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2008年3月

2008年3月30日 (日)

シンポ「ロラン・バルト 文学と哲学 1960 年代を中心に」(於 ENS)

 現代フランスのアカデミズム、ことに文学研究の領域ではロラン・バルトの影響を多少なりとも受けた人たちが少なくない。例えばパリ第四大学、要するにレーモン・ピカールのいたソルボンヌは、アントワーヌ・コンパニョンやアンドレ・ギュイヨーらを擁しているし(前者はコレージュ・ド・フランスに転出したが)、一度見物したバルトについての博士論文審査会は、その二人に、エリック・マルティ(パリ第七)とフィリップ・ロジェ(CNRS、EHESS、パリ第四)を加えた四人――「われわれはみなバルトを実際に知っている」――が試問を行なったのだった。
 意地の悪いいい方をすれば、ソルボンヌがバルトをいわば取り込もうとしているわけで、その戦略はさすがだと折に触れて思うことがある(評価しているのではない)。エコール・ノルマル・シュペリウールも負けてはいない(別にソルボンヌと敵対しているわけではないが)。1960 年代のバルトにおける文学と哲学をめぐるシンポジウム
金曜・土曜に催された。
 指導教授のアンヌ・エルシュベール・ピエロが『彼自身によるロラン・バルト』に関する発表を行なうので、彼女を含むセクションだけ聴くことにした。先週、プルースト草稿研究のシンポジウムでの発表を聴いたばかりだったが、いつものように、厳格な構成と、いわくいい難い魅力的な話し方、そして何より「声の肌理」。エルシュベール・ピエロはもとはフロベール作品生成研究と文体論を専門としていたが、近年は『彼自身によるロラン・バルト』などバルトの草稿研究なども行なっている(東大・駒場でも口頭発表された)。現在はバルトの講義録の出版を準備しており、個人的には楽しみにしている。

 T・W・アドルノの研究者であるジル・ムート(モンペリエ大学)の発表は、最初のうちはヘーゲル、マルクス、ベンヤミン、ハイデガーといった固有名詞ばかりが聞こえて来るもので、どうなることかと思われたが、いいたいこと、意図することはだんだんと明らかになってきた。必ずしも混乱しているわけではなかったようだ。ただ、アドルノを論じるなら、ヘルダーリンの「パラタクシス」には言及すべきだったと思う。

 全体的にはしかし、「構造(システム)とそれを超える(そこに収まりのつかない)もの」の一種の弁証法的エクリチュールの実践が確認されたというだけのことで、21 世紀に行なわれるシンポジウムとしてはかなり物足りない。というか、それでは構造主義一般とバルトの区別をつけることが難しくなる。まずは何故われわれがバルトを必要としているか考え直す必要があるのではないだろうか(アンヌ以外)。

 いずれ ENS のサイトで視聴できるようになる。

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2008年3月29日 (土)

『他者という試練』訳者あとがき補遺

 御蔭さまで『他者という試練』は予定通り刊行の運びとなった。古典なので一定数はとにかく読まれるはずと信じるが、他方、「訳者あとがき」のせいで読むのを思いとどまる方が出ないよう祈ってもいる。

 訳者あとがきに書ききれなかった事柄をアトランダムに。

 (未了)

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 本書には(著者ベルマンにとっての)外国語からの引用が多数あるけれども、それらは可能な限りオリジナルから訳出している。翻訳に際しての言葉のずれはともかく起こりうるにせよ、重訳によってそれが増幅されるのは避けたかったからである。別のいい方をすれば、訳者としては、ひとりのフランス人がドイツ語テクストをいかに読んだかを提示することがこの日本語訳の「使命」だと考えたということである(それが十分に果たされているかどうかはともかくとして)。
 実際的な効用もあった。本書は日本ではフランス語版(原書)でまず受容された経緯があるけれども、第10 章、仏語版 241-242 頁の引用文(シュラーアーマッハー)と 243-244 頁の引用文(フンボルト)の仏訳は、オリジナルのドイツ語からややずれていることがわかったからだ。フランス語原書を読まれている方は、その点を注意されたい。なお英語版では、問題の箇所に限っていえば、正確に訳されていることをいい添えておく。

                *

 元を辿ればシュライアーマッハー以来のということになるだろう、翻訳におけるふたつの傾向、すなわち domesitication と foreignization の二分法には、近年、ドゥルーズ=ガタリを援用したローレンス・ヴェヌティによって minorisation という新たな次元がつけ加えられている(ドゥルーズによる「マイナー文学」など参照)。ドメスティケーション/馴化は、根本的な傾向として「自民族中心主義」的であるけれども、「マイナー化」という問題の導入により事態が複雑化する。つまり、外国語と自国語の関係という問題に、国内における「標準語/それ以外」という対立の問題が重ね合わされるわけで、結果として、「マイナー化」である限りにおいて馴化(と一見思われるもの)も許容されうることになるからだ。

 これが、現実の複雑さに見合うよう理論を精緻化するものであるか、それとも真の問題をずらしてしまうミスリーディングな多角化であるか、速断は避けたいが、ドゥルーズがいうような意味での「マイナー」言語が方言のことを指しているのでない点は指摘しておきたい。別の観点からいい直せば、その場合の「メジャー/マイナー」という区別は、言語学的な記述によっては明確化しない可能性が少なからずあるということで、なかなかに厄介である。

 しかしルターの訳業はそもそもそうした複雑な現実――外国語との関係に加え、国内の諸方言との関係――を踏まえてなされたものだったわけだから、現代でももちろん、二分法だけでは不十分とならざるをえないだろう。

                *

 著者アントワーヌ・ベルマンが友人であるレバノン出身の詩人フーアド・エル=エトルと始めた詩誌『ラ・デリラント』――女性形なのはもちろんポエジーが女性名詞だから――は、『ポ&ジー』誌などの先駆けといってよいような、翻訳詩(リルケからトラークル、芭蕉まで)と詩論を柱とした雑誌である。1967 年創刊というのはやはり歴史的な意味があるだろう。

 そのアートワークによっても『ラ・デリラント』は知られていた。モノクロ、つまり黒白二色刷りながら、アントナン・アルトーやフランシス・ベーコンの作品が表紙絵や挿絵として用いられるなど贅を凝らした造りは、後年、ポンピドゥー・センターで回顧展が開かれるほどだった。

 だがとりわけて興味深いのは――実はまだ調べがついていないのだが――同誌で芭蕉や自作の詩のフランス語訳を手がけたのが Koumiko Muraoka という日本語名の女性だったことである。

 Muraoka 氏は、現在も詩集の出版社として残るデリラント社から一茶や芭蕉の俳句集(エル=エトル氏との共訳)を出版されており、それら訳詩集はまともな書店でふつうに手に取ることのできるものだが、それと無関係にこの名前で何かを感ぜられた方は相当映画に詳しいのだろうと思う。クリス・マルケル監督の『不思議なクミコ』の主人公と同じ名だからである。東京オリンピックの開かれている年、フランスに何となく憧れている日本人女性として登場するムラオカ・クミコ。そのムラオカ氏がフランスに来て、脱フランス中心主義を標榜する詩誌に参加するというのは、何とも素晴らしい話ではないだろうか。

 問題は、このふたりの K(o)umiko Muraoka が同一人物かどうか、75パーセントくらいしか確信がもてないという点である。デリラント社に出向いて尋ねれば済むことではあるのだが、怠惰のせいでなかなか実現しない。この行動力のなさがわれながら情けないけれど、いつかそのうちに、いずれにせよ判明すれば報告したい。

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2008年3月27日 (木)

TV5 MONDE

 トラックバックというものが何なのかわからず、もうずっと放置しているのだが、半年ぶりくらいに「一覧」を覗いてみるとずいぶんたまっている。

 その中にフランス語国際放送局からの(そもそも「……からの」が適当かどうかさえわからない)ものがあった。パソコンで視聴できるとのこと。要するに宣伝である。自身や知己のためなら別だが、見知らぬ人、無関係の人の広報をわざわざ買って出る気にはならないし、代価も払わず宣伝してもらおうなんて甘いと思う。第一、なぜ日本人がフランスの宣伝をしなくてはいけないのだろうか?

 という形で宣伝しておく(使い方によっては「フランスの宣伝」以上の意義も見出しうるだろうし、日本に帰ったら自分が利用するかもしれないし、まあ覚書として。ウェールズの試合が見られるかどうか、それが重要なのだが)。

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2008年3月18日 (火)

堀江敏幸、ジャン=ピエール・リモザン(「日本週間」於 ENS)

 パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)が主催する「日本週間」が木曜から始まっており、今日は作家・堀江敏幸氏と、『熊の敷石』フランス語版訳者アンヌ・バイヤール=サカイ(坂井)氏との、同書をめぐる対談がまず行なわれた。

 文学論は必然として翻訳論に横滑りし、あるいはむしろ両者は根本的には切り離すことができず、「熊の舗石」というそれ自体フランス語表現 le pavé de l'ours の翻訳である言葉から生まれたこのテクストが、フランス語と日本語の間を往き来しながら展開していることを改めて認識させられた。御二方のパフォーマンス(同じ章節を日仏それぞれのバージョンの「作者」が朗読したことだけを指すのではない)も素晴らしかったし、創作と批評のコラボレーションとしても価値の高い、非常に聴き応えのあるプログラムであった。映像がいずれ高等師範のサイトで公開されるはずである。

 三番目のプログラム、ジャンピエール・リモザン監督『ヤング・ヤクザ』プレミア上映会までの時間をつぶすため、わたくしの指導教授(円卓会議に列席予定)、堀江先生、サカイ先生とで喫茶店にて歓談(あるいは閑談)。研究を志す人間の自己紹介としてはやや変則的だったが、話が通じやすいので「ベルマンを訳しました」と宣伝してから、論文の主題について手短にお話しする。あとは御三方の興味深いお話を拝聴。

 その後軽食を摂ってから再び ENS へ。カンヌで上映された話題作でもあり、また今日は無料のプレミア試写ということもあって、思ったよりずっと多くの人たちがすでに着席している。日本語に堪能な助監督バジル・ドガニス――Basile Doganis バスケとサックスは玄人はだしで、ストリートギャングみたいないでたち・立ち居振る舞いだが実はパリ・ノルマリアンで、現在リヨンのエコール・ノルマルの先生でもあるという、日本のある種の漫画で簡単に主役を張れそうな若き俊才――の紹介を承けて上映が始まった(上映後は監督リモザンと彼が、客席からの活発な質問に丁寧に答えていた)。

 映画はいわば「実録・××組」といった趣で、ひとりの無為で落ち着かない若者が修行のために組の世話になるところから始まり、彼が無断で遁走する話に、組自体の日常が織り交ぜられる。忽然と姿を消した若者は最後に登場し、友人に近況を報告するのだが、なんとアスベストを剥がす作業現場で働いているという。極道とアスベスト、いずれがより危険かにわかに決しがたい仕事であるが、いわゆる「出口無し」の状況を暗示するのが監督の目的ではおそらくなかろう。若者だってそれくらいのことは自覚しているはずだし、何にしろ仕事を得たのはよかった。

「実録」とはいえ、ヤクザの「素顔」が明かされるというような素朴なリアリズム映画ではない。それはしかし、素顔を見せるといろいろ差し支えがあるからという理由ではなく(もちろん差し支えは多々あることだろうが)、ドキュメンタリーであろうと人は、キャメラの前では必ず演技してしまうという厄介な問題ゆえである。しかも極道の場合、訴求力の極めて強いイメージが映画によって多数提供されているために、何重にも虚実が入り混じったイメージとしてしかもはや存在しえなくなっており、本人たちにも素顔など実はわからないのである。そういう意味で、素朴なリアリズムを排しつつ、それぞれに達者な「演技」のうちに「真実」を見出さなければならないという、眼力の試される作品ではある。彼らの「演技」は本当にうまく、事情を知らなければみな俳優で通ってしまうかもしれない。組長の「演技」――顔、表情、声――だけでもこの映画を観る価値は十分にあると思う。

〔追記 この映画、日本では諸般の事情により公開が遅れているが、フランスでは製作に加わったアルテにおいて三月末から四月初旬にかけて放映される。〕

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2008年3月17日 (月)

6 ネイションズ ウェールズ 対 フランス、イングランド 対 アイルランド

イングランド 対 アイルランド 33-10 (13-10) トライ数 3-1

 戦前はどうなることかとも思われたが、イングランドの快勝に終わった。フライハーフ変更の直接の影響というより、ウィルキンソン先発落ちで「喝」を入れられた XIV が――とりあえず――覚醒したということだろうと思う。FW も完勝とはいえないにしろ、負けている部分はなかったし、何より組織(つまりはチーム)としてだいたいのところはよく動けていたと思う。俺の時になぜそれが出来ないんだ――とはウィルコは思わなかったろうけれど、このマッチに限っていえば「ウィルキンソン・ショック」は確かに効果があったといえる。クラブの同僚 J・ヌーンも大いに刺戟されたようである。とにかく、イングランドチームが大会第一節ウェールズ戦の前半のように魅せるラグビーに挑んだのは、彼ら自身にとっても観る者にとっても慶賀すべきことだった。

 アイルランドは前半にとても綺麗な展開でトライを奪ったものの、バックスの中心となるべき FB マーフィ退場の影響もあってか、以後はイングランドのディフェンスに対応され、ほとんど完璧に抑えられてしまう。三次攻撃以降でのミスの頻発に加え、今日は FW の組織プレーが――仲間に対する忠実なサポート、それが大事なのに!――あまりうまく行かなかった。ルイ・コスタやフィーゴのポルトガル代表のように、「黄金世代」はシニア・レベルでついに無冠に終わるのだろうか。

 アイルランドの不調やイングランドの(とりあえずの)覚醒とは切り離しても、シプリアニのゲームメークはほぼ完璧だった。アイルランド側は今日は ROG のキックをむしろ抑えてパスプレーやピック&ゴーで攻めたのだが、「新星」はよく伸びるキックでそれを跳ね返して陣地を奪回しつつ(むろん FW の頑張りあってこそだが)、効果的に展開プレーを織り交ぜる。とりわけ前半はフラットなパスが多用され、ラインを前に前に出すようにしていたのだと思う。このパスが何と言うか、見ていてドキドキした。二本目のトライ(後半)、シプリアニからヴァイニコロ(逆サイドからライン参加)-ウィルコ-ボルショー-テイトとパスが綺麗にテンポよく通ったトライは「本日のトライ」といえるだろうし、さらにウィルコとの間でループを仕掛けたりと、いろいろ工夫も見せた。ラインブレークが 5 回というのはやはり見事である(アイルランドは 1 回)。これが 20 歳か……。
 先発 12 番のフラッドに代わってウィルキンソンが出場し、役割分担をどうするのか興味深かったが、ディフェンス時に位置を交代しただけで、最後まで 10 番のポジションを明け渡すことはなく、プレースキックさえ全てシプリアニが蹴ったのだった(そしてすべて成功)。
 本来ならウィルキンソンもこれくらいのゲームを作らなくてはいけないし、また作れるはずなのだが、コーチもチームメイトも、そして恐らくは本人さえも過去の幻影に囚われ、いまだ抑圧の中にあると見受けられる。それでもウィルコはシプリアニに対して冷静にまた公平に賛辞――「ダニーの新鮮なアプローチによってどれほどの違いがもたらされたか、見ていてわかったでしょう」――を送っており、捲土重来を期すといったところだろう。二人の切磋琢磨を期待を込めて見守りたいが、一方でウィルキンソンはセンターで(少なくともしばらく)やればよいのではないかともわたくしは感じている。六月のオールブラックスとのテストマッチの際に
は、少なくとも一試合はシプリアニで臨んで欲しいものだ。ただし、12 番は 12 番で別にきちんと育てなくてはいけないので、フラッドなり誰なりを引き続いて起用し、ウィルコは 13 番に置くのがいろいろな意味でよいように思う。

 *

ウェールズ 対 フランス 29-12 (9-6) トライ数 2-0

 ユナイテッド・キングダムの未来の王位継承者が臨席した「優勝決定戦」は、多くの人がそう見た通り、ディフェンス力にまさるチームが制すこととなった。第一王子の称号が「プリンス・オヴ・ウェールズ」であるということはつまり(歴史的経緯は措いて)たとえスコットランドの独立を許すことがあったとしても、ウェールズは絶対に手放さないということでもあるだろう。そこにウェールズの(「想像された共同体」の水準での)悲哀があるわけだが、ともかくこのディフェンシブなマッチにもレッド・ドラゴンの持ち味が発揮された点を嬉しく思う。フランスも積極的にボールを回して攻めてくるわけだから、守る時間が多くなるのは当然であり、互いに攻め合いながらの最終戦は、W 杯決勝とはやはり違ったものとなった(ちなみに日曜の『レキップ』紙はジェイク・ホワイトとエディ・ジョーンズのコメント、というか放言を掲載していたが、二人とも、大会全般とウェールズ優勝に辛い評価を下している)。

 スタッツ(BBCとレキップとで多少異なる)。

ボール支配率 W 40 F 60 〔レキップ W 44 F 56〕
ターンオーバー W 4 F 2
タックル W 128(ミス 6)  F 79(5) 〔レキップ W 144(3) F 100(5)〕
ラインブレーク W 4 F 1 〔レキップ W 5 F 2〕

 他にはキック数は 40 前後でほぼ同じ。大会を通じどのチームもミスが多かったが、それは仕方ない。ともかく、フランスの攻勢に対し、ウェールズは 144 回タックルさせられながらタックルミスを 3 回に抑えるという驚異的なディフェンス力を発揮した。フランスの方も数字としては十分に立派だが、他方でラインブレーク数の差は、実際にゲームを見ていれば納得が行く。仕掛け(キックによるものも含む)の有効性、パスの多彩さにおいて、ということは要するに攻撃力でもウェールズが上回っていたのは明らかだった。フランスの「攻勢」とは書いたものの、実際のところ、ボールを回してもあまり突破できる感じはしなかった。イングランド戦同様、その展開はディフェンス側の想定を超えることがなかったということになると思う。前半にウェールズがトライチャンスを逃した場面、スペース的にはタッチ際に詰まってしまい、数メートルのうちに三、四人が犇く状況になったものの、ディフェンスが対応できていなかったために WTB のマーク・ジョーンズが抜け出すことのできた場面が象徴的である。ポジショニング、パスのタイミング。今日のフランスには結局こうした形が作れなかった。
 ウェールズはいつにもまして極端なブリッツ・ディフェンスを敢行した。ほとんどの局面でギャヴィン・ヘンソン(とトム・シャンクリン)がディフェンスの文字通りの要としてラインを押し上げ続ける。そこをすれ違いざまに抜くというやり方しかフランスには残されていなかったが、スクレラのパスに対してジョジオンがやや前がかりになりすぎ(あるいはシャンクスのタックルがパスの軌道を狂わせて)こぼれたところをシェーン・ウィリアムズに拾われて、形勢が一挙に傾く(トライ、コンバージョン)。

 別の観点からいうと、タックルに若干難のあるジェームズ・フックが 10 番にいる間にフランスは何とかしたいところだった。事実、シンビンが適用されたヘンソンのハイタックルは、10 番と 12 番の間がやや広くなっているところをついたフュルジャンス・ウエドラオゴにフックが腕だけでタックルに行って抜かれかけたところを、ヘンソンが飛びついて止めようとしたために起こったものである。ここにジョジオンかトラン=デュックがいればと思った(ウエドラオゴにケチをつけているのでも、ヘンソンの反則を正当化しているのでもない)。

 これまで 100 %の成功率を誇っていたフックのプレースキックの不調は誤算だったはずだが、比較的速い時間に、つまり 9 対 9 と同点に追いつかれてから間を置かずスティーヴン・ジョーンズを投入したのがよかったのだろう、攻めのスピードがいっそう増したように思われた。スピードとは、パスの単純な速さではなく、ボールとプレーヤー双方の動きが組み合わされたラグビー固有の運動のスピードのことだが、フランスは他の四チーム同様、次第についてゆけなくなっていった。
 気持の上では S・ウィリアムズのトライで切れてしまったとの談話(L・ナレ)もあり、仕方ない面はあるけれども、後半の後半、敵陣深くのスクラムとラインアウトでボールを奪われてしまったのが痛かった。スクラムをウェールズが押してボールを奪ったのには驚かされたが、ナレによれば、ボール投入のタイミングが上手くゆかず、やり直しを命ぜられると勝手に判断して力を抜いてしまったそうである。試合終了間際にはラックサイドに穴が出来たところをマーティン・ウィリアムズに突破され、決定的なトライを許してしまう。ここでタックルを外されたのはジョジオンだったが、もちろん個人のレベルの責任ではない。

 六月に南アフリカとウェールズとのテストマッチが組まれている。シックスネイションズの覇者と世界チャンピオンとの対決ということになる。六月までゲームはないわけだから、好調が維持できるかどうか怪しいけれど、ボクスも世代交代の時期であり、どれくらいやれるか楽しみである。というか、いま南アと試合をやれば結構よいゲームになるのではないか。南アだけでなくフィジーとも。再来週あたりに。とにかく、フィットネスで他を圧倒し、ディフェンスを大幅に向上させ、つねにラインブレークを狙うというウェールズのラグビーが勝利した今大会は、ファンとしては満足ゆくものであった。

 フランス・リュグビーメンの解説はラクロワにしろサン=タンドレにしろ、何だか妙に可笑しい人が多いのだが(サン=タンドレはふつうに喋ると声が裏返りまくるのに、興奮するとまともな「男らしい」声になるのがとても不思議だ)、ファビアン・ガルチエも負けていない。マーティン・ウィリアムズのトライにつながる WTB ジョーンズ(今大会あまり目立たなかったが、純粋な足の速さを見せ付ける機会が訪れた)の 90m 独走の間、ガルチエは「Il va très très vite(非常に非常に速い)」と八回連続でいい続けた。よく舌を噛まなかったものだ――というか「見たまんまやん」、あるいは「なんで八回もいうねん」。ここはそもそも、ウェールズ陣深く入ったところでのマイボール・ラインアウトが奪われ逆襲された場面で、要するに最後のチャンスが潰えてしまったための絶望から来る放心状態だったのだろうと愚考するが、ともかくその飾らないキャラクターが、アナ(南部出身と思われる)ともども非常にいい味を出していた。

 日曜夕方の Stade 2(フランス 2 週末のスポーツニュース番組)にレ・ブルーのヘッドコーチの三人が招かれ、それぞれに総括を行なった。そこで述べられた事柄には取り立てて書き留めるべきことはないけれども、いずれにせよ世間が新体制を(とりあえずは)暖かく見守ろうとしている印象を受けた。偉大な元主将とはいえそもそも代表監督未経験のガルチエによる総括(ビデオ出演)を聴かされるというのは――テレビは何でもかんでも「ショー」として消費するといったもっともな分析はさておき――人によっては屈辱と感じるはずだが、コーチたちも足りなかったところを素直に認めるなど、「外部評価」を真摯にまた謙虚に受け入れていた。要するに「方向性は間違っていないはずだからこの調子でがんばってくれ」というエールが贈られたわけなので、わたくしも今後に期待を込めつつ見守りたい。

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イタリア 対 スコットランド 23-20 (10-17) トライ数 2-2

 アズーリ、今大会初勝利おめでとう。勝ち越しのドロップゴールを決めたマルカート(21 歳)は次の試合から SO を務めることになるだろう。ボールがよく動き、見応えのあるマッチだった。

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2008年3月15日 (土)

6 ネイションズ 最終節にむけて

 やはり贔屓のチームの調子が好いと観戦にもいっそう力が入る。

 ウェールズはとにかく勝ちさえすればグランドスラム達成となる。対してフランスは 20 点差以上をつけて勝つか、より多くのトライを取ったうえで 19 点差をつけて勝つかしなければならない(現時点で両チームとも 11 トライ)。他方、世界ランキングのさらなる上昇を視野に入れるなら、ウェールズは 16 点差以上で勝たないとフランスを逆転できない(現在フランス 6 位、ウェールズ 7 位、イングランドがしぶとく 5 位に踏みとどまっている)。
 世界ランキングそれ自体に価値を見出す人はあまりいないと思うが、W 杯次回大会のプール戦グループ分けがこのランキングに従って行なわれるのでないがしろにはできない。ちなみにアイルランドが 16 点差以上をつけてイングランドに勝てば(両者の現時点でのポイント差から)、ウェールズが同様に 16 点差以上で勝った場合、イングランド 5 位、アイルランド 6 位、ウェールズ 7 位、フランス 8 位(仏が勝った場合は 7・8 位は逆になる、ちなみに仏は 7 位以下は未経験)となるらしい。

 ラグビープラネットは「4 点差でフランス勝利」と予想している。つまりこのマッチはフランスがものにするけれども、シックスネイションズ優勝はウェールズのものというわけだ。根拠は、15 のポジションのうち九つでフランスのプレーヤーの方が優位にあるからとのこと。その点は何ともいえないし、このマッチ自体、いずれが勝ってもおかしくないといえる一方で、フランスが例えば勝つ可能性のある南アフリカやニュージーランドにウェールズが勝利を収めるところはやはり想像できないという点が面白い。

 ともかく、よほどのことがない限り、大差とはならないだろう。だからこそウォーレン・ギャットランドは SO にジェームズ・フックを起用したのだと思う。これまでの起用法を振り返ればわかると思うが、ウェールズの二人の SO の間に正副の格差はない。イングランド戦でフックが見せた天才的な身のこなしはスティーヴン・ジョーンズには望めないとしても、ラインを動かすという点で違いはないし、他方フックはブリッツやインターセプトを食らう可能性が依然高いのに対し、ジョーンズが例えばギャップをついてブレークする場面をわれわれは何度も目にしている。明らかな相違があるとすればプレースキックの成功率くらいだろう。
 つまり、フックでガンガン攻めるぞというメッセージを一方で発信しつつ、PG での得点の積み重ねをもギャットランドは視野に入れているということだ。しかもジョーンズが「切り札」というか、野球でいう「クローザー」として控えている。W 杯があんなに悲惨な結果に終わったというのにウェールズは、このポジションに限っていうと世代交代が上手く行きそうな気配である(あるいは、ウェールズは 22人で試合に臨むという体制をいち早く整えたといってもよい)。

 フランスは SO にダヴィッド・スクレラを先発させる。これは経験からいって妥当だろう。ただし、スクレラにまさかイングランド的ゲームメークが期待されているわけではないだろうけれど、こういうマッチこそ、トラン=デュック(やミシャラク)で戦わなければ、本当の意味で将来を見据えたことにはならないのではないかと、やや疑問に思わぬでもない。実験を続けながらの編成だから、けちをつけても意味は無いにせよ、スクレラ-トライユ-ジョジオンのフロントスリーであと何年やれるのだろう?

 FB は前回のイタリア戦でよい動きを見せたアントニー・フロッシュ(フロック)が引き続き務めることになる。エマンス-クレールのコンビネーションは、見られるとすれば後半以降ということだろうか。ポリヴァレントなセドリック・エマンスが控えに回るのはある意味で当然ともいえるが、他方、イタリア戦の「オム・デュ・マッチ」であるオレリアン・ルージュリーは 22人から漏れてしまった。
 真相はわからないけれど、そのイタリア戦でのフランスの一本目のトライ、フランソワ・トラン=デュックからのライン際への高さのあるキックパスを空中でキャッチし、内に返す形で、走り込むフロッシュにパスを成功させたジュリアン・マルジウの器用さが評価された可能性はある。このプレーはそもそもW 杯時から練習されていたもので、大会では、やはり器用なジュリアン・ボネールがヴァンサン・クレールとの間でコンビネーションを成功させたのだが(あの時はもっとバレーボールに近いアクロバットだった)、エルナンデスのハイパントと同様に上方へのスペース創造として評価さるべきこのサインプレーは、シェーン・ウィリアムズのいる側で試されるかもしれない。
 思い返せばルージュリーは、2005 年の試合では体格を活かして対面の S・ウィリアムズを押し込む形でトライを奪ったのだが(前半)、後半はそのウィリアムズのステップに完全に翻弄されて失トライの原因ともなったのだった。思い切りよい彼のカウンターアタックは見ていて気持よいけれど、ディフェンスが特に向上したようには思われない。ウィリアムズがコンタクトにも強くなり、おそらくスピードや切れもさらに上がっていることからすると、この落選は仕方あるまい。

 その 2005年の対戦は、前半フランスが気持よく攻めて 2 トライを奪ったものの、後半の前半にウェールズが突如反撃し、2 トライをあげて逆転、その後は互いに PG や DG を追加するなか、フランスがトライを狙って攻めるのをウェールズが何とか守りきったという試合である。つまり、ディフェンスとプレースキックの精確さが鍵だったわけで、明日のゲームも、ボールが動くことを期待するが――ともに一試合平均 3 トライ弱だから、2 トライは十分予想しうる――、勝敗を分けるのは案外そうしたところかもしれない。

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2008年3月10日 (月)

6 ネイションズ アイルランド 対 ウェールズ、その他

アイルランド 対 ウェールズ 12-16 (6-3) トライ数 0-1

 戦前の予想ではアイルランドが「4 点差」で勝つということになっていたのだが(プラネットラグビー)、なぜそういうことになるのかわたくしには全くわからなかった。BOD の調子が上がらず、ダーシーに続いてマーフィーやデンプシーまで離脱してしまったアイルランドには、ROG のキックと、FW による「魂のラグビー」(何故かいつ見ても感動的ではあるが)しか残されていないのだから、ということはつまり、プレーの質を問わなければ、この日のアイルランドは形式的にはイングランド、イタリア、スコットランドとほぼ同じということであり、ウェールズが負けるとはとうてい思われなかったのだ。その三チームから 11 トライを奪い、他方、ディフェンスはずっと危うい部分を抱えたままであるにせよ、それでも計 2 トライしか許していないという戦績はいま少し考慮されてもよいのではないか〔試合のスタッツ―― WAL パス 147 ラインブレーク 7、IRE パス 75 ラインブレーク 3〕。

 実際、ウェールズの展開プレーにアイルランドは対応しきれていなかった。とはいえディフェンスのプレッシャーはこれまでで一番厳しかったし、仕留めの段階で相変わらずミスが多い、フィリップスとフックは仲間のことを忘れて個人プレーに走る癖が矯正されていない、おまけにフィリップスは短気なところが全く改善されていない(これでは体格に物を言わせるただの暴れん坊ではないか)――などなど、まだ未完成のウェールズはこの試合ではトライ数 1 に終わったけれど(悪質な反則による一時退場者が二人出たせいでもあるだろう)、他方で、ブレークダウンの攻防やスクラムで引けを取らず、数度きれいにラインブレークされてもカバーディフェンスがしっかりしているなど、よい点は依然続いている。荒くれ者を飼いならしつつ、調子を持続してほしいものだ。
 シェーン・ウィリアムズはますます調子があがっており、大型バックス三、四人が犇く狭いところを抜いて取ったトライは見事のひとことに尽きる。彼に必要なスペースを見越して、丁度よいタイミングのパスを放ったスティーヴン・ジョーンズもさすがだった。もちろんこうした個人技は、アイルランドの攻撃を正面から受けて撥ね返しつつ、時間をかけて防御陣形を崩していった結果のものであり、本当に好い試合だったと思う。またフィリップス退場の10分間、経験者でもある S・ウィリアムズが SH を務めたのは漫画みたいだったが(これは賛辞である)、チームの勢いを殺すことなく立派に務めていたのは、このレッドドラゴンがひとつのチームとなっていることの証だろう。

 個人的に不満に思うのは、やはりマイケル・オーウェンの不在である。たとえば前半、ポイントから出たボールがエイトのライアン・ジョーンズに渡り、彼はいつものようにまっすぐラインに突っ込んだが、隣のプレーヤーにパスしていれば、そこでラインブレークできていたという場面があった。ジョーンズはボールキャリアとしての仕事を全うしているわけだが、たぶんオーウェンならパスしていた。そのことが惜しまれる。現実には、相手キックオフのボールをキャッチしたり、攻撃陣形を立て直すべくポイントを作ったり、とにかく強引にボールをキープしたりする役目を R・ジョーンズと 6 番のジョナサン・トマスが確実にこなしているからこそのチーム全体の好調ではあり、難しいところなのだが、無いものねだりとして(ちなみに 2005 年はジョーンズが 6 番、オーウェンが 8 番だった)。

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スコットランド 対 イングランド 15-9 (9-3) トライ数 0-0

 イングランド「期待の新星」ダニー・シプリアニが、先発出場が予定されるマッチの数日前に「ナイトクラブ」へ出掛けたからといって登録を抹消された。BBC サイトの読者フォーラムに一日足らずの間に900近い意見が寄せられたことからして、関心の高さが伺える。中には「ルールは遵られねばならない」という、つまらない正論も散見されたけれど、イングランドがいま必要としているはディシプリンではなかろう! それにシプリアニは、確かに軽率ではあったが、ドラッグに手を染めたわけでも、傷害事件を起こしたわけでも、またフィールドでラリアットや首投げ、足掛けなど悪質な技を繰り出したわけでもない。だいたいラグビー最古のテストマッチを戦った二チームの対戦が「カルカッタ・カップ」なのは、「俺たちはかつてインドにひどいことしたね」と、少なくとも年に一度思い起こすためだろうに(もちろん、現実には、悪いことをしたなどとイギリス人は露ほどにも思っていない)。その悪行に比べれば、クラブに立ち寄ることなんて。とにかく、アシュトンはバカ。ついでに、アンドルーもバカ。
 むろん、雨が完全には止まず、ぬかるみ続けるフィールドでシプリアニが活躍できたかどうか、それはわからない。アタックのプランも定まらぬ状況では、誰が FB をやってもディフェンスと、FW にボールを戻すためだけの「カウンターアタック」に終始した可能性は大いにある。ボルショーも国内では(冷静さを欠いた連中から)ぼろくそに言われているけれど、そう悪いわけではない。われわれはただ、ほんの少し飽きていて、「新星」がテスト・レベルでどれくらいやれるかちょっと見てみたいということにすぎない。

 もっともゲームそれ自体は、創造性という観点からすると非常に苦しかったが、それなりに楽しめはした。ラグビーの未来がここに存在しないことは明らかだが、肉体のぶつかり合いもまたユニオン・ラグビーの醍醐味には違いなく、決して悪いことではない。

 ウィルキンソン、「一度はアンタッチャブルであった」(BBC)ウィルコへの批判が強まっているという。今日のマッチは、まずキックでの陣地獲得が最優先された。そのことは、SH から出たボールのほぼ半分を 12 番のフラッドが受けていたところからも見てとれる。つまりウィルコへのプレッシャーを出来る限り少なくして、有効なキックを蹴らせようということだ。しかし何と後ろ向きの作戦だろう。こんなプランでは誰が 10 番をやったって同じではないだろうか。ウィルコを代えるより、まずアシュトンを代えるべきだ。

 スコットランドはディフェンスが――先々週のイングランドのように――堅かった。SO が早いうちにパターソンからパークスに代わっても影響がほとんどなかったのは、要するに策らしい策が――対フランス戦のイングランドのように――なかったからという、ごく消極的な理由によるけれども、ミスは少なくなっているし、勝ったのは何にしろよかったのではないか。まあイングランドが勝っても同じ感想を記したと思うが。

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フランス 対 イタリア 25-13 (13-6) トライ数 3-1

 イタリアは試合ごとに良くなってきているようで、攻撃面での創造性はさほど感じられないけれど、互いの持ち味を発揮しあう好試合となった。良くなっているというのは例えば、フランスのブリッツ・ディフェンス(ヤシュヴィリを先頭にものすごいラッシュが再三見られた)に対し最初のうちはキックで逃れるのがせいぜいだったのが、次第に対応してそれなりに躱すことができるようになっていったところなどに現れていた。この対応力には素直に感心した。

 フランスの方は、先々週のイングランドなどとは異なってイタリアがボールを比較的よく動かすゲームを仕掛けてきたこともあり、やりたい攻撃ができたと思う。ジョジオンが復帰したのも大きかった。
 
三つ目のトライ(後半)は、左オープンの展開で、アウトサイド CTB の位置に逆サイドからルージュリーが走り込むムーブが上手く決まり、そのまま抜けたものだった(途中出場のトラーユからのパス)。ウィングまで回すと決め込んでしまうと、途中のパスは相手に全く恐怖を与えられなくなってしまう。ひとつひとつのパスが「抜きにかかるか更にパスするか」を相手に考えさせるような仕方でパスプレーを展開すること。それが自然にまた本能的に出来ている(あるいは、そう見えるほどに習熟している)のがウェールズであり、ハイネケンカップに出場したイングランドの幾つかのチームだった。サインではなく、展開の流れの中でこうしたプレーが見られるようになることをフランスに対しても望みたい。
 個人のレベルで気づいたこと。「テレビマッチオフィシャル」に判定が委ねられたルージュリーのトライし損ないは、S・ウィリアムズのハンドオフ技術の高さを感じさせるものだった。自分より小さいウィリアムズのハンドオフをまともに食らって倒されたアイルランドの CTB(?)と、うまくかわしてルージュリーに絡み付きトライを防いだイタリア CTB のミルコ・ベルガマスコの技術差もあるのだろうが、ポイントはやはり、迫る相手から逃げずに腕を突き出せるかどうかである。とにかくあのトライは非常にレベルの高いものだったと、改めて思わされた次第である。

 優勝をかけてウェールズがフランスをミレニアム・スタジアムに迎える来週が待ち遠しい。フランスは FW 戦を避けて積極的に展開してくるだろうから(hopefully !)、ウェールズのディフェンスの真価が今大会でほとんど初めて問われることになるだろうし、ウェールズにしろフランスにしろ、攻撃力が本当に試されることと思う。とくにフランスはイタリア相手にうまく行ったからといって、それがそのまま通用するなどとは思わない方がよい。ウェールズはラインディフェンスにいつも必ずといってよいほど穴ができるにしても、それをただ待つようではつまらない。「扉から入れ」という哲学は、どちらかというと、偶発的な機会を見逃すなというようなことではなく――そんなことは言われなくたって誰でもする――相手に触れさせないで走り抜けられるだけのスペースを自ら切り拓き創造せよということなのだから。

〔追記 結局、ジョニー・ウィルキンソンは先発落ちとなった。ブライアン・アシュトン、お人柄の好さは容貌からも伺えるけれど、監督の「無為無策」はやはり困りものだ(この点は W 杯時からすでに梅本洋一氏らによって指摘されていた)。「プレーヤーの自主性を重んじ、自由にやらせている」? それならまずしかるべき人を選ばないとね。「選んで終わり」は野球のような個人的競技では存外うまく行くこともあるかもしれないが――1985 年の阪神タイガースにはバース・掛布・岡田・真弓がいた――少なくとも FW 戦で優位に立てぬ時の策くらいは講じておかなければならないだろう。ルイス・ムーディなど主力を欠いた FW 陣はとりあえず措いていうと、代えるべきは 10 番ではなく、誰が見ても 11-13 番、とりわけセンターだろうに。
 いずれにせよわたくしはウィルキンソンが必ず10番にいなくてはならぬとは思わないので(Get away from 10, Jonny !)、この際ダニー・シプリアニには大いに活躍――とはいえ BOD 抜きのアイルランド相手だが――してもらいたいと思うし、そのまま SO に定着してしまえばよいとさえ思っている。ウィルコは 13 番、アウトサイド CTB。ハードタックルが売り物のジェイミー・ヌーンと競ってポジションを奪取すればよい。

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2008年3月 9日 (日)

『翻訳研究への招待』

 水野的さんから『翻訳研究への招待』という論集を頂戴した。水野先生は日本通訳学会の事務局長でいらっしゃるが、日本における翻訳研究の真の意味における確立を目的として、学会内に専門の分科会を立ち上げられた。その「翻訳研究分科会」の編んだ論集第 2 号が二月下旬に刊行され、ありがたくも創刊号と併せ拝受することになった次第である。各論文の要旨は学会サイトからアクセスできる(PDF ファイル)。目次、入手方法その他詳細は水野先生のブログ、また通訳学会の当該エントリーを御参照ください。

 内容に関して詳細なコメントはできないけれども、いずれの論攷も非常に啓発的で、文学的な翻訳論(数多く発表されている)に飽き足らない人々にもぜひ読まれるべきものである。言語科学――といってもソシュール・イェルムスレウ・バンヴェニスト・ヤコブソンら、文学研究でも頻繁に応用されてきた古典ではなく最新のそれは、専門外の人間にとってはかなり敷居が高くなっているけれども、言語学的知見なしに翻訳研究の進展はありえない。それは「文学的翻訳」を主たる対象と考えたアントワーヌ・ベルマンでさえ、『他者という試練』で再三強調していたところでもある。

 特に面白く読んだのは、

・水野的「近代日本の文学的多元システムと翻訳の位相――直訳の系譜」(1 号)
・水野的「翻訳における認知的負荷と経験的等価――読者の文理解と作動記憶をめぐって」(2 号)
・永田小絵「中国翻訳史における小説翻訳と近代翻訳者の誕生」(1・2 号)
・河原清志「認知意味論による翻訳の訳語選択とその指導法―― as の事例研究」(1 号)
・齋藤美野「読む行為とその創造性について」(1 号)
・佐藤美希「昭和前半の英文学翻訳規範と英文学研究」(2 号)

 もちろんこれは各論文の評価というようなものではなく、わたくしのごく個人的な関心に合致するもの、そして何より理解の及ぶものということにすぎない。われわれは歴史的研究から多くのことを学ばなくてはならないが、個人的には岩野泡鳴の翻訳思想・訳業に照明を当てた水野論文(1)がとりわけ面白かった。
 たとえば文そのものを読み書きすることに慣れていない中高生に英語(その他の外国語)を教えてみればわかることだが、彼らの中には、教師に課される「英文和訳」を通じ、生涯でほとんど初めて、まとまった長さの「日本語」を書くに等しい人が(本当に)少なからずいる〔いうまでもないが、ある程度の内容を伴った文章ということである〕。つまり、日本語書き言葉をそもそももたない者が外国語の読解を通して自身の書き言葉を見出し、また造り出すという、日本の明治時代前半(や万葉仮名の時代)と類似した作業がそこで体験されるのである。それゆえ英語教師の負担(責務)はきわめて重大となるけれども、その点に関するケアは教育の領域でなされているのだろうか。曲りなりにも標準的書き言葉が確立された現代における個人的言語の獲得という事例と、標準言語がそもそも存在しない時代の事例とを無媒介的に比較するのは無理があるにしても、やはり泡鳴二葉亭的・ルター的偉業とある程度まで類似する「言葉の創造」にそれぞれの仕方で取り組まなければならない中高生のことを考えるなら、教育の領域における翻訳という問題の扱いはあまりに不当といわなければならない。「学校で行なわれているのは「英文和訳」であって「翻訳」とは異なる」というような論の進め方は、あまりに「職業としての翻訳」に傾きすぎてはいないだろうか。

 また水野論文(2)は、文を読み進める際に働いている短期記憶を「認知的負荷」として研究するものだが、こうした研究は翻訳のいわゆる忠実度を問う場合にかかわってくるだろう。原文と訳文の等価は、おそらくこうした観点からも問われなくてはならないのである。門外漢のわたくしは「啓発」どころか「啓蒙」に等しい知見を与えられた。原文の書かれた順番通りに訳すといういい方が、現実に照らしていささか粗雑にすぎる可能性を示唆するものといえるだろう。いずれにせよ「忠実」概念の厳密な分析へと至る道筋が示されていると思う。

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 ジャック・デリダは『たったひとつの、わたしのものではない言葉(他者の単一言語使用)』でひとつの書翰を紹介している。ゲルショム・ショーレムがマルティン・ブーバー、すなわちフランツ・ローゼンツヴァイクとともに両大戦間期にヘブライ語聖書のドイツ語訳に取り組んだブーバーに宛てて認めた 1961 年の書翰である(Jacques Derrida, Le monolinguisme de l'autre, Galilée, 1996, p. 97-98)。「あなた〔=ブーバー〕はユダヤ人たちに向けてあの翻訳を企てられたわけですが、彼らはもはや生存しておらず、あのカタストロフ〔第二次大戦時のそれ〕を免れた彼らの子たるユダヤ人たちは〔イスラエル国で育ったために〕もはやドイツ語が読めない」、したがってあのドイツ語訳聖書は「恐るべきカタストロフの中で無と化してしまったひとつの関係の墓石」というべきである……。「墓石」とはむろん、ドイツ語に関してしばしば用いられる、ルター訳聖書が「国語」としてのドイツ語の「礎石」となったという譬喩を参照するものである。
 言葉と人間の関係は時代とともに変化する。各翻訳は原典との関係および自国語との関係をそのつど新たに拓くものである。再翻訳や「新訳」が要請されるゆえんだが、ブーバーとローゼンツヴァイクによるドイツ語訳聖書は、その意図にもかかわらず、読者(正確には訳者が生きる言語の現在)との間にそもそも関係を築き損ねたということになるかもしれない。経年変化といういわば自然の(と差し当たって表現できる)作用によってではなく、人為的な要因によって翻訳がその使命を終えるということ。重い出来事である。ユダヤ人として自身も期待を寄せていただろうショーレムの言葉には誇張がいくらか混じっているだろう。それにヘルダーリンのソポクレス翻訳のように、読者との関係を一度は結びそこなったものの、時を経ることで結ぶことができるようになる場合もある。それにしても、多くの事柄を考えさせる事例には違いない。

〔追記 途中、筆が滑って「泡鳴的」と書いてしまった箇所、「二葉亭的」と訂正する。〕

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