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2009年1月27日 (火)

「ヌーヴェルヴァーグの 50 年」(France 3)

 1959 年の『美しきセルジュ』から数えて 50 周年を迎えたヌーヴェルヴァーグを回顧すべく、クロード・シャブロル(監督、1930 年生)、ベルナデット・ラフォン(俳優、1938 年生)、ジャンヌ・モロー(俳優、1928 年生)、アンナ・カリーナ(俳優・監督、1940 年生)、アンドレ・ラバルト(監督・批評家、1931 年生)が招かれたこの日の Ce soir (ou jamais !) 。

 お喋りの内容に特筆すべきことはなかったが、みなさん達者だなと、その点に(最も素朴なレベルで)改めて感嘆させられた。シャブロルは数年前、『権力に酔い痴れて』(L'Ivresse du pouvoir, 2006)公開時に、主演のイザベル・ユペールとふたりでテレビ出演した際にもそうだったが、話し振りに老いはほとんど感じられない。 81 歳の J・モローの健在ぶりにはさらに驚く(これはただのレトリック。テレビでよく見かけるので今更驚きはしない)。顔が「汚い」にもかかわらず主役を張り、唯一無二の存在感で人を魅了するジャンヌ・モローと松田優作の登場には衝撃を受けたと言ったのは誰だったか――あ、思い出した、うちの母だ。

 しかし一番驚いたのは、実は久しく見たことのなかったカリーナ。驚いたというのはしかし、あまり健康そうには見えぬその老い方にではなく、『気狂いピエロ』から数えて 44 年も経つと、アンナ・カリーナとジャンヌ・モローとを区別するのにいささか苦労するという事実にである。少なくとも同じにようにしわがれてしまった声を聴き分けるのは困難だ(その分だけ、後者の才気煥発というべき話しぶりと、しばしばつっかえるカリーナの話しぶりとの対比がはっきりしたともいえる)。

 それにしても、ラフォンにせよ、モロー、カリーナにしろ、大写しにされるかつての映像――『美しきセルジュ』、『突然炎のごとく』、『気狂いピエロ』――を背後に従えつつ堂々と振舞っており、彼女たちの自意識はずいぶん健全なのだなと思った。それはもちろん葛藤はあったろうし、今もあるのだろうけれど(特にカリーナ?)、一般論として、フランスが日本より生き易い社会だとはそれでもいえるのではないか。老いたその姿形のまま世の中にいちおう受け入れられてはいるわけだから。わたくしなどはつい『失われた時を求めて』中の「ゲルマント大公夫人邸の朝の茶会」などを思い浮かべてしまったりするけれど、生身の人間に対しああした残酷な観察を行なう気にはさすがにならない。画面をぼんやり目で追いながら、「そうかあ、アンナカリーナの四十年後はこうなるのか」と、底は浅いが(M さん、笑うなよ)まったくの無意味というわけでもない感慨を抱くなどした。
 ちなみに、アンヌ・ヴィアゼムスキーの変わりよう――といっても、きわめて常識的な美人に落ち着いたということに過ぎないが――を見たときの衝撃は、そう、園丁となった愛新覚羅溥儀(『ラストエンペラー』)に対するのと同じ種類のものだった。

 そういえば、俳優で歌手(しかも同じ歌を歌う)でジャンヌという符合から、ジャンヌ・バリバールを「第二のモロー」に見立てる文章をどこかで読んだ。J・バリバール(1968年生)が米寿を迎える40年後かあ。これは想像しがたい。活動ということなら、舞台も含めて芝居を間違いなく続けているだろうし、他にたぶん小説を――フランス人はみんな書くんだよね――刊行してそこそこ売れていたりするのではないか。血筋でいえば、A・ヴィアゼムスキーとよい勝負だろう。

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