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2008年6月

2008年6月29日 (日)

トップ 14 優勝決定戦 クレルモン 対 トゥールーズ

 国内リーグ「トップ 14」の決勝戦が、代表のツアー第一テスト、対ワラビーズ戦と同日に行なわれた。この日程、どうにかならないかと強く思うが、どうにもならないのだろう。結局、リエヴルモンはまたしても「実験」を強いられることになり、惨敗(34-13、トライ数 4-1)を喫した。フランス 2 のニュースで断片的に見ただけだから詳細はわからないけれど、ワラビーズのFW の強さ(!)に相当やられた模様である。ギトー(ギタウだったっけ?)のトライは、トラン=デュック(13 番)が抜かれたようにも見えたが、要するにライン・ディフェンスさえ混乱し、マークがうまく行かなくなる局面が多数あったということなのだろう。報道によれば 14 番のアレクシ・パリッソンは初キャップでよいパフォーマンスを披露したとのことで、それはそれで素直に祝したい。
 そろそろ「三強」の一角を切り崩してワラビーズを引き摺り下ろそうや!などと夢想していたのだが(新候補はアルゼンチン、フランス、ウェールズ、イングランド)――
というのは、結局のところ、現在の秩序が保たれるかぎり、日本チームはいつまで経っても伸し上がれないので――新監督 R・ディーンはどうやら懸案だった FW  強化に手をつけたということなのだろう。まあ、まともなコーチなら当然そうあるべきなのだが。

         *

 クレルモン・オヴェルニュはミニョニやヴェルムレンが戻り、ほぼベストのラインアップ。南アの J・スミットが復帰しているのには少し驚かされたが、先発 HO はやはり M・レデスマである。
 対するトゥルーズは、クレール(とポワトルノー)を欠き、エリッサルドも万全の調子ではない。この試合では C・エマンスが 11 番に入り、M・メダールが FB を務める。
 スタンドにはもちろん クレール(やポワトルノー)、そして B・ラポルトの姿が見えた。

 クレルモンの方は今日は、気持のうえではいつものように「イケイケ」だったのだが、身体が付いていかなかった。シーズン最後ということで、蓄積された疲労もあったのだろうけれど、スピードもキレもなく、組織的な攻撃はほとんど見られなかった。SO の B・ジェームズさえ、今日は(プレースキックを除いて)いまひとつの出来だった。トライ数は 2-2、点数は 20-26 の六点差。とはいえ、後半 40 分過ぎのトライはいわゆる「コンソレーション・トライ」にすぎず、勝ち目の薄い、明らかな敗北だった。

 疲労といえば、ハイネケンカップを最後まで戦ったトゥルーズも同じはずだが、そして事実、バックスリーの個人的な脚力には疲れも見えたのだが、ブレークダウンやボールのつなぎでは――ノックオンは相変わらず多発したけれども――クレルモンより組織力で上回ったといえる。ジョジオンの再三の突破も忘れずに記しておこう。その後が問題ではあるのだが、いるのといないのとではやはり大きな違いがあるはずだ。
 ブレークダウンで負けなかったのも大きかったが、ライン・ディフェンスも素晴らしかった。勝因に挙げなければならない。

 グランド・フィナルとしては、両チームともミスが多く、最高のゲームとは決していえない試合となったが、後半 30 分の時点で七点差だったこともあり、勝敗の行方という点での興味はずっと持続した。
 トゥールーズが攻め込んで、クレルモンのゴール前でラックになり、途中から 12 番に入ったフリッツが DG 狙いのために後方に下がる(退場したエリッサルドに代わって 10 番を務めるジョジオンは何故かラックに参加していた)。ケレールがボールを出そうとするところで、クレルモン 13 番のジュベールが飛び出してしまい、ペナルティをとられる(久しぶりのフリッツは蹴らずに、ボールをもったまま突進したのだが)。さらに残り 5 分のところでも、ラックでスミットがオフサイドの反則を犯す。この六点で勝負が決まったといっていい。南ア勢は何をやっているんだとはいわないけれど(というか実質的には言っているわけだが)、痛い痛い反則というものの見本だったのは間違いない。

 後半のトゥールーズのトライは、自陣から(ラックをひとつ挟み)つないで取ったもの。クレルモンのディフェンスはやはり疲れていたのかキレがなかったが、ともかく、決勝にふさわしい見事なトライだった。

 マッチ後、B・ケレールや O・ハサンが喜びの涙を流していたのが印象的だったが、翌週、フランス代表はオーストラリア代表にまたしても大敗を喫する(40-10)。前の試合同様にトライがとれていない点が注目される(トライ数 4-1)。秋のテスト・シリーズはどうなるのだろう。今度はベストのメンバーで臨んで欲しいものである。

         *

 久しぶりに大学に行く校舎に囲まれた区画に新しい建物が出来ていた。工事が始まる前、まだ唯の空き地だった頃、そこで「ビー部」が集っているのを見たことがある。部といっても、わたくしが見た時は五、六人の学生にコーチひとりだけで、女子がふたりほど混じっていた。バックスの何かムーブを反復していたのだが、ディフェンスのいない練習だと男女混合で出来るのだなと妙に感心した記憶がある。彼らは今どこで練習しているのだろうか。

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2008年6月25日 (水)

ユーロ 準々決勝

 ユーロの準々決勝が終わり、準決勝出場チームが決まった(左側が各グループ一位、放送は順に TF1・ M6、いずれも 20 時 45 分より。ちなみに、これまでと同様 TF1 にはヴェンゲルがゲストとして招かれ、M6 ではルブフが解説を行なう見込みである)。

ドイツ  対 トルコ
ロシア 対 スペイン

 四試合それぞれ異なる趣のゲームで楽しむことが出来た。秘かに予想したとおり(!)、トルコとロシアが勝ち上がっている。主力を半分くらい欠くトルコはさすがに「ミラクル」もここまで、という感じだが、一方のロシア対スペインの再戦は非常に興味深い。

 この種の大会には、見たい対戦がすべて実現しはしないという不満がつきまとう。昨年のラグビー W 杯でいうと「オールブラックス対プーマス」や「フィジー(覚醒後)対フランス」が例えばそうだった。今年のユーロでは、「オランダ対スペイン」、あるいは「ロシア対イタリア」がそうした顔合わせに相当するのではないだろうか。
 とりわけ後者は、二重の意味において望まれる対戦といわなければならない。まずはロシアの攻撃力が、守備をガチガチに固め たイタリアにどれくらい通用するか見てみたいという、二チーム間の力関係に対する関心。だが同時に、オランダ、つまりイタリアに3-0 で勝ったオランダと、ロシアとの力関係を推測したいということもある。
 むろん、諸条件が異なる以上(イタリアは対オランダと対スペインで全く異なる戦い方をした)、正確な比較は不可能であるけれども、このままでは〈イタリアに 3-0 で勝つ〉ということの意味が判然としない。要するに、オランダ・ロシア戦の結果は衝撃を与えたが、オランダは実はそれほど強くなかったのではないかと、漠然とだがわたくしは感じている。
 再びラグビーを例にとると、弱小チームに 91-3 で大勝したワラビーズが準々決勝でイングランドに 12-15 で敗れる、あるいは同じ弱小チームを 145-17 のスコアで叩き潰すなど、いつも優勝候補の筆頭に挙げられるオールブラックスが、いいところなくスプリングボクスやフランスに敗れ去ってしまうのと似ているのではないだろうか。

 ロシアの勝ち上がりが手放しで称賛されぬとすれば、それはひとえに監督のせいだろう。一定の成績を常に残しながらも、ヒディンクのチームづくりには、どこか作為的なところが確かにある。三度ラグビーに喩えるならば、春口氏率いる関東学院のように〈やらされてる感〉が強く出ており、そのために人間的な共感を得にくくなっているわけだ。半分くらいは同意してもよい。だが、このロシア・チームが一戦ごとに成長している点は――エースのアルシャフィンが復帰したことが大きいとはいえ――忘れてはならないだろう。
 オランダ戦についていうなら、ロシアは最初からきついプレスをかけ続けたけれども、それはプレスのためのプレスではなく(したがってただゲームを殺し、相手の得意な部分をただ潰すためだけの戦術ではなく)、すぐさま攻撃に転ずるのに不可欠な過程の一環ではなかったか。そしてその攻撃とは、実のところ
オランダのやりたかっ(たが出来なかっ)た攻撃そのものだと思われる。それをロシアが見事にやってのけた、その点でわたくしはこのマッチを肯定的にとらえたい。
 
例えばウェールズ(ラグビー)は、持ち味であるバックス展開を可能にするために、新コーチのもと、FW の強化にとりかかった。具体的には、とりわけブレークダウンでのボール争奪を重視し、器用でパスや・ランにも秀でたマイケル・オーウェンより、ライアン・ジョーンズとジョナサン・トマスを選んだわけだ。フットボールは結局のところプロレスとは違うのだから、互いに(スペースを)譲り合って技を披露し合うというような幸福な展開にはどうしたってなりえない。自分の得意な展開にもち込むために何が必要か――誰が相手でも同じことしかできなかったオレンジ軍団には、その点についての準備が欠けていたことになるのではないだろうか。
 われわれは、ヒディンクがオランダ人だということをしばしば忘れがちである。この試合は実は「オランダ対オランダ」という、夢のような、また漫画のようなゲームとなる可能性もあったのだ。それを潰えさせた責任は――まあそんなものを野暮を承知で敢えて問うとすればの話だが――ロシアではなく、オランダの側にある。

 そういうわけで、次の対スペイン戦がどのようなゲームになるか、とても楽しみにしている。ロシア側に唯一注文をつけるとすれば、ヒディンク氏のあの意味のわからないガッツポーズをどうにかして欲しいと、それくらいである。

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2008年6月18日 (水)

ユーロ グループステージ

 ユーロのグループステージが終わり、準々決勝出場チームが決まった(左側が各グループ一位、放送は前 2 試合が TF1、後 2 試合が M6、いずれも 20 時 45 分より)。

ポルトガル 対 ドイツ
クロアチア 対 トルコ
オランダ  対 ロシア
スペイン  対 イタリア

 面白かったマッチ(全試合を見たわけではない)は、オランダ対イタリア/フランス、クロアチア対ドイツ、スペイン対チェコ、トルコ対チェコ、ロシア対スウェーデン。
 印象に残ったチームはオランダ、スペイン、クロアチア、ロシア。

 ロシアは、対スペイン戦の様子はわからないものの、対スウェーデン戦を見るかぎりでは好チームだった。
 ラグビー的ともいえるかもしれない〈敵陣でプレーすること〉の重要性を
認識したかのような戦い方。また、スペースを見つける(守備時にはスペースを埋める)のがうまい、少なくともスウェーデンよりはずっと速かった。したがって、パス交換が、単にボールをキープするためだけ、つまりは交換するためだけのパスにならず、攻撃の有効な組立てにつながっていた。仕留めの段階で若さが出たために、数回ゴールを決め損なったのが惜しまれるが、すべて決まっていたら 4-0 ないし 5-0 となっていたかもしれない。いずれにせよ完勝である。
 ただし、相手があまり動かないスウェーデンだったからこそ、スペース活用で先んじることが出来たのだともいえる。たとえばオランダやスペインのようなチームとの対戦では、単に空隙を見つけるだけではなく、スペースを文字通り創造する必要があるだろう。まあそれが出来なかったからこそ、スペインに敗れたということになるのだろうが、このチームは非常に若く、成長がまだ見込めるように思う。ヒディンクがずっとコーチを務めるのなら、次の W 杯が
楽しみである。

 トルコの対チェコ戦での大逆転は興奮させられた、というよりむしろ、あの試合は最高に可笑しかった。
 チェコ DF の脆さも大きかったにせよ、全員が引きこもっているなかで、たった 15 分のうちに 3 点を奪うことができた攻撃力―― 3 点目のニハトのシュートは往年のデルピエロを(角度は異なるが)髣髴とさせる見事なものだった――と、その後のキーパー退場、FW(?)トゥンジャイのキーパー「コスプレ」という一連の「ありえない」展開との対比に、見終わったあともしばらく笑いが止まらなかった。
 プレーヤーはみな真剣にやっており、わたくしはそもそもトルコの勝ち抜けを心から喜んでいるのだが、漫画みたいで、驚きつつ笑うほかなかった。キーパーは何だかよく知らないが「火山」みたいな名前だし、トゥンジャイは、逆転ゴールを決めたニハトに次々と同僚が覆いかぶさってゆくなか、最後にやってきて、本当に空中に飛び上がってダイビングしていた人である(一番下の人がよく怪我しなかったものだ)。それが何で次の瞬間にキーパーをやってるんだ? 「俺はやるぞー」みたいな面構えは頼もしくなくもなかったけれども、本当にシュートが来たらどうなっていたことやら――そう考えると笑いを止めることは難しい。もちろん、ばかにして笑っているのではない。そうではなく、これは解放の笑いなのである。
 こういう直情型のチームに対してクロアチアはどのように戦うのだろうか。

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2008年6月12日 (木)

ユーロ、ウェールズ、「新訳」

 ユーロ 2008 (瑞・墺)が始まっている。TF1と M6 で全試合放映されるので面白そうなマッチは見るともなく見ているのだが、大差の試合が多いような気がする。3-0、4-1、……。それとも序盤戦はこんなものだったか。とはいえ、大味でつまらぬというわけでもなく、見所はある。とりあえず一番面白かったのはオランダ対イタリア。ロッベンらを欠いてなおあれだけの攻撃力が発揮されるとは!
 ロッベンで思い出したが、今大会はフィールドの端をサイドバックが駆け上がってゆくプレーが(今のところ)比較的少ないように感じられる。あと、ボールが黒白斑の懐かしいデザインとなっている。
 イングランドが出ていないことに今日初めて気づいた。イングランドばかりか、大ブリテン島とアイルランドからは一チームも出場していないではないか。サッカー版ハイネケンカップ決勝戦をついこのあいだ見たところでもあり、何だか別世界の出来事のようだ(「ユーロ? そりゃ一体どこのヨーロッパの話だ?」とイギリス人も感じていることだろう)。やはりブリテン島のチームは、少なくとも一チームは出場して、その戦法の「古くささ」(古式ゆかしい戦法ともいう)を批判されるという、母国としての義務をきっちり果たすべきである。

〔オランダがよかったと書いたばかりだが、ドイツを会心のゲーム運びで負かしたクロアチアを称えたい。この試合が今のところのベストマッチである。〕

          *

 嗚呼、ウェールズ! 襤褸負けではないか。さすがに勝利を期待しはしなかったが、それでも少しは競ったマッチになると見込んでいたぞ。
 ラインアップが発表されたばかりの第二テストは、何とジェームズ・フックがフルバック。スティーヴン・ジョーンズとの 10-12 コンビが上手く行かないのはわかっているし、また 12 番でのフックのディフェンスは
心許ない(ディフェンス・リーダーたるヘンソンの不在が痛い)。専守になったり、きついプレッシャーの中で満足行く攻撃もできなかったりするくらいなら、スペースのある 15 番の位置から突破口を――ということなのだろう。キックという攻守にわたっての大きな武器もあることだし。
 ガレス・デルヴ(グロスター)をエイトに、またバックスで最も大きいジェーミー・ロバーツを 12 番に据えるなどして、センターラインの強化がいちおう図られたとはいえ、ウェールズがまさかジャパンや神鋼のような戦略を採るとは思わなかった。悪い策とは必ずしも思わないが、スプリングボクスとのテストマッチで試すとはね。しかもフッキーはこのレベルでの FB 経験は零だし、ロバーツは FB・WTB の選手。これはもう博打ですな。

          *

 文学作品の「誤訳」が一般的な話題になるとは思わなかった。フランス文学に対する関心がいくらかでも高まるとすれば、有難いというべきかもしれない。実りある議論となればよいのだが。

 それにしても、折に触れて感ずることだが、「新訳」という言い方はどうにかならないだろうか。それはあくまで出版社など売る側の惹句(キャッチコピー)にすぎないのであって、だから訳者本人が「新訳」といってしまうと、学術の次元の問題ではなくなってしまうような気がする。翻訳者はそうしたことにいま少し自覚的であってよいと思う。
 新訳、という言葉の問題は、まずそれによって既存の訳業が「旧訳」となってしまう点にある。訓ずれば要するに「旧(ふる)い訳」だ。一般的にいって、時系列のうえで後に位置するものが必ずしも「よりよい」とはかぎらないのだから、宣伝文以外の場面では別の表現を用いた方が無難だろう。
 もちろん「新しいのだからよりよくあるべきだ」と主張することは可能だが、それはまた別の話――というか、「新訳」と称することによって、その翻訳が実際には「新しいがゆえによりよい」という意味を必ず帯びてしまうということが、第二の問題点なのである。問題というよりむしろ、訳者の責任に新たな次元が加わるというべきかもしれない。
 アントワーヌ・ベルマンは『他者という試練』でこういっている。

翻訳が「漸進的」な過程であることはいうまでもない。つまり翻訳が決定的なもの、完成されたものたることは決してありえず、そうあらんと夢想することさえ許されはしないのである。翻訳は原典以上に死すべき存在なのだといってしまおう。そしてだからこそあらゆる作品は無限の翻訳を許すのだと。〔第 7 章「翻訳の思弁的理論」、247 頁〕

 明らかに翻訳の寿命は原典のそれよりずっと短い。ヴァルター・ベンヤミンのいつもながら卓抜な譬喩をおおざっぱに借り受けていうなら、原典において、言葉と内容は果実の皮と身のようにぴったりと一体化しているのに対し、翻訳では言葉と内容は――襞の多い王のマントのように――ずれを含み、初めから分離されてしまっている。作品たる原典の言葉がいわば永遠に触れているとして、翻訳の言葉はそれとは異なりあらかじめ「賞味期限」(『翻訳夜話』)を定められているのである。最新の翻訳も宿命としてやがては古びゆく。だが、もう少し大きなスパンで、というかいま少し謙虚に事態をとらえ返してみれば、「新」も「旧」も結局のところは「無限の翻訳」の一部をなすにすぎず、両者の差は相対的なものにすぎないことが諒解されるはずだ〔※〕。
 〔
※もっとも、より大きな観点からすれば、翻訳されることを通じて原典の言葉が「再生」することもある。あるいはまた、詩の(したがって言葉の)モダニズム革命によって歴史に絶対的な断絶が導入された以上は相対的な比較は不可能だとする意見もある。詳しくは『他者という試練』やメショニックの議論を参照されたい。〕
 
別の観点からこう述べることもできるだろう。上のような理由からして「新訳」に対するある種の要請が不断に存在するとして、しかしその要請は、出版社が訳者に対して行なう要請と混同されてはならないのだと。

 100 %ニュートラルな言い方は可能だろうか。再訳――これはどうしても災厄を思い浮かべてしまうので、あまり適切とはいえない。敢えていうとすれば、結局は「 n 番目の翻訳」といったものになるのではないだろうか。ちなみに上に引用した「拙訳」は「二番目の翻訳」である。

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2008年6月 5日 (木)

ELVs

 週末から夏のテストマッチ・シーズンに入る。フランスの地上波(つまりフランス 2・3)では南半球のテストは放送されないので、たぶんわたくしは見られないが、ともあれ南アフリカ対ウェールズの二試合は、勝敗は別としても、とりわけ興味深い。負傷欠場者の影響をウェールズの方が多くこうむっているのは痛いところだが、6Ns での一試合平均トライ数 2.6 のウェールズは世界王者から幾つトライを奪えるのか(そして平均失トライ数 0.4 のディフェンスがどれくらい通用するか)、楽しみである。

 もうひとつ、気になるのは、もしかするとこのシリーズが「旧ルール」で行なわれる最後のテストマッチとなるかもしれないということだ。4 月 25 日付の記事だからすでに旧聞に属すことになるだろうけれど、たとえばフレデリック・ミシャラクは、試験的導入の決まった新ルールを支持しており、一刻も早く世界的に採用されることを望んでいるとのことである(ラグビープラネット Michalak supports ELVs より)。

 彼の談話がどの段階でフランス語から英語に訳されたかわからないけれども、とにかく記事によればこう語ったらしい。

 「新ルールはとてもよいと思う。ゲームは以前よりずっとオープンなものになった、特にラックプレーの場合がそうだ。
 「プレーヤーが〔ラック内で〕ボールを放さなければ[レフェリーは]相手側に FK を与える。ラグビーはボール・ゲームだからだ、そうだろう?
 「ざっくばらんに言って、新ルール導入はよいことだ。〔その種の反則があった場合〕 FK で再開されるわけだから、ゲームの中断が少なくなる」云々。

 ミシャラクは相当ラックが嫌いなのだろう。というか、意図的にラックをつくって攻撃を継続するという戦術にすっかり嫌気がさしてしまっているのだろうと思う。B・ラポルト時代のフランス代表がまさにそうした戦法を採用していたわけで、気持はよくわかる。しかし、だからといって、諸手を挙げて賛成というわけにはいかない。ルール変更というのはいつも悩ましいものだ。

 まず、今回導入される新ルール全体をワン・セットとして、つまり意図された目的を実現するためにはひとつとして欠かすことも切り離すこともできない項目のシステムと見なすべきかどうかがわからない。「多めに言っておいて、そのうち幾つかだけでも正式採用されればもうけもの」というような、ネゴシエーションの心理学に訴えたやり方ではないと思うけれど、項目数のこのような多さには警戒心を抱かざるをえまい。それに、現時点ですでにフィットネスの劣るジャパンがますます勝てなくなるではないかとの懸念も生じてくる。

 しかし、何より見逃せないのは、ルール変更がラグビーの本質にかかわるものだからだろう。その意味でわたくしは、例えば中尾亘孝さんが表明されているような危惧を共有しないわけにはいかない。
 「本質」という言い方は生硬にすぎるけれど、要するに、ユニオン・ラグビーをしてユニオン・ラグビーたらしめているのは何か、ということだ。アフターマッチ・ファンクションなど、挙げ始めると切りがないのでここではゲーム内の事象に話を限るとして、たとえばスクラム。スクラムはユニオン・ラグビーの――華とはいえないいせよ――中心である。日本語では抽象的に響くが、英語の heart や仏語の cœur に示されるとおり、スクラムはラグビーの「心の臓」なのである。
 確かにスクラムを組むのは時間がかかるし、崩れる・組み直すが繰りかえされることにでもなれば、バックスなどは相当に長い時間、手持ち無沙汰になりもするだろう。だがこれは本当にゲームの「中断」なのだろうか。時計が回っているからというばかりではない。その間フォワードのプレーヤーは遊んでいるわけではなく、バックスが抜き合ったりする場合などと同様の駆け引きがそこで生起しているのだから、やはりそれもラグビーのプレーにほかならないと考えるべきではないだろうか。スクラムの嫌いな FW もいるかもしれないが、わたくし自身は見ていて「退屈」と感じたことはないし、ノーコンテストの「スクラム」やセブンスの「スクラム」は、本当の意味でのスクラムとは別物だとさえ考えている。
 スクラムの時間が不要と思えるなら、リーグ・ラグビーを見たり行なったり(テレビ放映実現のために働きかけたり)すればよいのであって、スクラムの形骸化にはわたくしは全く与することができない。

 もっとも、今回の ELVs によってむしろスクラム機会は増えるようなので、上の話はあくまで譬えというか枕にすぎない。一番の争点となりうるのは、誰もが理解するとおり、「コラプシング」の非反則化によってもたらされうるだろうモールの抑圧である。
 フランス語でも le maul と称されるのだが、実をいうとわたくしは、つい先日まで、フランス語にいう「開かれた乱闘」(la mêlée ouverte)を勘違いでモールと思い込んでいた。つまり、語学的なレトリックにたよって――「閉じられた乱闘」(la mêlée fermée)が英語の scrum に相当する――、モールを擁護しようと姑息なことを考えていたわけである。実際には「開かれた乱闘」とはラックのことを指す。

 いずれにせよ、昨今は何かと風当たりの強いモールにも、美しいモールがあることは強調しておきたい。わたくしなどが真っ先に思い浮かべるのは 2007 年秋の W 杯、対フィジー戦におけるジャパンのモールによるトライである。トライになったからというばかりではない。またフィジー側が弱すぎたということも見落とせないけれど、あのときのモールは、参加プレーヤーが本当に一体となって、いうなれば山が動くかのように押し切るという、とても見事で、美しいものだった。ああしたプレーが見られなくなるとすれば残念である。

 他方、たとえばサントリーのモール戦術などは、「くそ面白くもない」などと批判されることが多い。以前書いたように〈批評とはラグビーがラグビーでなくなる瞬間を見定めることだ〉といえるとするならば、多くのファンは「こんなのはもはやラグビーではない」と感じたことと思う(つまり「批評的な体験」というのは日々、そして誰にでも起こりうるものなのです)。わたくしもそのように感じていた。
 いやしかし待て――と、そうした感慨に異議を挟んだ人がいる。藤島大さんである。コラム『尊敬と友情』中の「北陽台とサンゴリアス」で藤島さんは、いわゆる勝利至上主義だけでモール戦術が採用されるわけではなく、対戦相手(この場合は三洋ワイルドナイツ)の強み弱み――それは同時に自分たちの強みと弱みでもある――を見極めたうえでの、いわばギリギリの戦略としての「ファイナルラグビー」というものがありうると指摘している。つまり、どれほど退屈に見えようと、あの場合のモールもまたラグビーにほかならないのだと。なるほどその通りである。全否定してしまうのは正しいとはいえない。
 もちろん藤島さんにしても、全肯定しているわけではなく、

サントリーも極度に偏りのあるチームではない。スクラム、ラインアウトを大切に考える。実は、それは挑戦者の生命線でもある。そのうえでラグビーの理屈を求めてボールを動かす。ファイナルでは動かさなかったのは、それだけ三洋電機のディフェンス力と個々の爆発力を認めたからだろう。ここから先、あえて書くなら、長崎北陽台がそうしたように、優れた選手たちの応用と判断の出番はやってくる。
応用力が型のありがたみを気づかせ、型があるから応用もあり、定型あれば飛躍もまたある。ファイナルのラグビーとは、実は、始まりでもあるのだ。

と文を締めくくっていることから推察されるように、あのモール戦術が、本当にギリギリのところで何とかラグビーに踏みとどまることができていると、おそらくは考えていらっしゃるのである。それは「終わり=目的」であってはならず、「始まり」にすぎないのだと。一見退屈に思えても、「始まり」を予感させるかぎりにおいて(重要なのはこの点だ)、あのプレーはやはり辛うじてラグビーに繋ぎとめられていると、そういうことになるだろう。

 困るのは、ルールという水準ではしかし、美しいモールもそうでないモールも、等しく同じ扱いを受けてしまう点である。だからこそ批評が必要となるのだし、世界的にそうした議論が、統計に依拠するだけでなく、〈どこまでがラグビーか〉という次元においても、起こってよいように思う。実際的な話としては、コラプシングに対抗できるよう足腰を鍛えましょう(笑)とか、そんなことしかいえませんが。一年間の試験期間は楽しみ半分、気懸かり半分である。

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