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2011年5月

2011年5月12日 (木)

本の感想

 京都国立近代美術館に「パウル・クレー おわらないアトリエ」展を見に行く。T さんと。生成研究的展示の質量は期待したほどではなかったけれども、さまざまな発見――「油彩転写における差異と反復」(ごめん、T さん、結局俺が書いてしまったよ)とか――があり、楽しかったです。
 現在は東京に巡回中。
公式サイト

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 目を通しておかなければと思いながら、火星(金星だったかな)に滞在していたこともあって長らく入手できずにいた『帝国日本の英文学』(齋藤一著、人文書院、2006 年)をようやく読むことができた。簡単に感想を。

 大まかには「ポストコロニアル」研究ないし批評と呼ぶことができるだろう。英文学研究者一般が身にまとう(しかし本人は気づいていないことも多い)自負や自意識にはいつも辟易するのだが、序章・終章で真率に述べられる本書成立の動機や経緯、書かれなくてはならなかった必然性等々についての説明には、率直にいって大いに共感を抱いたし、またいくらか感動を覚えさえした。近代日本の文学史や翻訳史では二葉亭四迷の果たした役割が(もちろん正当に)強調されたりするが、全体として明治以降の第一外国語というのはやはりつねに英語だったわけで、いろいろと苦労があるようだ。
 本書の主題を要約すれば、「西洋植民地主義を批判する西洋文学の紹介・翻訳が日本植民地主義の正当化に利用される傾向があったという文脈を踏まえ、その正当化への抵抗を試みたと見なしうるいくつかの事例について論ずる」ということになるだろう。たとえば中島敦、あるいは(コンラッド『闇の奥』の訳者としての)中野好夫。前者についての章「英文学者、中島敦」は、ヴァレリーの扱いも含めて面白く読むことが出来た。ただ、本書の白眉と想定されているのだろう第四章「日本の闇の奥」はといえば、趣旨はよくわかる(し、成功していれば「翻訳による批評」の格好の例となりえた)のだが、実証の水準でいえば不完全という印象を拭えなかった。単純にいって、渉猟する文献が少ない、あるいはむしろ、論述をもっと長く厚く、十分に展開すべきではなかったかという気がするのである。

 著者は、以下の二文の下線部(いずれも、抵抗むなしく征服され、奴隷労働を強いられている人々のことを指している)

Behind this raw matter one of the reclaimed, the product of the new forces at work, strolled despondently, carrying a rifle by its middle.

He was an improved specimen; he could fire up a vertical boiler. He was there below me, and, upon my word, to look at him was as edifying as seeing a dog in a parody of breeches and a feather hat, walking on his hind-legs.

に中野好夫が「恭順蛮人」、「所謂恭順蛮」という日本語表現を宛てたことを問題とする(たぶんこれは素晴らしいアイデア)。素直な訳ではそれぞれ「教化された者たち」、「改良見本」とでもなるだろうところを、なぜ訳者はそうしたのか。確かに、翻訳としてはいささか作為的であり、何かあると思わせる事例とはいえる。当時の文献を調査し、「恭順蛮」や「恭順」、「蛮人」あるいは「蕃人」といった表現の使用例を検討した結果として著者は、次のような仮説を立てる。

ショッキングな霧社事件から十年後に出版された『闇の奥』の読者は、この作品を日本植民地主義への批判として読みかえるのではなく、西洋植民地主義批判として受容しつつ日本植民地主義を暗に肯定することを求められていたはずだ。たしかに、「所謂」といいきれるほど「恭順蛮人」が一般的であったかについては疑問が残る。しかしそれでも、中野が使用した「恭順蛮人」と「所謂恭順蛮」という言葉には、読者に対して、悲惨な霧社事件、肯定すべく要請されていた日本の植民地主義支配の「闇の奥」を想起せしめる力があったのではなかったか。中野好夫は読者に対して『闇の奥』という西洋植民地主義批判のテクストを日本植民地主義批判として読みかえることを可能にするヒントを与えていたのではないか。〔107-108頁〕

霧社事件(1830 年)というのは、日帝の臺灣に対する弾圧の代表的・象徴的事例で、中野はだから「俺たちも白人と同じことをしているんだぞ」と、この訳語を通じて仄めかしているのではないかということである。
 わたくしは、戦争に際しての藝術家や文学者の言動というものに強い関心を抱いているのだが(知らなかったでしょ)、最初に抱いたのは、「英文学者」は一体何をやっていたのだという憤慨にも似た感情だった。中野好夫が生存中にこういうことを誰かが思いついて、当人に直接尋ねればよかったのに。もちろん、彼が真実を述べるとは限らないけれども、作家本人の談話というのはやはり重要なコンテクストなのであって、その点が惜しまれる。惜しまれる。敢えて思弁を弄しておくと、戦後になって自身の体制翼賛主義を中野が自己批判したということは、ここで問題となっている箇所に特別の意義は(少なくとも訳者の意識において)なかったということになるのではないだろうか。まあ、小林秀雄のように「俺は反省なぞしない」といわれても困るし、というかいずれにせよ、証言をそのまま文字通りに受け取ることはできないのだが、それはともかく。

私は、『闇の奥』の中に書き込まれたわずか二語の「恭順蛮人」「所謂恭順蛮」という訳語が、当時の読者をして、『闇の奥』というアフリカにおける西洋植民地主義批判を含んだ作品を、台湾や中国における日本植民地主義の問題へと接続し、西洋と日本との差異を強調する国策を批判させるような力を秘めていたなどと断言したいのではない。むしろ、〔文献調査の結果を踏まえれば〕その逆をいわなければならないのかもしれない。〔…〕もし中野が本気で『闇の奥』を反国策的文書として世に出そうとしたのであれば、「恭順蛮人」ではなく例えば「帰順蕃人」という言葉を使うべきだったからである。〔117頁〕

著者は、調査の結果から実証的にいえる事柄をこのように限定している。まあそれが妥当だろう。論述の要は「「蛮人」については断言を控えるべきだろうが、「蕃人」については、これは霧社事件や台湾高山族の存在を想起させるキーワードだったといいきってよいだろう」(116頁)という箇所だろうが、霧社事件を引き起こしたのが「蕃人」だったとして、しかし「蕃人」という語がその事件(のみ)に送り返されるというのは、論理としておかしい。臺灣研究の専門家であるらしい方のブロッグでは

 たしかに「蛮人」「蕃人」というターム(「蕃人」が普通だろうけど)、は、戦前の日本では、台湾の原住民を指すことがほとんどだろうし、霧社事件が衝撃的な事件だったのはまちがいない。だけど、1940 年の時点では、霧社事件で蜂起した原住民の後裔は、なおのこと「恭順」の意を表明せざるを得ないほど、植民地統治は「完成」されていた。また、霧社事件を引き起こしたタイヤル族だけでなく、30 年代には、ブヌン族の「兇蕃」が「帰順」し、「恭順」の態度を明らかにしていた。こんなニュースは、総督府の『理蕃の友』を眺めれば、いくつも出てくる。
 高砂義勇隊の南洋派遣はまだ行われていないものの、日中戦争に「軍夫」として「血書志願」するという「美談」も、竹内清の『事変と台湾人』なんかを見れば、ちゃあんと掲載されている。
 つまり 1940 年に中野が『闇の奥』を翻訳した時点では、「恭順蛮人」という言葉は、齋藤が言うように霧社事件そのものを想起させるというよりは、「その後」の統治の「成功」を示すものとしてストレートに受け止められた、と考える方が、「状況証拠」からすれば、よほど「自然」なはず。

と指摘されている。つまり、事件の禍々しさではなくむしろ、「俺たちは白人と違って巧くやってるぜ」といったような、別の意義をこの箇所に読み取ることも決して不可能ではないということで、残念ながら推論としてはこちらの方が蓋然性が高いといわざるをえない。

 たぶん、この研究(論文としての初出は 1999 年)はまだ完成されていない。「教化された者」と「恭順蛮人」の違いは、たとえば所謂文学的趣向によって説明することも不可能ではないわけで、翻訳をめぐってはさらに重層的に論ずる必要があるのではと、これは自戒も込めて、そう思った。それに『闇の奥』も今では四種類(いやもっとか?)存在しているわけですからね。

 他に参考として
  
今週の本棚」(若島正、毎日新聞、2006年5月14日)。
  「私の闇の奥」(三交社版『闇の奥』訳者の藤永茂さんのブロッグ)中の記事ふたつ

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 それから David Damrosch の What Is World Literature? の翻訳が出たんですね。鴻巣友季子さんによる書評

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