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2009年3月

2009年3月29日 (日)

欲望機械、その他

 インターネットが故障している間――インターネットは壊れていないと思うが、小難しいことなどどうでもよくなってしまい、電器屋に行って「インターネットひとつください」みたいなことを時々いってみたくなるものなのだよね――いろんなことがあった。

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 フランスはイングランドにスコっと負けるだろうと、これは希望の交わらぬ客観的観測だが、そう思っていたら本当に負けたとか。

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 それから、洗面所兼風呂場での謎の虫の大量発生。虫というより蟲か。何しろ多かった。大家の好みで観葉植物の鉢が置いてあるのだが、どうやらその中に巣を構えたらしい、羽の生えた空を飛ぶ小さな蟲々が、とにかく切りがないほど次から次へと生まれ出づるのである。
 部屋を掃除していて不意にゴキブリと出くわし、思わず掃除機で吸い込んでしまったという女性を、わたくしは二人知っている(日本での話)。気持はわかるが、つまりほとんど反射的になされたその行為の底に〈不快なものは視界から消し去ってしまいたい〉という気持があるのはわかるけれども、世の中には闇、すなわちわれわれの視界の外に棲息する(そこに棲息することを好む・そこでしか棲息できない)ものもあるわけでね。っていうかゴキブリは、形而下の世界においてその最たるものぢゃあないだろうか。後先考えずにそんな大変なものを吸い込んでおいて SOS を発信されてもねえ……。栓をして放置する、そして万事丸く収まるよう祈りつつ、眠れぬ夜を過ごす、それ以外に手はないでしょう。闇を取り込んぢゃったんだから。
 しかしおそらくそれらゴキブリは、わたくしの考えでは、掃除機の中で生き延びるばかりか、その生命力ゆゑについには掃除機と生化学融合を果たすに至るだろう、そう、あのエヴァンゲ初号機のように。そして……いや、妄想するだに恐ろしい話なので、この辺にしておこう。何だか性質のよくない悪夢を見てしまいそうです。
 そういうわけでわたくしも実は、羽を生やして空を飛ぶこれら蟲々を掃除機で吸い込むことにしたのである。一通り吸い込んだあと、ノズルの先に栓をして放置する、それを数日繰り返した。だが何と! これが一向に減らないのだよね。「君たちは生きる意味についていったい考えたことがあるのかね?」となかば呆れながら、他方でわたくしは少しばかり恐ろしくなった。妙にまとわりついてくるところは薄気味悪いが、とくに人に咬みつくことはないようだし、蟲自体にはことさら恐るるべきところはなかった。ただ、無限なるものに一瞬触れた気がして、たとえばパスカルのようにわたくしは畏怖させられたのである。おゝ、この無限よ!

 結局、最後の手段として鉢を外に出すことにした。折りよく「花冷え」というか、気温が低めとなっているので、いずれにせよ活動を停止するか、どこか他のところに行ってしまうだろうという予測の下に。
 それが何日前のことだったか、とにかく鉢はまだ外にある。

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 欲望機械の新種の発見。
 わたくしはドゥルーズ&ガタリに特段入れ込んではおらず、ただ斜めになって読みながら、グッとくるところがあればグッとくるという、ただそれだけの読者にすぎないが、先頃、「欲望する機械」の新種を発見してしまった。
 日本にいるときからの知り合いではあるものの、さほど親しいわけではないさる女性とある集まりで少し話す機会があった。機嫌のあまりよくないときは相応に人間くさかったりするその人はその日、かなり上機嫌に見えて(あちらから声をかけてくることに驚いた)、だからわれわれは映画の話をするなどした。そして――
 機嫌のよいその人はマジヤバかった。マジで屈託がない。D&G(だからこの場合はドルチェ&ガッバーナではなくドゥルーズ&ガタリ)に「器官なき身体」(corps sans organe)という素敵な概念――le CsO vient évidemment d'A. A., mais on en doit tout de même la conceptualisation à D & G――があるけれども、その女性はそのとき、ほとんど「屈託なき身体」と化していた。

 ――ローレンバコールが俺にとって永遠のナンバーワン。
 ――ああっ! もう、バコールに死ねっていわれたら、その場で死んぢゃいますよね!
 ――いや、俺は、一緒に死んでくれっていうかな。
 ――厚かましいですよね! ボギーがいるのに!

 万事この調子である。運命に抗いさえすればそれでよしと決め込む近代人特有の(いやまあ、心中自体は古くからあるけれど)糞つまらなさが炸裂するわたくしの返答と比較して、彼女の屈託のなさは際立ち、そして「死ぬほど」光り輝いている。屈託なき身体、このおそろしくも素晴らしい欲望機械にわたくしは内心「死ぬほど」うち震えたのだった。ちなみに「死ぬほど」というのは彼女の口癖である。
 それにしても、屈託、ってフランス語で何というんだろう、というか屈託ってそもそもどういう意味?

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 いろいろあったのですが、インターネットはまだ故障中のようです。

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2009年3月22日 (日)

シックスネーションズ WAL-IRE

ウェールズ 対 アイルランド 15-17(トライ数 0-2)

 アイルランドが久方ぶりの優勝をグランドスラムで飾った点は素直に祝福したいし(おめでとう!)、勝敗の行方が正真正銘のラスト・プレーまでわからないという点では非常にスリリングだった。
 また、うまい具合に最終戦が決勝戦となるものだなあと感心しもしたけれど、ラグビー・ゲームとして取り立てていうほどの試合ではないとも感じられた。Too little of rugby and too much of "pick & go" という印象。
 結局のところ一番強かったということになるのだろうが、この試合ではアイルランドはラック周辺での反則が多すぎはしなかったか。BBC のスタッツによるなら、ウェールズの反則数 5 に対し、アイルランドは 15 となっている。そのうち四つ(つまりアイルランド陣での反則のほとんど)を PG として計 12 点を奪いはしたものの、それ以上に利用することのできなかった相手のある意味での要領の悪さ、要するに作戦勝ち――といってしまえば簡単だが、プレーを遅らせ too little rugby を演出する要因だったのだから、決してほめられたものではあるまい。BK によるライン・アタックがあまり有効ではなく、ピック&ゴーに活路を見出すほかなかった以上、戦術としては当然というべき選択肢ではあるけれど、こう反則が多くては、新ルール試行の意図は見事に裏切られてしまっているといわざるをえない。さらにレフリー W・バーンズ氏による見逃しも少なくなかった。後半 35 分のスティーヴン・ジョーンズのダイレクト・タッチという「ミス」(蹴った地点に戻されて相手ボールのラインアウト)、あれはまさに新ルールの賜物なわけで、ある種の不公平感が残ってしまう。
 もっとも、ウェールズ側にも、きわめて悪質な反則(ライアン・ジョーンズによる足掛け)がイエローにならずに済むという幸運があった。

 ともかくアイルランド、とりわけ FW はやはり最後まで強く、そしてうまかった。今夏のライオンズ主将は 4 番 POC で決まりと(そしてフッカー及び二列・三列はアイルランドで固めたってよかろうと)思った人も多いのではないか。
 彼らは突進して相手に当たるとき、必ずといってよいほど、クルっとターンして相手のタックルをうまく外すようにしていたのが興味深かった。事実、ウェールズにしてはタックルのミスが多かった(86 回中 11)。BK では FB カーニーが、どの試合だったか、連続で何回転もしていて、彼の何だかせわしない走り方と相俟ってある種のおかしみを醸しだしていたけれど、ともかくよく鍛えられているのだとは思う。

 ウェールズ側で気づいたこと。
 ・ラッシュしてくるディフェンスへの対応の不備。結局イングランド戦で露呈してしまった弱点をフランスやアイルランドに見事に利用されてしまったということになるだろう。ラインの後へのショート・パントなどもほとんどなかった。
 ・キックオフのボールをほとんど取れていない。
 ・FW 戦へのこだわり。強化に努めてきただけあって、イングランド戦やフランス戦、そしてこのアイルランド戦でも、本当によくやったとは思う。アイルランドという、強くて上手くて狡猾な相手に少なからずターンオーバーしているのだから十分やっているといわなければならない。しかしやはり、パスプレーをもっと多用し、積極的にラインブレークを狙うべきだったのではないだろうか。
 ・ラインアウトの失敗(22 本中 6 本奪われた)。フランス戦のように上手く行っても勝てないのに、こんなひどい状態で勝てるはずがない。
 ・シェーン・ウィリアムズがほとんど目立たなかった。「高速リベロ」とフランス 2 のアナが戯れに命名してはいたものの、その名にふさわしい動きは結局初戦のスコットランド戦のみ、残りの試合では、ウィングとしてさえほとんど活躍らしい活躍もできず終わってしまった。どこにでも顔を出す彼の機動力が、ウェールズの攻撃の予測のつかなさに如何に貢献していたかを改めて物語ることとなった。(何だか吉田義人の晩年と似ている?)
 ・FW(とりわけ R・ジョーンズ)がポイント作りのために突っ込んでいくも、孤立してボールを奪われるという場面が少なからずあった。R・ジョーンズは、ラックに敢えてせずに立って前進しながらサポートを待つというプレーも見られたと記憶するが、それを続けるべきだったと思う。
 ・マイケル・フィリップスが突破したときのサポートが足りない。これはいつもそうなのだが、味方をも欺くようなフレア、というか味方にさえ予測不可能な突然の出来事だからであろうか(今日は二回もあったが)、咄嗟のチャンスを活かせないことが多いように思う。
 ・あと、カムバック!マイケル・オーウェン(これで何回目になるだろうか……)。

 他に、この試合では、前半 30 分でリー・バーンが負傷退場してしまうという不運が大きく響いた。
 ハイボール処理の多くを担当してきた(しかも高い成功率を誇ってきた) FB の退場は、ボール獲得の点で当然不利に働いたし、アイルランド二本目のトライ(ROG のキックパス → ボウのキャッチ)は、FB に回った G・ヘンソンの(WTB ウィリアムズとの連携)ミスが原因となってしまった。中央付近でのスクラムからのプレーだったはずだが、あの段階、あの地点でフルバックが飛び込んでしまっては――しかもタックルを見事に外されたのでは――後を衛る者が誰もいなくなってしまうではないか。
 スリークォーターのディフェンス・リーダーではあるのだが、FB としてはテスト・レベルに達しているかどうか危ういヘンソン、元来はバックスリーである CTB のロバーツ、こうした布陣の弱点を、アイルランドに突かれてしまったわけだが、逆にいうと、ロバーツをシャンクリンと並べて CTB で起用しても何とか(決して万全とはいえないけれど)対応してこれたのも、バーンが後に控えていたからということになるかもしれない。そもそも前に飛び出すディフェンスは、ラインの裏にキックを蹴り込まれる危険とつねに隣り合わせなのだから、備えはそれなりに出来ていたはずなのだ。

 結局、今大会のウェールズはトライをあまりとれずに終わった(5 試合で 8)。原因は多数、またさまざまな水準で指摘しうるだろうが、まあ要するに、耐えに耐える中で得られた数少ないチャンスをものにして勝つという、フランス(W 杯での対ニュージーランド戦のように劣勢が予想される場合)やアイルランド的なあり方は、ウェールズには合っていないのだと思う。得点が PG だけでも勝てば何の問題があるかと、一時期のイングランドのように平然としていられるほど成り切れるわけでもあるまい。パスをひたすら繰り出す中で突破口を見出すという、「セクシー・ラグビー」の教訓――何という教訓でありましょうか――をいま一度思い出す必要がありはしないか。後半 40 分の S・ジョーンズの PG の場面にはもちろん痺れたけれど、他方でノー・トライに終わったという事実はやはり大きい。相手のディフェンスが外へのパスコースを切ってくるならば、こちら側のアタック・ラインを――たとえば法政大学のように(笑)――深くするとか、いろいろあるのではないだろうか。いずれにせよどのような対策が今後とられることになるか興味深い。

 いや、それにしても、最後の五分間のサスペンスといったらありませんでした。S・ジョーンズの DG で勝ったと、てっきり思ってしまいましたよ、わたくしは。スティーヴン劇場という感じでしたねえ……。

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 2005 年の最終戦、同じようにして決勝戦(ただしフランスにも優勝の可能性が残っていた)となったミレニアムでのウェールズ対アイルランド戦を見直してみた。
 一見して気づいたのは、この試合の方が、ボールがよく動いて(そういう意味では)ずっと面白かったということである。ウェールズが勝ったからということではなく、いや本当にそういうことではなくて、ピック&ゴーはアイルランド側にさえほとんどなく、それどころか、アイルランドは、10-15 番を総動員したきわめて複雑な、しかし剃刀のような切れ味のサインプレーを惜しげもなく披露しつつ、果敢にラインブレークを狙っているし、というわけで、新ルールって一体何の意味があるのだろうかと思わずにいられなかった。オコネルとオカラガンが勢いよく走りこんでパスを交換するなんて、今では考えがたいけれども、それがたった四年前のことなのである。まあ、ディフェンスというのは年々進化するというか、厳しくなってゆくものだし、同じようには行かないだろうけれど。
 先発メンバーを見ると、ウェールズ側は 1・3・6・7・9・10・11・12・13 番、アイルランドでは 3・9・10・13・15 番が今も(控えの人も含めて)活躍するプレーヤーである。
 POC は当時 5 番だが、興奮のあまりウェールズ 5 番を組み伏せて、何回も殴る場面があって笑った。このシーンはすっかり忘れていたけど、ただの暴れん坊やん……。
 ちなみにいえば、BOD はこの頃、驚異的な加速力を誇っていたが、ウェールズの CTB コンビがそれでも何とか拮抗していたのが興味深い。防禦時のラインもすでに浅いものだった。

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2009年3月 2日 (月)

シックスネーションズ FRA-WAL / IRE-ENG

(ADSL 接続ができない状態がずっと続いており、ある意味で不如意なことこの上ないけれども、一方ではせいせいするというか……)

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フランス 対 ウェールズ  21-16(トライ数 2-1)

 キックオフ後すぐのフランス側の攻撃、素早く出されたボールに勢いよく走りこんでは真直ぐ次々とぶちかましてゆくレ・ブルーを見て、その迫力に痺れつつ(こういうときに敵も味方もない)、これは凄い試合になりそうだと感じた。事実、ウェールズにとっては対イングランド戦以上の「肉体と肉体のぶつかり合い」となったわけだが、そこで優位を得ることができなかったばかりか、レッドドラゴンは展開の速度においても相手を上回ることがほとんどできずに終わった。二年目となる新体制フランスのここまでで最高のゲームといってよいのだろう。少なくとも選手やスタッフ(それにフランスのプレス)は会心の勝利と考えて、喜びを隠そうとしなかった。On dirait que les Bleus ont battu les Blacks. まるでオールブラックスに勝ったかのような喜びようには、やや困惑したけれども、まあそれはよい。本人たちの望んだやり方で勝ったのだとすればそれはとりあえず祝福するのが筋というものだろうから。最高の出来のレ・ブルーはトライネーションズに勝つことさえ可能なわけで、だからウェールズが霞んでしまうのは仕方なかった。

 もっとも、この日のゲームが、就任時にリエヴルモンの語った「見て面白いラグビーをして勝つ」(言葉通りではないが要するに rugby spectaculaire et qui gagne)というイメージを具現化したものだったかどうか、それはわからない。トライそれ自体に特筆すべきところはなかったと思う。完全に崩されてしまったウェールズ・ディフェンスの混乱に乗じた形のエマンスのトライ(後半)はともかくとして、前半の一本目は(そして幻の二本目も)それ自体としては、ただ力に任せて強引に奪ったものにすぎず、したがっていずれも、ウェールズのトライの戦慄的なまでの美しさ――残り二節でこれ以上に美しくセクシーなトライが生まれるとは考えにくい――に比肩しうるものではなかった。フィジカル面での優位を象徴するといえばよいか、つまりはフランスがかなり現実的な戦い方をしたということなのだが、それでもやはり感銘を与えられたのは確かである。

 まず誰もが感じたであろうように、ディフェンスが素晴らしかった。
 ウェールズ(や南アフリカ)の株を奪うような極端なブリッツ・ディフェンス、こういう局面では機動力ある第三列が活きるけれど、ラインがあまり揃わず、ひとりだけ飛び出た形になるのがいかにもフランス的だった。これは国民性云々というばかりではなく、フランスのクラブチームではあまり実践されていないこの defense inversee は、『ミディ・オランピック』紙の報ずるところでは、試合前にたった一度全員で動きを合わせたのみで実践されたという、きわめて実験的な、そういってよければバビの SO 起用以上の賭けというに近い試みだった。そうした不慣れな動きが産み出したギャップ(左右というより前後方向でのギャップ)をウェールズに上手く突かれてトライを奪われたわけだが、80 分通しての結果としては、まずまずの成功だったといえるのではないだろうか。
 そして Th・デュソトワールや M・バスタローを始めとする個々のタックルの力強さ、タックルを外されかけても何とかしがみつく気迫、地上でのボール争奪戦での激しさ。もちろん、ただがむしゃらにということではなく、ウェールズの攻防の要となるプレーヤー、すなわち M・ウィリアムズ、S・ウィリアムズ、L・バーン、M・フィリップスらを封ずべく採られた戦法と解すべきだろう。事実、今日は両 WTB も G・ジェンキンスも A・ポウエル(パウエルのことです)も目立たなかったし、ラックでの反則すれすれの絡みによってボールを奪ったり、相手の反則を誘うことに長けた M・ウィリアムズさえ、フランス側の忍耐強さのために、逆に反則をとられるなど、思うように動くことができずに終わるほかなかった。フィリップスの個人プレーや、バーンのキック、あるいはポウエルの突進も同じことで、「ピンチはチャンスの母」(?)という格言どおり、他チームに対してこれまで威力を発揮してきたそれらプレーを、フランスは自分の好機へと巧みに転じるべくゲーム・マネージメントを行なったわけである。

 バックスの攻撃についていうなら、外に展開する前にまず力勝負を挑んで縦に突進したのが効果的だった。あるいはより正確には、外への展開をちらつかせながら、実は内で(つまりだからフィジカルで)勝負したというべきかもしれない。実際、WTB のゾーンでブレークするという場面はなかったように思うが、結果的に、攻撃が単調になるのを防ぐ効果は確実にあった。悪いときのフランスがそうであるように、ただ横に流れるだけではディフェンス・ラインを突破することは難しいのだから、こうした工夫――「縦縦横」(?)――は大切なのだが、今日のウェールズは、トライにつながったシャンクリンの突進など、いくつかの場面を除いては、ブリッツ・ディフェンスの圧力に負けてただ横にパスするだけに終わった。さすがにフランスがここまでラッシュしてくるとは思わなかったのか? 地味に試してきたはずの「オフロード」パスも活用されずに終わったのはどうしたことだろう?

 バスタローは以前、秋頃だったか、初めて見て即代表レベルと感じたのだが、今日の活躍からして、フリッツと CTB の位置を争うことになるのではないだろうか。
 バビは、負傷で早退してしまったものの、それまでは問題なく SO をこなした。パントなどのキックのコントロールは思いの外正確だった。しかし、このゲームだけで考えれば、HB を誰が務めようと、またどういう組合せであっても(最低限の技倆が備わってさえいれば)大した問題ではなかったということになりそうではある。ちなみに、週末のトップ 14、モントバンを迎えたトゥルーズでは 9 番ミシャラク、10 番エリサルドという組合せだった(スクレラは 12 番、エリッサルド退場後、キッカーを務めた)。
 バックスリーのアタックも興味深かった。今日の三人(エマンス、メダール、マルジュー)はタックルをかいくぐって巧みに走り抜けることができるランナーだが、同時にメダールは、対面 FB バーンの動きを見越してその逆を突くキックでも大いに貢献した。

 対するウェールズは、完全な力負けということに加えて、フランスの講じてきた対策を上回る、ないしその裏をかくような戦い方ができず、よいところはほとんどなかった。ラインアウトは終了間際の一本を除いて完璧だったというのに。イエローカードを貰ってもおかしくなかったプレーがあったことを記しておこう(シャンクリンによる危険なタックル)。

 とりわけ FW のフィジカル勝負で後手に回ってしまったこと、したがってラックからの球出しも思うようにいかなかったことが、これまでの「FW 強化路線」にどのように影響するか、興味を引かれるところである。昨年と比べトライ数が激減しているし、何より、こうすれば抑えられるというところが少なくとも部分的には明らかとなってしまったわけだから。当面は、フランスと同等かそれ以上に FW 戦に自信をもつアイルランド戦での対応が注目される。メンバーの変更もありうるだろう。
 ゲーム中に戦略を修正するというのは、ウェールズに限らず難しいものだろうが(監督ギャットランドはつねづね「チームを完成させるにはあと数年必要」といっている)、たとえば研究されていたと思われる FB のキックをこれまでと同様に多用したのはやはりよくなかった。秋のワラビーズ戦でもそう感じたが、とりわけカウンターアタックにすぐれるフランスにボールを渡すのは避けるべきだった。まあ、ラックでのボール獲得に苦しむ今日のような試合では、往々にしてキックに頼りたくなるものではあるけれど。
 などなど、今日は確かにパッとしなかったし、グランドスラムが不可能となったばかりか、優勝やトリプルクラウンさえ危うくなってきた。しかし、たとえば前半はパスプレーによるブレークも少なからずあったし、立て直しは十分可能と思う。何より、今大会随一の美しさを誇る――と断定してしまいます――トライは実に素晴らしかった。シャンクリンがタックラーを引きずりながらラインの裏に出て形成されたラックから、ボールがすぐさま左に展開され、ジョジオンとマルジュー(?)の間に出来た、そう広くはないギャップを、S・ジョーンズのパスとバーンのランの「ここしかない」という組合せによって突破したトライ。あの場面を思い返すにつけ、ラグビーに愛されているのはウェールズとフランスのいずれかという疑問がまたしても湧いてくるのである(苦しい負け惜しみとの批判は甘受します)。

 ちょっとバタバタしていて『レキップ』紙を買うことができなかったので(日刊紙ゆゑキオスクでは当日のみ入手可能)、『ミディ・オランピック』を購入する。付録つきで 3 ユーロ。一面の見出しは「反乱の内幕」(Les dessous d'une revolte)。専門紙らしく、細かなスタッツが掲載されているけれど、面倒なので割愛したい――ところだが、少しだけ御紹介しておくと、タックル成功率はそれでもウェールズが上回っている(仏 92 %=7/88 に対しウェ 94.7 %=6/114)、ボール獲得率で劣ったウェールズの大外への展開の機会が 8 に対し、フランスが 1 だそうです。

          *

アイルランド 対 イングランド 14-13(トライ数 1-1)

 最後の 20 分は見られなかったので、感想は少しにとどめる。
 アイルランドが勝ったこと、したがってグランドスラム&トリプルクラウン達成というプレッシャーが(おそらくは)最終戦にかかるだろうこと、これはウェールズにとってはよかったのか、悪かったのか。アイルランドの調子は上がったり下がったりという印象を受けるけれども、まあでも、スコットランド戦の勝敗の行方はまだわからない。

 イングランドはディフェンスやラックでは何はともあれ健闘した。ROG のプレースキックの「絶不調」にも助けられ、点差がさほど拡がらなかったことは集中力の持続に大いに寄与したと思う。反則は確かに依然多いのだが、必殺技「BOD スペシャル」もなぜか止めていたし、何とかギリギリのところで踏みとどまっているという感じだろうか。
 しかしそれにしても、ウェールズやフランスのきびきびしたゲームのあとでは、ボール回しを含むプレーのテンポがかなり遅く見えてしまうし、相手陣 22m ライン内に 37 分頃まで入れなかったということは(その機会に 3 点奪ったとはいえ)、やはり何かが上手く行っていないのである。アイルランドもそれに付き合ってしまったのだろうか。とにかく、イングランドは、比較的相性のよいフランスに勝ってくれたりなんかすると、ウェールズ・ファンとしては嬉しいかもしれない。

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クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』

 あるひとつの予感にうち震えつつ、タオが歳上の友人に尋ねる。How many did you kill in Korea?
 韓半島での「功績」により勲章を授けられた、東欧系の名をもつアメリカ人が答える。

  Thirteen, or maybe more. (十三人、いやもっと多いかもしれない)

 オー・ノー、ミスター・イーストウッド、YOU must've killed far more people!
 実際、朝鮮戦争に話を限定しなければ、イーストウッドは文字通り、数え切れぬほどの殺人に手を染めてきた。なるほど『トゥルー・クライム』では誤って極刑を宣告されたひとりの男性の命を救いはした。『ブラッド・ワーク』でも、ストーカー役ジェフ・ブリッジズの息の根を(きわめて官能的な仕種で)止めたのは彼ではなく、相方の女性だった。しかしその女性の妹、発作を起こし命を落とすところだった元刑事に心の臓を提供してくれた女性は、そもそもその目的のためだけに殺されたのではなかったか。また、『許されざる者』には確かに感動させられはしたけれど、ウィリアム・マニーは、というか要するにありとあらゆる西部劇的ヒーロー――そこにはもちろん「荒野の用心棒」や『ペイル・ライダー』の「牧師」も含まれる――を一身に体現したクリント・イーストウッドは、いったいどれだけの人間を殺してきたのだったか。そしてハリー・キャラハン。さらには『ミリオンダラー・ベイビー』……。

 クリント・イーストウッドは言葉の真の意味において不死身だった。誰かが指摘していたように、刃物で肉体を傷つけられることは確かに少なくなかった(監督第一作からしてそうである)。しかし、記憶するかぎりで、彼が銃弾を受けたことは一度もない。撃たれる危険に陥ったその都度、奇蹟が起こるか、さもなくば誰かが身代わりになってきたからだ。銃器のまったく登場しない『スペース・カウボーイズ』においても、犠牲者はしっかり用意されていた。要するにクリント・イーストウッドは、他の誰よりも、生き延びる術を身につけた人間だったのである。

 その不死身の男が、「丸腰」のまま、全く抵抗の素振りを見せることもなく無数の銃弾を浴び、そして斃れる。姉の受けた理不尽な凌辱に憤るタオ少年とほとんど同一化しながらわれわれは、ウォーリーがまさしくウィリアム・マニーのように、「牧師」の、ハリー・キャラハンのように「銃をとる」だろうと予想した。いや、期待したのだ。『ペイル・ライダー』や『許されざる者』のような復讐劇の再現を。それがまさかこのような事態になろうとは! この結末を導く伏線はしかし、さりげなくというよりむしろあからさまな形で張られてはいた。喀血、医師の診断、いくらも残されていない余命の宣告。それでも、われわれの願望はありうべき結末を無意識のうちに拒絶し、不死身のクリント・イーストウッドの再起を求めていたのである。まさか彼が死ぬわけはないと。
 その「まさか」をいち早く目撃してきた友人の「こうしかありえないのだと納得させられた」という言葉にわたくしも同意する。驚きはしたが、やはりこうなるしかなかったのだと思う。

 いつの頃からか映画は――かつて一滴の血を流すことさえ自らに禁じていたというのに――人の頭を平気で吹き飛ばし、躊躇せず顔面に銃弾を撃ち込むようになった(イーストウッド監督作品でも『ペイル・ライダー』や『ルーキー』では額に弾を撃ち込む場面が出てくる)。こういう時代に、多勢を誇る「敵」に立ち向かい、全員を独りで倒しおおせるような「奇蹟」は端的にいってありえない。「牧師」やダーティ・ハリー、W・マニーの出る幕はもはや用意されていないのだ。現代アメリカの都市郊外で十人のストリート・ギャングに対峙し、彼らをある意味で打ち負かしつつ、タオに道を指し示すこと。選択の余地は確かになかった。

 磔刑図のイエスの顔は、身体がどれほど痛めつけられ傷つけられていようと顔面だけは、つねに無傷のまま描かれる。西洋美術史、あるいは聖画の歴史の常識に属す事柄だろうが、たとえばメル・ギブソンの例の映画でもその点は踏まえられていたように思う。キリストの奇蹟は、この美しい顔によって初めて可能となったのだといえるかもしれない。斬首されたある聖人は、パリからサン=ドニ、つまり現在われわれが聖ドニと呼ぶ町まで、おのれの首を抱えて歩くことができた。それはしかしすでに、イエスの奇蹟の徴の下にあったと考えるべきだろう。少なくとも彼の顔は美しいままだったはずである。あるいはむしろ、斬首されたときにあらゆる傷、瑕疵が消え去ったというべきかもしれない。

 私の唇が彼女にふれたとき、祖母の両手が動き、彼女の全身に長い身ぶるいが走った、〔…〕突然祖母はなかば身を起こし、生命を防禦しようとする人のようなはげしい努力をした。フランソワーズは見るに堪えられず、声をあげてすすり泣いた。私は医師がいったことを思いだして、彼女を部屋からさがらせようとした。そのとき、祖母が目をひらいた。〔…〕酸素の音はすでにやんでいて、医師がベッドから離れた。祖母は死んでいた。
 数時間後に、フランソワーズは、最後に、そしてもう痛めつけることもなく、美しい髪を梳かしつけることができた、その髪は、わずかに白いものをまじえていrだけでいままで彼女の年よりも若々しく見えていたのであった。ところがいまは、逆に、それが顔の上に老いのかんむりをおしつける唯一のものとなって、顔のほうは若がえり、そこからは、長年のあいだ苦しみが彼女につけくわえた、しわ、収縮、むくみ、ひきつれ、たるみが、消えさっていた。彼女は、はるかな昔に、両親が配偶者を選んでくれたときのように、純潔と従順の線が繊細にひかれた顔立になり、けがれのない希望に、幸福の夢に、罪のない陽気さにさえ、かがやく頬になっていた、そうした顔立や頬は、年月が徐々に破壊していったものなのであった。生命は、いましがた、ひきさがるときに、人生の幻滅をもっていってしまった。ある微笑が祖母の唇の上に浮かんでいるように見えるのであった。この喪のベッドの上に、死はすでに、中世の彫刻師のように、彼女を乙女の姿で横たえていた。
 〔マルセル・プルースト『ゲルマントの方 II』、井上究一郎訳、ちくま文庫、1993 年、61-62 頁〕

 『グラン・トリノ』のイーストウッドもまた貌を傷つけられることなく死ぬ。被弾の場面はバスト・ショットならぬ「ベリー・ショット」として、つまり弾の撃ち込まれる胸部と腹部のみを大写しにしていた。われわれが次に見るイーストウッドの顔は、教会でカトリックの流儀に則って執り行われる葬儀の場面、銃弾の痕など無縁のまま化粧を施され棺に横たわる彼の死顔にすぎない。
 いや、その前、絶命し、芝の上に仰向けに倒れたイーストウッドの全身をキャメラはしっかり捉えていたのだった。簡潔な、しかし確信に満ち満ちた二本の直線をもって十字と化したその身体を。

L'idée générale d'une action, aussi bien que d'une attitude, peut s'indiquer au pinceau en très peu de lignes. Il est facile de concevoir que l'idée d'une personne sur la croix peut s'exprimer pleinement par les deux lignes droites de la croix ; de même que la position allongée de la crucification de saint André peut se comprendre entièrement par la croix en X.
 [William Hogarth, L'Analyse de la beauté  (1753), traduit de l'anglais par Olivier Brunet, Paris, Nizet, 1963, p. 256.]

 もちろん、ここには近現代の藝術家が多かれ少なかれ取り組まぬわけにはいかなかったナルシシズムの問題もあって、クリント・イーストウッドの頸がたとえば切り落とされたり、額に銃弾を撃ち込まれたり、かぼちゃのように頭部を吹き飛ばされたりというようなシーンは、われわれがそれをイメージできないという以前に、そもそも監督イーストウッドにとっておよそ「ありえない」演出というほかない。十字を描いて死ぬこと。それをナルシスの極みと批判するのは容易い。俳優としてのキャリアの大尾となる作品を自ら演出するというのがある意味ではすでにナルシシズムの発現である。しかし、ダイアルアップ接続中ゆゑ詳細は省くとして、たとえば監督第一作からおのれの死に憑かれている北野武(とりわけ『Brother』)がしばしばその美化へと傾くのに対し、イーストウッドにおける死は美化とほとんど無縁だったという点は押さえておく必要があるだろう。強いて挙げるなら『スペース・カウボーイズ』でのトミー・リー・ジョーンズの死には微かに美化の契機が孕まれていたかもしれないが、クリント・イーストウッドの映画における死はこれまで、つねにただの死にすぎず、それ以上のものでは決してなかった。それがおそらく初めて、死に意味が与えられる、あるいはより正確にいうならば、死の意味を考えさせる契機が与えられることになったわけである。
 生と死の意義をめぐる簡潔な問答が、亡き妻の遺言を口実としてさりげなく物語に導入されている。朝鮮戦争の英雄のその後の生。あるいは、ウィリアム・マニー、「牧師」、ハリーはその後をいかにして生き延びたか。「生についてよりは死についての方が詳しい」というこの元軍人が、残り少ない命とともに行なった生の意味の探究は、難しい神学的知識が要求されるわけではないし、万人に当てはまるような明確な答えを提示するものでもないが、それでもやはりわれわれの胸を打たぬわけにはいかない。

 「意味のある死」とは要するに「国の為に死ぬ」ことかと、難儀な問題をもち出してくる人もいるかもしれない(ま、一面において正論ではあるでしょうが)。死期の近さを悟った人間が友のために犠牲となる点からして、今作は形式的に『スペース・カウボーイズ』と類似している。同作において、イーストウッドが T・L・ジョーンズに次代のバトンを託した云々という、さる映画批評家の慧眼に今更ながら思い至ったが、それはともかくとして、『スペース・カウボーイズ』での供犠たるトミー・リー・ジョーンズは、文字通りの意味において昇天したのであり、単純な美化とはやはり一線を劃されなければならない。そして、『グラン・トリノ』における(唯一の)死の表象の仕方も、美化を戒めつつ、というよりむしろ美化を禁ずるための聖化だったといえるのではないだろうか。あれほど人を殺してきた不死身の人物が、最後の出演作にこのような題材を、そしてそれにふさわしい演出方を選んだこと、そのことにまず驚きつつ、イーストウッドが古典的作家であることをわれわれは改めて確認しなければならない。

 オープニング・タイトルの段階で一度涙腺がゆるんでしまったのは――不覚というよりむしろ自慢だが――作品の内容とはかかわりのない唯の感傷だろうけれど、件の友人同様、わたくしも結末に至ってやはり泣かずにはいられなくなった。涙の量でいえばしかし、『スペース・カウボーイズ』ほどではなかった。何しろあの時は、始まって間もない場面、タンクが「昔々……」(Once upon a time...)と語り出したとたん、ウッと来て、そのままエンディングまで涙が止まらなかったのだから。二回見て二回とも。『グラン・トリノ』は、魂の奥底で何かが揺さぶられ、静かに、だが深く、深く、感銘を受ける、そんな作品だった。万一、クリント・イーストウッドが翻意してまた何かの映画に出演することがあったとしても、この感銘には何の影響も及ばないだろう。

 

〔ああ、『センチメンタル・アドヴェンチャー』では死んでいましたよね、ははっ。でもまあいいんです、そんな些末なことは。〕

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