« コニャック=ジェ美術館 | トップページ | パウリーニョ・ダ・ヴィオラ »

2008年8月 7日 (木)

 さるブロッグ(http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080211)で次のような文章を見かけた。

休日の喫茶店。二人の男。三十代と二十代。中小企業の上司と部下。おそらく。
深夜の喫茶店。二人の男。四十代と三十代。ガテン系の職業。これも、おそらく。
太い声で「オレ」語り、「オマエ」呼ばわりの労働者。
聞こえてきたのが、一つに「幼稚園」「自閉症」、一つに「積極的延命措置」「選択」。
諸君もまた、そう言うのか。諸君までもが、そう言うか。諸君だからこそ、そう言うのか。「オレ」「オマエ」たちにおいても、「私たち」は「敗北」and/or「勝利」した。
クソッ。気分は、晩期の芥川だ。

 一読して含意を図りかねると感じられたが(そもそも「ガテン系」の意味がわからないし)、要するに、自分を指して「オレ」というような人間が、漢字だけからなる「高級」な言葉を操っていることに違和感を抱いたと、そういうことなのではないかと思う。あるいはもしかすると、「社会における健全な階層ないし棲み分け」が失われつつあることにショックを受けたということかもしれない。
 いずれにせよ、「オレ」がそういう風に思われているとは知らなかった。いまどき「俺」なんて、何と反動的な!というわけだろうか。
 話としては、つまり自意識が少々過剰なインテリの話としてはわかるけれど、そんなこといわれてもなあ。
 もちろん、ここで問題とされているのは、「オレ」が孕みうるある種の傾向であって、現実に「オレ」と自称する人間(だけ)が直接的に批判されているわけではあるまい。〈「私たち」は「敗北」and/or「勝利」した。〉というような込み入った書き方にも、その点は明らかである。にもかかわらず、厭な感じが拭えないのはなぜだろう。
 
同じブログの別エントリー(http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071109)ではこう書かれている。

恩師が聞き及んでいたような京都の「礼儀」はさすがに無くなった(ようである)が、やはり京都と東京では作風が少しばかり違っている。東京での学会・研究会、その後の飲み会は、概ね平等主義的であるが、そこには常に競争意識が貼り付いている。発言は必ず「オレが、オレは」である(このジェンダー化した表現はそのまま受け取っていただきたい)。駄話にしても勝ち負けを決すべきものになっている。気が抜けない。まさにアゴーンである。私は喧嘩は嫌いではないので苦にはならなかったが、見る人が見たら、随分と嫌らしい光景だと思う。

 いやいやいやいや、「そのまま受け取る」わけには参りません。「これこれの自称表現はジェンダー化されている」と述べるのはよい。男性であるらしいこの書き手の、ジェンダーに対する問題意識の現われには違いないし、そこを出発点として問題が深められてゆくとすればそれは、単純に、そして純粋に歓迎すべきことと思うからだ。
 それにしても「オレと自称する奴はどんな場合でも必ず勝ち負けを決すべきと考える」というのはやはり暴言だろう。敢えて紋切型に訴えるなら、わたくしは「軽く眩暈を覚えました」。

 そういうわけで(しかし反論ということではなく)触発された覚書としていくつか思いつきを書き留めておきたい。
 まず、いわゆるインテリの自意識の問題。「芥川」の名前が示すように、書き手は自覚のうえで、インテリの名において、ということはつまりインテリの権利かつ義務として「オレ-オマエ」たちと「私たち」との間に一線を画そうとしているわけだが、そのような境界は本当に存在するのか。あるいはむしろ、そのように線引きする必要はそもそもあるのだろうか。企業が「中小」である必要もなさそうに思う。まさか大企業には「オレ-オマエ」関係がないとでも?
 確かなのは、「オレ-オマエ」の側からそうした線引きが試みられることはないだろうという点である。弊害として挙げうるのは、たとえば文化の過剰な平準化(「スーパーフラット」?)だろう。しかし、間違ったところに線を引いてしまうことと比べて、いずれがより害が大きいかなど、一概に断じてしまうことははたして可能だろうか。

 また、いわゆる人称代名詞の問題がある。人称代名詞群というのは要するにシステムなので、組合せを単位として考えるというやり方はとりあえず正しいはずだが、では「私(たち)」の対となる人称表現が与えられていないのはなぜだろうか? (私と私たちも場合によっては対立しうるが、ここではその点は除外する。)日本語では、「二人称代名詞」で呼びかけることのできない対象がある。むしろそちらの方が問題なのではないだろうか。〈わたし〉と〈私〉の違いなどという、本当にどうでもよい議論(にもならない遊戯)においても「二人称」の問題は考えられていない。〈わたし〉を出発点とし、他のどこにも赴くことなく〈わたし〉に舞い戻ってくる――ただただ窒息しそうでやりきれなくなる。だいたい「ぼく」や「わたし」の方が「おれ」より繊細だなんて、冗談でしょう? しかも一方で「先生」とか「陛下」とか「諸君」とかいいながら? 柔らかい感じを出そうという意図は尊重したいと思うけれど、人称代名詞のシステムはそんなやり方ではビクともしないだろう。

 大学生の頃、「俺の父が……」と口にして満場から違和感を表明されたことがある。正しくは「俺のおやぢ」ないし「わたしの父」といわなくてはならないと、確かそのように諭されたのだった(あまり真に受けないでください、いずれ愚にもつかぬ戯文なのですから)。しかし、それって結局クリシェですよねえ、正式に「紋切型辞典」に登録されていなくたって、言葉というものは畢竟すれば拘束にすぎないともいえるわけだから、こう来たら次にこう来るという道筋に順々と従って、「おれ」と来たら「おまえ」としか、あるいは「俺」ときたら「俺様」としか考えられないというのでは、自分の頭を使ったというよりむしろ、言語に考えさせられているにすぎないと、究極的にはそういうことになってしまわないでしょうか? あなたと俺、君と俺、またあなたと俺と彼(女)などなど、他にいくらでも関係はありえるでしょうに。

 確かに、一人称がつねにすでにジェンダー化されているというのは標準的日本語の最大の欠陥である。
 こうしたことを考え出すと、たとえば英語やフランス語の人称代名詞が思い出される(ただし必ずしも模範としてではない)。たとえば tu が接吻の響きと等価であるような関係、またたとえば学生同士のようにほとんど自動的にそう呼び合うことが強制されてしまうような関係。子供には tutoiement で呼びかけましょう……。tu にもいろいろあるし、vous にもいろいろある。いずれ権力関係から全く自由ではありえないとしても、とりあえずジェンダー的にはニュートラルなものと見なしうる二人称代名詞。日本語の「あなた」はそういうものになりうるのか。

 おそらく、方言に目を転ずる必要もあるだろう。一般的にいって方言のひとつの長所は、男女差が少ないことである。上方の言葉はやや「洗練」されすぎていてアレだが、ともかく、方言の観点からすれば、「俺」だの「私」だのにジェンダー的問題を過剰に読みとろうとする人たちが、なかば偽の問題に踊らされているとさえ見えてしまう。標準語しか知らない人、標準語を母語として生まれ育つ人に訪れうる不幸といえるかもしれない(むろん皆が皆そうだということではない)。地方出身者は地方出身者で、話し言葉と書き言葉の乖離に身悶えするという別種の不幸を経験するのだから、もちろん同情はできない。できない。
 標準語でも統一的な表現を用いる方がよいだろうという意見にはだいたい賛成である。だから問題は、「オレ」といおうが「わたし」といおうが、勝負にこだわる人々(そうした連中はたくさんおります、女性のなかにもね)の性根はいずれにせよ変わらないという点、したがって「オレ」批判はほとんど無意味であるという点だ。
 自分を指して「俺」と称する人間もまた、男女差のない言語を夢想することがありうる――その点に思い至らないとすればそれは、想像力の働かせ方が十分ではないからではないでしょうか。

|

« コニャック=ジェ美術館 | トップページ | パウリーニョ・ダ・ヴィオラ »

翻訳論」カテゴリの記事

社会・雑感」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: :

« コニャック=ジェ美術館 | トップページ | パウリーニョ・ダ・ヴィオラ »