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2008年12月

2008年12月28日 (日)

英語を防衛する

 毎日新聞ニュース(12月22日21時37分配信)より

〈高校新学習指導要領案〉英語で授業…「自信ない」教諭も 

「使えない英語」から「使える英語」へ。22日に公表された高校の新学習指導要領案は「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と明記した。文法中心だった教育内容を見直し、英会話力などのアップを目指すのが狙い。文部科学省は「まず教員が自ら積極的に用いる態度を見せるべきだ」と説明する。だが教諭の英語力や生徒の理解度はばらつきが大きい上、大学入試は従来通りとみられ、現場からは効果を疑問視する声も出ている。【三木陽介、平川哲也、高橋咲子】

 ◇理解度に差、疑問の声

 「文科省は現場を分かっていない」。千葉県の県立高の英語教諭は苦笑する。学校によっては、アルファベットの b と d が区別できない生徒もおり、「英語で授業なんて無理」。

 大阪府の府立高の男性教諭も「苦手意識を持った生徒が、ますます英語から離れてしまう可能性がある」と危惧(きぐ)する。進学校でも「難関大学の長文問題は行間を読まないと分からない。結局、日本語で説明する必要があるので時間のロスになるかも」(福岡県の英語教諭)と困惑する。

 どんな授業が想定されるのか。文科省は「授業を始めるよ」「○ページを開けて」「いい発音だね」といったやり取りは英語で、と説明するが、本格的に英語で授業をしようとすれば教員の英語力も問われる。千葉県の教諭は「それぐらいなら今もやっている」と話すが、別の英語教諭は「全部英語でやるのは正直自信がない。研修をさせられるんでしょうか」と不安げだ。

 〔…〕

 高校の(中学も)先生方にはほんとうに同情する。というか、同情することしかできないのがとても歯痒い。「英会話力などのアップ」だって。こんなやり方で「アップ」するものか! 本当に英語の必要な人は必要に迫られてそれなりに「使える」ようになるはずだし、現にそうなっているだろう。そうでなくては「国際社会」とやらの中でそもそも生きてゆくことなどできまい。

 だいたい、郵政民営化だの京都議定書だの対「テロリスト」戦争だのによって、日本の金が一層巻き上げられてゆくのは必至とすれば(そういう話ですよ、詳しくは知りませんし、そうでないとしても責任は取りませんが)、それは英語が「使える使えない」の問題ではなく――だって条文の文言を正確に読んだ上で調印するわけだから――、そういった事柄を超えた国際政治の次元での問題ということになる。それが日本の本当に歩むべき道なんだろうか。

 高校生に英語を教えた経験からいうと、文章(日本語)の読み書きについての才能は、このくらいの年代にはそれはもう残酷なまでに差が生じ始めている。もちろん、書けず読めもしない人たちの大半は、たんにそうした経験がそれまでなかったからとも考えられるので、資質だけの問題ではないけれど(so it's never too late to start, you guys!)、ではいわばこれから文章の読み方や書き方を学ぼうとする中学生や高校生は、実際にはどのようにしてそれを修得するのかといえば、それは英語の授業を通じてである。
 確か丸谷才一だったか、学校の「国語」の授業における過度の文学趣味を批判していたように思う。いわゆる「国語改革」の諸問題を扱った著作である。正当な批判だと思うが、現実に質の高い散文・評論文が中心的に教材となるという風になっているのだろうか。いずれにせよ、書く訓練はまともに行なわれてはいないだろう。書くというのは、ある程度高度な内容を備えた論理的な文章を書くということだが、それは、私見では、大学入試問題に見られるような長めの英文を和訳するという作業によって初めて経験されるのである(誰にいわれたのでもなく勝手に本を読むような人は別、そういう人たちは語彙さえ備わっていれば、放っておいても出来るようになるから)。外国語を訳すことによって書き言葉が誕生する――ドイツの例が有名だが、実は歴史的にいって日本語もそうだったので、古い話はさて措くと、近代日本語は実質的には英語を筆頭とする外国語を訳す課程でその形が定まってきた。これはエリートに限らず、明治時代にすでに「庶民」を巻き込む英語ブームがあったことがわかっている。
 要するに明治期の社会的な事業が、現在でも個人の次元で反復されているわけだ。古文や漢文の素養があればよいけれど、いずれにせよ大変な業には違いない。だから教科としての英語は負担が大きいのだし、教科としての現代文が変わらないかぎりは、コマ数はもっと増やしてもよいのではないかとさえ思われてくる。これは「世界語」たる英語を「使える」ようにするというような浅ましい功利主義とはほとんど関係がなく、むしろ「国語」の問題なのである。英語の先生は大変です。英語だけでなく日本語まで教えなくてはならないのだから。そして、ただでさえ大変なのに、更に負担が――おそらくは限界を超えて――増加する。わたくしが高校の英語教諭だったら、役人に抗議するね。あんたら何もわかってへんと。そんなことより、教員の養成(英語の先生にも日本語運用能力が必要なのだから当然)にもっと予算と時間を費やすべきだろう。

 梅田先生のことを思い出した。××高校の梅田忠ヲ(男だったか夫だったか、それとも雄だったか)、通称ウメチュウ先生。同時通訳の資格をもってらっしゃるというお話だったが、とにかくわたくしは梅田先生の授業が好きだった。好きだったのだが、授業中は上の空でいることが多かったのも事実である。ある日、何かの話(たぶん語源論とかそういう)の流れでふいに当てられて、よく聴いていなかったわたくしは、ラテン語と答えるべきところで「ロマンス語」と答えてしまった。クラス中が笑った。笑ったということは誰もロマンス語のことを(そして大半はおそらくラテン語のことさえ)知らなかったということである。わたくしも笑ったはずだが、梅田先生が「だから、ロマンス語は中間段階で、その前は」と助け舟を出してくださったお蔭で何とか落ちをつけることができたのだった。「ほな、ロマンス語いうのんも全くの間違いいうわけでもなかったんやー」と女子二人が囁きあう。そらそうでんがな。あの「ロマンス」とはちゃうねんで。もう引退なさっているかもしれないけれど、お元気でいらっしゃるだろうか。

 アルファベットの b と d の区別……。そうか。先生はやはり大変だな。確かに似てはいるよなあ。小学生か中学生の頃、だまされて adidas の偽物を購入した純真な少年少女がわたくしの周囲にいた。 その名も abibas だ。でもこれは英語の問題ではないような気もする。他の要素と一緒に塊で与えられたら、わかりにくいかも。今の子供は金をもっているし、ブランド情報に通じてもいるから、たとえ b と d の別を知らなくても、だまされることはないだろう。

 わたくしは「英語帝国主義」(批判)にはあまり関心がない。イングリッシュ・スピーキング・ピープルのいわゆる不遜にはそれは腹が立ちもするし、世界には英語と日本語しかないとでもいうような『日本語が亡びるとき』の別の種類の(だが本当に別種なのだろうか)倣岸は端的に間違っていると思うが、それとは別に、英語の「普遍語」への変容、というよりむしろ、変容してゆくことによる(イギリス語やアメリカ語の)虐殺を嘆いたり、積極的に対策を講じようとする人々が他ならぬイングリッシュ・スピーキン・ピーポー(グを省略してみました)の中にいてもよさそうな気がするのである。実はわたくしは英語が好きなので(初めて通しで読んだ外国語の書物はチェスタトンの The Napoleon of Notting Hill)、シンポー・リングリシュのようなものを見ると悲しくなってしまう。水村さんもたぶん心情としてはそうなのだと思う。地球規模の膨張傾向に終わりがないとすれば、殆ど唯一実践可能な対抗策は、各言語から英語への翻訳――厳密な意味での翻訳――を措いてほかにないと思う。
 グレン・グールドの愛読書のひとつが『草枕』の英訳だったことはよく知られているけれど、日本語でいえば、村上春樹作品の英訳という、ある意味で倒錯的な業で満足するのではなく(貧しいといっているのではない、彼の作品はもともと英語で書かれたもののいわば日本語バージョンなのだからそれを英語に直すのは倒錯であるということ)、谷崎、中上、大江、古井といった真のテクストによる試練を英語に課さなければならない。「異なるものによる試練」である。逆に、例えば中上を訳せなくなってしまったとき、英語は本当に死ぬのだといってもよい。

 その被慈利〔ひじり〕にしてみれば熊野の山の中を茂みをかきわけ、日に当たって透き通り燃え上がる炎のように輝く葉を持った潅木の梢を払いながら先へ行くのはことさら大仰な事ではなかった。そうやってこれまでも先へ先へと歩いて来たのだった。山の上から弥陀がのぞいていれば結局はむしった草の下の土の中に虫がうごめいているように同じところをぐるぐると八の字になったり六の字になったり廻っているだけの事かも知れぬが、それでもいっこうに構わない。歩く事が俺に似合っている。被慈利はそううそぶきながら、先へ先へと歩いてきたのだった。先へ先へと歩いていて峠を越えるとそこが思いがけず人里だった事もあったし、長く山中にいたから火の通ったものを食いたい、温もりのある女を抱きたいといつのまにか竹林をさがしている事もあった。竹林のあるところ、必らず人が住んでいる。いつごろからか、それが骨身に沁みて分かった。竹の葉を風が渡り鳴らす音は被慈利には自分の喉の音、毛穴という毛穴から立ち上がる命の音に聴こえた。〔中上健次「不死」『熊野集』最初の段落全文〕

友人と話したことがあるけれど、「その被慈利にしてみれば」というこの魔術的な出だしが素晴らしすぎる、云々。
 あるいは、テクストとしての豊かさという点では比較にならないとしても、水村美苗の『私小説 from left to right』。著者の自負にもかかわらず、英語部分にはやはり「ガイジン」特有の癖があるはずであって、有能な訳者はそうした異質性を翻訳できるはずだから、そうした差異が感知されなくなってしまえば英語はもはや死んだも同然ということになってしまう。英語の「普遍語」化とはつまるところそういうことだ。
 少し前に言及した鴻巣さんの書評は要するにそのこと、つまりまっとうな翻訳家なら当然そう考えるだろうところの事柄を示唆しているのである。『日本語が亡びるとき』は著者自身の英語への二律背反的態度がちょっと困った仕方で表現されてしまった厄介かつ人騒がせなエッセイ以上のものではないが、水村さんが諦めてしまっている英語の防衛――それは同時に例えば日本語の防衛をも意味する――はまだ不可能と決まったわけではない。水村さんや、そして何故か賛同している内田樹さんのペシミズムは、ひとつには、翻訳の営みをただ功利的観点からしか捉えていないことに由来すると思われる。もちろん、防衛とは守旧ということではない。放っておいてもいずれ言葉は変容してゆくのだから。

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2008年12月27日 (土)

クリスマスなので……

 大雑把にはまだクリスマスなので、シルヴィ・カスパールの声で小噺(Contes de Noël)を聴こうと思ったのだが、Flash プレーヤーをブロッグに埋め込むことはできなかった。残念。御関心のある向きは直接アルテのサイトからどうぞ(Un conte de Noël lu par la voix d'Arte 1)。代わりに、とはいえ時節とはほとんど何の関係もないけれど、別の朗読を(Bienvenue aux États-Unis)。マッキントッシュでも作動するかどうかは確認していません。うちの Safari for Windows では大丈夫でしたが。

 

 

 シルヴィの「いたづら好き」なところが顔を覗かせているのに気づかれたろうか。Ô ! comme elle parle doucement ! これだけだとただのミーハーと思われるから(事実ミーハーではあるけれど!)、衒学ぶってヘルデルリンの詩篇の独仏二言語による朗読も埋め込んでみる。四季それぞれがテーマとなっている四篇のうち「」篇

 

 

 ついでに、パソコンにまつわるごく些細な疑問を三つほど書きつけておこう。誰か親切な方が教えてくれるかもしれないから。

 わたくしはウェブ・ブラウザが好きなのだがそれは、「ネット中毒」だからではなく、スペース・キーを押すだけで「ページ」を送ることができるからである。ページというか何というか、要するにスクロールバーをクリックし続けたり、マウス・ホイールをグリグリしないで済むのが簡便だからということなのだが(MS Word などの使用中でもついスペースバーを押し下げてしまうことがある)、時折、スペースを押しても画面が下に(シフトを同時に押す場合は上に)動かぬことがある。これは何故なのだろう? 原因や対処法を御存知の方、御教示いただけると助かります。ブラウザはシェア・ナンバーワンの IE です。

 それと関連するいまひとつの問題は、閲覧中のページに埋め込まれた Youtube 映像が、スペースを押すことによって、読み込み・再生を始めてしまうことだ。文を読むのに端的に邪魔となるし、そもそもブラウザの動作が重くなるので(つまりは機械が古いということ)、興味の特に惹かれない音声・映像はやり過ごしたいのだが――といいつつ同じようなことを上でしてしまっているのは内緒だ――、画像・映像読み込みやスクリプト読み込み機能をオフにしても、まったく影響がないのはどうしてだろうか。ううむ……。

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2008年12月19日 (金)

コーエン兄弟『読んだら焼却せよ』(Burn after Reading)

 コーエン兄弟の映画は評価が難しい。彼らの長篇第一作『ブラッド・シンプル』は確かにちょっといい作品だったし、好きだという人も少なくないと思うが、同時にそこには一種のマニエリズム的傾向が感じられて、ただそれが何なのかよくわからないという印象をもったことを覚えている。『バートン・フィンク』(の失敗)で明らかとなったのは、彼らがバロックを指向していたこと、だがおそらくその方向は彼らの資質に合わないだろうということだった(アメリカではポール・トマス・アンダソンがたとえばバロック的資質をもつ作家といえるだろう。もちろん筆頭に挙げるべきは何といってもポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラである)。
 結局、彼らの最良の作品は今のところ――とはいえわたくしは『ノーカントリー』を見ていない――、マニエラを捨て去って、いわば「存在論」の次元で撮った(とは、ある映画批評家の言葉)『ファーゴ』ということになるだろう。『ビッグ・リバウスキ』も、可笑しい部分は確かにあるのだが、全体としては笑うに笑えない作品としかいいようがなかった。

 本作は、一昔前の、つまり蓮實重彦以前、というよりむしろ小林信彦以前の評論家なら「人の愚かさを描き出したコメディ」とコメントしていたに違いない映画である。むろん現代の評論家はそう単純なことはいわないだろう。そんなことを鹿爪らしく指摘する者が一番の愚か者となってしまうような仕方で作られているからだ。CIA の分析官(J・マルコヴィッチ)が突然解雇を通告され、彼と直接間接につながる人々の間での、全く利己的な思惑やちょっとした勘違い、手違いが、最終的には死者二名、瀕死の重傷者一名という事件に発展する(F・マクドーマンドだけが自身の望みをかなえることができる)。だが、登場人物の誰もその事件の全容を把握することはできず、中央情報局さえ、何が何だかわからぬまま、しかし組織の機密が漏洩せずにすんだことで満足し、事件のファイルを閉じるほかない。
 ことの次第を知るのはただ観客のみである。それなりに楽しめはしたのだが、同時に何かが不足しているように感じられる。このままでは、鹿爪らしい面持ちで「これは人の愚かさを描き出したコメディである」とか何とか、もっともらしくいってしまいそうだ――要するにこの「コメディ」には笑いが足りないのである。コメディなりファースなりを指向するならば、徹底的に、そう、腹の筋が痙攣するほど笑わせてくれなければ、「人のことを阿呆いう者が阿呆や」という認識に至ることはできない。人間が愚かな存在であるということ。それはもう、人事のアルファでありオメガなのであって、今更いわれんでもわかってまんがな。そのような基本を確認するためにわれわれは映画を見るのではない。これだったら、『我輩はカモである』とはいわないまでも(あれはそもそも指向が違うけれど)、たとえばゴダールの『勝手に逃げろ(人生)』の方がよほど笑わせてくれたと思う。

 アメリカ映画を見て感ずるのは、スターのいない映画を撮ることの難しさである。この作品であれば、実質的に「主役」といってよいマルコヴィッチはともかくとして、少なくとも G・クルーニーと B・ピットなしで撮っていればどうなっていただろう? マネー・メイキング・スターの起用には、商売上の理由もあるし、一概にどうこう言うのは無意味ではあるけれど、あのジョージクルーニーがこんな下品な――本当に下品です、だから純情な女性ファンにはお勧めできない――役を演じているという落差に、ということはつまりスターの「キャラクター」に笑いを任せすぎではないか? 例の(What else ?)「ネスプレッソ」のテレビ CM シリーズ(一作目二作目、現行の三作目)がよく知られていて、テレビでパロディさえ見かけられるこのフランスの客、基本的に脚本家の「ここ、笑うところ!」という合図に敏感かつ忠実なフランス人が、肝腎なところであまり笑わなかったとすればそれは、恃みのその落差が映画的に昇華されていないことを、したがって結局は脚本の不成功(あるいは中途半端な成功)を意味するのではないだろうか。

 全般的にはそれほど悪くはないのだが(出演した俳優はみな達者だ)、帰り道に上のようなことを思った。円高下での学割 6.80 ユーロが安いか高いか、それは何ともいえないけれど、「スクリューボール・コメディ」でないことは確かである。

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2008年12月15日 (月)

ハイネケンカップ プール第四週

 体調の好し悪しを測る指標は人それぞれだろうが、わたくしの場合それは便通である。体調が本当に良いとき、ブツは、ツルっというか、スルッというか、そんな感じで行儀よく排出される。出口周辺は全く汚れず、したがって拭う必要がない。だいたい一週間から十日に一度くらいはそうした非ラブレー的便事情となるのだが、現在それが三日連続という自己最長記録を更新中であり、ある意味で異変ともいえるこの事態には我ながらさすがに驚きを隠せずにいる。
 もっとも、体調が好いといっても、それをそのものとして実感できるわけではない。わたくしは元来頑健ではあって、ほとんど常に好調を維持しているからだ(こういう人間が前触れのないままコロッと逝くとはよくいわれますけどね)。ただ昔何かで「本当に調子が良いとき、腸の内壁は適度な水分で潤っており、ブツは腸内を滑るようにしてスムーズに移動する」云々という説明を読んだ記憶があるので、ああそうなんだと思うだけである。それでもやはり気分はよくなる。だって拭かなくてもいいんだから。
 というような話を家人にすると――

 あなた、拭いてないの?
 いや、だから、ポイントはそこぢゃなくて……だって、一度は確認してみないと「拭かなくてよい」かどうかわからないでしょう? 紙を見て確認しなければ。
 私は見ない。
 でも、確認しないと、ちゃんと拭けてるかどうかわからないぢゃない?
 見・ま・せ・ん・!
 ぢゃあ俺も見ない。
 ……。
 ……(何なんだ、この展開は? 俺はただ「絶好調」って言いたかっただけなのに……ゼッコーチョー!)。

             *

 そういう次第で、週末にフランス 2 でハイネケンカップの二試合を観戦する。昨日はプール 1 「マンスター 対 クレルモン・オヴェルニュ」、今日はプール 3 の「ペルピニャン 対 ライスター」。

 フランスでは国内一般ニュースで報じられるだけのバリューをもつ「ダン・カルテール初登場」を翌日に控えた土曜、クレルモンとマンスターの二回戦は前週に劣らず面白かった。マンスターはおそらくノックアウト・ステージに出場し、それなりに勝ち進むだろうけれど、たとえばそこで対戦する(かもしれぬ)トゥールーズがこれだけのゲームを演出できるかどうか、やや疑わしく思う。少なくとも今回の二試合は前回大会の決勝より面白かった(王者の順当に勝つゲームが好きではないという個人的なバイアスはあるでしょう)。

 開始から 5 分ほどクレルモンが一方的に攻めるも得点機を作るまでには至らず、その後しばらく一進一退のゲームが続くなか、18 分にマンスター 5 番オコネルとクレルモン 4 番のカドモアのラックでの小競り合いが殴り合いに発展し、カドモアが退場、オコネルは一時退場という裁定が下る。スポーツにおける乱闘が面白いのはなぜだろう? 一番面白いのは両軍関係者が総動員されるプロ野球の乱闘だが、この場合も 2 メートル級の大男二人が殴り合うという、漫画なら見開き枠なしの大ゴマを使って描かれるような出来事であるわけだから、面白いに決まっている。問題は肝腎のラグビーがその乱闘の面白さを超えうるかという点だったが(プロ野球は非常にしばしばそれに失敗する)、それは杞憂に終わった。残り 60 分を 14 人で戦わなくてはならなくなったクレルモンが感動的な――大袈裟にいえばヒロイックな――ゲームを見せたからである。

 オコネルが復帰するまでの 10 分の間に、ゲームの均衡が破れる。それぞれが PG を決め合い、6-3 でマンスターがリードする形となる。15 人対 14 人になってから、39 分にこの試合初のトライが生まれ、マンスターが 11-3 とリードを広げて、前半は終了するのだが、クレルモンの方は、七人でのスクラムをよく耐え(マイボールを奪われたのは一、二回)、果敢にタックルし続ける。そしてボールを奪うとバックス――バビ、ジュベール、ナラガ、マルジュー、フロッシュ――が個人技で、あるいは少人数ながら絶妙のコンビネーションでラインをブレークする。ノックオンなどエラーがあって、トライにこそ結びつかなかったものの、数的不利を感じさせない、いわば頭を使った攻撃は立派だった。キックを最小限にした戦略も奏功したと思う。
 さすがにこれをずっと続けるのは大変だろうとヒヤヒヤしながら見ていたのだが、クレルモンは後半も同様に攻め続け、20 分、ついにマルジューのトライ(+コンバージョン)で 11-13 と逆転する。ナラガ(ジュベールだったかもしれない)が巧みに突破したあとのラックからすぐ出たボールをマルジューが四、五人をかわしてコーナーぎりぎりにタッチダウンしたものである。

 前の試合と同じ展開で、にわかファンのわたくしは祈るような気持ちで観戦していたが、客観的には、クレルモンはラックでほとんど常に、マンスターより多くの人数を使わなくてはいけなかった。この点での効率の悪さ、感動的ではあったのだが、いやな予感というか、つまりマンスターはやはり強いのだなと感じざるを得なかった。実際、逆転した後もクレルモンはずっとゲームの主導権を握って敵陣で攻め続けたのだが、マンスターのディフェンスが反則なしでよく耐えたため、追加点を奪うことができなかった。
 結局、体力・気力とも限界に達してしまったクレルモンの攻撃が途絶えた 36 分、そして 38 分にマンスターが連続でトライを奪って勝負は決まった。クレルモンには残念な結果となってしまったが(あと 4 分耐えていれば!)、悪質な反則も――殴り合いは別とすれば――皆無だったし、大会ベストマッチのひとつといってもよいだろう。
 マンスターはとりわけ第三列が攻守にわたって最高のパフォーマンスを見せた。クレルモンがラックで苦しんだのは、マンスター第三列の働きがあまりに素晴らしかったためである。ふたつのトライもそうだが(もうひとつ、2 番のホランが先週とほぼ同様の形で奪っている)、ラックでの反則スレスレの絡み、タックルの力強さには感嘆した。

 解説はジェローム・カザルブー。彼の解説は、同年代の F・ガルチエや Th・ラクロワのそれと比べ、より中立的と感じられ、また非常に真面目である。この日はアナウンサーが「いちびり」だった。いつものジャン・アベイユー(微妙に南部訛りの残るラグビー一筋の journaliste)にも、ということは結局フランス・テレヴィジョンの面々には、だいたい皆そういう側面がある。
 周知のとおり、アイルランドではプレースキックは、無音といえるほどの静寂のうちで厳粛に執り行われる。そうした静寂を「宗教的な」と形容しながらローラン・ベレは、次第に実況の声量を落としていったのだった。一歩間違えば「悪ふざけ」や「冒瀆」と解されかねないけれど、これは決して侮蔑の表れではない。自分がそういう人間だからよくわかるのだが、この人は単にいたずら好きなのである。つまり、本音では「ほどほどでいいじゃない?」とたぶん思っていて、距離をほとんど無意識の裡に取ろうとするのだが(=彼我の差異を尊重するということ)、言葉として表明することができない場合、その距離感は時に「笑い」となって現れ出る。ベレ氏が実際に声に出して笑ったというのではない。ただ彼のアナウンス自体に、いわば距離感としての「笑い」が体現されていたということである。スタジアムの方はといえば、B・ジェームズが蹴る際には完全な静寂とはならず、数は少ないながらもクレルモン・サポーターが(おそらくは小声で?)声援を送っていた。

             *

 ペルピニャン、勝つには勝ったが、ボーナスポイントを得ることはかなわず、決勝トーナメント進出は非常に厳しくなった。最後のワンプレーでボールをタッチに蹴りだしたのはなぜ? 折角カーターを獲得したのにもったいない(ジャージの売れ行きは好調だそうですが)。

 最後の最後で諦めてしまったのは残念だったが、ボーナスポイントを取るためにということだろうか、ペルピニャンは最初から積極的に攻めて主導権を握ることができた。スクラムはやや優勢、プレースキックは互角と見えたが、クレルモンの場合とは異なり、こちらは後先考えず無理するというより、普通に戦って普通に勝ったという感じである。攻撃では、どちらかといえば短めのパスを巧みにつなぐのが主体だったが(この連携は見ごたえがあった)、いちばん目立ったのは SH のニコラ・デュラン。とくに自らボールをもって走るプレーが効果的だった。
 カーターは今日はむしろディフェンス、好タックルで存在感を示した(プレースキックの正確さはいうまでもない)。もっとも、対面の T・フラッドに抜かれてしまったのを追いかけてようやく止めるという、危ない場面が一度あった。

 ふつうにペルピニャンが優勢なので、もっとトライを取れるかとも思ったのだが(相手のタックルは総じて甘かった)、ライスターの方も後半の後半くらいに調子を取り戻して、点数的には競った試合になった。ラックでの反則によってペルピニャンの攻撃を遅らせようとする場面が多かった、これは評価の分かれるところかもしれない。
 攻撃では FB マーフィーのライン参加が目立ったが、ウィングが余っているのになぜかキックを選択して、チャンスを広げられずに終わることが多かった。戦績が低迷しているのもうなづける不可解な戦略だった。
 フラッドのプレーには、シプリアニの SO デビュー時(正確には二試合目)のようなスリルは感じられず、可もなく不可もなくといったところ。年齢などの条件を度外視しての話だが、A・グッドの方がむしろよかったのでは?と個人的には思う。とにかく、チーム全体として特に際立ったところがなく、中途半端な印象をもった。まあそれだけペルピニャンの調子が良かったということでもあるのだろうけれど。

 ちなみに、スタンドではジョー・マゾとベルナール・ラポルトが並んで観戦していた(かつてのいわば「冬の風物詩」である)。ラポルトは後半からテレビ解説に加わったが相変わらずの早口だった。

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2008年12月11日 (木)

ロンドン・アイリッシュ 対 ダックス(チャレンジカップ)

 フランス 4 でヨーロピアン・チャレンジ・カップ、プール 2 の「ロンドン・アイリッシュ対ダックス」を観戦する。サッカー専用フィールドでのラグビーというのは困りものだ。ゴールラインが二本(!)あるというのも紛らわしいし、さらにゴール・エリアの狭さ、たとえば全速でトライラインを駆け抜けるなどした場合、勢い余ってタッチダウンするより早く外に飛び出てしまうような狭さは、プレー自体にも確実に影響あるわけで、日本ラグビー協会は霞ヶ丘他のフィールドのゴールエリア拡張に向けて働きかける必要があるのではないか? ワールドカップ決勝であの緑色のシートは見たくない。見たくない。

 戦前から予想されたことだが、現在プレミア・リーグ首位のロンドン・アイリッシュと、トップ 14 に昇格したばかりの US・ダックスとの間には力の差がかなりあって、前半 12 分で 17-0、ダックスは後半 33 分に初の(そして唯一の)トライを奪うまで無得点、最終的なスコアは 59-7 という、残念な数字となってしまった。
 SONY がスポンサーに名を連ねるダックス、実は初めて見たのだが、最大の問題はディフェンス。一次防御を突破されると、即トライという、強豪チームと対戦したときの日の本チームと全く同じ状態だった。体力が消耗した後半の後半というのではなく、最初からそうだったのである。ディフェンスのシステムが整備されていないとは考えにくいので、おそらくはファースト・タックルが決まらないことでバックアップが間に合わなくなったということなのだろう。詰めると決めた場合はそれなりにタックルは成功していたけれど、全体的には、アイリッシュの強くて速いアタックに対応できず、防御網がいわゆる「ズタズタに引き裂かれる」状態となってしまった。
 
攻撃の方は、ボールが獲得されさえすれば、SH プゼや SO テュケ・FB ディアズらの的確なランを中心としてかなり魅力的な展開を見せていただけに惜しまれる。まあアイリッシュのようなチームがこのレベルの選手権大会に出場しているのがそもそも間違いともいえるわけで、仕方ないのだろう。監督のトマ・リエヴルモンは、自軍のトライに、辺り憚らず喜んでいた。

 ロンドン・アイリッシュの方は、マイク・キャットの後に、昨季まで FB(+キッカー)だったヒューアットが入り(だからイングランド代表としても期待されるゲラーティなどは CTB の控えに甘んじざるを得ない)、彼の確実なキックと、WTB のオジョ、CTB のセヴェアリ、FB のアーミテージらの魅力的なアタックとが上手く噛み合った攻撃、そしてダックスのそれとは好対照な、よく整備されたブリッツ・ディフェンスが好調のようである。今日はセヴェアリとオジョがガンガン突破した。ただしヒューアットのプレー選択は、回すべきところでゴロキック(ゴール前の攻撃)、あるいは自分で突進して捕まるなど、いくつか疑問の残る場面があった。それでも、四試合で 30 トライという攻撃力は群を抜いており、決勝トーナメント進出は全く危なげない模様である。

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2008年12月10日 (水)

「蓮實重彦が偏愛する……」

蓮實重彦が偏愛する本」フェアなるものが九月末頃から催されていた(いる?)と伝え聞く。新著『映画論講義』刊行に合わせての企画だ(った)とか。ふーん、全然知らなかったよ。たとえば「デリダ産業」だの「ベンヤミン産業」だのといった意地の悪い言い方があるのは承知しているけれど、その伝でいえば「蓮實産業」も成立することになるわけだねえ。どういう本が「偏愛」の対象となっているか、それは本屋で実際に確かめて――と、版元は言うのだが、そしてその趣旨にはもちろん心から賛同するけれども、まさかパリから駆けつけるわけにもゆかず(っていうか、なんで大阪はキタの旭屋書店・紀伊國屋書店でやらんと江坂でやってんの?)、一興にと思い、ネットで情報を仕入れることにした。以下は覚書として(余計なことをするなと叱られそうだが、一応ワタクシと重複するものには印を付けてみた。もちろんある種の自己満足のため)。

阿部和重『シンセミア』
ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』
大江健三郎『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』
河野多惠子『みいら採り猟奇譚』
後藤明生『挟み撃ち』 ●
ルイ=フェルディナン・セリーヌ『北』
クロード・シモン『フランドルへの道』
ジャック・デリダ『有限責任会社』
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』
中上健次『熊野集』 ●
中上健次『千年の愉楽』
中原昌也『ニートピア2010』
ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』 ●
ロラン・バルト『ミシュレ』
ミシェル・フーコー『言葉と物』 ●
藤枝静男『田紳有楽・空気頭』
藤枝静男『悲しいだけ・欣求浄土』
古井由吉『白暗淵』
松浦寿輝・古井由吉『色と空のあわいで』
松浦理英子『犬身』
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』 ●
ジャン=ピエール・リシャール『マラルメの想像的宇宙』
山田宏一『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』
山田宏一『トリュフォー、ある映画的人生』


※蓮實氏が「魅せられ」つつも、残念ながら品切れの本

阿部和重『ABC戦争』
井上究一郎『ガリマールの家』
井上究一郎『幾夜寝覚』
笙野頼子『二百回忌』
アラン・ロブ=グリエ『消しゴム』

 ふーん。へええ。ある意味で十分予想のつくリストではあるよね。意地の悪い感想を書き付けると、金井美恵子なんかは自作が選ばれなかったことに軽いショックを受けているのではないだろうか(説明は省きます)。
 念の為にいい添えておけば、わたくし自身は金井氏の小説は好きだし、とりわけ初期の短篇「窓」や長篇の『岸辺のない海』などにはほとんど「偏愛」といってよいほどの愛着をもっている。近年の「細雪」風といえばよいか、ガラッと作風の変わって以降のものは、一通り読みはしたものの――『タマや』での「なめまかしい」のエピソードや漢字を微妙に読み間違う男(「ターザン、大いにオコる」とか)の話には大いに笑わされたけれど――、そのエクリチュールのレベルでの「冒険」も含めて、御本人の自負にもかかわらず、さほど感心した記憶がない。それでも初期作品は割と高く評価している。

 デリダと大江、それに松浦・古井の共著、そして松浦理英子はまだ読んでいない。「まだ」って書くと、「これから読む」という風にも解されそうだけど、日の本に帰って確実に読むだろうと思えるのは大江の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』くらいだろうか。まずタイトルが凄まじいよね。
 文学で泣く人がたまにいるけれど、たとえばワタクシは大江の中篇「僕が本当に若かった頃」を読んで文字通り涙した経験がある。もう何年前になるんだろう、単行本は嵩張るのでもって来なかったが、もう一度読み返したいなあ。読んだ人には説明するまでもないと思うが、終りの方でこの言葉がゴシック体になって出てくるんだよね。僕が本当に若かった頃……。そこで不覚にもというか、端的に深くというべきか、わたくしはとにかくガツンとやられたのだった。太字であればよいというわけでもないんだろうけど、というのは、例えば村上春樹の『ノルウェーの森』にも確か太字処理された文が出てきたはずだが、それには特に何も感じなかったから。

 リシャール……。いいよね、うん、やっぱりマラルメ論が最高かな。個人的には、少し前に読み返したシャトーブリアン論(Le Paysage de Chateaubriand)やユゴー論(Études sur le romantisme 所収)も好きだけど。他方でプルースト論なんかは、うまくハマりすぎて逆に物足りなく感じてしまう(もちろん素晴らしい読解であることは間違いないのだが)。というより、プルーストのテクストって、理論的な読みにはかなり頑強に抵抗するんだよね。たとえば精神分析批評なんかもピタリとハマるけれど、et alors ? と感じてしまう。煮ても焼いても食えない、そういうテクスト。

 そうそう、蓮實氏の本から何か選ぶとすれば、わたくしは『反=日本語論』、『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュカン論』、『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』の間でおそらくは迷うことになるだろう。今の気分としては――つまり水村美苗の問題提起に相当の違和感を覚えた記憶がまだうっすら残っているので――『反=日本語論』になるかもしれない。

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2008年12月 7日 (日)

ハイネケン・カップ プール第三週

 確か 2007 年 W 杯の頃に「カムアウト」したウェールズ出身のレフリー、ナイジェル・オーウェンズ氏が先頃自伝『ハーフタイム』を出版したそうで、インタビュー記事を BBC のサイトで読むことができる(Nigel Owens, Lynn Davies, Hanner Amser: Hunangofiant Nigel Owens, Talybont: Y Lolfa, 2008)。本自体はどうやらウェールズ語で書かれているらしいので、全く読めないけれども、インタビューによれば、自身のセクシュアリティに思い悩んだ末に自殺を試みたことさえあったとのこと。彼が迫害を受けたりせず、キャリアを続けてゆくことができたのはとてもよかった。
 「カムアウト」という行為自体は今も昔も決して容易ではないが、社会的に受け入れられやすくなったのは確かだとオーウェンズ氏はいっている。ラグビーをめぐる言説はホモソーシャルなものがあるとしても、ラグビー自体は寛容なのだといえるかもしれない。また、これが仮にサッカー界であれば、ピッチに立って仕事を全うしてゆくのは困難かもしれなかったと推測されている。アンチ・サッカーではない(サッカーを観るのは好きだから)けれども、ラグビー・ワールドは、「コミュニティ」としてはサッカーのそれとは違うのだと。

             *

 週末にフランス 2 でハイネケンカップの二試合を観戦する。今日はプール 4 「スタッド・フランセ・パリ 対 ハリクィンズ」、明日はプール 1 の「クレルモン 対 マンスター」(前回の覇者、登場)。

 大会新という七万超の観客が動員されたスタッド・ド・フランスでのゲームは、双方が攻め合う(これはクラブ同士の試合だからある意味当然ともいえるけれど)、派手で、楽しいマッチとなった。
 試合前の出し物(何といえばよいのかな、仏語だと fête になる)、鷲に黄金色の楕円球を運ばせたり(これは動物虐待には当らないのか?)、その金球が最終的に「ブランシュ・ド・カスティーユ」に手渡されたり、「レ・ポンポン・ガールズ」が踊ったり、といったアトラクションは個人的には必要を感じないなあ。観客としては、そわそわしつつ席に腰を下ろし、上の空で連れと言葉を交わしたり、キョロキョロしたりしていると、前触れもなく静かに三十人のプレーヤーがフィールドに姿を現し、各自がサッとしかるべき位置を目指して散ってゆくのに気が付いて、大急ぎで心の準備をするものの、間に合わずに半ば取り乱し気味にレフリーの笛の音を聞きつつ、それでも何とか拍手は送る――というような始まり方が理想です。もちろんこれは、日本での「社会人ラグビー」観戦という個人的経験に大きく影響された嗜好に由来するだろう夢想にすぎず、世界的に通用するようなロジックを打ち出そうということではない。実は昨年から、米 NFL の優勝決定戦、いわゆる「スーパーボール」が、途中のコンサートも含めたパッケージとして国営フランス・テレヴィジョン(
フランス 2)で生中継されるようになったので、こうしたアトラクション導入の傾向が弱まることはないだろうと、やや気が滅入りもするのだが、何にしろ短時間で済んだのはよかった。どうでもよいがブランシュ・ド・カスティーユ役の女性は本当に綺麗だった。綺麗だった。

 スタッド・フランセ(だから今日は例の第三ジャージ)はベストのフィフティーンがなかなか揃わず、いつもメンバー編成に苦労するのだが、今日は、FB の本職がいないバックスリーのディフェンスの未熟さを突かれてしまった(ハリクィンズ二本目のトライ)。相手ボール・スクラムのショートサイド、つまりウィング一人で守っているエリアをゴロキックで攻められ、SO エルナンデスがカバーしてボールを一旦は確保したものの、WTB のジュリアン・ソバードとのパスの呼吸が合わず、こぼれてしまったボールを拾われ、一気にゴールラインを陥れられる――時折、どのレベルのマッチでも目にする光景ではあり、そういう「盲点」をうまくついたハリクィンズ SH ケアの殊勲だったと言ってもよいのだが。

 攻撃の方では、エルナンデスではチームに勢いが出ないのを見て、12番のリーベンベルクを SO に、「マゴ」を FB に下げる布陣に変えたのが奏効し、後半はボールをよく動かして果敢に攻めたけれども、大事なところで各種ハンドリングエラーが出て、最終的にはトライがひとつのみという結果に終わった。ラックでの反則が後半 10 分頃までゼロという素晴らしいゲームだっただけに、尚のこと惜しまれる敗戦だった。
 ブライアン・リーベンベルクは、次のプレーを読ませない独特の間合いとフォームをもった選手だということに初めて気づいた。代表でのプレーは正直いってあまり印象に残っていないけれど、その後も成長しているのには素直に感心した(というか、SF ではドミニシと並んでバックスの大黒柱でしたね)。
 バックスでは、ホープとして期待されている CTB のマチウ・バスタローを初めて見た。非常にパワフル(V・クレールと同等かな)。そのうちフル代表にも選出されるのだろう。

 今日はシルヴァン・マルコネがフィールドで動いているのを久しぶりに見ることが出来た。それにしても、スコットランド、イタリア、アルゼンチンそれぞれの代表チームのエイトが名を連ねるFW というのは、何とも豪勢な陣容で、サイモン・テイラーが 5 番に入っても、スクラムはやや優勢を保つことができていたし、これで勝てないのは何故だろうという気がしないでもない。スザルゼウスキー(やり過ぎで痛い反則をとられることも少なくないとはいえ、常に全力で好感のもてるプレーヤー)もいるというのに。適当なことを言い放ってしまうと、パリッセ(今日は 6 番に入った)は確かに好い選手なのだが、今以上にディフェンスに力を割いた方がよいのではないか? 彼はボールをもって走ったりパスしたりすることもできるし、これまでもそうやって得点に絡んできたのは事実だが、ランナーとしてはさらに上を行くレギザモンに攻撃は任せて、主将としてはもっとディフェンスをケアした方が、全体的に上手く行くような気がする。
 ホアン・レギザモン。プーマスのメンバーとしては、いわばパリッセ・タイプのロンゴの穴を埋め切れていないと思うが(彼が一人でそっくり埋めなければいけないというわけでもない)、あの体格であのスピード、そしてステップ、すごいですねええ。2007 年 W 杯三位決勝戦では交代で出てきて、フランスの戦意を喪失させる豪快なランを少なくとも二回披露した。その時にも、そして一対一となった FB をあっさり交わした今日のトライを見た時にも改めて思ったけれど、斉藤祐也はこういうエイトになりたかったのだろうなあ(秩父宮のカナダ戦ではそういうプレーがあったけどね)。

 クィンズのニック・エヴァンスはこのマッチは可もなく不可もなくといったところ。今日はとにかく SH のダニー・ケアがチームを文字通り牽引した(プロフェッショナル・ファウルでシンビンに送られても MoM という活躍ぶり)。この人がイングランドの SH でもよさそうに思うのだが、もうベテランなのかと思ったら逆で、まだ若い人だった。

 プレースキックのたびに、場内の大型ビジョンが「二人のキッカーのためにお静かに願います」というメッセージを表示するのだが、効果はほとんどなかった。敵側キッカーの集中力を殺ぐということではなく、「二人」という言い方が示唆するように、要するにフランスの人々は誰が蹴るのであれ、賑やかなのが好きということなのだ。これはそういう性分なので、どうにもならないだろう。

             *

 負けるとノックアウト・ステージ進出可能性がほぼ消えてしまうクレルモン・オベルニュ(試合前 3 位)が、死に物狂いのゲームで前回覇者マンスター(同 2 位)を破った。今回はホーム・アドバンテージもやはりあったと思うけれど、とにかく次の対戦が鍵である。

 マンスターはプレーのひとつひとつが正確で迷いがなく、喩えていうならよく鍛えられた軍隊を見ているようである。実際に戦争を見た経験はないけれど、機を見てサッと展開するあり方は戦慄的ですらある。R・オガーラのキックは相変わらず好調だし、FW は強く、統率が取れていて、隙があまり感じられない。クレルモンの勝因はまず、当り負けしなかった点だろう。ボールを確保したらとにかく前に出るという(えらく大雑把な言い方ですみません…)チームが、そこで負けてしまっては、マッチを勝ち取ることなどとうていおぼつかない。だから、どちらのチームも(ハーフ団を除いて)攻めては思い切りぶちかまし、守っても思いっきりぶちかますことになる。クレルモンの13番バビだって、あまり技巧は凝らさずに真直ぐ突っ込んでいた。テレビで見ていて「これは凄い」と率直に思ってしまった。要するに、とても豪快な、だが必ずしも大味というわけではなく、勝敗の行方も最後までわからぬという非常に面白い試合だった。

 それにしてもマンスターの攻撃はいつも素早く無駄が無い。ボールが高速で展開される彼らのアタックはやはり見ものである。たとえばオールブラックスと対戦したらどうなるのだろう?と素朴な疑問が湧く。というか、先日対戦していちおうオールブラックスが勝ったんですよね。ともかく、クレルモン側は一次防御では完全には対応しきれていなかったのだが(たとえば 12 番のマフィには再三のラインブレークを許した)、カバーディフェンスが今日は素晴らしく、最終的には 22m ラインの内側への侵入はあまり許さずに終わった。またタックルの力強さには、何か技巧を超えた力が感じられた。
 と同時に、勝利のために PG で着実に点を積み重ねて、トライで逆転。理想の展開といっていいだろう。残り 6 分で 6 点差だが、マンスターにトライを取れる気配はもはやなかった(惜しまれるのはペナルティを与えて 9 点差を保てなかった点である)。

 いずれのチームにも悪質な反則はなかったし、今シーズンのベスト・マッチのひとつとなるのではないだろうか。感動的なゲームだった。わたくしはフランスのクラブだったら今のところクレルモンが一番好きかな(トゥールーズなど見ていないチームが多数あるので、暫定的なものだが)。

〔「ホモソーシャル」ということについて誤解を防ぐために一言。
 委細はイヴ・K・セジウィック『男同士の絆』(名古屋大学出版会、2001 年)を御参照いただきたいのですが、思いっきり簡単にいってしまうと、ミゾジニーとホモフォビアの二点によって特徴づけられるような社会的関係のひとつの歴史的な形ということになります。
たとえば三田誠広『そして笛が鳴り、ぼくらの青春は終わる』の主人公・ライターの女性・写真家の男性という「三角関係」は、セジウィックがイギリス文学に指摘したような「ホモソーシャル」なあり方、とりわけホモフォビアに裏打ちされるようになる 19 世紀型ホモソーシャルの関係と全く同一のものです(チームのセンター・コンビの「関係」も考慮しつつ)。
 それがこの小説の限界ということになるでしょうけれど、でもラグビーのゲームを描いた部分は面白いんですよね。だから、20 世紀に 19 世紀小説を反復するというその時代錯誤を大仰に批判したりはせず(それ自体は造作ないことです)、いつの日か書かれるであろう――本当に?――真の 21 世紀的ラグビー小説にその最良の部分が受け継がれるよう願うことにしたいと思います。〕

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2008年12月 4日 (木)

モンペリエ 対 トゥーロン(チャレンジカップ)

 フランス 4 でヨーロピアン・チャレンジ・カップ、プール 2 の「モンペリエ対トゥーロン」を観戦する。

 たまたま放映があることに気づいたのだが、この大会までテレビでやっているとは知らなかった、というか、すでに見逃したゲームがあったのだろうか。

 最初に映された、バックスタンドに堂々と輝く「YVES DU MANOIR」の文字。あれ、俺もこないだ行ったところなんだけど、こんなに新しかったっけ?と、一瞬いぶかしんだが、これは 2007 年に落成なったモンペリエのスタッド・イヴ・デュ・マノワールなのだった(旧ラシングの選手の名前)。客の入りが少しさびしかったが、芝はやはり綺麗。フランスはここのところ大半が雨期かと思わせるほど雨が続いていて、このフィールドも当然湿っていたので、いっそう美しく見えたということはあるかもしれない。

 ちなみに Montpellier の実際の発音はモンリエに近い。「プ」は曖昧な音、たとえば e という字母自体の発音がそうだし、je や te の発音と同様(ただし後の二者は母音が脱落することも多い)ということだが、今更直すのは無理に思える。もちろん、こんなことを言い出せば「トゥロン」、「トゥルーズ」など、切りがないし、それに「エマニュエル・レヴィナ」や「マルグリット・デュラ」、あるいは「デヴィッド・バイロン」(誰やねん)、はたまた「スタンリー・カブリック」(!)等々、のちに修正(相対的に原音に近い表記への修正)がなった外国語固有名詞もあるにはあるけれど、馴染み方が違うので、どうも時に委ねるほかなさそうである。

 マッチの方は、双方に負傷などによる欠場者が多数おり、モンペリエでは、ウェドラオゴ、ピカモールという、代表でも今や主力となっているFW 第三列の二人が不在。だがエイトのマムカ・ゴルゴゼ(でいいのかな?)というグルジアのプレーヤーの突進は見ものだった。
 また SO のトラン=デュック、トデスキニがおらず、代わりにゲームメイクを担ったのは、本来 SH のジュリアン・トマ。代表にも選ばれている彼が SO、そして実弟のアドリアン・トマが SH に入ったのだが、これがよかった。普段からこういうラグビーをやっているのかどうかわからないけれど、この日は、FW 戦を少なくし、ボールを展開して外のチャンネルを攻めることにしたようで、確かに FW の力強さだけを見れば、トゥーロンがやや優勢とも思えたので、戦略として正解だったといえるだろう。WTB に段違いの決定力があるわけではないにしても、J・トマの大きく素早いパスによってチームに勢いが与えられていたのは間違いない。キックは別として、これならレ・ブルーの SO も務まりそうに思われた(たとえばエリサルドのような兼任として)。
 
セットプレーからの局面以外でも、ラックはなるだけ作らず、パスを回して抜こうとするプレーが多くあり、見ていて単純に面白く感じられた。今シーズン見た中では、最もスペクタキュラーなゲームのひとつといえる。まあ、トライは一つしか取れなかったが、それはレギュラーのキッカーがおらず、PG を積み重ねることで思い切った攻めを行えるように点差をつけるということが出来なかったから。第三キッカーまでが不在ということで、第四(11 番)・第五(15 番)のキッカーで何とか最小限の PG を成功させて逃げ切った。残り 10 分での逆転(11-10)、残り 4 分での追加点(14-10)を見事に決めた FB は、代表キャップもあるオリヴィエ・サラメア。

 対するトゥロンの方は、大物が軒並み不在だったが、いずれにせよ、(どちらかといえば) FW 主体、パスも短めのものを細かくつないでゆく戦い方のように見えた。両チームとも戦術としてのキックが少なかった。したがってラインアウトの機会がそもそも少なくなったわけだが、双方とも上手く行かず、ラックなどでの反則の多さとともに、得点の少なさの原因として挙げることができる。反則はとりわけトゥーロンの方に多かった。スクラムでつっかけてしまう反則が少なくとも二回、その他ラックでの飛び込み、膝をついたままでのプレーなど多数。レフリーはサンパな人で、仏語・英語でよくコミュニケーションをとっていたけれど(咄嗟に出てくるのは英語――Play on! とかね――だったが)、一番多く聞いたのは「立ってプレーしなさい」(Restez debout)だった。

 全体としては、ボールのよく動く、見ていて面白いゲームだった。

〔追記 12 月 11 日(木) 20 時 40 分から「ロンドン・アイリッシュ 対 ダックス」を同じフランス 4 でやる予定になっている。フランス 4 は確か番組がインターネット上でも見られるようになっている(そういうチャンネル)とか何とかだったことを思い出し、調べてみると、海外領土を含むフランス、アンドラ、モナコに限られる(BBC なんかと同じく géolocaliser されている)模様で、残念である。〕

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2008年12月 3日 (水)

翻訳研究文献の新刊(修正)

 翻訳研究の新刊/近刊文献の紹介(いずれも詳細は出版社のサイトを御参照いただければと思います)。

 ・ミカエル・ウスティノフ『翻訳』服部雄一郎訳、白水社、11 月

 ウスティノフ(Michaël Oustinoff)さんは「ベルマン以後」の代表的な研究者(パリ第三大学)で、翻訳の専門家としては現在フランスにおける第一人者といってよい。
 パリで翻訳に関する講義が常設されている大学は、わたくしの知るかぎり、パリ第三、第八、第十だが(他に国際哲学コレージュなど)、そのうちパリ 10 (ナンテール)は哲学研究者 J=R・ラドミラルが中心となっており、現在、A・ベルマンの翻訳論についての博士論文を準備しているフランス人学生がいるとのこと。
 パリ 3 (新ソルボンヌ)とパリ 8 (サンドニ=ヴァンセンヌ)ではともに、比較文学の枠組で講座が設置されているが、翻訳と銘打たれた叢書をもち、
研究書や雑誌『パランプセスト』(1983 年~)を大学出版会から精力的に刊行している新ソルボンヌの方が、今のところ、より本格的であるとはいえるかもしれない。

 ・三ツ木道夫編・訳『思想としての翻訳 ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』白水社、12 月刊行予定

 ドイツの翻訳思想を専門とする三ツ木道夫さん(同志社大学)によって編まれた論集。アメリカ風にいうと「リーダー」だが、十人の論攷のエッセンスをまとまった形で読めるのはありがたいことである。ベルマンの本も、ロマン主義や古典主義のアンソロジーとして利用しうるとはいえ、やはり文脈などが把握できる形で読まれるのが最善だろう。
 シュライアーマッハー翻訳論の日本語訳もある三ツ木先生とは面識はないものの、『他者という試練』はお読みくださっている。フランス人によるドイツ翻訳思想理解について是非お伺いしたいところである。

 ・Antoine Berman, L'Âge de la traduction. "La tâche du traducteur" de Walter Benjamin, un commentaire, Presses Universitaires de Vincennes, coll. "Intempestives", à paraître en décembre 2008 (リンク先は出版元ではなくフランス人文系情報サイト『ファビュラ』)

 (『翻訳と文字』同様、国際哲学コレージュでのセミナーをまとめたもの。11日発売予定ということで、買ったらレポートするかもしれません。)

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クリント・イーストウッド『チェンジリング』

 C・イーストウッド監督の『チェンジリング』を観る(MK2・ガンベッタ)。今年のカンヌ映画祭出品作のひとつ(黒沢清の『トウキョウソナタ』の封切りはもう少し先、待ち遠しい)。

 元々は自身の企画ではなかった(共同プロデューサーのロン・ハワードが監督する予定だった)とのことだが、手堅く――という言い方は留保が含まれるのか? しかしそういう意味ではなく――きちんと作られていて、物語を堪能できた。途中、心臓に悪い時間帯があって、短時間で済んでわたくしとしては助かった。

 それぞれ独立した映画になりそうな部分――州政府・州警察の腐敗、精神病院の実態、年少者虐待など――が、行方不明となった息子を探す母(アンジェリーナ・ジョリー)の物語と組み合わされており、内容は非常に濃い。二時間二十分余の上映時間に何とかギリギリ収まった、というかこれは言い方が逆で、「副次的要素」を決してなおざりにせず、それぞれに十分な(必要最小限の)時間をかけた結果のギリギリの上映時間というべきだろう。長すぎるという感じは全くしなかったし、撮る人によってはあと10分から15分くらい長くかけてより詳しい説明を試みたかもしれないと思わせるほどだった。ともかく、このようなやり方によって、A・ジョリー演ずる母に対する感情移入の度合いが例えばいっそう強くなるという効果があったと思う。一刻も早く子供を捜しに行かなければならないのに、精神病院に閉じ込められて暢気に(実態は悲惨そのものだが)「治療」とやらを受けさせられているのだから、観ている方も焦燥感を募らせないわけにはいかない。こんなことってあるのだろうか――いや、現実というのはこのような不条理が結構あると、そう思わせるという効果もおそらくはあった。「実話」とわざわざ銘打たれているのは伊達ではなかったということになるだろうか。こうした複雑な構成を、筋を何とか追うことができる形で提示する技倆はやはり見事。

 俳優もよかった。アメリカ映画を観て感心することのひとつは、役どころにピッタリの顔つきをした俳優が(だいたい)いつも出てくる点である。悪徳刑事部長、良心に従って行動する刑事、少年虐待の常習犯、助かったり助からなかったりする少年たち……。アンジェリーナ・ジョリーも(特に好きな俳優ではないけれど)よかったし、ジョン・マルコビッチも当然とはいえよかった。「当然」は言い過ぎか。J・マルコビッチは「普通」の役どころで起用すべきと、わたくしは『シェルタリング・スカイ』以来ずっと考えているのだが、多くの監督さんは何故か彼をエキセントリックな人物として配してきたからだ。やっぱりベルトルッチ、そしてイーストウッドはわかっているんだなと、まあ単なる個人的な趣味の満足にすぎないけど、そう感じた。
 A・ジョリーの凹凸のあまりない(実態は知らぬがそのように見えた)
体躯が 1920 年代風のワンピースに見事にマッチしていた。この起用は成功だと思う。
 キャスティングもそうだし、演技指導の面でもいつも感服させられる。例えばケヴィン・コスナーのこれまでのところ最高の演技は『パーフェクト・ワールド』の小悪党役だし。

 そうそう、今、もう一本、J・マルコビッチが出演している映画をやっているんだった。忘れないようにしなくては。『バーン・アフター・リーディング』(なぜか仏蘭西でも英語タイトルのまま)。意味がわからないので芸もなくカタカナ表記にするほかないけれど、ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットが「普通」の配役だとすると、マルコビッチはエキセントリックな役を与えられていそうな、少し悪い予感がする。監督はコーエン兄弟。微妙なところだ。

 そういえば、スプリングボクスの映画を撮るという話はどうなったんだろう?

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