ「オンリー・ユー」……CM でチラッと聴いただけだがとても印象に残った。
 椎名林檎・松崎ナオ「木綿のハンカチーフ」
 アート・リンゼイ「ベイジャ・メ」
 ペット・ショップ・ボーイズ「Where the Streets Have No Name - Can't Take My Eyes Off of You」……例のギターで窒息しかけていた U2 の再生させるとともに(『アハトゥング・ベイビー』と同年の発表)、そして「ホエア・ザ・ストリーツ・ハブ・ノー・ネーム」と「君の瞳に恋してる」の類縁性を示唆したことで知られる(名曲の)名カバー。
 スパンク・ハッピー「フィジカル」(ライブ、一応)
 ダーティ・ダズン・ブラス・バンド『ホワッツ・ゴーイング・オン』
 Sweet Robots against the Machine「Free」

4) 意欲は買えるカバー(楽曲の可能性を拡げたとはいえないまでも 1 に分類するのが惜しまれるもの)、「本歌取り/パクリ」、パロディ、その他

 萩原健一「大阪で生まれた女」
 トッド・ラングレン『Wizard/True Star』に入っているフィリー・ソウルのカバー
 ハイファイセット「卒業写真」
 ヴァン・ヘイレン「ユー・リアリー・ガット・ミー」
 
ザ・レインコーツ「ローラ」
 シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム

 スティング「誰かに見られてる」(サントラ)……「スタンダード」そのものだがスティングの声によく合っていたのと、「見つめていたい」→「セット・ゼム・フリー」という「脱ストーカー」の主題に連なると思われるので(念の為にいっておくと watch over は「監視」というより「見守る・番をする」)。

 PUFFY「これが私の生きる道」

 椎名林檎「本能」……何か「丸の内サディスティック」とものすごく似ているように思われるので。五線譜に起こしてみると全然違うかもしれないけど。
 菊地成孔「ファムファタール」
 
 ソニック・ユース「スーパースター」

    ***

 力尽きたのでとりあえずここで中断する(各実例の発表年など添えるべきだろうが)。最近はカバーのコンピレーションが流行してもいるので、いろいろ面白そうなのもあるだろう。またセルフカバーはほとんど除外したし、一回きりの生演奏と、録音された「レコード」との異動など、触れなかった問題もある。さらに今回、社会学的観点は除外した点を注記しておく。白人による「パクリ」というのは音楽史としてきわめて重要なテーマであろうが、「キャロル・ケイ事件」でも明らかとなったように単純な善悪の構図に収まるものではなく、扱いがとても難しい。

〔追記 カバーのあり方によってではなく、その数の多さによって「スタンダード曲」であることが実質的に証明されてしまっているような例も少なからず存在する。「エリナー・リグビー」や「イエスタデイ」、また「夢で逢えたら」。この場合の「スタンダード」は別の意味合いであって、カバーそれぞれとオリジナルの関係を考えるとやはり上の 1-4 いずれかに分類されるはずである。
 また、上に名の挙がっているアーティストたち自身の、オリジナル楽曲・演奏との関係は多種多様である。文学の領域で、翻訳がその創作に対してきわめて重要な意義を担う作家もいれば、ほとんど無関係な(たとえ翻訳を実際に行なっていても)作家もいるというのと同じことで、翻訳=カバーに対する態度もさまざまでありうる。たとえばロキシー・ミュージックが最も創造的だったのはやはり B・イーノが在籍した時期になると思うが、「リメイク/リモデル」という曲名に表れているように、その創造性は「オリジナルの(はっきりし)ない翻訳」とそもそも深い関係にあったといえるのであって、そのことを明瞭に――つまり模倣や影響ではなく翻訳として――意識していた点に彼らの新しさがあったのだと思う。事実、グループのオリジナル曲のほとんどを手がけた B・フェリーはカバーだけのソロアルバムを複数出し、たとえば「激しい雨が降る」の実にへんてこりんな、だがとても味わい深い解釈を発表している。一方、グループ名義でも「ジェラス・ガイ」や「ライク・ア・ハリケーン」をカバーし(後期のライブ盤『ハイ・ロード』)、人を驚かせるところは少ないものの、ほんの少しの差異を導入することによって J・レノンや N・ヤングの声から楽曲を解放することに成功している。

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2007年12月10日 (月)

ハイネケン・カップ プール第三節

 週末にフランス 2 でハイネケンカップの二試合を観戦する。昨日は「ライスター・タイガーズ対トゥールーズ」、今日は「スタッド・フランセ対カーディフ・ブルーズ」、フランスのトップ・クラブがイングランドとウェールズのクラブと戦うという組合せである(ちなみに今週一番のゲーム「ワスプス対クレルモン」はカナルプリュスでの放映)。

 思えばワールドカップ終盤は静電気がバリバリ発生するほど寒かったものだが、いつの間にか 10-15 度の間で気温は安定している。その代わり天候はきわめて不順で、ほぼ毎日雨が降る。この土曜のマッチも雨に降られコンディションはかなり悪い。その分ハンドリング・エラーも少なくなかったが、ゲームとしてはとても面白かった。最終スコアだけでなく、得点経過も含め W 杯準決勝のイングランド対フランスにそっくりである点は興味深い。FW 戦ではスクラム・ラインアウト、それにニャンガの突破以外では劣勢だったものの、スタッド・トゥールーザンの 11 番以下はそのままフランス代表の一本目であり(CTB フリッツは W 杯に出場していないが)、とくにパス交換を主体としたミッドフィールドでの連携プレーはワクワクさせるものだった。惜しまれるのは「仕留め」の段階で必ずミスが出た点である。また W 杯の時と同じだが、一時防御突破後のサポートがほとんどない点を改善しなければ、イングランド相手には今後もトライを取れないことになるだろう。

 新人 SO クーランはまずまず良かった。トゥールーズでプレーするということはすなわちレ・ブルーでプレーするということなのだから、厳しいゲームの中でよい経験を積んで欲しいと思う。同様に「新人」である SH ケラハーは獲得した意味がそもそも分からない。戦術的なキックも含めエリッサルドの方が上に思えるし、世代交代を見据えて生え抜きの若い選手を起用した方がよいのでないか。FL ニャンガの突進は見応えがある。デビュー時は身体もずいぶん細かったように思うがいつの間にか筋肉が付き、スピードも加速力も大幅に向上している。第三列としては世界トップレベルの突破力といってよいだろう。ニャンガとデュソトワールのポジションは逆も見てみたい気がする。
 ライスターの方は降雨のためもあり、トゥールーズが再三試みたような長いパスは抑え、短いパスをつなぎつつ抜いてゆくという攻め方をした。FW の集散では相手をかなり上回り、またディフェンスが完全に崩れることはなかったため、ミスをついて奪ったトライプラス PG 三本で逃げ切ることとなった。この試合がデビューとなる注目のアーロン・メイジャーは 12 番で先発。初めのうちはゲームに入り込めていないようにも見受けられたが、まあ最初の試合としては良かったのではないだろうか。残り 10 分(?)くらいのところでランベニに交代、フィジアンは逃げ切り態勢の中、タックルで頑張った。初めて見た選手だが SH の二人はパスも動きもよかった。交代出場したヤングズはまだ十七歳だそうで、小柄だが前が良く見えているのだろう、何度もディフェンスのギャップをついて FW のドライブに弾みをつけていた。順調に伸びて欲しいプレーヤーである。
 トゥールーズが 6 組の首位、勝ち点 1 の差でライスター・タイガーズが二位につけている。

 日曜のマッチは地元パリなので見に行くことも考えたが、今日は最初から雨天なので結局断念した。
 今季初登場の J・M・エルナンデスとニッキー・ロビンソンという両チームの SO が前半早々に負傷退場、雨脚は強まるばかりという状況で、FW のピック&ゴーとキックが主体のゲームとなった。とりわけカーディフの方はまさに「10 メン・ラグビー」全開で退屈した。左プロップの G・ジェンキンスが対面のドゥ=ヴィリエに引けをとらず、押し勝つ場面さえあったのが唯一の見所だったかもしれない。2 組のオスプリーズがブルゴワンに快勝し、勝ち抜けの可能性を残したが(現在二位)、ウェールズの他のクラブは苦しくなった。
 スタッド・フランセの方も、エルナンデスが退いてからはパスプレーが見られなくなり、似たようなゲーム運びとなったけれど、ディフェンスで辛うじてまさったというところである。ノートライながらもこの勝利でブルーズを順位で上回り二位に浮上した。ただし、ワスプス、クレルモン、ビアリッツ、オスプリーズなどとの間で二位からの勝ち抜けを争うことになった場合、このままではかなりの劣勢が予想される。

 それにしても、エルナンデスの足の長さはリュグビーメン離れしている。一般に足の長いアフリカ系で 10 番を務めるプレーヤーがそもそもあまり見られないせいか、エルナンデスのプレースキックの際のフォームにはかなり違和感をもった。もちろん否定的な意味は全くない。重心の位置がまずふつうと異なってくるだろうし、単純に、長さゆえ足のスイングのみでかなりの距離が出てしまうということもあって、身体全体を――たとえばウィルキンソンのように――しならせて力をボールにぶつける必要がないことから、必然的に一風変わったフォームとなる。別の観点からいえば、身体を傾がせて蹴るのが難しいために足首以下の使い方によって(のみ)蹴り分ける必要があるということになるだろうか。とにかく面白いプレーヤーである。

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2007年12月 1日 (土)

IRB 委員会決定を承けての雑感

 IRB(国際ラグビー評議会)の委員会でいくつか重要な事項が決定/確認されたようだ。まず 2011 年ワールドカップ・ニュージーランド大会出場国数が 20 に据え置かれる。サッカーの場合とは異なり、ジャパンより明らかに強いにもかかわらず今回出場しなかったチームはないのだから、次回も出場自体はほぼ確約されたといってよいのではないだろうか。アジア代表枠が仮になくなって世界予選のようなものが課せられるとしたところで、8 ヶ国のうちにはいくらなんでも入るだろう。
 また、ワールドカップの合間に「ワールド・シリーズ」のような国際大会が開かれる可能性が検討されているらしい。形式的にはふたつのオプションが議論の俎上に乗せられているとのことで、出場チームは 6 ネーションズ、3 ネーションズ、それにアルゼンチンなどを加えた 10 ヶ国ないし 12 ヶ国。今秋から南アフリカとウェールズの間で新たに定期カップ戦が始まったりしているが、そういった「対抗戦」を包摂する仕組になるのだろうか。

 さらに、アルゼンチン代表の 6 ネーションズ参加不可が確認された。英仏のクラブと契約しているプレーヤーを主体としたチームで 3 ネーションズ対抗戦に参加するのは時期的に難しかろうが、かといって彼らを除いた「ロス・プーマス」では相手にならないだろうから、現実的には中南米でのネーションズ・カップ(参加各チームはアマチュア主体となる)に別の形のテストマッチ・シリーズをプラスするといった風になるのではないだろうか。
 この件についてはいろいろな意見がさまざまなレベルで交わされていたけれども、例えば BBC サイトの読者フォーラムでは 6 ネーションズでアルゼンチンが見られるのは素晴らしいことだという意見・願望も少なからず表明されていた。アルゼンチンにとってもそれが最善だったろうが、それはもちろん不可能である。しかしそれは公式に説かれるようにアルゼンチンが「南半球」の国だからという以上に、端的に「6 ヶ国対抗戦」が「ヨーロッパ選手権」以外の何ものでもないからだろう(「7 ヶ国対抗」が日程的に困難であるという、いわば技術的な理由づけにはここでは触れない)。

 面白いのは、アルヘンティーナが実は中南米においておのれの「ヨーロッパ」性を誇る鼻持ちならない国だという点である。メキシコ人の友が断言していたことだが、アルゼンチン人は自分たちが特別だと思って憚るところがないという。その理由は――人を暗澹とさせるに十分なものだが――この国が「白人」主体だから、つまり土着民族の血が他に比べて薄いからなのである。あゝ、ヨオロツパよ! 白人よ!

 とはいえ「白人」批判、ヨーロッパ批判をここで展開しようというのではない。ふだん括弧に入れて棚上げしている事柄をわざわざ書き付けるのは他でもなく、人は自分が何事かを括弧に入れているということ自体をしばしば忘れてしまいがちだからである。折に触れてそうしたことを思い出すのも悪くはない。
 例えばラグビーの起源。太陽信仰などとも結びついたりする玉遊びは普遍的な事象であるけれども、現在のわれわれが熱狂の対象とするような蹴球の原型はイングランドやフランス北部における、いわば町全体をフィールドとするような祝祭だった(ということにしておく)。だからラグビーやサッカーの起源――これはエリス神話などよりずっと根源的なものだ――は、障害物が多々あり、また全体を見通すことも難しいようなフィールドが、四角四面の芝のフィールドに押し込められ置き換えられた時点にこそ求められなくてはならない。その背景にはいうまでもなく大英帝国の世界「進出」がある。早い話が、あれら麗々しく整備された芝のグラウンドは、非「白人」に対する苛烈な収奪の賜物としてとりわけ上流中流階級の「白人」子弟に恵与されたとんでもない代物なのである。しかも規格化されたこの芝のフィールドは、そのままの形で再び全世界へと「輸出」されることになる(もっとも極東では芝はなかなか根付かないのだが)。

 むろん、こんなことを今更指摘してみても仕方ない。だからこそ人は括弧に入れてとりあえず棚上げするのである。それでも、起源の記憶というものはやはり失わずにいた方がよいように思う。実際、クリエイティブなラグビーとは、こうした意味での起源とかかわりをもつことが多いからだ。すなわち、スペースの創造。四角に切り取られたフィールドを――タッチラインは踏み越えずに――逸脱すること。われわれを真に仰天させるのは、2m 級の大男が当たり前のようにラインアウトのボールを確保する場面ではなく、人もスペースも尽きたかに思われた次の瞬間、まるで 16 人目、17 人目がいたかのように、どこからともなくプレーヤーが現れ出て新たなスペースを切り拓くような場面だからである。失われた時=空間を求めて。何か途方もないものを目撃してしまったと人が思うのは、往々にしてこうした起源を垣間見せるプレーではないだろうか。
 スペースの創造は横方向に限定されるものではない。だからフアン・マルチン・エルナンデスはパントキックを蹴り上げる。上方へのスペース創造はまだ始まったばかりである(まあ、ラインアウトのサポートも含まれるのかもしれないが、ここでは割愛する)。ほどよい高さの「ハイ」パントにはもう飽き飽きしているが、エルナンデスの異次元的ハイパンには何かわけのわからぬ可能性が秘められているように思われる。そういうわけだから、批判など気にしないで、とりあえずどんどん蹴ればよい。高く、高く、"Up and up and up and up and up, and you'll never come back..."

 話が何段階にもわたりあらぬ方へと逸れてしまったが、要するにアルヘンティーナは、ホーム・ネーションズからひとまず非「ヨーロッパ」と決め付けられてしまったわけだから、変な色気を出すことなく、これまで通り臆せずやんちゃなラグビーに邁進するのがよろしかろうということだ。そういえばピチョットが三位決定戦でアリノルドキ(この人はバスク人なのだが)に putain! といっているのがテレビにはっきり映っていた。ただし、唇の形からして「ピュ……」ではなく「プ……」というスペイン語風発音だったが、その種の柄の悪さにはしばらく目を瞑るから、そして中南米での「白人」的振る舞いは差し当たって括弧に入れるから、とにかくラグビーのプレーでやんちゃぶりを発揮して欲しいと願う。
「空気の読めぬ田舎者」と叱責される中尾氏(まあ教育的ポーズ以上のものではないと思うが)のお気持もわかるけれど、「白人」と非「白人」の間で妙な位置を歴史の因果も手伝って占めることになった日本、少なくともフランスでは良くも悪くも「脅威」にあらずと見なされて久しい日本人のことを考えてみるなら、「白人のジェントルマン」(「紳士」は四民平等とも男女平等ともまるで無縁の歴史的概念である)に認められ取り立てられるばかりが能ではあるまいと、そういう風にも思う。「黄色くて弱そうな連中が頑張っているようだからここはひとつ応援してやるか」といった、判官贔屓とは似て非なる、人種差別的とでもいえばよいか、とにかくある種の憐憫の情に支えられて「善戦」するという段階を、日本ラグビーはいつになったら卒業できるのだろうか。もちろんこれはジャパン XV だけの問題ではなく、白人たちの側の問題でもある。

〔追記 タックルした後なかなか放そうとしないアリノルドキに対するピチョットの悪罵の場面には、続行しているプレーを追うのではなく、「田舎者」の非「紳士」的行為をこそ世に伝えようとするTV ディレクターの悪意が感じられた。悪態を吐くくらいのことは多くの人がやっているだろう。だからといって免罪されるわけではないけれど、こうした印象操作の方がいっそう罪深いものであるとわたくしには思われる。〕

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