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2008年8月

2008年8月 8日 (金)

パウリーニョ・ダ・ヴィオラ

 アルテで放送された折に録画したものの、そのまま忘れてしまっていたドキュメンタリーを二年後にようやく見る。はや去っていこうとする夏を惜しんでいるさなかに、突然思い出したのである。
 公開は2003年だからもう五年前の映画になる。『私の時代は今だ』(Isabel Jaguaribe, Meu Tempo é Hoje, 2003)と題されたこのフィルムの主人公パウリーニョ・ダ・ヴィオラ(Paulinho da Viola)についてここで諄々と説明することはしない。同年生まれのカエターノ・ヴェローゾのように「世界性」を炸裂させているわけではないが、その分、ブラジルではずっと正統的な音楽家と目されているとはいえる。

 パウリーニョ・ダ・ヴィオラの名を知ったのは、アンビシャス・ラヴァーズによるカバー・バージョンだった(『グリード』1988年)。

 Para não contrariar você 「あなたと意見がぶつからないように」とでも仮に訳しておくが、1970年の『Foi um rio que passou em minha vida』(これはどういう意味になるのだろう、「それ以後、私の人生には一本の川が流れている」――川とは? (時の)流れ? あるいはふたつの岸辺を隔てるもの?)に収められた曲である。

 『グリード』時代のアンビシャス・ラヴァーズ――いちおう訳しておくと「野心を抱く恋人たち」の『強欲』――の貴重な生演奏が現在YouTube で視聴できる。レコードとはパーソネルが異なっていて、例えばヴァーノン・リードはいないけれど、ゲスト・パーカッショニストとしてブラジルからシロ・バプティスタが招かれ、こちらも素晴らしい生ドラムスと絶妙の絡みを生み出すなど、バンド演奏の充実ぶりがうかがえる(Copy Me 他)。
 数少ないシングルカット(ただしクラブ仕様)となった「ラヴ・オーヴァーラップ」が収められたアルバムでもあるが、こうしたバンド・サウンドと対照的な、落ち着いたブラジル風音楽が二曲含まれていて、そのうちのひとつが上記のカバーである。

 アート・リンゼイのアルバムの常として、ポルトガル語の歌詞には彼自身による英訳が添えられており、たとえばタイトルを含む詞行はこのようになっている。

 Muito bem, eu prefiro não falar para não contrariar você.
 〔Very well, I prefer not to speak so as not to conradict you.〕

 動詞 prefer not to do は『書写人バートルビー』で話題となった表現で、ただしあちらは would prefer not to do (仮に訳せば「…しないで済めばその方が好ましいのですが」)という風に仮定法に置かれており、もちろんその仮定法のニュアンスが大切なのだが、ともかく素晴らしい歌詞だと思う。「あなたと意見がぶつかってはいけないから私は喋らないでおきたい」。(喋らずに何をやっているかといえば、どうやらキスしているらしいんですけどね(笑) Se você me provocar / Mas aceito um beijo / Se você quiser me dar 「挑発しても駄目だ/でもキスなら受けるよ/あなたが私にしてくれるというなら」。)
 リンゼイ自身もあるインタビューで「現代ブラジル音楽は、サウンド面ではひどいのも少なくないけれど、歌詞はどれもいいんだ」という趣旨のことを述べていたが、おそらくそうなのだろう。

 楽曲やパウリーニョ・ダ・ヴィオラの歌唱・演奏ばかりではない。アート・リンゼイによるカバーもウットリするほど素晴らしい(MP3 ファイルをアップロードして聴き比べていただければよいのだが、やはり法律的に難しいと思う)。
 リンゼイはポルトガル語には不自由のない人だし、自身で作詞することもできるくらいなのだが、発音やイントネーションには「ガイジン」っぽさが残っている。しかしだからこそこのポルトガル語は、ネイティブが「自然」に発声する場合にそれこそ「自然」にまとわりついてくるだろう様々な意味から解き放たれ、いわば文字通りの、書かれたとおり、話されたとおりの言葉となる。DNA 時代はほぼシャウトするだけだったリンゼイのボーカルが、こういう楽曲ではとことんメロウになれるのも不思議だが、しかしそのきわめて滑らかなマチエールには、ひびといえばよいか、裂け目といえばよいか、ともかく外国性がつねにすでに織り込まれているのである。〈いいたいこと〉と〈いっていること〉とが完全に一致しているといってもよい。

 そんなことがあるのか?と問う人は幸いである、或る意味において。現実に多くの人は、おのれの頭の良さでも誇示したいのか、(こちらが「裏」などない言葉を発しているときでさえ)言葉の「裏」をつねに読み取ろうとする。そういう人たちは、〈文字通り〉ということの恐ろしさ、「裏」のない言葉の凶々しさ、そしてもちろん素晴らしさに撃たれたことがないのだろうと思う。繰りかえすけれど、それはある意味では幸福なことである。

 翻訳のエクリチュールが実はそういうものなのだと、ここで記してもそう唐突ではあるまい。〈いいたいこと〉と〈いっていること〉が完全に一致している、あるいは少なくとも、それらの一致を目指して産み出される言葉。すぐれた翻訳文学を、あるいは多和田葉子のような人のエクリチュールを読めばその点は体得されるはずである。

 中原昌也の文章にもそういうところがあったなあ、ついでに引用しておこう――と思ったら、肝腎の本がない! あゝそうだ、人に貸したんだった。A くん、早く返して。

 ともかく、そういうわけで、〈あなたと意見がぶつかってはいけないから私は喋らないでおきたい〉は文字通りに聴かれなくてはなりません。「文字通りに解釈するとこの歌詞はどういう意味になるのか?」と問う人もいそうですが、いやだから〈文字通り〉というのはそういうことではないのです。

            *

〔註記 『グリード』の枠組でいうと、この曲と、そのひとつ前の「Steel Wool」はパーソネルが共通しており(ギターのビル・フリゼール、ドラムスのジョーイ・バロン)、一続きのものと考えることができる。事実、「スティール・ウール」の歌詞の最終行は Describe how you feel, but keep kissing「どんな感じかいってみて、でもキスはやめないで」となっている。〕

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2008年8月 7日 (木)

 さるブロッグ(http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080211)で次のような文章を見かけた。

休日の喫茶店。二人の男。三十代と二十代。中小企業の上司と部下。おそらく。
深夜の喫茶店。二人の男。四十代と三十代。ガテン系の職業。これも、おそらく。
太い声で「オレ」語り、「オマエ」呼ばわりの労働者。
聞こえてきたのが、一つに「幼稚園」「自閉症」、一つに「積極的延命措置」「選択」。
諸君もまた、そう言うのか。諸君までもが、そう言うか。諸君だからこそ、そう言うのか。「オレ」「オマエ」たちにおいても、「私たち」は「敗北」and/or「勝利」した。
クソッ。気分は、晩期の芥川だ。

 一読して含意を図りかねると感じられたが(そもそも「ガテン系」の意味がわからないし)、要するに、自分を指して「オレ」というような人間が、漢字だけからなる「高級」な言葉を操っていることに違和感を抱いたと、そういうことなのではないかと思う。あるいはもしかすると、「社会における健全な階層ないし棲み分け」が失われつつあることにショックを受けたということかもしれない。
 いずれにせよ、「オレ」がそういう風に思われているとは知らなかった。いまどき「俺」なんて、何と反動的な!というわけだろうか。
 話としては、つまり自意識が少々過剰なインテリの話としてはわかるけれど、そんなこといわれてもなあ。
 もちろん、ここで問題とされているのは、「オレ」が孕みうるある種の傾向であって、現実に「オレ」と自称する人間(だけ)が直接的に批判されているわけではあるまい。〈「私たち」は「敗北」and/or「勝利」した。〉というような込み入った書き方にも、その点は明らかである。にもかかわらず、厭な感じが拭えないのはなぜだろう。
 
同じブログの別エントリー(http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071109)ではこう書かれている。

恩師が聞き及んでいたような京都の「礼儀」はさすがに無くなった(ようである)が、やはり京都と東京では作風が少しばかり違っている。東京での学会・研究会、その後の飲み会は、概ね平等主義的であるが、そこには常に競争意識が貼り付いている。発言は必ず「オレが、オレは」である(このジェンダー化した表現はそのまま受け取っていただきたい)。駄話にしても勝ち負けを決すべきものになっている。気が抜けない。まさにアゴーンである。私は喧嘩は嫌いではないので苦にはならなかったが、見る人が見たら、随分と嫌らしい光景だと思う。

 いやいやいやいや、「そのまま受け取る」わけには参りません。「これこれの自称表現はジェンダー化されている」と述べるのはよい。男性であるらしいこの書き手の、ジェンダーに対する問題意識の現われには違いないし、そこを出発点として問題が深められてゆくとすればそれは、単純に、そして純粋に歓迎すべきことと思うからだ。
 それにしても「オレと自称する奴はどんな場合でも必ず勝ち負けを決すべきと考える」というのはやはり暴言だろう。敢えて紋切型に訴えるなら、わたくしは「軽く眩暈を覚えました」。

 そういうわけで(しかし反論ということではなく)触発された覚書としていくつか思いつきを書き留めておきたい。
 まず、いわゆるインテリの自意識の問題。「芥川」の名前が示すように、書き手は自覚のうえで、インテリの名において、ということはつまりインテリの権利かつ義務として「オレ-オマエ」たちと「私たち」との間に一線を画そうとしているわけだが、そのような境界は本当に存在するのか。あるいはむしろ、そのように線引きする必要はそもそもあるのだろうか。企業が「中小」である必要もなさそうに思う。まさか大企業には「オレ-オマエ」関係がないとでも?
 確かなのは、「オレ-オマエ」の側からそうした線引きが試みられることはないだろうという点である。弊害として挙げうるのは、たとえば文化の過剰な平準化(「スーパーフラット」?)だろう。しかし、間違ったところに線を引いてしまうことと比べて、いずれがより害が大きいかなど、一概に断じてしまうことははたして可能だろうか。

 また、いわゆる人称代名詞の問題がある。人称代名詞群というのは要するにシステムなので、組合せを単位として考えるというやり方はとりあえず正しいはずだが、では「私(たち)」の対となる人称表現が与えられていないのはなぜだろうか? (私と私たちも場合によっては対立しうるが、ここではその点は除外する。)日本語では、「二人称代名詞」で呼びかけることのできない対象がある。むしろそちらの方が問題なのではないだろうか。〈わたし〉と〈私〉の違いなどという、本当にどうでもよい議論(にもならない遊戯)においても「二人称」の問題は考えられていない。〈わたし〉を出発点とし、他のどこにも赴くことなく〈わたし〉に舞い戻ってくる――ただただ窒息しそうでやりきれなくなる。だいたい「ぼく」や「わたし」の方が「おれ」より繊細だなんて、冗談でしょう? しかも一方で「先生」とか「陛下」とか「諸君」とかいいながら? 柔らかい感じを出そうという意図は尊重したいと思うけれど、人称代名詞のシステムはそんなやり方ではビクともしないだろう。

 大学生の頃、「俺の父が……」と口にして満場から違和感を表明されたことがある。正しくは「俺のおやぢ」ないし「わたしの父」といわなくてはならないと、確かそのように諭されたのだった(あまり真に受けないでください、いずれ愚にもつかぬ戯文なのですから)。しかし、それって結局クリシェですよねえ、正式に「紋切型辞典」に登録されていなくたって、言葉というものは畢竟すれば拘束にすぎないともいえるわけだから、こう来たら次にこう来るという道筋に順々と従って、「おれ」と来たら「おまえ」としか、あるいは「俺」ときたら「俺様」としか考えられないというのでは、自分の頭を使ったというよりむしろ、言語に考えさせられているにすぎないと、究極的にはそういうことになってしまわないでしょうか? あなたと俺、君と俺、またあなたと俺と彼(女)などなど、他にいくらでも関係はありえるでしょうに。

 確かに、一人称がつねにすでにジェンダー化されているというのは標準的日本語の最大の欠陥である。
 こうしたことを考え出すと、たとえば英語やフランス語の人称代名詞が思い出される(ただし必ずしも模範としてではない)。たとえば tu が接吻の響きと等価であるような関係、またたとえば学生同士のようにほとんど自動的にそう呼び合うことが強制されてしまうような関係。子供には tutoiement で呼びかけましょう……。tu にもいろいろあるし、vous にもいろいろある。いずれ権力関係から全く自由ではありえないとしても、とりあえずジェンダー的にはニュートラルなものと見なしうる二人称代名詞。日本語の「あなた」はそういうものになりうるのか。

 おそらく、方言に目を転ずる必要もあるだろう。一般的にいって方言のひとつの長所は、男女差が少ないことである。上方の言葉はやや「洗練」されすぎていてアレだが、ともかく、方言の観点からすれば、「俺」だの「私」だのにジェンダー的問題を過剰に読みとろうとする人たちが、なかば偽の問題に踊らされているとさえ見えてしまう。標準語しか知らない人、標準語を母語として生まれ育つ人に訪れうる不幸といえるかもしれない(むろん皆が皆そうだということではない)。地方出身者は地方出身者で、話し言葉と書き言葉の乖離に身悶えするという別種の不幸を経験するのだから、もちろん同情はできない。できない。
 標準語でも統一的な表現を用いる方がよいだろうという意見にはだいたい賛成である。だから問題は、「オレ」といおうが「わたし」といおうが、勝負にこだわる人々(そうした連中はたくさんおります、女性のなかにもね)の性根はいずれにせよ変わらないという点、したがって「オレ」批判はほとんど無意味であるという点だ。
 自分を指して「俺」と称する人間もまた、男女差のない言語を夢想することがありうる――その点に思い至らないとすればそれは、想像力の働かせ方が十分ではないからではないでしょうか。

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