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2008年5月 6日 (火)

『他者という試練』訳者あとがき補遺 続

 訳者あとがきに書ききれなかった事柄をアトランダムに。〔長くなったので別エントリーとして続けます。最初のエントリーはここ。〕

 (未了)

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 著者の姓 Berman の発音は [-anne] です(鼻母音でも通じないことはないですが)。

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 紙幅の関係で、「関連文献」リストからは例えば翻訳文学の傑作群のほとんどを除外せざるをえなかった。それでも、少数ながら採りいれられた翻訳文献は、原則として、三つの「言語」にかかわるという共通点をもっている。ペソア-タブッキ-日本語、アルトー-デリダ-日本語、あるいはハイデガー-クラーク-日本語、など。いわずもがなのことではあろうが、念の為に。

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 翻訳「作法」として次のようにいわれることがある。元の言語において「普通」の表現は、翻訳する側の言語においても普通の語句で表現されるべきだと。一面では確かにその通りである。しかし、あちら側で「普通」のその表現が、こちら側に馴染みのないもの、新奇ないし珍奇なもの、つまりは「異なるもの(エトランジェ)」である場合、その論理だけでは立ち行かなくなるのではないだろうか。
 極端な例だがキリスト教の「神」、イスラムの「神」――これらは或る特別な、しかし(いわくいいがたいにせよ)指し示されるものが何かという点で誤解の余地のない「存在」についての言葉である――を日本語に訳す場合などがそうだ。「普通」の言葉を「普通」に受け取ることがかなわぬとき、他なるものについての真の思考が、自覚するとしないとにかかわらず、翻訳者のうちに生じざるをえない。この経験を出発点として(したがって自覚的に)翻訳を思考すること。それがベルマンのいう「翻訳学」の眼目である。
 別のいい方をすると、翻訳作業にかかわる複数言語それぞれの枠内でのみ考えていては、翻訳についての思考が深まってゆくのは難しいということになるだろう。もちろん〈異なるもの〉であるかどうかについての客観的な指標は存在しない(外国語テクストはそれ全体がそもそもひとつの〈異なるもの〉であるが、それとは別次元の話である)。だが、本当の意味で「普通」というわけではない言葉を、訳者が「普通」に受けてしまえば、異質性・外来性が殺される、あるいは損なわれ、不当に矮小化されることにもなりかねない。
 他者論の次元でなく、もっと即物的にいうこともできるかもしれない。他者性の代わりに、たとえば訳語の正確性といった問題を考えてみればよい。訳者が「普通」だと見なして「意訳」してしまうとき、元の語に当然孕まれている豊かな――それが「普通」の言葉であるなら尚のことそうなろう――意義が、実は訳者の「理解」の及ぶ範囲へと矮小化され、限定的にしか伝えられないという可能性が生じる。哲学や思想の「伝達」において、それは致命的な誤りである。技術的にいってもそうだし、そして結局は、他なるものとの関係構築においてもそういうことになる。

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 WWW 上で読める文書の紹介(もちろん既によく知られているものもあるだろうけれど)。

 ・昼間賢「ラマダンの夜が明けて
   『INSCRIPT』内のエッセイ。昼間賢さんはオリエントの文化(とりわけ音楽)にも造詣が深いフランス(語)文学研究者。

 日本にその「中東」(正確にはパキスタン、中近東、北アフリカ)からミュージシャンを招いて催された音楽祭「フェスティヴァル コンダ・ロータ 2006」にかかわった際の翻訳経験が語られている。著書に『ローカル・ミュージック~音楽の現地へ』がある。
 映画字幕の翻訳もそうだが、音楽の歌詞翻訳についても、その翻訳が表現といかなる関係をもつかが考えられなければならない。グナワ・ディフュージョンの歌詞がこの現代の日本語に翻訳されることの意義を、昼間さんは強調している。非常に勇気づけられる「メッセージ」である。

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 ・山岡洋一『翻訳通信 ネット版
   翻訳家山岡洋一さんによる翻訳論を集めたサイト(別に書物として翻訳論を刊行されている)。

 山岡さんは、ベルマンをわたくしが翻訳しているとき、訳者として意識していた翻訳家のひとりである。『他者という試練』では実にさまざまな論点が提出されているが、そのうちで現実的に最も大きな困難に出会うだろうと思われたのが、翻訳者が自ら理論構築を目指さなければならないという、〈理論と実践〉の問題だった。実際、フランス人翻訳家が自身のブログで「ベルマンも俺たちの仲間だったのに、何だか遠い所に行ってしまった」というような感慨を述べたりしている。それに対し山岡さんは、まさに翻訳家として主体的に翻訳を思考するということをなさってきた方である。自前で理論構築を目指される点にもわたくしは敬意を抱いている。
 ひとこと断っておくと、翻訳者は原著者を内面化したり原著者に自己同一化する者ではないし、そうでない方が望ましいとわたくしは考えており、ここでは中立の立場から言うのだが、山岡さんとベルマンの相違点は事実上、〈原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳〉に対する評価の違いにほぼ集約されうる(この文言は山岡さんのもの)。翻訳理論史に通じていれば、これがシュライアーマッハーによって定式化された問題であることはすぐわかるはずだ(「翻訳のさまざまな方法について」三ツ木道夫訳『同志社大学外国文学研究』 77-79 号)。つまりそれは、同じ本質的な問題系を、それぞれ別の語彙で(したがって別の観点から)思考しているがゆえに(ほぼ必然的に)生じる違いなのである。詳しくは山岡さんの論「二葉亭四迷の呪縛」ほか、ベルマン『他者という試練』第 10 章などを参照されたい。

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 ・「翻訳学とパース記号論
   パースと翻訳論についての博士論文(フランス語)。プルースト研究者で、だがジャック・ル=ゴフの翻訳も(すでに二点)なさっている菅沼潤さんのブログで知った。

 ベルマンはここでは、ミシェル・バラールの著作からの孫引き以外では、シュライアーマハーの翻訳者としてのみ登場する。わたくし自身はまだ読み始めたばかり――いつ終わるか、あるいはそもそも読み終えられるのか――だが、印象としては、翻訳研究への寄与と同時に、あるいはひょっとするとそれ以上に、パースの言語論の一端が、翻訳論という視点のおかげでより明らかになるかもしれないというところである。より詳しい紹介は菅沼さんの当該エントリーを参照されたい。

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 ・明治学院大学 言語文化研究所 紀要『言語文化』 22 号(2005 年 3 月)
   特集 翻訳:セシル坂井「翻訳の力学」、四方田犬彦「訳と逆に。訳に。」、阿部・マーク・ノーネス「悪態的字幕のために」、ジャック・レヴィ「訳しそこなわれた文字」他、全 7 篇(PDF)。

 セシル坂井さんは、アンヌ・バイヤール坂井さんらとともに、仏ガリマール社「プレイヤード叢書」の谷崎潤一郎作品集(2 巻本、1997-98 年)に中心的に関わった方。谷崎はそれ以前すでに仏訳されており、たとえば『陰影礼賛』など、少なからず読まれていた作品もあったのだが、この新訳はとりわけ翻訳の質の高さによって評価されている。
 
ジャック・レヴィさんは中上健次作品などの仏訳者でもある。

 阿部・マーク・ノーネスさんの論攷は L. Venuti (ed.), The Translation Studies Reader, 2000, 2004 所収のオリジナルを山本直樹さんが邦訳したもの。ベルマン『他者…』同様、ゲーテの箴言がエピグラフに用いられている。
 映画字幕を翻訳論の枠組で扱うということは実はわたくしは、ある人と話すまで全く考えもしなかった。文学や広く文章一般の翻訳は、原則として文のみ、つまりは言葉のみによって「情報伝達」を行なうのに対し、映画にはそれ以外の側面が含まれているからだ。というより、映画とはまずもって言葉なしの映像のみによる表現形式として誕生した歴史的経緯があるのだから、言葉つまり台詞が表現の主となることは、トーキー時代においても、一般論としてはありえないというべきだろう。事実、少し前まではサイレント映画制作でキャリアを開始した監督が、まさに視覚的な、しかし音響面も決してないがしろにしない作品を作っていたのだし、サイレント時代の経験がなくとも、台詞に頼らぬ映画を作る現代作家は少なくない。
 それゆえ、字幕翻訳の研究には、映画という表現形式から字幕のみを取り出すことについての理論的な考察が必要となるように思われる。
 そしてその理論には、音声言語を文字言語に移し変えるという、狭義の翻訳とは別の変換作用についての考察も伴わなくてはならないだろう。しかも、オリジナルの音声――俳優たちの声――はそのまま残され、その上で映像に文字が付け加わるのだから、実際の字幕つき映像において事態は、オリジナルより複雑化しているのである。
 もちろん、このことは台詞を軽視してよいということを意味しないし、ましてや明らかな誤訳の単純な正当化ないし擁護が意図されているのでもない。
 

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