« ELVs | トップページ | ユーロ グループステージ »

2008年6月12日 (木)

ユーロ、ウェールズ、「新訳」

 ユーロ 2008 (瑞・墺)が始まっている。TF1と M6 で全試合放映されるので面白そうなマッチは見るともなく見ているのだが、大差の試合が多いような気がする。3-0、4-1、……。それとも序盤戦はこんなものだったか。とはいえ、大味でつまらぬというわけでもなく、見所はある。とりあえず一番面白かったのはオランダ対イタリア。ロッベンらを欠いてなおあれだけの攻撃力が発揮されるとは!
 ロッベンで思い出したが、今大会はフィールドの端をサイドバックが駆け上がってゆくプレーが(今のところ)比較的少ないように感じられる。あと、ボールが黒白斑の懐かしいデザインとなっている。
 イングランドが出ていないことに今日初めて気づいた。イングランドばかりか、大ブリテン島とアイルランドからは一チームも出場していないではないか。サッカー版ハイネケンカップ決勝戦をついこのあいだ見たところでもあり、何だか別世界の出来事のようだ(「ユーロ? そりゃ一体どこのヨーロッパの話だ?」とイギリス人も感じていることだろう)。やはりブリテン島のチームは、少なくとも一チームは出場して、その戦法の「古くささ」(古式ゆかしい戦法ともいう)を批判されるという、母国としての義務をきっちり果たすべきである。

〔オランダがよかったと書いたばかりだが、ドイツを会心のゲーム運びで負かしたクロアチアを称えたい。この試合が今のところのベストマッチである。〕

          *

 嗚呼、ウェールズ! 襤褸負けではないか。さすがに勝利を期待しはしなかったが、それでも少しは競ったマッチになると見込んでいたぞ。
 ラインアップが発表されたばかりの第二テストは、何とジェームズ・フックがフルバック。スティーヴン・ジョーンズとの 10-12 コンビが上手く行かないのはわかっているし、また 12 番でのフックのディフェンスは
心許ない(ディフェンス・リーダーたるヘンソンの不在が痛い)。専守になったり、きついプレッシャーの中で満足行く攻撃もできなかったりするくらいなら、スペースのある 15 番の位置から突破口を――ということなのだろう。キックという攻守にわたっての大きな武器もあることだし。
 ガレス・デルヴ(グロスター)をエイトに、またバックスで最も大きいジェーミー・ロバーツを 12 番に据えるなどして、センターラインの強化がいちおう図られたとはいえ、ウェールズがまさかジャパンや神鋼のような戦略を採るとは思わなかった。悪い策とは必ずしも思わないが、スプリングボクスとのテストマッチで試すとはね。しかもフッキーはこのレベルでの FB 経験は零だし、ロバーツは FB・WTB の選手。これはもう博打ですな。

          *

 文学作品の「誤訳」が一般的な話題になるとは思わなかった。フランス文学に対する関心がいくらかでも高まるとすれば、有難いというべきかもしれない。実りある議論となればよいのだが。

 それにしても、折に触れて感ずることだが、「新訳」という言い方はどうにかならないだろうか。それはあくまで出版社など売る側の惹句(キャッチコピー)にすぎないのであって、だから訳者本人が「新訳」といってしまうと、学術の次元の問題ではなくなってしまうような気がする。翻訳者はそうしたことにいま少し自覚的であってよいと思う。
 新訳、という言葉の問題は、まずそれによって既存の訳業が「旧訳」となってしまう点にある。訓ずれば要するに「旧(ふる)い訳」だ。一般的にいって、時系列のうえで後に位置するものが必ずしも「よりよい」とはかぎらないのだから、宣伝文以外の場面では別の表現を用いた方が無難だろう。
 もちろん「新しいのだからよりよくあるべきだ」と主張することは可能だが、それはまた別の話――というか、「新訳」と称することによって、その翻訳が実際には「新しいがゆえによりよい」という意味を必ず帯びてしまうということが、第二の問題点なのである。問題というよりむしろ、訳者の責任に新たな次元が加わるというべきかもしれない。
 アントワーヌ・ベルマンは『他者という試練』でこういっている。

翻訳が「漸進的」な過程であることはいうまでもない。つまり翻訳が決定的なもの、完成されたものたることは決してありえず、そうあらんと夢想することさえ許されはしないのである。翻訳は原典以上に死すべき存在なのだといってしまおう。そしてだからこそあらゆる作品は無限の翻訳を許すのだと。〔第 7 章「翻訳の思弁的理論」、247 頁〕

 明らかに翻訳の寿命は原典のそれよりずっと短い。ヴァルター・ベンヤミンのいつもながら卓抜な譬喩をおおざっぱに借り受けていうなら、原典において、言葉と内容は果実の皮と身のようにぴったりと一体化しているのに対し、翻訳では言葉と内容は――襞の多い王のマントのように――ずれを含み、初めから分離されてしまっている。作品たる原典の言葉がいわば永遠に触れているとして、翻訳の言葉はそれとは異なりあらかじめ「賞味期限」(『翻訳夜話』)を定められているのである。最新の翻訳も宿命としてやがては古びゆく。だが、もう少し大きなスパンで、というかいま少し謙虚に事態をとらえ返してみれば、「新」も「旧」も結局のところは「無限の翻訳」の一部をなすにすぎず、両者の差は相対的なものにすぎないことが諒解されるはずだ〔※〕。
 〔
※もっとも、より大きな観点からすれば、翻訳されることを通じて原典の言葉が「再生」することもある。あるいはまた、詩の(したがって言葉の)モダニズム革命によって歴史に絶対的な断絶が導入された以上は相対的な比較は不可能だとする意見もある。詳しくは『他者という試練』やメショニックの議論を参照されたい。〕
 
別の観点からこう述べることもできるだろう。上のような理由からして「新訳」に対するある種の要請が不断に存在するとして、しかしその要請は、出版社が訳者に対して行なう要請と混同されてはならないのだと。

 100 %ニュートラルな言い方は可能だろうか。再訳――これはどうしても災厄を思い浮かべてしまうので、あまり適切とはいえない。敢えていうとすれば、結局は「 n 番目の翻訳」といったものになるのではないだろうか。ちなみに上に引用した「拙訳」は「二番目の翻訳」である。

|

« ELVs | トップページ | ユーロ グループステージ »

翻訳論」カテゴリの記事

ラグビー」カテゴリの記事

サッカー」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ユーロ、ウェールズ、「新訳」:

« ELVs | トップページ | ユーロ グループステージ »