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2008年6月 5日 (木)

ELVs

 週末から夏のテストマッチ・シーズンに入る。フランスの地上波(つまりフランス 2・3)では南半球のテストは放送されないので、たぶんわたくしは見られないが、ともあれ南アフリカ対ウェールズの二試合は、勝敗は別としても、とりわけ興味深い。負傷欠場者の影響をウェールズの方が多くこうむっているのは痛いところだが、6Ns での一試合平均トライ数 2.6 のウェールズは世界王者から幾つトライを奪えるのか(そして平均失トライ数 0.4 のディフェンスがどれくらい通用するか)、楽しみである。

 もうひとつ、気になるのは、もしかするとこのシリーズが「旧ルール」で行なわれる最後のテストマッチとなるかもしれないということだ。4 月 25 日付の記事だからすでに旧聞に属すことになるだろうけれど、たとえばフレデリック・ミシャラクは、試験的導入の決まった新ルールを支持しており、一刻も早く世界的に採用されることを望んでいるとのことである(ラグビープラネット Michalak supports ELVs より)。

 彼の談話がどの段階でフランス語から英語に訳されたかわからないけれども、とにかく記事によればこう語ったらしい。

 「新ルールはとてもよいと思う。ゲームは以前よりずっとオープンなものになった、特にラックプレーの場合がそうだ。
 「プレーヤーが〔ラック内で〕ボールを放さなければ[レフェリーは]相手側に FK を与える。ラグビーはボール・ゲームだからだ、そうだろう?
 「ざっくばらんに言って、新ルール導入はよいことだ。〔その種の反則があった場合〕 FK で再開されるわけだから、ゲームの中断が少なくなる」云々。

 ミシャラクは相当ラックが嫌いなのだろう。というか、意図的にラックをつくって攻撃を継続するという戦術にすっかり嫌気がさしてしまっているのだろうと思う。B・ラポルト時代のフランス代表がまさにそうした戦法を採用していたわけで、気持はよくわかる。しかし、だからといって、諸手を挙げて賛成というわけにはいかない。ルール変更というのはいつも悩ましいものだ。

 まず、今回導入される新ルール全体をワン・セットとして、つまり意図された目的を実現するためにはひとつとして欠かすことも切り離すこともできない項目のシステムと見なすべきかどうかがわからない。「多めに言っておいて、そのうち幾つかだけでも正式採用されればもうけもの」というような、ネゴシエーションの心理学に訴えたやり方ではないと思うけれど、項目数のこのような多さには警戒心を抱かざるをえまい。それに、現時点ですでにフィットネスの劣るジャパンがますます勝てなくなるではないかとの懸念も生じてくる。

 しかし、何より見逃せないのは、ルール変更がラグビーの本質にかかわるものだからだろう。その意味でわたくしは、例えば中尾亘孝さんが表明されているような危惧を共有しないわけにはいかない。
 「本質」という言い方は生硬にすぎるけれど、要するに、ユニオン・ラグビーをしてユニオン・ラグビーたらしめているのは何か、ということだ。アフターマッチ・ファンクションなど、挙げ始めると切りがないのでここではゲーム内の事象に話を限るとして、たとえばスクラム。スクラムはユニオン・ラグビーの――華とはいえないいせよ――中心である。日本語では抽象的に響くが、英語の heart や仏語の cœur に示されるとおり、スクラムはラグビーの「心の臓」なのである。
 確かにスクラムを組むのは時間がかかるし、崩れる・組み直すが繰りかえされることにでもなれば、バックスなどは相当に長い時間、手持ち無沙汰になりもするだろう。だがこれは本当にゲームの「中断」なのだろうか。時計が回っているからというばかりではない。その間フォワードのプレーヤーは遊んでいるわけではなく、バックスが抜き合ったりする場合などと同様の駆け引きがそこで生起しているのだから、やはりそれもラグビーのプレーにほかならないと考えるべきではないだろうか。スクラムの嫌いな FW もいるかもしれないが、わたくし自身は見ていて「退屈」と感じたことはないし、ノーコンテストの「スクラム」やセブンスの「スクラム」は、本当の意味でのスクラムとは別物だとさえ考えている。
 スクラムの時間が不要と思えるなら、リーグ・ラグビーを見たり行なったり(テレビ放映実現のために働きかけたり)すればよいのであって、スクラムの形骸化にはわたくしは全く与することができない。

 もっとも、今回の ELVs によってむしろスクラム機会は増えるようなので、上の話はあくまで譬えというか枕にすぎない。一番の争点となりうるのは、誰もが理解するとおり、「コラプシング」の非反則化によってもたらされうるだろうモールの抑圧である。
 フランス語でも le maul と称されるのだが、実をいうとわたくしは、つい先日まで、フランス語にいう「開かれた乱闘」(la mêlée ouverte)を勘違いでモールと思い込んでいた。つまり、語学的なレトリックにたよって――「閉じられた乱闘」(la mêlée fermée)が英語の scrum に相当する――、モールを擁護しようと姑息なことを考えていたわけである。実際には「開かれた乱闘」とはラックのことを指す。

 いずれにせよ、昨今は何かと風当たりの強いモールにも、美しいモールがあることは強調しておきたい。わたくしなどが真っ先に思い浮かべるのは 2007 年秋の W 杯、対フィジー戦におけるジャパンのモールによるトライである。トライになったからというばかりではない。またフィジー側が弱すぎたということも見落とせないけれど、あのときのモールは、参加プレーヤーが本当に一体となって、いうなれば山が動くかのように押し切るという、とても見事で、美しいものだった。ああしたプレーが見られなくなるとすれば残念である。

 他方、たとえばサントリーのモール戦術などは、「くそ面白くもない」などと批判されることが多い。以前書いたように〈批評とはラグビーがラグビーでなくなる瞬間を見定めることだ〉といえるとするならば、多くのファンは「こんなのはもはやラグビーではない」と感じたことと思う(つまり「批評的な体験」というのは日々、そして誰にでも起こりうるものなのです)。わたくしもそのように感じていた。
 いやしかし待て――と、そうした感慨に異議を挟んだ人がいる。藤島大さんである。コラム『尊敬と友情』中の「北陽台とサンゴリアス」で藤島さんは、いわゆる勝利至上主義だけでモール戦術が採用されるわけではなく、対戦相手(この場合は三洋ワイルドナイツ)の強み弱み――それは同時に自分たちの強みと弱みでもある――を見極めたうえでの、いわばギリギリの戦略としての「ファイナルラグビー」というものがありうると指摘している。つまり、どれほど退屈に見えようと、あの場合のモールもまたラグビーにほかならないのだと。なるほどその通りである。全否定してしまうのは正しいとはいえない。
 もちろん藤島さんにしても、全肯定しているわけではなく、

サントリーも極度に偏りのあるチームではない。スクラム、ラインアウトを大切に考える。実は、それは挑戦者の生命線でもある。そのうえでラグビーの理屈を求めてボールを動かす。ファイナルでは動かさなかったのは、それだけ三洋電機のディフェンス力と個々の爆発力を認めたからだろう。ここから先、あえて書くなら、長崎北陽台がそうしたように、優れた選手たちの応用と判断の出番はやってくる。
応用力が型のありがたみを気づかせ、型があるから応用もあり、定型あれば飛躍もまたある。ファイナルのラグビーとは、実は、始まりでもあるのだ。

と文を締めくくっていることから推察されるように、あのモール戦術が、本当にギリギリのところで何とかラグビーに踏みとどまることができていると、おそらくは考えていらっしゃるのである。それは「終わり=目的」であってはならず、「始まり」にすぎないのだと。一見退屈に思えても、「始まり」を予感させるかぎりにおいて(重要なのはこの点だ)、あのプレーはやはり辛うじてラグビーに繋ぎとめられていると、そういうことになるだろう。

 困るのは、ルールという水準ではしかし、美しいモールもそうでないモールも、等しく同じ扱いを受けてしまう点である。だからこそ批評が必要となるのだし、世界的にそうした議論が、統計に依拠するだけでなく、〈どこまでがラグビーか〉という次元においても、起こってよいように思う。実際的な話としては、コラプシングに対抗できるよう足腰を鍛えましょう(笑)とか、そんなことしかいえませんが。一年間の試験期間は楽しみ半分、気懸かり半分である。

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