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2008年11月

2008年11月29日 (土)

秋のテストマッチ・シリーズ

カーディフ
 ウェールズ 対 オーストラリア 21-18 トライ数 2-2 (11月29日、ミレニアム)

 前半の後半にウェールズが L・バーンのトライと S・ジョーンズのコンバージョンで再逆転(12-10)してからは結果的に一度もリードを許すことがなかったとはいえ、実にスリリングな、残り 2 分で 8 点差(結局は残りワン・プレーで 3 点差)なのにまだ試合の帰趨がわからないという、エイ・リアル・スリラー、そして何より素晴らしいゲームだった。前回のオールブラックス戦の前半も面白かったけど、今日は 80 分続いたのでね。
 わたくしはずっと――この日だけでなく前の試合でもそう――胸を締め付けられていたけれど、奇蹟が起こったというほどではなく、ミスが無ければもう少し楽が出来たはずだし、喩えていえばフランスに勝つようにしてウェールズはオーストラリアに勝ったというところではないだろうか。レ・ブルーは調子さえよければワラビーズやスプリングボクスには割と「ふつうに」勝てるわけだが、レッドドラゴンはまだその域に達してはいない。達してはいないのだが、ワラビーズが特に不調だったわけでもなく、彼らもふつうに戦っていたように見えた。それに、ヘンソンもフックもフィリップスも不在、易しめの PG を二本外し、なおかつラインアウトがボロボロのなかでの勝利だから……あー、俺は何をいってんだろ、とにかく、今日はトライも綺麗に二本取れたし、素直に喜んでいる。S・ジョーンズのドロップゴールには痺れた、というかわたくしはウェールズ国籍が欲しい。そしてミレニアム・スタジアムで失禁するほどの昂揚感を味わいたい。
 対イングランド戦の結果を見て豪州はどれだけ強いのかと驚いていたけれども、単純にイングランドが弱かった、そしてワラビーズはオールブラックスやボクスと比較すれば現時点では一段劣っているということなのだろう。それでもラックの連続によるピック&ドライブは迫力があって、ウェールズは必ず 22 メートル線内に押し込まれることになった。反対にバックスの攻撃は怖さを感じなかった。いずれにせよウェールズのディフェンスは堅かったと思う。
 このゲームは、戦略的なキックが少なかった点で興味深かった。カウンターアタック時のパントは多かったが(とりわけウェールズは、このテスト・シリーズでボール保持の大切さを学ばなかったかのようだった。まあバーンが蹴る分には構わないとすべきなのかもしれないけれども)。
 今日とくに気づいた点は、ウェールズがハーフバックスを交代しなかった点、そしてこれもウェールズ側だが、いつものパスプレーに加えて「オフロード」パスを多用した(多く試みた)点である。この試合に限っていうなら、カナダ戦は除いてトライを取れていないという現実を踏まえて、ボールをより速く動かすこと、流れを(ラックなどで)切らないことを眼目にしたとはいえるだろうが、今後も同様の戦い方になるのかどうか、注目される。シェーン・ウィリアムズまでもがそうだったのだから――まあ彼はふつうのウィンガーよりボールに絡む機会が多いけれど――単純にフィジカリティに傾いた戦法とはいえないはずだが、それでも梅本洋一氏が指摘するような「スタイルの喪失」、いい換えればスタイルの世界的な均質化とどうかかわるのか、見守る必要があると思う。

 (黒ブーダンの付け合せを作るのが面倒で蜂蜜をかけて食べてみた宵に記す。)

マルセイユ
 フランス 対 アルゼンチン 12-6 (11月8日、ヴェロドローム)

 ビジター側の主将フェリペ・コンテポミについて、いつものフランス 2 のアナ:「頭を剃ってますね(C'est rasé)。手を保護するために手袋をはめていますが、むしろ頭の方を……」。
 なんとひどいことを! 公共放送なのに! でもこの人の言い方は何だか憎めない。お人柄だろうか。

 双方ノートライに終わったのは、攻撃時のミス(とりわけハンドリングの)、そしてそれなりに機能した防御のため。前半はキック合戦、とりわけハイパントによる攻撃が目立った。あまり多すぎると飽きてくるけれど、いずれのチームもまだまだチームカラーが固まっていないといえばよいか、とにかく途上にあって、そのなかで勝利も目指さなければならないわけだから仕方ない面もある。

 フランスは試合を通じてそればかり(正確にいうと、一、二回、よいパスの連続プレーがあった)だったのだが、アルゼンチンの方が後半ガラリとやり方を変えて、パスによる展開プレーを主体としたのが、敢えていうなら、退屈寸前のゲームを救ったことになるかもしれない。もっとも、パスがフィールドの端から端まで渡ってゆくという風には行かず、サッカーでいうところの「ワンツー」がほとんどだったことは記しておかなければならない。センターは主将のF・コンテポミも含め、攻撃ではあまり目立たなかった。バックスリーは、誰もが感ずるだろうように、とりわけ「ナニ」コルレトの穴が大きい(一方のウィングはW杯メンバーだけど)。しかし新しいフルバックも無難に役目を果たしてはいた。エイトのロンゴの穴も同様に非常に大きいが、今後に期待するほかない。

 プーマスにも勝機はあったと思うが、今日はエルナンデスのハンドリング・エラーが大事なところで頻発してしまった。彼がパントを自らチェイスするとき、何かが起こる予感をわれわれは抱くのだが――何と言っても「マゴ」だから――、ちゃんと落下地点に到達しているのにポロリとやるのが残念だった。

 フランスの方はといえば、個人技(とりわけピカモールやメダール)が目立った。シックスネーションズまでにはきちんとチームになるのだろうか。

ランス
 フランス 対 太平洋の島々 (11月15日、フェリックス=ボラール)

 ほとんど「エキシビジョン」マッチといえるほどに全く異なる戦法のぶつかり合いだったが、結果はフランスの完勝。印象に残ったのは、太平洋諸島チームの側が、モールを崩そうとしなかったこと。ルールの(一時)変更を知らないのだろうか? それとも崩し方を知らない、あるいはむしろ、地に崩れ落ちるのが単に厭とか? 答として最も面白いのは一番――ではなくて三番だが、うん、そういう戦い方があってもいいと思う。

サン=ドニ
 フランス 対 オーストラリア 13-18 トライ数 1-2 (11月22日、スタッド・ド・フランス)

 思えば、フランスに来て初めて見たラグビーは四年前の同時期、同じ場所、同じ対戦だった。前年のW杯以降不調だったミシャラクがトライをあげるなど活躍し、何とかワラビーズに勝利したのだが、その後確かオールブラックスには完敗したはず。たぶんアリノルドキ、ジョジオン、トライユ、ヘマンスはその日もメンバーだったように記憶する。SO が固まっていないというのは、今も同じだし、最も信頼の置けるキッカーがSH というのも同じ。ただし今回はエリッサルドがおらず、試合にも負けてしまった。

 フランス、勝っていてもおかしくなかった! マッチの勝敗の責任を唯ひとりのプレーヤーに押し付けないようにするというのも団体スポーツでは大切なことと思うが、攻撃面ではまだまだ途上との印象を受けた。ボールがどんどんつながってゆくという場面はほとんどなく、結果的にはやはり個人プレーが目立つこととなってしまったからだ。もともとフランスチームは、たとえばワラビーズなどとは違って、ピック&ドライブでも次から次へとフォローが湧いてきてガンガン進んでゆくという感じではなく、割にゆったりとした独特のリズムでプレーする傾向があるように思うが、そういう次元ではなく、単純に、まだまだ成熟していないということなのだろう。タックルこそ皆がんばってやっているけれども、それだけでは対処にもやはり限界があって、二本目のトライのように、ワラビーズのライン攻撃であっさりトライを与えることになってしまう。
 スクレラは、タッチキックやボックスキック、ハイパントなどは素晴らしかったが、今日はプレースキックだけが不調をきわめてしまった。こういう日もあるんだなあとしかいいようがない。スライスしたりフックしたり、または(して欲しいところで)しなかったり。アタックの起点としては、今日は自らボールを持ってラインブレークを数回成功させるなど、大いに活躍していただけに残念だった。

 豪州の方は、とにかく FW 絡みの反則が多かった。テレビ解説のガルチエなどは、レフリー(南ア・ジュベール氏)が厳しすぎると述べていたけれど、これで勝てたのは運が良かったというにすぎない。このままではウェールズに勝つのは難しいだろう〔※この一文は後から付け加えました〕。
 そういえばバーンズはどうしたのかな。モートロックが 12 番に上がっているということは、ゲームメーカーがギタウだけということになるだろうし、実際その通りだったのだが、この状態だとバックスの攻撃はさほど脅威ではなくなると思う。

            *

 というか、フランス、少なくともここ十年くらいのフランスは、相手を(W 杯の対アルゼンチン戦のように)見くびったりせず、あらかじめ立てた戦法をきちんと遂行して、何が何でも勝とうとすれば、特に「汚い」手を(アルゼンチンのように?)使わなくても勝てるんだよね(W 杯の対ニュージーランド戦がそうだったように)。だからある意味でつまらない――とはいわない。いわないが、でもそうするとフランスのスタイルっていったい何処にあるんだろう? 要するに〈特定のスタイルをもたない〉のがフランス的スタイルだということになるのかもしれないけれど、独りだけメタレベルに立つのって、何だか狡くない? 〈直球とは曲がらない変化球のことだ〉とかいって、いたいけな捕手を痛めつける投手のように(『ドカベン』ですよ、念の為)。まあ速断しなければいけないようなことでもないから、のんびり考えてみようか。

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2008年11月23日 (日)

水村美苗『日本語が亡びるとき』を読

 んではいないのですが、すでに内容を知ってはいましたし、また新聞やブログその他の書評を読んでだいたいのところは把握できたように思います。
 フランスの文脈でいえば、P・バイヤール『読んでいない本についていかに語るか』の問題につらなったりするだろうから、あの本を読んでおいてよかったなあと――ですから、わたくしがバイヤールの本を実際に読んだかどうかは問うてはならないわけですが――、あるいはフランスにかぶれなくたって、たとえば福田恆存が「流行のものは、それについて語りたい人の話を聞いていれば大体わかる」という趣旨のことを書いていましたけれど、まあ要するにそういうことです。さすがにきちんとした論評はできないので、触発された覚書として(だから真に受けられては困りますし、またまとまりや展開を考えてもいませんので御注意ください)。

 読んだ感想文では、とりわけて、出版社勤務というある編集者の冷静さを欠いた賛辞にはショックを受けました。何といっても編集者ですからねえ……もっとも「同 居 人 と 二 人 暮 し」というような言葉遣いが気にならない方のようですし、無理からぬことなのかもしれません(これは例えば「花売り娘の少女」というのと同じことだから、それが成り立つなら、「同居人と別々の場所で暮らしている」や「花売り娘の少年」も可能になるということです、仰りたいことはわかりますけどね、「二人で」ってのがポイントなんですよね)。この不況下、本が売れるというのはたいへんに喜ばしいことではあるのですが、それにしても。

 反対に、部分的にではあれ、共感を覚えた記事(ブロッグや新聞のそれ)も少なくありません。そのなかで鴻巣友季子さんの「〈読まれる言葉の連鎖〉への参加」という書評(朝日新聞 11月16日付)が、批判めいた言葉はふつう用いられないという新聞書評の制約のなかで問題点のひとつを的確に突いており、包括的とはいえないにしても(何しろ短文ですので)、すぐれた批評となっているように思われました。
 最も興味深いのは、この書評において出会っているのが、同じひとつの作品――『嵐が丘』――の翻案を書いた人と翻訳を行なった人だという点でしょう。出会うといっても、にこやかに握手しているわけではありませんが、それはともかく一般に、翻訳の営みを軽く考えている人々は、政治的なスタンスを確保する(批評的なスタンスをとりつつ原典に取り組む)には翻案でなくてはならないと考える傾向にあるような気がします。「翻訳」とは要するに、正確性のみをもってその価値が測られるただ無色透明なだけの媒体にすぎず、一方で翻案は、なるほど不正確かもしれないけれど、しかしそうであるがゆゑに、その不正確さにおいてこそ(テクスト上で)批評性・政治性を発揮しうるのだと。
 例えばそういう錯誤を解くためにこそ、「翻訳学」なるものが
提唱されているのですが(たとえばアントワーヌ・ベルマン)、『他者という試練』の付録「関連文献」に水村さんの『私小説 frome left to right』を挙げたのは、この小説のひとつの意図が「英語への翻訳を拒絶する」ことにあったという著者の発言を踏まえてのことでした。すなわち同作品は明らかに翻訳の地平で書かれたものだからということです(著者がそう考えているという話であって、実際に翻訳するとなったらそれはまた別の話。わたくしは決して不可能ではないだろうと考えますが)。つまり、いわゆる「英語の覇権」という事象は、たんなる時事問題としてではなく、「近代」その他と同じく、理論的にも考えられなくてはならないのだと思います。

 たぶんタイトルが「近代日本語の亡びるとき、云々」だったら、誰も文句をいわなかったのではないか? 水村さんが〈近代(日本)文学〉を偏愛していることは、彼女のこれまでの小説群を一読すれば明らかですが、正直なところわたくしは、もう少し近代日本文学に対して距離を置いているのだと思っていました。いやもちろん、批評的なスタンスであることは間違いなく、そうでなければ『明暗』の続篇など書けるはずもありません。ですが、近代日本語(文学)を、他の時代の日本語(文学)と関連づける形で相対化するという視点はおそらく彼女にはないのでしょう。
 再びもちろん、その相対化は簡単なものではありません。明治時代に、天皇の意味づけが全く変わってしまったのと同様、日本語も系統断絶というに近い変化を蒙ってしまったわけですから。いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらいたまひけるにいとやんごとなき際にはあらぬがすぐれてときめき給ふありけり……。高校の古文の授業で覚えたのがいまだに残っているのでつい書いてしまいましたが、いつ読んでも(詠んでも)うっとりするほかない文章です。しかし肝腎なのは、明治以降(正確には平安時代以降ですが)このような日本語を書くことがもはやできなくなってしまったという点です。そして、だとするならば、こうも言えるのではないか、われわれはもはや漱石のように書くことはできないと。今は辛うじて可能としても(水村美苗、奥泉光)、やがては不可能になるだろうと。
 かつて後藤明生は「もはや永井荷風のようには書きたくとも書けない」と書きました。ゴーゴリばかり取り沙汰されるけど実はプルーストなんぢゃないかと、つまりどう考えてもこれは「失われた外套を求めて」だよなーとさえ思われる『挟み撃ち』という傑作小説です。1970年代のことですから、もう一世代前のことになります。その後の日本語(文学)の変化は取るに足りないものでしょうか? 確かに明治期の変革は、政治経済とも関連するきわめて大きなものでした。「世界」との関連からいっても。しかしその「世界」がいつまでも明治期と同じように欧米だけを指しているという考えは、あまりに守旧的だと思います。三度もちろん、「世界=ヨーロッパ」という見方、その一変奏に他ならぬ「普遍語=英語」という発想には、一種の歴史的必然性があり、簡単に相対化できるわけではないにせよ。
 「見方」? 「発想」? そうではなく、これは事実なのだと、そう唱える人がいるかもしれません。しかし純粋な事実確認など不可能だというのは、つまり言葉というものは決してそこにとどまりはしないということは、もはや常識でしょう。現状の追認が反動に直結しうる、いい換えれば科学的言説も政治性を免れ得ないということもまた常識に属す認識であって、だからこそこの『日本語が亡びるとき』は、感情的とさえ見えるような反応を多く引き起こしてしまったのではないでしょうか。

 われわれは、水村美苗の小説(小説としては面白いし割と好きなんですがね)のように反動的ではなく、真に新しい言葉がすでに誕生していること、これからもそうであろうことを知っています。たとえば多和田葉子。外国語映画の吹き替えのような、徹底して「深さ」を欠いたあれら恐るべき言葉がどのようにして可能となっているのか? その考究は文学批評の大きな課題だと思います。また例えば中原昌也。

 その時だった。急に風が匂い、いきいきとどこかの地方都市の上空から見た風景が見えた。これは何かの超能力なのか? と考えたが一体何なのか自分でもよく判らない。その地方都市の公園のベンチで、つとむがうまそうに弁当を喰っているのが見えてきた。
「なんだ、まだつとむは生きてるじゃないか、落ち込むことはないぞ!」
 なんだか自分の中で元気な力が甦ってくるのが感じられた。するとベンチの脇の茂みから五、六人の若者たち(十代前半と思われる)が鉄パイプを手にして現れた。一見して、この若者たちにはフレッシュ・ジェネレーションという名称がふさわしいと感じた。リーダー格の男の合図で一斉に鉄パイプがつとむに振り降ろされた。そして一瞬で血だるまに……。この時代のときめきを代表するような若者たちの登場に拍手をおくりたい。
 〔「あのつとむが死んだ」『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』 1998 年、45-46 頁〕

 なんて下手糞な文章なんだ――などと言ってはいけません。初出が 1996 年ですから、もう十二年も前のことになる。しかし色褪せることなく、いま読んでも震えが来るような素晴らしい文章です。これにしたっていつかは古臭く感じられてしまう時がやがてやっては来るでしょう。しかしそれはきっと、新しい言葉の、「アカルイミライ」の到来と同じことであって、少なくとも多和田葉子や中原昌也の文章はそのことを、ある慄きとともに予感させずにはいません。というより、来るべき日本語がいかなる姿形になるかなど、誰にもわからず、われわれはただぼんやりと予感することしかできないといった方が正確でしょう。

 その点に関連していうと、水村さんの教育に関する提言にも少しばかり異論があります。はっきりとイメージできぬ新しい日本語の到来に備えるために、学校で読ませるべきは、近代文学ではなく(それも読んだって構いませんけれど)、むしろ古文・漢文でしょう。漱石・鷗外・一葉だけでは明らかに不足です。というより、彼らの日本語を準備した素養が何だったかをまず考えてみなければならない。
 
たとえば「つ・ぬ・たり・り・き・けり」という、いわゆる「過去」表現のバラエティを全く失ってしまった近現代日本語がいかに貧しいものであるか、われわれはよくよく考えてみるべきです。むかし男ありけり。源氏とはいわぬまでも、伊勢物語のようにさえ、われわれはもはや書くことができなくなってしまっているのですから。この貧しさに比べれば、現代小説の「貧しさ」など、相対的なものにすぎないはずです。
 そのうえで諸外国語、漱石のように英語、鷗外のようにドイツ語、二葉亭のようにロシア語などなど、を学ぶ。そうなって初めて近代日本語がそうだったような、新しい言語に対する準備が整うことになるわけです。もちろん、彼ら「文豪」と同等の咀嚼が行なわれるかどうかわかりません(何といっても彼らは超エリートでした)。でもそこに賭けるしかないのだと思います。

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2008年11月21日 (金)

「理想のシネマテークのための百本」

 批評家クロード=ジャン・フィリップの呼びかけで先日「理想のシネマテークのための百本」あるいは「最も美しい百本の映画」という上映企画が始まった(劇場はルフレ・メディシス、来年七月まで)。

 前日くらいにフランス 3 で放送されたフィリップ氏へのインタビューによるなら、「傑作」群(これはインタビュアーの用いた表現)というよりむしろ「教育的」プログラムであるとのこと。つまり映画史的に重要なフィルムを、映画愛好へのイニシエーションとして供すということなのだろう。実際、パリは世界に冠たる映画の都――単純にいって映画館数がきわめて多い都市――のひとつではあって、いわばパリという街をひとつのシネマテークと見立てた企画ということができるかもしれない。パリ市が協賛しているのも当然である(街頭での生インタビューだったのだが、フィリップ氏の要領を得ない話し振りのせいもあって、話の途中で打ち切られてしまったのが何だか可笑しかった)。
 もっとも、選ばれた作品がパリと直接関係しているわけではない。たとえばヌーヴェルヴァーグの作品を見ると、パリの街頭に出てくるのが白人ばかりであることに驚かされる。グラン・ブールヴァール(十九世紀以来の歓楽街、旧シネマテークがあった)近辺がそれら作品で時に舞台となっていたりするけれど、今、たとえばサン=ドニ門あたりなど、白人より黒人、アラブ人、中国人、そしてとりわけインド人の方がずっと目立つ。トリュフォーは野生児を主人公に映画を撮ったが、リヴェットやロメール、シャブロルは――今も現役で、質の高い作品を撮り続けているものの――白人ばかりという印象を与える。そうすると、アフリカの某国の大統領という役柄を与えて、ぬけぬけと黒人をパリの真ん中に登場させるイオセリアーニはやっぱり偉いということになるけれども、とにかく――
 選ばれた百本は、それ自体として順位を付けられているのではないが、選出にかかわった七十八人の批評家・映画史研究家からの得票数が明かされている。順位付けや「トップ 10」というのは、まあ半ば以上遊びであって、あまり真剣に受け取らず、面白がるのが筋ではあるけれど、それにしても何とヨーロッパ中心主義的なのだろう。小津と溝口、黒澤が選ばれているが、特に嬉しくはない。フランス人に認められるまでもなく、彼らの作品が素晴らしいのは明らかなのだから(あるいはむしろ、日本はかくまで西洋化しているというべきなのか)。フランスの企画なのだし、フランス人が多く選ばれているのはある意味で当然としても、非欧米作家としては他にインドのサタジット・レイが顔を出すのみで、イランの作品もなければ台湾の作品もないというのはどうなのか。古典が中心だからかとも思われるし、その意味で時代的な偏りは確かにあるわけだが、近年の作品として P・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』、D・リンチ『マルホランド・ドライブ』、少しだけ遡って J・ヒューストンの『ダブリン市民』などが含まれているのに、しつこいけれどキアロスタミも楊徳昌も侯孝賢も(ついでに北野武も)ない。
 そういえばキャサヴェテス作品も見当たらないなあ……まあわたくしはたぶん行かないと思うけれど、以下はとりあえず覚書として(関係サイトから転載しましたが、正確に百本あるかどうか保証の限りではありません)。

           *

 市民ケーン(O・ウェルズ)……これは映画史上の「傑作」トップ 10 でも選ばれる可能性のたいへん高い、文字通りの傑作。他に『上海から来た女』と『黒い罠』が選ばれている。作品としてはこちらも妥当だが、バランスを欠いてはいないか? (他にチャプリン、ムルナウやルビッチ、エイゼンシュタイン、ドライヤー、ホークス、ヒチコック、ルノワール、オフュルス、カルネ、溝口、レネ、ヴィスコンティ、フェリーニ、ミネリ、タチ、キューブリック、ゴダールらも複数作品が選ばれている。)

 狩人の夜……『市民ケーン』の 48 票に次ぐ、そして J・ルノワールと同数の 47 票を獲得したのは何と!Ch・ロートンのというか、ロバート・ミッチャムの(そしてリリアン・ギッシュの)というべきか、ウェルズの場合とは逆に、何か特殊な意図――たとえば「教育的」配慮など――があって初めて選ばれるだろう作品。いやもちろん素晴らしいフィルムだと思うし、好きなんですけどね、まさか 100 本のうちに入るとは想像しなかった。

 以下、『ゲームの規則』(J・ルノワール)、『曙光』(F・W・ムルナウ)、『アタラント』(J・ヴィゴ)、『M』(F・ラング)、『雨に唄えば』(S・ドーネン、G・ケリー)、『めまい』(A・ヒチコック)、『天井桟敷の人々』(M・カルネ)、『捜索者』(J・フォード)、『グリード』(E・フォン・シュトロハイム)、『リオ・ブラボー』(H・ホークス)、『生きるべきか死ぬべきか』(E・ルビッチ)、『東京物語』(小津安二郎)、『軽蔑』(J=L・ゴダール)、『雨月物語』(溝口健二)、『街の灯』(Ch・チャプリン)、『大列車強盗』(B・キートン)、『ノスフェラトゥ』(ムルナウ)、『音楽サロン』(S・レイ)、……と続く(此処までで二十本)。

 O・プレミンジャーの『ローラ殺人事件』みたいな作品も入っているんだね。でも『三つ数えろ』が(『暗黒街の顔役』の代わりに?)入っていないのは何故?

Citizen Kane (Orson Welles) 48
La Nuit du chasseur (Charles Laughton) 47
La Règle du jeu (Jean Renoir) 47
L'Aurore (Friedrich Wilhelm Murnau) 46
L'Atalante (Jean Vigo) 43
M. le Maudit (Fritz Lang) 40
Chantons sous la pluie (Stanley Donen et Gene Kelly) 39
Vertigo (Alfred Hitchcock) 35
Les Enfants du Paradis (Marcel Carné) 34
La Prisonnière du désert (John Ford) 34
Les Rapaces (Eric von Stroheim) 34
Rio Bravo (Howard Hawks) 33
To Be or Not to Be (Ernst Lubitsch) 33
Voyage à Tokyo (Yasujiro Ozu) 29
Le Mépris (Jean-Luc Godard) 28
Les Contes de la lune vague (Kenji Mizoguchi)
Les Lumières de la ville (Charles Chaplin)
Le Mécano de la Général (Buster Keaton)
Nosferatu le vampire (Friedrich Wilhelm Murnau)
Le Salon de musique (Satiajit Ray)
Freaks (Tod Browning)
Johnny Guitar (Nicholas Ray)
La Maman et la Putain (Jean Eustache)
Le Dictateur (Charles Chaplin)
Le Guépard (Luchino Visconti)
Hiroshima mon amour (Alain Resnais)
Loulou (G. W. Pabst)
La Mort aux trousses (Alfred Hitchcock)
Pickpocket (Robert Bresson)
Casque d'or (Jacques Becker)
La Comtesse aux pieds nus (Joseph Mankiewicz)
Les Contrebandiers de Moonfleet (Fritz Lang)
Madame de... (Max Ophuls)
Le Plaisir (Max Ophuls)
Voyage au bout de l'enfer (Michael Cimino)
L'Avventura (Michelangelo Antonioni)
Le Cuirassé Potemkine (S. M. Eisenstein)
Les Enchaînés (Alfred Hitchcock)
Ivan le Terrible (S. M. Eisenstein)
Le Parrain (Francis Ford Coppola)
La Soif du mal (Orson Welles)
Le Vent (Victor Sjöström)
2001 odyssée de l'espace (Stanley Kubrick)
Fanny et Alexandre (Ingmar Bergman)
La Foule (King Vidor)
Huit et demi (Federico Fellini)
La Jetée (Chris Marker)
Pierrot le Fou (Jean-Luc Godard)
Le Roman d'un tricheur (Sacha Guitry)
Amarcord (Federico Fellini)
La Belle et la Bête (Jean Cocteau)
Certains l'aiment chaud (Billy Wilder)
Comme un torrent (Vicente Minnelli)
Gertrud (Carl Th. Dreyer)
King Kong (Ernst Shoedsack et Merian J. Cooper)
Laura (Otto Preminger)
Les Septs Samouraïs (Akira Kurosawa)
Les 400 coups (François Truffaut)
La Dolce Vita (Federico Fellini)
Gens de Dublin (John Huston)
Haute pègre (Ernst Lubitsch)
La vie est belle (Frank Capra)
Monsieur Verdoux (Charles Chaplin)
La Passion de Jeanne d'Arc (Carl Th. Dreyer)
À bout de souffle (Jean-Luc Godard)
Apocalypse Now (Francis Ford Coppola)
Barry Lindon (Stanley Kubrick)
La Grande illusion (Jean Renoir)
Intolérance (David Wark Griffith)
Partie de campagne (Jean Renoir)
Playtime (Jacques Tati)
Rome ville ouverte (Roberto Rosselini)
Senso (Luchino Visconti)
Les Temps modernes (Charles Chaplin)
Van Gogh (Maurice Pialat)
An Affair to Remember. Elle et Lui (Leo McCarey)
Andrei Roublev (Andrei Tarkovski)
L'Impératrice rouge (Joseph von Sternberg)
L'Intendant Sansho (Kenji Mizoguchi)
Parle avec elle (Pedro Almodovar)
The Party (Blake Edwards)
Tabu (F. W. Murnau)
Tous en scène, The Bandwagon (Vincente Minnelli)
Une étoile est née (George Cukor)
Les Vacances de Monsieur Hulot (Jacques Tati)
America America (Elia Kazan)
El (Luis Buñuel)
En quatrième vitesse (Robert Aldrich)
Il était une fois en Amérique (Sergio Leone)
Le Jour se lève (Marcel Carné)
Lettre d'une inconnue (Max Ophuls)
Lola (Jacques Demy)
Manhattan (Woody Allen)
Mulholland Drive (David Lynch)
Ma nuit chez Maud (Eric Rohmer)
Nuit et Brouillard (Alain Resnais)
La Ruée vers l'or (Charles Chaplin)
Scarface (Howard Hawks)
Le Voleur de bicyclette (Vittorio de Sica)
Napoléon (Abel Gance)

           *

 おまけとして五十人の監督も選出されている(得票数の多い順、票数からすると、ひとりが複数票(例えば「2 点」票と「1 点」票など)を投じる方式だったのだろう)。

Jean Renoir 155 (ルノワールに「2 点」票を投じなかった人が一名いるということか)
Alfred Hitchcock 146
Fritz Lang 143
Charles Chaplin 128
John Ford 124
Orson Welles 114
Ingmar Bergman 113
Luis Buñuel 110
Friedrich Wilhelm Murnau 108
Howard Hawks 105
Jean-Luc Godard 99
Federico Fellini 99
Ernst Lubitsch 98
Luchino Visconti 90
Robert Bresson 90
Kenji Mizoguchi 87
Akira Kurosawa 86
Max Ophuls 83
Alain Resnais 82
Carl Theodor Dreyer 76
François Truffaut 75
Stanley Kubrick 75
Vincente Minnelli 73
Joseph Mankiewicz 73
Roberto Rosselini 73
Josef von Sternberg 69
Michelangelo Antonioni 67
S. M. Eisenstein 65
Marcel Carné 64
Billy Wilder 61
Buster Keaton 61
Yasujiro Ozu 60
Eric von Stroheim 60
John Huston 59
Elia Kazan 55
King Vidor 53
David Wark Griffith 53
Maurice Pialat 52
Jean Vigo 51
Nicholas Ray 49
Jacques Becker 48
Woody Allen 48
Francis Ford Coppola 47
Jacques Demy 47
Charles Laughton 47
Jacques Tati 46
Otto Preminger 45
Leo McCarey 45
George Cukor 44
Raoul Walsh 44

           *

 また、カイエデュシネマからは十月に『ソースはほとんど完璧だった アルフレッド・ヒチコックによる八十のレシピ』(La Sauce était presque parfaite. 80 recettes d'après Alfred Hitchcock)が刊行されている。フランスでは、ベストセラーとまでいえるかどうか、ともかく結構な売れ行きで、わたくしもつい買ってしまった。装幀も写真も綺麗。内容は、映画に出てきた料理を再現するレシピ、それに作品の場面やスティル写真、台詞など。その他詳細はこちらのページを、数ページの「立ち読み」にはこちらのリンクを。
 本には収録されていない「スフレ・アルフレッド」のレシピはこちら(PDF)。

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2008年11月 2日 (日)

ラシング=メトロ 92 対 コロミエ(Pro D2、於コロンブ)

 パリの北北西、コロンブにあるイヴ・デュ・マノワール競技場で Pro D2 の「ラシング=メトロ 92 対 コロミエ」を観戦する。

 ラシング=メトロ・(ニュメロ・)キャトルヴァンドゥーズ(以下ラシング)、気になってはいたものの、試合を見たことはなく、本拠であるコロンブ競技場も今回が初めてとなった。
 立地は典型な郊外で、集合住宅――ル・コルビュジエ風というよりむしろ、1980 年代のフランス映画、たとえばエリック・ロメール作品にしばしば登場したような団地――が「郊外」的な仕方で、というのはつまりスペースを贅沢に使いながら散在している。
 パリの地下鉄込みで 2.20 ユーロ、時間にして 14 分だから、心理的な距離感に反して実際はずっと近い。大阪市と花園ラグビー場の位置関係にほぼ等しいのではないだろうか。ラシング・ファンの多くは地元、ないし西方・北方から来ていると想像されるが、帰りのパリ行き車中にもちらほら関係者の姿が見かけられた。
 駅から10分ほど歩いて、というか一緒に行った友人となかば彷徨いつつ――日曜午後なのに(だから?)人の気配はあまりなく、やや無気味な感じがした――無事到着する。スタジアム周辺にカフェ等がほとんど見当たらないのは残念だった。

 パリから鉄道の切符を求める場合、目的の駅は Le Stade、英語風にいうとザ・スタジアムだから、考えてみれば結構すごい(現在、事実上のザ・スタジアムはもちろんサン=ドニのスタッド・ド・フランスである)。A (small) tribute to the pioneers というブログに、1920 年代のスタジアムの様子を記録した写真が掲載されている(this blog is really fantastic and truely deserves a visit, so why not go have a look!)。
 知られるように由緒ある競技場だが、現在の収容人数は 7000 とのことで、観客席はいわゆる「メイン」側にしか存在しない(写真からわかるように、フィールドとの間にトラックがある)。全席が屋根に覆われており、雨天観戦には適したスタンドということができる。
 もっとも、空が奪われているともいえるわけで、例えば秩父宮ラグビー場の晴天下のバックスタンドを愛する人(わたくしはそう)は物足りなさを感ずるかもしれない。観覧者数は目算で 2000 人くらい。Stade_yves_du_manoir01

 フランスの応援はイギリスや日本に比べ総じて賑やかといえるだろうけれど、ラシング側の応援もかなり騒々しかった。個人の持ち込む太鼓(バスドラ、大太鼓)の数にまず驚かされたが、屋根にすっぽり覆われた空間にその音が反響し、増幅されていたに違いない。足元から振動が伝わってくるほどだった。

 ゲームについて。
 代表チームの華麗なイメージにもかかわらず、クラブ同士の戦いは、往々にしてフォワードでガツガツ行くことになる(そうなることを決して厭わない)ものだと、かつて豊崎光一はフランス国内事情を伝えてくれた(『GS』)。しかしこの日のゲームは、両チームとも展開プレーを主体としたものだった。コロミエはそういうチームだろうと思っていたのだが、ラシングの方も同じような攻め方をしたということになる。
 新ルール試験導入の影響か否か、わたくしには何ともいえない。けれどともかく、ラックからの「ピケンゴー」が連続するうちに観客の興奮が静かに、だが着実に高まってゆくというような局面はなかったし、他方、ラックに持ち込んだボールがあっさり奪われたり、ペナルティになったりする場面も少なくなかった。双方ともに FW プレーがあまり上手く行っていなかったのは確かである。とりわけコロミエの方は、反則を重ねた結果として、前後半ひとりずつ一時退場者を出してしまった(いずれの場合もラシングに PG を許している)。貰うべくして貰ったイエローカードというほかないが、見方を変えて、ラシングが FW 戦で優位に立っていたということもできるだろう。

 多くの局面で、ラックやスクラムから左または右に形成されているラインにボールが供給されるというのは、確かにスペクタキュラーではある。だが、少なくともこのゲームでは、WTB までボールが回っても抜ける感じはしなかった。ボールをもつプレーヤーが展開の方向に流れながら隣のプレーヤーにパスしていたからである。スピードもスペースもないままライン際で WTB がつかまって倒され、今度は反対方向にボールと人が流れてゆく。この反復はさすがにきつい。どうしたらいいんだろうね――ゲームへの興味をつなぐのにやや苦労して、連れが当然の問いを発する。やはり、結局のところは、真直ぐ走るということになるのではないでしょうかねえ……。
 前にもどこかで書いたことがあるけれど、ラグビーはただボールを横に動かせばよいというものではない。ラグビーに固有の運動があるとすればそれは、ボールの動きとプレーヤーの動きが複雑な仕方で組み合わされることによって作り出されるはずである。グラバー・キックを追いかける場合、あるいはパスされたボールの方向に沿って受け手が「ノビ」る場合など、ボールとプレーヤーがほぼ同一の方向に動くことが鍵となる局面も決して少なくない。だがこのゲームでは、双方のディフェンスがブリッツとドリフトをおおよそのところ完璧にこなしていたのだから、必要なのはむしろ、ボールを横に送りながら、プレーヤーは縦に真直ぐ走ることではなかったか? そのようにして初めて、プレーが展開されるということになるのだと思う(というか、それはごく基本的なプレーである)。スペースを無駄遣いしてはいけません。いけません。
 順位が関係あるのかどうか、相関してはおそらくいるのだろうけれど、ラシングの方にはそれでも、ドリフト・ディフェンスの逆をついて抜け出す(抜け出しかける)ことが何回かあるにはあった。とはいえ、それによって真の展開、真のラグビー的運動が次から次へと誘発されるという具合には結局ならなかった。それが少々退屈した理由である。

 私見では、近年のレ・ブルーもこのような意味でのラグビー的運動を実現することがほとんどできていない(スタッド・トゥルーザンなどトップ・クラブはまた別)。Stade_yves_du_manoir02 B・オドリスコルが全盛期にあったアイルランド、そして好調時のウェールズの展開プレーが人々を魅きつけたのは、そこに確かにラグビー固有の運動(のひとつの形)があったからではないだろうか。個人レベルにおける身体的資質としての something special ――爆発的な加速なり、変態的なリズムやバランスなり――がないとしても、組織プレーによってラグビー的運動を作り出すことは決して不可能ではないはずである。これはテクニックの水準にとどまらない、おそらくは本質的な問題なのだとわたくしには思われる。

 繰り返しになるけれど、ディフェンスは両チームともに頑張っており、最善を尽くしたと思う。試合唯一となったコロミエのトライは事故のようなものだった(キックチャージのこぼれ球)。
 
風向きにかかわりなく、全体的としては首位のラシングがやはり押し気味ではあったものの、決め手があったわけではない。マーテンズも特に目立ってはいなかった。Ce néo-zélandais n'a pas fait de différence en particulier. 1 点差による勝利は、反則の多さ、そしてプレースキックの不調という、コロミエ側の自滅によって転がり込んできたものといってよいだろう。

 不満に感じた点をいろいろ書いてしまったけれども、ゲーム観戦は何ものにも代えがたい体験であり、全体としてはもちろん大いに楽しんだ。いずれまた出掛けることになるだろう。

         *

 気が付くと秋のテスト・シリーズ目前の時期となった。今週末はフランスがアルゼンチンをマルセイユに迎える。ロス・プーマスのメンバーがわからないけれど、エルナンデスが出るなら 50/50 といったところだろうか。心情的には 40/60 でアウェーチームを応援したい。フランス 2 で 21 時から。
 でも正直いうと、ウェールズ対トライネーションズの方がもっと気に懸かる。六月のテストに比較すると、今度は北半球にアドバンテージがあるわけで、期待も高まるというもの。もっともオスプリーズのゲームを見たかぎりでは、主力の調子がいまひとつではあって、まあとにかく大差が付かぬように祈っている。

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