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2009年1月

2009年1月31日 (土)

シックスネーションズが来週から始まる(改)

 シックスネーションズに向けて、各チームのスコッドが発表され始めている。絶対的な強さをもつチームはないとの評価がある一方で、やはり展望についての自信の表れだろうか、真っ先に発表したのはウェールズだった。先日のマッチ(ハイネケンカップ)で足首を傷めたL・バーンの回復具合は気に懸かるけれども、他方、負傷のため秋のテスト・シリーズに出場しなかった G・ヘンソン、J・トマス、M・フィリップスらが復帰し、昨年度のグランドスラム・チームと比べて遜色のない陣容と、ひとまずいうことはできる。

 少なからぬ驚きをもって受け止められたのが、D・ピールの不選出。ギャッツのお気に入り SH がフィリップスであることは間違いないし、よほどのことがない限り彼が一本目ということになるだろうが、その控えとして G・クーパーを起用するという点をめぐって賛否両論が提出されている。たとえば BBC のフォーラムなど、アイルランドやイングランドのファンまで議論に参戦しており(二日で 100 の投稿)、夏のライオンズのメンバー選考にもかかわるとはいえ、イギリス人はやはりマメだなと思った。

 それら投稿の大半はピールの方が(フィリップスよりも、だがとりわけクーパーより)上だとしている。気持はわかるけれど、現在のピールならさほど差がないようにも思われる。確かに 2005 年のパフォーマンスは素晴らしかったけれども、その後は残念ながらパッとしない(その点は「ピール派」も認めている)。他方、クーパーも 2003 年のファースト・チョイスだったわけだし、年齢もピールとは二つ(フィリップスとは三つ)違うだけで、さらに昨秋ワラビーズに勝ったメンバーでもあるため、選ぶのは確かに大変である。

 フィリップスがファースト・チョイスになったことはそれに比べれば理解するのは易しい。一言でいうならそれは、ウェールズのパックが強くなったために、〈弱い FW と素早い SH〉 という組合せに頼る必要がなくなったからである。というか、これは言い方が逆で、まず他チームにはない個性としてフィリップス起用が決まり、そのために何が必要かを計算した結果としてのフォワード強化ということだろう。フォワードが強くなることそれ自体は、持久力も同時に強化されるなら、悪かろうはずはない(個人的にはマイケル・オーウェンの復帰はもうないだろうことを悲しんでもいるけれど)。
 事実、秋のテストマッチでウェールズは「オフロード」パスを積極的に試みたわけで、要するにフィリップスが相対的に「鈍重」であり、したがってラックへの寄りが遅くなるということであれば、ラック形成を可能な限り少なくすればよかろう――と、そういうことなのだと思う。
 昨年のシックスネーションズ最終戦、対フランス戦でのマーティン・ウィリアムズのトライ――フランス 2 の J・アベイユーは興奮して「グランドスラム・トライ(essai de grand chelem)!」と叫んだ――は、ラックからボールを持ち出したフィリップスが、まるでロックのようにフランス DF に突っ込んでいって出来たラックから生まれたものだった。SH が核となったラックにスイープ役として SO スティーヴン・ジョーンズ(と他一名)がサポートに入るというあり方(むろんそこだけ取り出して見れば、実際にはどのチームにもふつうに起こりうる場面ではあるが、SH が敢えて LO のようにプレーするという点でやはり違いが認められる)に、かつてキャンピージーが苦言を呈したとされる、だが現在「南半球」的ないしニュージーランド的と認識されてもいる「FW と BK の別のないラグビー」へのある点での接近を指摘することは可能だろう。
 2005 年の「セクシー」ラグビーとのトレードオフといえる、フィリップス起用とフォワード強化。それが本当にトライネーションズに伍す最善のやり方かどうか、答えはまだ出ていないけれど、他にはない個性を活かす方向でのチームづくりというのは、日本代表のことを考え併せても興味深い。ウェールズには、他方で S・ウィリアムズ→L・ハーフペニーという系譜、すなわち小柄・俊足のウィンガーでトライを取るという別の個性もあって、うらやましく感じる。ほとんど唯一の問題は多くの人が指摘するように、7 番 M・ウィリアムズの後継者が育っていない点で、BBC によれば、2011 年の W 杯で彼がプレーできるように、つまりそれ迄に消耗してしまわないように、出場試合数をコントロールして「選手生命」を延ばすことで協会とクラブとの合意が形成されつつあるらしい。ほとんど「国の至宝」扱いだが、実際、年齢、つまり数字だけでどうこう言うのはおかしなことなので、行けるところまで行けばいいと思う。応援しています。

           *

 対してフランスはというと、個性がありすぎて、強化の方針が定められないように見える。それはいい換えれば、ギャットランドというガイジン監督の断行したウェールズ的「トレードオフ」はできるかぎり避けるということだろう。とてもフランス的なやり方とはいえるけれど、首脳陣の苦労はその分大きくならざるをえない。個性というものに対するこうしたふたつの異なった態度、これも実に興味深い(他の4チームにもそれぞれ固有の態度があるのだろうが割愛する)。

           * * *

 とか何とかいっているうちに、各チームのメンバーが発表されているので追記する(二月五日)。

 ウェールズには著しい驚きはなし。敢えていうなら、いつも苦労するフッカー(ラインアウトに関して)選び、そして CTB に「グランドスラム」コンビのヘンソン=シャンクリンではなく、ヘンソン=ロバーツのコンビ――この組合せは秋のテスト・シリーズの当初予定されたものでもある――を先発させることくらいか。

バーン
ハーフペニー、シャンクリン、ロバーツ、S・ウィリアムズ〔CTB が変更されたので修正した〕
S・ジョーンズ、フィリップス
ジェンキンス、リース、A・ジョーンズ
ゴフ、A・W・ジョーンズ
R・ジョーンズ、M・ウィリアムズ、パウエル

 イタリアは主だった候補の負傷により、マウロ・ベルガマスコを SH に起用する。ちょっと楽しみかな。こういう漫画みたいな展開、決して嫌いではない――とはいえ実際的な利点もないわけではない。「マウロは 7 番にいるときより多くのタックルをこなさなくてはならないだろう」と監督ニック・マレットは予想している。いずれにせよ全責任は自分にあるとマレットが請合っているのだから、ベルガマスコ=マルカトの HB は萎縮することなく堂々とプレーしてほしい。

 対するイングランドでは、シプリアニの落選(イングランド A への降格)ということ以上に、A・グッドの起用が注目される。T・フラッドの負傷のため止むを得ずということなのだが、ゲラーティ(控え)を差し置いての選出に対する批判、あるいはそもそも「またあの退屈なキッキング・ゲームか」という苦言が賑わいを見せている。
 二点目に関しては、本場のファンでもイメージでしか語らない人がいるのだなという感想を抱いた。実際にはパスプレーも上手で、「退屈きわまるバック・ライン」の原因はむしろセンターにあるのだから。一点目については、セレクターのマーティンジョンソンがよく知っている、そして移籍したブリーヴで好調をずっと維持しているというグッドの選出は、とりわけ勝利が第一の目標である以上、当然といえるだろう。ゲラーティは点差が開いて勝利が確実となった時点で(そうなるかどうか予断は許されない)出場させればよいのではないか。
 個人的にも、フランスに移ってからのグッドは知らないので、どうなっているか見てみたい。

 フランス。

ポワトルノー
マルジュー、フリッツ、ジョジオン、メダール
ボクシス、ティユス=ボルド
ウエドラオゴ、アリノルドキ(No. 8)、デュソトワール
ナレ、シャバル
ルクルス、スザルゼウスキ、フォール

 『レキップ』紙の報じるところでは、マルク・リエヴルモンいわく、「(ボールを動かすという意味での)プレー」のため、そして「トライをとって勝つ」ためのセレクション。いい換えれば、実験段階は終わり、真の意味におけるチームとして(自信とともに)選んだということになる。
 監督談話というものをそのまま信じてよいのか、一般論として迷うところだが、「ボクシスは(10 番候補のうち唯一)アングロサクソン的なところがある」とリエヴルモンはいっている。また、クラブで FB をやっている経験からも大きなものを得ているはずだと。こちらも楽しみ。

〔人名、ティユス=ボルド(Tillous-Borde)とルクルス(Lecouls)に訂正した。〕

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2009年1月29日 (木)

ハイネケンカップ プール第六週

 週末にフランス 2 でハイネケンカップ一試合、「バース 対 トゥールーズ」を観戦する。

 とてもイギリス的な環境と天候のなか行なわれたプール 5 の最終順位決定戦。二位からの逆転を目論むフランス側にはしかし、キックオフの段階ですでに他プールの試合結果が、つまりは二位のままでもノックアウト・ステージ進出可能ということがわかっていたようである。
 マッチは 3-3 の引き分け、トゥールーズは準々決勝をミレニアム・スタジアムでカーディフ・ブルーズと戦うことになった。この試合は見応えがありそうだ(4 月 11 日)。

 かなり強い雨が断続的に降り、地面はなかば凍りつつ、そこかしこに水溜りが出来ているグラウンド状態ゆえ、ゲームはまずはキックの応酬となった。バースのブッチ・ジェームズ、トゥルーズの「ジャンバ」・エリサルド、二人ともキックを得意とする SO であり、この戦術はいろいろな意味で理に適っているとはいえる。見所はしたがって、攻撃指向で、且つ、言葉本来の意味における「プレー」を好む両チームが、いつ本来の戦い方に転ずるかということになった。それまでは見る方もしばらく我慢。
 B・ジェームズはトゥールーズの攻撃をロングキックで跳ね返したり、相手 FB らを標的に再三パントを蹴り上げたりしたが、トゥールーズ側のキック処理はほぼ完璧で、とりわけポワトルノーはミスが全くなかった。いやー、成長していますねえ。後半の後半に退いたのは、疲労(ジャージの汚れ方が凄かった)のため、そしてクレールの出場機会を作るためだった。この調子ならレ・ブルーでも少なくともディフェンスに関しては問題ないだろう。後半に入ってから、パスプレーによる展開を多く試み、敵ゴール前まで攻め込む場面もあったが、結局ノートライに終わった。
 対するトゥールーズは、SO からのハイパントばかりではなく、何回か短いパスをつないで展開するのだが、敵陣 22m に入るとエリッサルドは判で捺したように毎回パント(高さは「ハイ」~「ミディアム」)を上げて仕留めようとした。これはやはり、無理せず効率よくというだったのだろうか。しかし結果は――相手のハイボール処理のもたつきなどからゴールライン前のチャンスもあったにせよ――PG の 3 点のみに終わった。ディフェンスはともにがんばっていたし、今日は両チームのプレースキッカーが不調をきわめたこともあって、結局スコアは前半の 3-3 から動くことがなかった。

 トゥールーズの 22m ラインの少し外側でのマイボール・スクラムの場面(前半)。9→10、そしてラインの内側にいるキッカー役のエマンスにボールが渡ったのだが(つまり陣地獲得のためのタッチキックを狙っていた)、エマンスのキックは「ダイレクト・タッチ」となり、蹴った地点まで戻されてしまった。蹴りそこなったというより、割とふつうに(つまり勘違いして)直接タッチの外に蹴り出したようにも見えた。

          *

 シックスネーションズ初戦、対アイルランド戦のメンバー。『レキップ』のサイトより。同紙記者による解説はこちら

Avants(フォーワヅ)
 バルセラ、フォール、ルクルス、マス、ケイゼール、スザルゼウスキ
 シャバル、ナレ(主将)、ミロ=シュルスキ
 デュソトワール、アリノルドキ、ウエドラオゴ、ピカモール

Arrières(バックス)
 パラ、ティユス=ボルド、ボクシス
 バビ、フリッツ、ジョジオン
 マルジュー、エマンス、メダール、ポワトルノー

 そうか、これでアイルランドと戦うのか。第一列はどうなるのだろう(トゥールーズのセルヴァもよい突進を再三見せていたのだが)、セレクションはいまだに "toujours en construction" といった趣である。実際、M・リエヴルモンは、上記二番目の記事に紹介されている談話で「W 杯の直前ではないのだから若いプレーヤーを試したい」という趣旨のことを述べている。ワールドカップが中心と、はっきり言われているわけで、違和感をもつ向きもあるだろう(わたくし自身の考えは内緒)。クレールは二月末のウェールズ戦などに間に合えば、というところだろうか。
 10 番の専門家がボクシスのみだが(ただしクラブでは常に SO をやっているわけではない)、最大の驚きとされたのはむしろエリッサルドの落選。この人はゲームの理解や「こすさ」(この場合は「気が利く」の意)も含め、実にフランス的なスクラムハーフではあり、プレースキッカーとしてはスクレラやミシャラクより安定している。コーチ陣もその実力は十分に認めているのだが、たとえばシャバルやジョジオン、エマンスら、年齢が同じないし上の人たちが選ばれる一方で、ミシャラクが選ばれていない(そもそも構想外という話もある)ことからして、年齢をいうだけでは十分に説得的とはいいがたい。記者 B・ラガシュリは、エリッサルドが 2011 年の構想から外れてしまった可能性を示唆している。

 エリサルド(の SO)の問題点は、ランのオプションがないことである。走れないというより、走らないということだろうと思う。いずれ気が利くプレーヤーではあり、キックも多彩だから、彼のゲーム・メークはそれなりに楽しめはするのだが、自分で抜けてゆくというような場面は見た記憶がない。ミシャラクやスクレラ、トラン=デュックは自ら走って抜こうとする。ボクシスも――腿のあまり上がらない、地表に重力が弛むことなく働いていることを時ならず思い出させてくれる独特のフォームで――走る。そうしたオプションがないために、ジャンバのプレーには時に物足りなさを感じてしまう。
 
ディフェンスも基本的には免除されているように見える。ウィルコのようにとはいわないが(そもそも役割が違う)、せめて前任者ガルチエの必殺技「ヘッドロック」を見習うくらいのことをして欲しい。ウェールズの対面には 190cm・100kg の M・フィリップスがいるのだから。
 (もちろんハイタックルはよくないのだが、反則すれすれの巧妙なやり方でガルチエがピンチを防いだ場面が少なからずあったと記憶する。ちなみに昨年度のフランス 2 のラグビー用「番宣」、〈ガルチエへの一問一答〉には「ヘッドロック(cravate)?――絶対必要だよ(C'est de rigeur)」というものがあった。他には「スコットランド対ウェールズ?――勝者がいて、敗者がいる」(お前さんは長嶋か)など。ま、そういう人です。)

 ミシャラクはデビューが早かったのでベテランの風情も漂い始めているがまだ 26-7 歳なので、次の W 杯でも年齢的には十分戦力になりうるように思われる。というより、活躍して欲しいと願う。なぜ選ばないのか、よくわからない。

〔人名、ティユス=ボルド(Tillous-Borde)とルクルス(Lecouls)に訂正した。〕

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2009年1月28日 (水)

雑談(2)

 ――『ユリイカ』の最新号の特集、『日本語が亡びるとき』なんだってさ。
 ――ニホンゴガホロビル……。ああ、もういいよ、俺は飽きた。読んでないけど。というか、あなた誰?
 ――誰だといいなあ。
 ――誰だと、いいなあ……? 何いってんの? 全然わかんない、っていうか疑問と祈願を混ぜてどうする。いいからもう往んでください、ほら、早く……。

 何だあいつは。というわけで、変な人が闖入してきたので、何を書こうとしていたか忘れてしまった。でも全然知らなかったので、いちおう『ユリイカ 特集・日本語は亡びるのか?』を調べてみる。
 う~ん。悪いとはいわないが、何だか「ぬるい」気がする。まず多和田葉子がいない。「日本語が亡びる」かどうかなんて絶対考えそうにない人をこそ呼ぶべきではないか? まあ、依頼して断わられた可能性もあるけれど。
 タイトルを眺めると、野崎歓さんの「「翻訳家が亡びるとき? 『日本語が亡びるときにあらがって」は翻訳家としては当然。四方田犬彦さんの「亡びるなら亡びてしまえジャパニーズ」(字余り)も、四方田さんなら当然そう来るだろう(そうでなくては!)と思わせる素晴らしい内容である(あくまでタイトルの内容ということです)。蓮實重彦さんの「時限装置と無限連鎖 水村美苗日本語が……』を悲喜劇としないために」はちょっとよくわからないなー。というか蓮實さんの場合は、『=日本語論』を読みなさいと、ひとこと書いておけば十分という気がする。ついでに、『他者という試練』も読んでみては如何かと、どさくさに紛れる形で書き添えておこうか。だいたい水村さんの依拠する図式では翻訳文学に対する正当な評価が下せまい。その意味だけでも、きわめて不備の多い問題提起といえるのではないだろうか。

 とにかく「普遍」なるものの暴力に対する鈍感、それにわたくしは耐えられない。「普遍語」うんぬんというようなマチズモになぜ女性が平気でいられるのか。不思議を感じつつ同時に、二重の意味で息苦しくなってしまう(読んでないんだけど)。
 歴史的・地理的条件を度外視してラテン語と英語を同じ「普遍語」と見なすような話の展開も粗雑という意味での暴力そのものだし。水村さんの議論だと結局(少なくとも形式的には)同じことになってしまうのだが、「標準語」や「共通語」が暴力の所産にほかならぬ点を見ないとするならそれは、〈実は日本語なんてものはない〉という視点を、したがってまた英語にもさまざまなレベルがあるのだという視点を欠いているからだろう。
 件の『ユリイカ』についていえば、水村さんを支持する執筆者のひとり(女性)が御自身のブロッグで「『ユリイカ』は大きめの書店でないと並んでないかもしれないので、アマゾンその他で買うのがいいかもしれません」(大意)と書いておられる。〈語るに落ちる〉とはまさにこういうことなのだと思う。

 いや十分に脅威を感じているからこその提言なのだというような反論があるかもしれない。しかし、「日本語」がそうした意味での抽象物である点、さらに英語にもさまざまなレベルがあるという点など、そもそも十二分に承知の上で水村さんは書いているわけでね。
 別のいい方をすると、水村さんが扱おうとしているのは(広義の)政治的領分に属す事柄である。英語が世界語となるならないというのは政治的事象であって、翻訳の手間を省いて効率的にという意味では同時に経済的事象だともいえるが、いずれにせよそれ自体として言語や文学の問題であるわけではない。
 「問題」といういい方をしてしまったけれども、水村さんのように英語の「普遍語」化を所与と見なしてしまえば――それは受け入れるというのと同じことだから――実のところそこに政治的問題は生じようがなくなる。あとはただ矮小化された文学的「問題」が存在するかのように見えているだけのことだ。確かにベネディクト・アンダスンは「(近代の)文学は政治的問題だ」という趣旨のことを述べた。しかしだからといって、政治の問題を文学の次元に還元してよいということにはならない。つまり、『日本語が亡びるとき』の問題意識は政治の次元にあるのだが(そのこと自体はよいも悪いもない)、水村さんは、問題に政治的に取り組むことなく、ただ文学の領域に逃げているにすぎないのである。

 「英語の覇権」という事象に直面したわれわれジャパニーズ・スピーキン・ピーポーが、文学に逃げ込むことなく、政治的態度をとるということはすなわち、英語の「普遍語」化(の暴力)に抗うことである。水村さんのいう「文学」とは、そうした抵抗を諦めた結果として確保されたものにすぎず、そのような「文学」の中でいくら「政治的主張」を繰りかえそうと、もはや政治的な問いとはなりえないのだ(抵抗しないというあり方においてやはり政治性をもっているとはいえ)。実をいうと文学は、『こゝろ』から『蟹工船』まで、そのようにしてずっと敗北し続けてきた。だからまた性懲りもなく「悲喜劇」が繰りかえされているのは何故かしらと思わずにいられない(読んでないけど)。
 「普遍」という暴力に対する政治的抵抗が文学の次元において展開されうるとすれば、その抵抗は翻訳の形態をとるだろう。功利主義からとりあえず離れ、ふたつの言語の間に立ってみるならそのことは十分明らかと思われる。ただしその場合の翻訳とは日本語から英語への翻訳を指す。他言語からの正確で忠実な翻訳という試練を英語に課すことを通じて、その「普遍語」化に抵抗し続けなくてはならない(すでに別のエントリでも述べた)。
 逆に、ふたつの言語の間で考えることができないとき、人は必然的に「普遍語」対「国語」という、(文学的には)誤れる問題との戯れに溺れるほかなくなるのだといってもよい。アントワーヌ・ベルマンはこう述べている(『他者という試練』354 頁)。

〔…〕かくしてここではまさしく言語のかけ合わせが起こっていることになるのだが、ふたつの言語は、互いに混ざり合いつつ同時に紛れもない差異を顕わにしている。それぞれ異なるものとして、一方にフランス語、いま一方にラテン語がある。だがそのふたつの言語は翻訳という混血の空間で、そしておそらくは翻訳だけが存立させうる混血の空間において、それでもやはり互いに結ばれているのである。
 翻訳だけがというのは、翻訳以外の領域で生起するとき、こうした混淆が言語間の権力関係に高い確率で取り込まれてしまうのは明らかだからである(註)。〔…〕。ひるがえって翻訳の意義はといえば、それはむしろ根柢的な平等主義にある。

 (註 科学技術や外交といった領分を大きく越え出て増加の一途を辿る現代のテクスト、フランス語やスペイン語、ドイツ語等々で「作成」されてはいるものの、拙い英語の拙い翻訳としか見えぬ大量のテクストを考えてみれば十分である。それらテクストは英語を、それでも最高位の主人と仰ぎ、最終的に英語へ再翻訳されることを運命としているわけだが、これこそ「言語の混乱」、真の「災禍」であって〔…〕。あるひとつの言語がその支配的地位ゆえに他の全ての言語を覆い尽くし、「普遍言語」となるべく自らが変容してゆくことに承諾したが最後、全的な破壊が起こってしまうのだ。〔…〕)。

 英語の「普遍語」化に抵抗することこそ、マッチョになることなく、日本語の未来を拓く最善の方途であり、翻訳はそのためのきわめて政治的な実践である――このことが理解されるために、いったい何をすればよいのだろう?

 読んでもいない本のせいで(またしても)長文をものして疲れてしまったので、この辺りで休憩する。

           *

 ようやく思い出した、何を書こうとしていたか。
 ジョニー・ウィルキンソンがフランスのチームでプレーするかもしれない――そんなニュースに接して驚いたのだった。「イングランドの他のチームには行かない」と、「サッカー界のウィルキンソン」のようなことを言っていたわけだから、移籍があるとすればそれはドーバーの対岸だろうとは十分予測しうることではあったけれど、ウィルコ獲得を取り沙汰されるチームが、なんとラシング=メトロ。これには困った。そんなことになったらパリジャンのわたくしは日本に帰れなくなるぢゃん。

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2009年1月27日 (火)

「ヌーヴェルヴァーグの 50 年」(France 3)

 1959 年の『美しきセルジュ』から数えて 50 周年を迎えたヌーヴェルヴァーグを回顧すべく、クロード・シャブロル(監督、1930 年生)、ベルナデット・ラフォン(俳優、1938 年生)、ジャンヌ・モロー(俳優、1928 年生)、アンナ・カリーナ(俳優・監督、1940 年生)、アンドレ・ラバルト(監督・批評家、1931 年生)が招かれたこの日の Ce soir (ou jamais !) 。

 お喋りの内容に特筆すべきことはなかったが、みなさん達者だなと、その点に(最も素朴なレベルで)改めて感嘆させられた。シャブロルは数年前、『権力に酔い痴れて』(L'Ivresse du pouvoir, 2006)公開時に、主演のイザベル・ユペールとふたりでテレビ出演した際にもそうだったが、話し振りに老いはほとんど感じられない。 81 歳の J・モローの健在ぶりにはさらに驚く(これはただのレトリック。テレビでよく見かけるので今更驚きはしない)。顔が「汚い」にもかかわらず主役を張り、唯一無二の存在感で人を魅了するジャンヌ・モローと松田優作の登場には衝撃を受けたと言ったのは誰だったか――あ、思い出した、うちの母だ。

 しかし一番驚いたのは、実は久しく見たことのなかったカリーナ。驚いたというのはしかし、あまり健康そうには見えぬその老い方にではなく、『気狂いピエロ』から数えて 44 年も経つと、アンナ・カリーナとジャンヌ・モローとを区別するのにいささか苦労するという事実にである。少なくとも同じにようにしわがれてしまった声を聴き分けるのは困難だ(その分だけ、後者の才気煥発というべき話しぶりと、しばしばつっかえるカリーナの話しぶりとの対比がはっきりしたともいえる)。

 それにしても、ラフォンにせよ、モロー、カリーナにしろ、大写しにされるかつての映像――『美しきセルジュ』、『突然炎のごとく』、『気狂いピエロ』――を背後に従えつつ堂々と振舞っており、彼女たちの自意識はずいぶん健全なのだなと思った。それはもちろん葛藤はあったろうし、今もあるのだろうけれど(特にカリーナ?)、一般論として、フランスが日本より生き易い社会だとはそれでもいえるのではないか。老いたその姿形のまま世の中にいちおう受け入れられてはいるわけだから。わたくしなどはつい『失われた時を求めて』中の「ゲルマント大公夫人邸の朝の茶会」などを思い浮かべてしまったりするけれど、生身の人間に対しああした残酷な観察を行なう気にはさすがにならない。画面をぼんやり目で追いながら、「そうかあ、アンナカリーナの四十年後はこうなるのか」と、底は浅いが(M さん、笑うなよ)まったくの無意味というわけでもない感慨を抱くなどした。
 ちなみに、アンヌ・ヴィアゼムスキーの変わりよう――といっても、きわめて常識的な美人に落ち着いたということに過ぎないが――を見たときの衝撃は、そう、園丁となった愛新覚羅溥儀(『ラストエンペラー』)に対するのと同じ種類のものだった。

 そういえば、俳優で歌手(しかも同じ歌を歌う)でジャンヌという符合から、ジャンヌ・バリバールを「第二のモロー」に見立てる文章をどこかで読んだ。J・バリバール(1968年生)が米寿を迎える40年後かあ。これは想像しがたい。活動ということなら、舞台も含めて芝居を間違いなく続けているだろうし、他にたぶん小説を――フランス人はみんな書くんだよね――刊行してそこそこ売れていたりするのではないか。血筋でいえば、A・ヴィアゼムスキーとよい勝負だろう。

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2009年1月20日 (火)

雑談(1)

「氷の世界」などと大仰ないい方をしましたが、気温が氷点下マイナス 10 度の日は実際には二、三日のことで、それ以降は割に過ごしやすい日が続いています。
 それにしても、ラグビーがないとある意味「平和」ですねえ。うっかり週末のハイネケンカップ放映を見逃してしまったための無聊ということでもあるのですが、イスラエルの「ガザ侵攻」、要するにテロリズムでありジェノサイド――あるいはゲットーを対象としたホロコースト――にほかならぬ軍事行動がさしあたって停止されることになったのは何にしろよかった。もっとも、根本的解決には程遠く、というよりむしろ、いろんな人がいろんなことをいっているのですが、「真実」はどこにあるのか、何が根本的解決なのか、全然わかりませんね。むろん、真実がウェブ上に(even in English, you know)ごろりと転がっているわけもなく……。

 どちら様もお気づきにはならなかったと思うので自分からいってしまいますが、このブログは先月 27 日以来、秘かに「戦時態勢」を敷いてきました。シルヴィ・カスパールの朗読しかり、オリヴェイラの映画――ヴェネツィアとともにパレスチナが喚起される――、そして未来主義もまた然り。
 未来主義(とりわけマリネッティによる「宣言」)がいわゆる「戦争の美学化」を明示的に語った嚆矢というのは常識に属す事柄でもあるので、敢えて触れることはしなかったのですが、乱暴にまとめてしまうと、藝術が担うとされてきた道徳的また(広義の)哲学的「有用性」の否定ないし軽視が、半世紀ののちに、五感の満足の手段として、藝術の代わりに戦争へと行き着いてしまったというようなことです。

 タブローを中心に展開されたイタリアやフランスの未来主義藝術を補完するかのように、プルーストは登場人物の一人にこう語らせています、「ドイツ軍の空襲があればもはやヴァグナーは必要ない」と(『見出された時』)。戦争に直面し、映画ではなくヴァグナーの歌劇を引き合いに出すプルーストの感性が古いのか新しいのか、単純に決することは難しいけれど、ともかく彼が批判的に思い浮かべていたものを現代生活のうちに探すとすれば、それは要するに絵プラス音、すなわちテレビということになるでしょう。事実、湾岸戦争テレビ報道はマリネッティの「宣言」のある意味における正しさを立証することになりました。
〈戦争こそがわれわれの五感を満足させる〉というテーゼは、〈スペクタクルは戦争でなくてはならない〉という別のテーゼに容易にそして不断に反転する可能性がある。そのゆえにこそ(と強引に論を進めることが許されるなら)、〈戦争のスペクタクル化〉の装置たるテレビ、とりわけそのスポーツ中継に注目しなければなりません。現代のスペクタクルがその本質からして平面的なものであるとするならば、いかにしてそこに空間性を回復させるかということが問題となるでしょう。
(しかし同時に次のような疑問が湧いてきます。スタジアムでのナマの観戦もつねにすでに「平面」によって媒介されているのではないか? 立体を平面に閉じ込める原理をひとまずキュビスムと呼ぶならば、キュビスト彫刻とはそれでは一体何だろう? パソコン画面で「見る」名画はタブローなのか? などなど。)

 鏡は魔法によって過去を映し出すとオリヴェイラはいっています。鏡とは何の謂いか、よくわからないところもあるのですが、つねに現在的とされるテレビや映画における時間を考えるにあたって、彼の作品は大切なことを示唆しているように思われます。

 夏目漱石の『薤露行』(1905 年)は『アーサー王物語』の翻案――

 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如くギニヴィアは車夫の情婦のような感じがあるこの一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似がしたくなるからやめた。
 〔漱石による端書。太字の部分は特に意味はないけれど、何だか面白いので。〕

――として知られますが、鏡についての印象深い一節をそこに読むことができます(第二章「鏡」)。

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。
 春恋し、春恋しと囀ずる鳥の数々に、耳側てて木の葉隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
 〔…〕
 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳けよりて思うさま鏡の外なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦めば山に遯るる心安さもあるべし。鏡の裏〔うち〕なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛らさはあらず。〔…〕かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑の霧を含みて、芙蓉に滴たる音を聴くとき、対える人の身の上に危うき事あり。〔…〕
 〔…〕
 鏡の中なる遠柳の枝が風に靡いて動く間に、忽ち銀の光がさして、熱き埃りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘う鷲の如くに、影とは知りながら瞬きもせず鏡の裏を見詰る。十丁にして尽きた柳の木立を風の如くに駈け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼の鎧に満身の日光を浴びて、同じ兜の鉢金よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみさんさんと靡かしている。〔…〕女は息を凝らして眼を据える。
 曲がれる堤に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾を懸けたり。女は領を延ばして盾に描ける模様を確と見分けようとする体であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭を抛げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜の廂の下より耀く眼を放って、シャロットの高き台を見上げる。爛々たる騎士の眼と、針を束ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍に馳け寄って蒼き顔を半ば世の中に突き出す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
 ぴちりと音がして皓々たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉微塵になって室の中に飛ぶ。七巻八巻織りかけたる布帛はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。〔…〕「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期の呪を負うて北の方へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分を受けたる如く、五色の糸と氷を欺く砕片の乱るる中にどうと仆れる。

〔引用は青空文庫のものを使用させていただきました。ふりがなは原則的に省略、また表示できない漢字はひらがなで置き換えてあります。〕

 ルビがないと読みにくい漢字が多いなあ――っていうか首相の麻生は、「漢字力を巡って民主党と質疑」してるんぢゃねえ! 他にやることがいくらでもあるでしょうが。

 とにかく、ランスロ(ット)の眼力はすさまじかったわけですが、では現代において四角四面の「鏡」を割るのは誰か(あるいは何か)、そういう問題が浮上してくるように思われます。もちろん、タイガースが負けるとテレビを破壊してしまう阪神ファンは除いて。

 大衆の時代の到来を十分に意識しつつ制作された未来主義絵画が特権的主題のひとつとして選んだラグビー、「テストマッチは戦争だ」といわれるのとは少し違った意味においてもまた、そして結局のところ本質的に、ラグビーとは戦争なのではないか――そのようなことを考えつつ、二月から始まるシックス・ネーションズを楽しみに待っています。

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2009年1月14日 (水)

「現実が来週から始まる」

 フレデリック・タデイ(Frédéric Taddeï)の司会によるフランス 3のライブ討論番組 Ce soir (ou jamais !) 、14 日は"L'État de notre monde, face à face avec Paul Auster"と題して、歴史家ピエール・ロザンヴァロンと哲学者ベルナール・スティグレール、シャンタル・デルソル、ミシェル・オンフレの四人に、途中からポール・オースターが加わる構成だった。

 なぜこのメンバーなのかと疑問に感ずる向きもあるかもしれない。どうせならエマニュエル・トッドとマイケル・ハートでも呼べばよいのにとか。まあこの番組はそういうタイムリーなゲストを売りにするものではないし、イスラエルの今回の犯罪的軍事行動が起こる前からおそらくすでに出演者は決まっていたのだろう(そもそもイスラエルのテロリズム・ジェノサイドは今回が初めてではない)。一般論として、「外」の出来事に敢えて触れない――それでもオンフレは、彼だけは「ガザ」の名を口にした――というのもひとつの見識ではあるし、それに、大統領がじきじきに調停を呼びかけたことからも明らかなように、フランスの「民意」はすでに固まっており、今更喧々囂々の議論が要請されているわけでもない(それが必要なのは例えば日ノ本だろう)。街頭デモも連日行なわれている。サルコジの行動は実を結ばなかったが、それは彼個人の能力不足ではなく、ただイスラエル国がアメリカ合衆国の出張所である以上、EU による介入の失敗はほとんど必定だったというだけのことにすぎまい。

 石油利権といういい方があるけれども、中東の石油資源を必要としているのは(自分のところで調達できる)アメリカではなく、ヨーロッパそして日本だという説があって、それが事実だとしてもしかし、今のような形で供給される必要はおそらくない。結局、どこかに、世界を現状のままとどめおきたい勢力があり、その意向に沿う形で物事が動いているということなのだろう。

 ポール・オステールはフランスとはもともと関係の深い人であり、作品もよく読まれている。この日の出演がどのような経緯で決まったのか正確なところは知らないけれど、「ユダヤ系」である彼を吊し上げるということではもちろんなく、要するに新作の宣伝だろうと思う(出演者のトークの最中に時折、画面を分割して右半分で近著が紹介される)。いずれにせよ、彼の登場を契機として、話題はオバマ体制に移る。出演者は(アメリカ人作家も含め)みなバラク・オバマへの期待をそれぞれ――たとえばロザンヴァロンがシンボリックな水準での変化を指摘し、スティグレールがそれに同調するなど――口にした。フランスが子ブッシュに恥をかかされ、煮え湯を飲まされたのは確かなので、とりあえず「あいつ以外なら誰でもいいや」というところはあるだろうが、本当に「変化」は起こるのかね。I doubt...  I doubt, I'm afraid.

 締めくくりのオースターの言葉:

昨年九月から今年の一月二十日までというのはわれわれにとってひとつの幻想―― fantaisie と言ったのを司会者が fantasme と訂正する――の物語です現実が来週から始まります(la réalité commence la semaine prochaine)。

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2009年1月10日 (土)

マノエル・ド・オリヴェイラ『魔法の鏡』

 魔鏡、映るはずのないものが映ってしまう魔法の鏡――。クリスマスにまことに相応しい映画が封切られた。先月百回目の誕生日を迎えたマノエル・ド・オリヴェイラの『魔法の鏡』(Espelho Mágico, 2005)である。
 聖母、というよりむしろ聖処女マリアの降臨を願い続け、ついにはその熱望に憑かれ倒れてしまうアルフレーダ夫人(レオノール・シルヴェイラ)。成熟し充実しきった肉体を美しく豪奢に着飾っても満たされることはなく、地に足は着かず、心もここにあらぬ日々を送る彼女の狂気とオブセッションを解放すべく、ルシアーノ(リカルド・トレパ)は友人(ルイシュ・ミゲル・シントラ)と図って偽のマリアの降臨を画策する。偽マリアに扮するアブリル役のレオノール・バルダックを含め、いわゆる「ドリヴェイラ組」といってよいだろう彼らの――動機の点でも手段においてもきわめて現世的・世俗的な――企みが実行に移される前に、しかしレオノールシルヴェイラ(この人も「オリヴェイラ組」)は見てしまう、顕現するはずのないものを。

「マジコ」であろうとなかろうと、古来鏡というものは魔術的な力を備えるとされ、藝術的想像力を豊かな仕方で刺戟してきたのだった。しかしながら鏡の世界が原則として現実界との対立において価値を与えられてきた――鏡の世界からの現実への侵犯でさえこの二項対立に依拠している――ことも忘れてはならないだろう。
 映画の最初からこれみよがしに登場する鏡の数々にもかかわらず、本作品において、顕現が起こるのは鏡の外である。物語の終盤、前置きなしにベッドに臥せた状態で登場するレオノール・シルヴェイラを囲む人々の話から、われわれは彼女が白昼の庭園で突然倒れたことを知る。顕現は現実に起こりうると、つまりタイトルとして選ばれた「魔鏡」は実は現実界そのものを指すのだと、オリヴェイラはいいたいかのようだ。事実、鏡が登場するシークエンスの多くは、スクリーンに映し出されているのが現実なのか鏡像なのか、よく注意しなければ判別がつかないような仕方で設計されている。
 季節は夏だが、レナート・ベルタのキャメラが捉える光はどこまでも柔らかく穏やかである。しかし同時に何かがそこから突如現れ出ても決して不思議でないように思われてもくる。たとえば、あくまで人間的な動機に基づいて行動する男ふたりが戸外で偽マリア降臨の計画を話し合う場面。夕陽と空に残る青とによって息を呑むほど美しいグラデーションに染め上げられた一点の曇りもない西方を背にする二人の姿は、逆光ゆえにまったきシルエットとなってしまう。色を奪われたのではない。彼らはまさに黒い翳りとして顕れ出たのである――そうとでも考えて、もうひとつの奇蹟を対置しなければ気が狂ってしまいそうになるまさに奇蹟のようなショット。これは必見である。
 あるいはまた、寝たきりになったアルフレーダが「見る」回想のヴェネツィアやパレスチナ
。虚空を仰ぎ見るほかない彼女が力なく上方に馳せる視線と同じ角度、同じ弱々しさで、キャメラは水都をわれわれに顕現させる。大島渚監督の『御法度』の細かく震えるキャメラ(栗田豊道)にも似たような衰弊を感じたことが思い出されてくる。いわば死を翳されたこのキャメラの弱々しさは、監督の高齢とは関係のない、きわめて高度な藝術的達成なのである。
 カトリック文化圏にふさわしく降臨を切望されるのはマリアであるけれども、いずれにせよ奇蹟はある、そこかしこに、鏡の外、そして結局は至るところに。あるいは、同じことだが、この世界は、この世界こそが「魔法の鏡」にほかならない。

         *

 明らかにキリスト教信仰の踏まえられた物語には、たんに形式的に解釈したり、換骨奪胎して読み換えたりするだけでは済まない何かがあるはずで、そうすると、信仰をもたぬ人間(例えばわたくし)に本当の意味で理解できるのかということが問題――ただし原理的に答えを出すのが不可能な問題――となるだろう。
 また、やはりポルトガルはヨーロッパなのだなと改めて思わざるをえない。当たり前のことではあるけれど、フランスなどでは十九世紀初頭くらいまで、ピレネー以南はすでにアフリカと半ば以上真面目に考えられていた事実がある(抜きがたい差別意識は決して免罪されぬにしろ、イベリア半島がイスラム圏となっていたのは歴史的事実である)。オリヴェイラの近作『クリストファー・コロンブス』など、ヨーロッパはポルトガルに始ま(りアメリカに終わ)るといわんばかりの構成だった。
 物語へのこうした信仰はヨーロッパのある種の古さ――プレモダンなのかポストモダンなのかはひとまず措いて――が可能にするものでもあるだろう。たとえばクリント・イーストウッドの『スペース・カウボーイズ』。航空宇宙局を退職して牧師となった「タンク」(ジェームズ・ガーナー)はしかし、自身の教会での説教を、アンチョコ・メモを用意してなお、うまくこなすことができない。ある日曜、聴衆のうちに「フランク」(イーストウッド)を認めた瞬間、タンクは気づいてしまうのだ、自分にはもはや信ずべき物語も信ずるに足る物語もないということに。かつて宇宙を目指した「チーム・デイダラス」のそれを除いては。彼はメモにもはや頼ることなく語りだす、once upon a time、そして物語が始まる…。だがそこで始まるのは、昔話ではなく、老いた自分が宇宙を目指して再び特訓を受けることになる夢のような現在についての映画なのである。イーストウッドがアメリカの映画作家以外ではありえないことを雄弁に物語るこの映画は、たとえば旧ユーゴスラビアのエミール・クストリッツァの作品、「昔々…」という台詞で締めくくられる『アンダーグラウンド』と比較すれば面白いかもしれない。

         *

 物語のひとつのテーマとして、贅沢を好む人間に聖処女が降臨するかという神学的(といってよいのだろうか?)問題が持ち出されていたこと、そしてアルフレーダ自身のそうした疑問に対し、「マリアは金持ちだった」と請合って彼女を勇気づけるイギリス人専門家にミシェル・ピコリが扮していたことをいい添えておく。一座がみなポルトガル語で話すなか、一人だけ英語で話しているのに何故か会話が成り立ってしまうという点も含め、いかがわしさ全開のピコリ。物語の途中から詳しい説明もなく故人として語られるようになるのが何だか可笑しい。可笑しくはあるのだが、天使のようなものが現実にいるとすれば、それはおそらく例えばこの映画のミシェル・ピコリのように、いかがわしく、また可笑しな存在(ならぬ存在)なのではないかという気がした。
 今作は台詞が多く、宗教を主題としていることとも
関係はあるのだろうけれど、会話字幕についていけない場面がしばしばあった。内容については誤解しているところもあるに違いない。その意味でも再見する必要がありそうだ。

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2009年1月 8日 (木)

「パリの未来主義」展(於ポンピドゥ・センター)

 大晦日と元旦は例年のように牡蠣とポルトガルの「緑の葡萄酒」をいただいた。ヴィーニョ・ヴェルデはポルトガル旅行の際に「発見」したものだが、パリでも買うことができる。ポルトガルにもなかなか行くことができないので、思いを、思いだけを馳せつつ、微かな発泡を時折楽しむことにしている。牡蠣は世界的経済危機に便乗してか値上がりしていたが、やはり旨かった。旨かった。

 チーズについては最近は新しい銘柄を探すことはなくなっている。単純に飽きてきたからである。だからだいたいのところ、クロタンかサン=フェリシアンという塩味のきつくない種類か、塩味のきついロックフォールかブルー・デ・コッスを食べるという感じに落ち着いている。
 あるレストランで食べた「ガトー・オ・スムール」を家で再現しようとしたのだが、どうやって固めたらよいか一秒ほど考えて「あ、やっぱ無理」と諦め、蒸してバターと蜂蜜で和えたスムールに干し葡萄などを混ぜてそのままスプーンで喰らうという、何とも名づけようのない菓子をでっちあげてみた。最近はそれがお気に入りだ。スパゲティを胡麻油と焼きそばソースで和えて軽く炒める、名づけて〈イタリア風焼きそば〉と並ぶ「三大発明」なのではないかとひそかに自負している。

         *

 今パリは最高気温が氷点下というまさに「氷の世界」になっていて、出不精のわたくしさえも、暖を求めて図書館や、美術館、映画館に通う毎日である。

 ポンピドゥで「パリの未来主義」展。昔から展覧会へ行くと腰が痛くなる。たぶん姿勢が悪いのだろうけれど、今回も疲れた。展覧会自体はまあよかったのだが、詳しいことはここにはとりあえず書かない。未来派についての研究を細かくフォローしているわけではないので、単なる印象としていえば、ピカビアのキュビスム絵画は何だか変だった。セザンヌ以来のとひとまずいえるだろう「キューブ」の原理を理解していないのか、理解したうえで抵抗しているのか、あるいは単純に習熟の度合いが低く、いわば「理に落ちた」仕上がりとなってしまっているのか、よくわからない。

 興味深い発見は、ラグビーを題材とした絵画があったこと。
 アルベール・グレーズの「フットボール・プレーヤーたち」(Albert Gleizes, Les Joueurs de football, 1912-1913)は現在、米国立美術館(ワシントン・DC)に所蔵されているものだが、カタログの解説にはこうある(訳すのが面倒だから、とりあえず原文だけで勘弁してください)。

Les Joueurs de football sont à cet égard une œuvre d'autant plus importante qu'elle s'empare d'un thème parmi les plus fertiles du moment. En effet, le rugby -- qui porte encore pour nom "foot-ball" -- est alors un sport particulièrement plébiscité par les artistes, comme en témoignent les singuliers Joueurs de football (1908, Solomon R. Guggenheim Museum, New York) du Douanier Rousseau ou la fameuse Équipe de Cardiff... (1912-1913, cat. no 60) que Delaunay expose au même Salon des indépendants de 1913. Aussi la représentation du rugby ne relève-t-elle pas de la pure fantaisie badine mais bien plus du désir stratégique d'investir une imagerie moderne et polulaire, fédératrice et efficace. Présidée par un effort certain de lisibilité, la toile figure plusieurs personnages en mouvement distribués selon différents plans qui, malgré la remarquable décomposition prismatique, sont une concession expresse à la perspective traditionnelle. Vêtus de maillots bariolés, les rugbymen sont nettement individualisés. L'un d'eux, au centre, s'échappe avec le ballon ovale, seul élément désigné par Gleizes pour expliciter le sport représenté. [Colin Lemoine, Notice pour A. Gleizes, Les Joueurs de football (cat. no 59), Le Futurisme à Paris, catalogue d'exposition, Paris : Centre Pompidou/Milan : 5 Continents, 2008, p. 198]

 ロベール・ドローネーはラグビーを題材とした作品を複数残しているが、1913 年の「アンデパンダン展」に揃って出品されたグレーズの上記作品と並んでこの「カーディフのチーム」(Robert Delaunay, L'Équipe de Cardiff (3e représentation), 1912-1913)が今回展示された(この絵画は見たことがあった)。出展されなかった他のタブロー二点ともども絵葉書を購入したので写真に撮ってみる。Delaunay_cardiff_2

 ドローネーはどこでゲームを見たのだろうか。この時期フランス代表はウェールズ代表に負け続けたが、たとえば 1913 年 2 月にはパルク・デ・プランス(パリ)で 8-11(トライ数 2-3)で惜敗している。それともこれはやはり Cardiff R.F.C. のことなのだろうか。

 キュビスム(ただしドローネーはそこから少し区別される)が視点の複数化によって特徴づけられるとすれば、大きなフィールドのここかしこで複数の出来事が同時多発するフットボールやクリケット、野球などが対象となりうることは容易に理解できる。同時に、未来主義的な傾向に沿う形で、運動(mouvement)の表現が追求されていたこととももむろん関連があるだろう。この時代は他に例えば「空の征服」――飛行機に代表される――を課題としてもいたので、ハイパントやラインアウトなど、プレー空間の上方への拡張を特色とするリュグビーは、スポーツのなかでもうってつけのキュビスム的主題となっていたわけである。

 すでにどこかで書いたことだが、フィールドは縦方向にも(dans l'axe)横方向にも(au large)可変的なものである。タッチラインを踏み越えることなく空間の可能性を横に、縦に、そして上方に向かって開発すること、それがあらゆるラグビー・プレーヤーに課せられた使命――勝利は義務ないし課題にすぎない――である。

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サリンジャー『九つの物語』(エズメ)

 世界には四種類の人間がいる。サリンジャーを知らない人、サリンジャーに興味のない人、『フラニーとゾーイー』が好きな人、『ライ麦畑でつかまえて』が好きな人、そして『ナイン・ストーリーズ』が好きな人である。
 わたくしはおそらく最後のカテゴリーに入るのだろうと思う。『ナイン・ストーリーズ』には確かに愛着を感じている。『ライ麦…』や『フラニー…』はといえば、どうでもよいとまではいわないけれど、特に入れ込んで読んだ経験はない。

 サリンジャー(Jerome David Salinger)作品が描くのは、大雑把にいうなら、子供の世界と大人の世界の接触ということになるだろう。接触することで子供たちはある種の残酷さを体験することになる――いや、これは大人の身勝手な物言いにすぎず、子供たちがそうした経験を「残酷」と捉えているかどうかは決して自明のことではない。とにかく子供たちは大人たちの世界に触れ、彼ら自身のやり方でそれを理解しようとし、さらに何らかのリアクションを行なおうとする。もっとも、子供たちが本当のところ何を考えているか、たいていの場合わからない。彼らの心理がそのものとして記述されるわけではないからだ。しかし、だからといって、彼らが何も考えていないということにはならない。子供たちの言動は、その「背後」に何ものかの存在を確かに想定させはするのだが、同時にまた、アクションそれ自体によって――陰を翳すように――その何ものかを見えなくしてしまう。このいわば翳りとしてのアクションが、サリンジャー作品に独特の雰囲気を与えているようにわたくしには思われる。
 このことは、子供の世界から大人の世界に移行をひとまず果たしたはずの人物についてもおそらくは当てはまるだろう。ただし彼らは大人としてすでに言葉をもっており、それゆえ彼らについての描写には、「内面」と行動のずれという別の次元が付け加わることになる(ただし言葉を獲得することによって「翳り」が失われてしまうわけではない)。

 柴田元幸さんが『ナイン・ストーリーズ』の全訳を刊行された。昨年秋のことである。読まなければと思いつつ、まだ入手するには至っていない。理由はいくつも挙げられるけれど、ひとつにはこの短篇集によってわたくしの中で喚起されるイメージがそれなりの仕方で確固たるものになってしまっており、今回の柴田先生の訳が喚起するイメージとそれが大きく異なっていた場合、きっとショックを受けるだろうから、ということがある。ほとんどフェティシズムといってよいが、原書で読んだ英語の小説としては二番目という、わたくしの「フィジカル・グラフィティ」史上の最初期に読んだものであるだけに、思い入れがそれなりに強くなるのは避けがたい。
 ちなみにその後、英語ではグレアム・グリーンの『情事の終わり』、そしてチェスタトンの『正統とは何か』というような順番で確か原文に挑戦したと記憶する。もっとちゃんとした古典を読みなさい――とお叱りを受けそうだが、シェークスピアはいうまでもなく、十九世紀の英語でさえ、初学者(ワタクシはいちおう仏文科出身)がいきなり取り掛かるには手強い。手強い。モダニズムの地平で書かれた小説なども然り。――あ、それでもポーは読んだ。そしてやはり難しかった。

 何がいいたいかというと、要するに柴田訳『九つの物語』を読むのがいろいろな意味で怖いと、そういうことである。読む前なら蛮勇を奮って何でもいえてしまう(と錯覚することが可能な)ので、こうしてうだうだ書いているわけです。サリンジャーの文章には、胸を締め付けられるような感じ、甘酸っぱい印象、だが同時に、ほろ苦さと、そして決して晴れることのない翳りがある――とか何とか。
 集中、わたくしが最も愛着をもっているのは「エズメのために 愛と汚辱を込めて」(For Esmé - with Love and Squalor, 1950)だが、この短篇はおそらく一般的にいっても、「笑い男」(The Laughing Man, 1949)などと並んで人気のとりわけ高いものではないだろうか。いずれにせよとてもチャーミングな小説である。そう、喩えていえば笠辺哲の漫画のように。
 そうしたチャームをいっそう強めているに違いないのが主人公のアメリカ人と出会うイギリス人少女である。その名 Esmé は、当てずっぽうでいうと Esmeralda の短縮形。Manet や Courbet、あるいは Sunny Adé といった名前がそうであるように、英語ではこうした外国語(風)固有名詞の最後の音節は ay (エイ)と発音されるはずだが、カタカナだと結局エズメが妥当なところか。

 About the time their tea was brought, the choir member caught me staring over at her party.  She stared back at me, with those house-counting eyes of hers, then, abruptly, gave me a small, qualified smile.  It was oddly radiant, as certain small, qualified smiles sometimes are.  I smiled back, much less radiantly, keeping my upper lip down over a coal-black G.I. temporary filling showing between two of my front teeth.  The next thing I knew, the young lady was standing, with enviable poise, beside my table. She was wearing a tartan dress--a Campbell tartan, I believe.  It seemed to me to be a wonderful dress for a very young girl to be wearing on a rainy, rainy day.  "I thought Americans despised tea," she said.
 It wasn't the observation of a smart aleck but that of a truth-lover or a statistics-lover. I replied that some of  us never drank anything but tea. I asked her if she'd care to join me.
 [For Esmé - with Love and Squalor, For Esmé - with Love and Squalor and other stories, Penguin Books, 1990, p. 102]

 直前に立ち寄った教会で見かけた聖歌隊の一人であるその少女(十三歳くらい)が弟と家庭教師役の女性と連れ立って喫茶店に入ってくる。彼らは主人公の近くのテーブルに腰を落ち着けるのだが、互いに相手を認め、しばらく無言で微笑を送り合っていると、突然、少女が自分のところにやってきた、そういう場面である。原文では、読まれるとおり、「気づいたときにはすでに隣に立っていた」というレトリックによって、主人公の驚き(ほんの一瞬のことであるにせよ)が表されている。少し前の文中に "abruptly" とあるけれども、それ以上に本当の意味で「不意」の出来事は、実のところ、少女の方が積極的に大人の世界に身体的・物理的に接触してきたことなのである。それはまた主人公の願望でもあったろう。だから驚きと悦びを示唆する "The next thing I knew, the young lady was standing..." という構文自体に意味があり、そしてそれは最大限に尊重されなくてはならないはずである。フランス語版ではどのようになっているだろうか。

 Au moment où on leur apportait le thé, la petite choriste surprit le regard que je posais sur leur groupe. Elle me regarda attentivement à son tour, avec ses yeux à inventaire, puis, soudain, me gratifia d'un petit sourire de politesse. Il était presque radieux, comme le sont parfois les petits sourires de politesse. Je le lui rendis, en beaucoup moins redieux ; je devais cacher avec ma lèvre supérieure le mastic noir du pansement de G.I. qui sparait mes deux dents de devant. Avant que je m'en fusse rendu compte, la demoiselle se tenait debout près de ma table, avec une assurance que beaucoup auraient enviée. Elle portait une robe écossaise -- le tartan des Campbell, je crois -- que je trouvais faite à merveille pour être portée par une toute jeune fille, un jour très, très pluvieux.
 -- Je pensais que les Américains détestaient le thé, dit-elle.
 Ce n'était pas l'observation d'une je-sais-tout, ais plutôt d'une personne qui aimait l'exactitude ou les statistiques. Je répondis que certains de mes compatriotes ne buvaient jamais rien d'autre. Je lui demandai si elle accepterait de partager ma table.
 [Nouvelles, traduites de l'américain par Jean-Baptiste Rossi, Robert Laffont-Pocket, 1961, 2008, p. 147-148]

 これだとやや説明的にすぎるのではないか? 上で触れたような "soudain" との(内的な)関連も見えにくくなっているように思う。"a truth-lover or a statistics-lover" なども、説明的に訳されてしまっているけれど、こちらはまあ仕方ないかもしれない。ここでは少女が生真面目な人である点は少なくとも伝わってはいる。他方、"never drank anything but tea" は、原文では語り手によって間接的に伝えられるという間接話法の形になってはいるけれども、主人公は実際に "anything but tea" と発言したに違いないので(だからこそイタリックになっている)、やはりイタリックによる強調はあった方がよいのではないだろうか。表現自体をどうするかは悩ましいが "ne buvaient jamais que le thé" でもべつだん問題はなさそうに思う。

 一瞬の驚きのあと、主人公は平静を(少なくとも表面上は)取り戻す。彼は基本的にシニカルで、やや意地の悪い観察をエズメに対して行なうのだが、そうした意地の悪さが言葉として発せられるのは一度きりである。

 Esmé gave me a long, faintly clinical look. "You have a dry sense of humour, haven't you?" she said--wistfully. "Father said I have no sense of humour at all. He said I was unequipped to meet life because I have no sense of humour."
 [...]
 "Charles misses him [their deceased father] exceedingly," Esmé said, after a moment. "He was an exceedingly lovable man. He was extremely handsome, too. Not that one's appearance matters greatly, but he was. He had terribly penetrating eyes, for a man who was intransically kind."
 I nodded. I said I imagined her father had had quite an extraordinary vocabulary.
 "Oh, yes; quite," said Esmé. "He was an archivist--amateur, of course." [Ibid., p. 108-109]

 Esmé m'enveloppa d'un long regard clinique.
 -- Vous avez un grand sens de l'humour, n'est-ce pas ? dit-elle, l'air malin. Père disait que je manque totalement d'humour. Il disait que j'étais mal armée pour affronter la vie, parce que je n'ai pas le sens de l'humour.
 [...]
 -- Père manque excessivement à Charles, dit Esmé après un instant. C'était un homme excessivement aimable. Il était extrêmement beau aussi. Non que l'apparence physique m'importe beaucoup, mais c'est un fait. Pour un homme foncièrement bon, il avait un esprit terriblement pénétrant.
 J'acquiesçai. Je dis que son père devait avoir, du moins je l'imaginais, un vocabulaire extraordinairement étendu.
 -- Oh oui, très, dit Esmé. C'était un archiviste... Amateur, bien sûr. [Ibid., p. 154-155]

 "-ly" という形式の副詞には、多くの場合、ほぼ同じ意味をなす前置詞句(前置詞+名詞)が用意されていて、「ふつう」の英語作法では、これほど連続的に "-ly" だけが連発されることはない。そうしたやや奇異に響く話し方はフランス語訳でも概ね正確に処理されているといってよい。だが、原文の "extraordinary" という形容詞を "extraordinairement" という副詞に変えるのは少々やり過ぎに思われる。亡父を強く慕うエズメは、「お父さんは並外れた語彙をもっていらっしゃったんだろうと想像するよ」という皮肉めいた言葉を文字通りに、そして肯定的な評言として受け取ってしまう。エズメの年齢からして皮肉がたんに通じなかったと解釈することも不可能ではないだろう。しかし、原書で主人公が "-ly" を使わなかったある種の優しさ――その迂遠な(ほとんどイギリス的な?)やり方のせいで皮肉は不発に終わる――が、 "-ment" を用いることによって消されてしまい、明白な皮肉と、それが通じない愚鈍さという対比に置き換わってしまっている。エズメは全篇を通してむしろ利発な人として描かれていることともそぐわない。要するに、この訳では「愛」が消えてしまうのである。この小説の主題が(「汚辱」以上に)「愛」である点を強調しておきたい。
(ただし、この一文は間接話法なので、実際の発話がどうだったかは推測するほかない。たとえ実際に主人公が(仏訳者が考えたであろうように)あからさまな皮肉を口にしていたのだとしても、語り手は "extraordinarily" とは少なくともいっていない。大切なのはその点だ。)

 ユーモアのセンスをもち合わせていないと自認する少女は、作家志望の主人公に、唐突にひとつの願いを表明する。

 "My father wrote beautifully," Esmé interrupted.  "I'm saving a number of his letters for posterity."
 I said that sounded like a good idea. [...].
 She looked down at her wrist solemnnly.  "Yes, it did," she said.  "He gave it to me just before Charles and I were evacuated."  Self-consciously, she took her hands off the table, saying, "Purely as a memento, of course."  She guided the conversation in a different direction.  "I'd be extremely flattered if you'd write a story exclusively for me some time.  I'm an avid reader."
 I told her I certainly would, if I could.  I said that I wasn't terribly prolific.
 "It doesn't have to be terribly prolific!  Just so that it isn't childish and silly."  She reflected.  "I prefer stories about squalor."
 "About what?"  I said, leaning forward.
 "Squalor.  I'm extremely interested in squalor."
 I was about to press her for more details, but I felt Charles pinching me, hard, on my arm. [Ibid., p. 110-111]


 -- Mon père écrivait joliment, coupa Esmé. Je garde un certain nombre de ses lettres pour la postérité.
 Je dis que ça me semblait une excellente idée. [...].
 Elle regarda son poignet d'un air grave :
 -- Oui, elle était à lui, dit-elle. Il me l'a donnée, juste avant que Charles et moi soyons évacués.
 Un peu gênée, elle retira ses mains de la table, ajoutant :
 -- Il me l'avait prêtée seulement, bien sûr.
 Elle changea de conversation :
 -- Je serais extrêmement flattée si vous vouliez écrire, un jour, une histoire rien que pour moi. Je dévore les livres.
 Je lui dis que je le ferais certainement, si je pouvais. Je dis que je n'étais pas un auteur très fécond.
 -- Ça n'a pas besoin d'être terriblement long ! Du moment que ce n'est ni bête ni puéril.
 Elle réfléchit.
 -- Ce que je préfère, c'est les histoires sur l'abjection.
 -- Sur quoi ? dis-je, me penchant en avant.
 -- L'abjection. Je suis extrêmement intéressée par l'abjection.
 J'étais sur le point de lui demander de plus amples détails, mais Charles me pinça le bras un bon coup. [Ibid., p. 156-157]

 「私が好きなのは汚辱についての話」。エズメはあくまで生真面目である。彼女の言動が「出し抜け」と見えるのは、子供の世界の論理が大人の世界のそれとは異なっているからだろう。事実、「汚辱」がどういうものか確かめることができぬまま主人公はエズメと分かれることになるのだし、物語の後半にはなるほど戦場の様子が出てくるけれども、それがエズメのいう squalor にあたるかどうか、読者にもやはり判断はつかないのである。
 ちなみに「汚辱」という訳語自体、問題となりうるが、主人公にも、そして言い出した本人にもおそらくはよくわかっていないので、曖昧さの残る訳語が結局のところ「正確」ということになるだろう。エズメがいいたかったのは、例えば「愛」の物語より「汚辱」の物語の方が好みだ(prefer は比較を示す)ということだが、語り手は敢えて主題を、squalor ではなくむしろ love としている。タイトルが love and squalor という順序になっているのもそのことを示唆しているのではないだろうか。
 とはいえ、本篇が結婚するエズメに捧げられたオマージュであることそれ自体は「エズメのために」というタイトルからしてすでに明らかではある。「汚辱」についての物語を書いてくれといわれて主人公は「身を乗り出す」、つまり今度は大人の方から思わず少女の世界に接触しようとする。この模倣の身ぶりがまずは素晴らしいのだが、同時に、テクスト全体がそもそも彼女の言葉遣いを模倣しようとしており、われわれはその点に感動しないわけにはいかない。そのことは実は第一段落において予告されていた。

 Just recently, by air mail, I received an invitation to a wedding that will take place in England on April 18th.  It happens to be a wedding I'd give a lot to be able to get to, and when the invitation first arrived, I thought it might just be possible for me to make the trip abroad, by plane, expenses be hanged.  However, I've since discussed the matter rather extensively with my wife, a breathtakingly level-headed girl, and we've decided against it--for one thing, I'd completely forgotten that my mother-in-law is looking forward to spending the last two weeks in April with us. I really don't get to see Mother Grencher terribly often, and she's not getting any younger.  She's fifty-eight. (As she'd be the first to admit.) [Ibid., p. 97]

 Il y a quelques jours, j'ai reçu par avion une invitation à un mariage qui doit avoir lieu en Angleterre le 18 avril. Ce mariage, je donnerais gros pour y assister, et quand l'invitation est arrivée, j'ai d'abord pensé que je pourrais faire la traversée d'un coup d'aile, au diable l'avarice ! Et puis, j'ai tourné et retourné le projet sur toutes les coutures avec ma femme, une fille d'un équilibre à vous couper le souffle, et en définitive nous nous sommes prononcés contre. Une des raisons essentielles, c'est que j'avais complètement oublié que ma belle-mère se faisait une joie de passer avec nous les deux dernières semaines d'avril. Je n'ai pas si souvent l'occasion de voir maman Grencher, et elle ne rajeunit pas. Elle a cinquante-huit ans (c'est du moins l'âge qu'elle supporte qu'on lui donne). [Ibid., p. 141]

 段落全文、ペンギン版で 13 行(ちなみに仏語ポケット版では 16 行)の中に "-ly" という副詞が実に六度も出てくる。たぶんこれは意識的にそう書かれているのであり、第一文の最初の表現からしてすでにオマージュであることをあからさまに誇示するものとなっている。翻訳の方は、残念ながらそのようになってはいない。きわめて英語的な "breathtakingly" に対する "à vous couper le souffle" など、他に仕方もあるまいとは思うけれど(それが妻を形容する言葉であることの意味はここでは考えない)、これではただの「意訳」である。とにかく、最初の表現はやはり  "Juste récemment" でなくてはならない。

 要するに、この短篇全体がエズメに対するひとつの餞となっていることをテクストの水準で示すのが、やや過剰にちりばめられた "-ly" という副詞なのだから、翻訳においてもその言葉遣いはできるかぎり再現される必要があるだろうということになる。
 フランス文学が伝統的に重きを置いてきた散文形式は le roman すなわち「筋のある長めの物語」という意味での長篇小説だった。それ自体として固有の性質をもつ形式としての短篇小説(la nouvelle)はさほど重視されてこず、だからこの『サリンジャー短篇集』も単に相対的に短い話(le conte)として受け取られ訳された可能性はある。

 細かい点をついでに指摘しておくと、「航空便で」届けられた招待状に対するリアクションとして「航空機で」イングランドに渡ろうかという話なのだから――つまりふたつの世界の接近・接触のひとつの様態が問題になっているのだから――、表現の水準でも対句となるようにすべきではなかっただろうか。

 また、戦場の場面、小説の主題とは関係ない表現レベルでの事柄として、新潮文庫版日本語訳を読んだときに気になったのは次のようなところである(本が手元に無いので引用はできないが)。

 Clay glanced over at him,  "Listen, ya bastard," he said.  "She knows a goddam sight more psychology than you do."
 "Do you think you can bring yourself to take your stinking feet off my bed?" X asked.
 Clay left his feet where they were for a few don't-tell-me-where-to-put-my-feet seconds, then swung them around to the floor and sat up. [Ibid., p. 120]

 Clay le regarda.
 -- Écoute, espèce de salaud. Elle s'y connaît rudement mieux que toi en psychology.
 -- En te forçant un peu, tu ne pourrais pas enlever tes pieds pourris de mon lit ? demanda X...
 Clay garda ses pieds où ils étaient pendant quelques secondes, l'air je-sais-très-bien-ce-que-j'ai-à-faire-de-mes-pieds, puis, il les balança par terre et s'assit. [Ibid., p. 168]

 ハイフンで連結された部分全体がひとつの形容詞句として "seconds" を修飾している。その「臭い」足をベッドから下ろせと言われたクレイが、すぐには動かさず、数秒間抵抗してみせる。その無言の数秒を言葉にすれば〈俺の足をどこに置こうと俺の勝手だ、指図するな〉になるだろうと、そういう表現である。ポイントは、「…の様子で」という言い方が原文には見当たらない、つまりこの形容詞句が直接に「数秒」にかかっていることだが、一方、フランス語訳では形容詞句が "air" (様子)という名詞を介して「数秒」を説明する形になっている。2007 年 W 杯、対南アフリカ戦でのデラサウ(フィジー)のトライを、TF1 のアナウンサーは un attends-moi-j'arrive essai と表現した。英語だと a wait-for-me-I'm-coming try、要するに「〈待ってろよ今行くから〉トライ」というようなものだが、同じやり方で "quelques secondes je-sais-très-bien-ce-que-j'ai-à-faire-de-mes-pieds [secondes]" とすればよかったのではないだろうか。戯れに日本語に訳すなら、例えば「〈俺の足をどこに置こうと俺の勝手だ、指図するな〉みたいな数秒間」といった形になるだろうけれど、ハイフンの処理をめぐる問題は、実はハイデガーの異様な語彙の問題ともつながってくるということがあり(面妖な言葉は面妖なまま処理すべき、云々)、他方、これが 1961 年の訳業であり、その意味で時代的限界は当然あるということも考慮しなくてはならない。いずれにせよ、「笑い男」にも類似の表現が出てくるので、その時に併せて――というか、シリーズ化すると決まったわけではないので、そういう機会があればということだが――改めて考えることにしたい。

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