« 2011年10月 | トップページ | 2012年3月 »

2012年1月

2012年1月15日 (日)

回顧 2011 年

(意見表明というより、自分の考えを整理するために書いているので、いつものように乱雑なままです。)

 2011 年はもちろん「東日本大震災の年」として公式には記憶されるのだろうけれど、個人的にはむしろ震災をめぐる状況の方が興味深かった。影響を蒙らなかったわけではない。仙台の友人は不便を耐えなくてはならなかったし、関東にも友人知己や親族が引き続き暮らしている。それに、企画がひとつ無期限のペンディング――実質的には「没」――となったのも少々痛かったが、この場合、震災は口実ないしきっかけであって、実際には長い不況のせいと考えている。

 震災をきっかけとして前景化した状況というのは、いわゆるエスタブリッシュメントの機能振り、つまり「原発問題」や「東電問題」などに先鋭的に表れているだろう、社会的富の分配における不公平性・不公正性である。パブリック・エネミーはこいつだと、あらゆる方向から繰り返し名指されても当の御仁は何ら痛痒を感じないという状況。
 もっとも、つい擬人化して語ってしまったけれど、その「公敵」が人とは限らない、というかむしろ本当の「敵」がいるとすればそれは構造やシステム、制度(インスティテューション)というに近い何ものかであるだろう。東電会長の×俣だの、経産省前事務次官の×永だのは、そうした仕組の「エージェント」(「エージェント・スミス」といったりするときのエージェント)にすぎない。
 ちなみにいえば、選挙で落とされる可能性がある国会議員の地位はそれより一段劣っている。いわばエージェントのエージェントだ。定数を多少削減しても大勢に(体制に?)影響がないと予想されるのはそのためだが、実際、いま政権を握っているような連中ならば、半分に減らしたって何も変わりはしまい。
 しかしだからといって減らせばよいということにはならない。消費税率引き上げの代償として国会議員が「身を切る」、すなわち定数を削減する可能性も議題にのぼっているけれど、そんなことをすれば役人の思う壺だろう。ローメーカーの数はむしろ逆にもっと増やさなければならない。財務省の操り人形や、バカ(「ガソリンプール」とか元 NHK の原稿読みとか)、無為徒食(小沢とか三宅とか)は排除し、歳費を大幅に引き下げるという条件で。
 つまり、議員定数削減と公務員人件費削減はしばしばセットとして扱われるが、それらは別の事柄なのであって、いま必要なのは後者である。
(※公明党は民主党の定数削減案に対し「断じて反対だ。改めてもらいたい。身を切る改革であれば、国会議員が等しく効果を被らなければならない。(恒久的な)歳費削減が妥当だ」などと述べている(1月19日付産經新聞)。理由や思惑はわたくしとは全く異なるし、大阪で公明党が強いのは遺憾に思っているが、この点については是非ともがんばってちょ!)

 そういう次第で、11 月に行なわれたいわゆる大阪 W 選挙にはわたくしも注目していました。いや、注視しただけではなく、ちゃんと投票にも行きましたよ。市長選の投票用紙が来ていれば「勝ち馬」に票を投じていたでしょう。
 現職陣営に勝つ気が見えなかったことからして、結果はほぼ明らかだった。具体的な政策をほとんど打ち出さなかったのは、実績を見てもらえばそれで十分というつもりだったのか。だがそういうことをいえるのは、支持率が八割、九割を超えているような場合だけだろう。

 興味深かった点をいくつか。

 ・たんなる地方選挙だというのに、全国から「リベラル」と称する連中が平松候補の応援に馳せ参じたこと。

 中にははるばる北海道から駆けつけた者もいた。御苦労なことだが、なぜそのような事態となったか。理由は、日本共産党が同候補の支持に回ったのと同じ、というのは要するに、公務員の地位が脅かされたからである。

 どうも公務員は、税として徴収された金はすべて自由に差配してよいと思い違いしている節がある。それなりの権限が与えられているからこその錯覚だが、重要なのは、彼らは失敗の責を――犯罪行為・服務規程違反でもないかぎり――問われることがない点だ。責任のない権限。世の中にこれほど素晴らしいものがあるだろうか、いやない。対して議員には、権限だけでなく、責任が課せられる。変なことをすれば選挙で落ちる可能性があるからだ。それが橋下新市長のいっていることである。責任をとる者(=選挙の試練を経た者)にこそ権限を集中させるべきだと。
 役人の無責任は、「官僚の無謬性」なる神話に連なるものだが、官僚や役人はいわれるほど優秀なのだろうか。あれだけの予算と権限を手にしながら、今のような状況しか作り出せなかったとすればむしろそれは、「無能」を証していることになりはしないか。
 まあ、無能は政治家にもいえるので、だから政治家が頑張らなくてはと、維新の会は主張しているわけだ。民主党と同じことにならぬ保証はないけれども、大阪ではとりあえず期待が高まっている。

 ・反「維新」論者の多くが、教育行政の改革に関する政策提言を問題視していること。

 大阪維新の会が目指しているのは、あるいは府民が最も期待しているのは、滞った金回りを何とかすることだろう。税収は減る一方なのだし、そもそも地方自治体にできることは限られているのだから、金の動きを変えることで経済の活性化を図るというやり方しかもはや残されていないと思う。結果的に税収がいくらか増加することもあるかもしれない。公務員制度改革や「市役所解体」などの政策案はその一環ととらえればよいだろう。税収に対する公務員人件費率から推察できることは、第一に公務員の金銭感覚がおかしいという点だからである。ああいう人たちに財布を完全に預けるのはちょっとねえ……。
 そうしたなか、確かに「教育基本条例案」は唐突な感じがする。
 まず、「大阪維新の会」の英語名は Osaka Restoration Association という(御存じでした?)。今しがた調べるまでわたくしは Revolution とか Reformation とかを予想していたのだが、Restoration って何だよ、「復元」、「復古」じゃないか。これは明治維新の英訳をそのまま流用しているのだが、あちらの場合、形式上は王政復古だったので、政治体制の名称としては特に問題はない。では「大阪維新」の場合はどうか。ウェブサイトなどで謳われている目標「中央主権、脱官僚政治、真の地方分権、地域主権」は、実は明治維新とは正反対の方向を指している。江戸時代までの「日本」は大小さまざまな「国」が割拠していた。それを無理矢理中央集権化したのが明治政府であって、実際、橋下さんは、大阪市や大阪府という枠組が明治以降に出来た人為的なものと主張している(歴史的には大阪府の北半分は摂津国として尼崎や神戸などとの結びつきが強かった)。
 とすれば、大阪維新の会は明治以前に復すといっているのだろうか。でもだったら、国旗国歌などどうでもよいということになる。そんなもんは江戸時代には存在しなかったのだから。ここら辺りがちょっとわかりにくいよね。

 そういうわけでわたくしはとりあえず、これも結局は公務員の意識改革に連なるものと理解している。税金で養われている以上、政治家(=納税者の代表)に従うのは当然のことだと。
 だって、「子供を護れ」だの「教育の危機」だの、一部で大騒ぎになっているが、条例案を読めば、子供はほとんど関係ないじゃない? 小中高と「君が代」を歌わされても――歌わされたがために?――左翼になる奴だっているだろうし、そういう人たちにもちゃんと生存権が与えられているのだし(これが自由主義の素晴らしい点)、子供はわれわれが考えているよりはずっと利口、ずっと姑息で、だから適当にやり過ごすよ。
 つけ加えておけば、子供は学校は選べても、先生は選べない。だから公立小中高等学校の教員を一定程度管理下に置くというのは十分アリだと思う。条例案の「免職規定」はやり過ぎと考えるが、橋下さんもそれがそのまま実現するとは思っていないだろう。
 わたくし自身の来し方を振り返ってみると、学校の式典などで歌わされた経験はない。では一体いつ歌詞や旋律を身につけたのだろう? 全然覚えていない。ある意味で恐ろしいことですよね。国立競技場でも秩父宮でもスタッド・ド・フランスでも歌うことは決してない(どころか起立さえしない)人間なのに、ちゃんと歌えてしまうというのは。学校=工場というのはやはりある程度まで正しいわけですねえ。

 ともあれ、そうした議論というか、諍いを傍観していておかしいと感ずるのは、多くの論者が、教育=学校教育という前提に立っていることである。学校での教育は、親や兄弟、親類、地域社会(そういうものがまだ残っているとして)それぞれからの影響などとともに、広義の教育作用の総体を形作る一部分にすぎないのではないだろうか。
 みんな学校に期待しすぎ、学校を重視しすぎだと、わたくしなどはつい思ってしまう。確かに、学校でいじめられて自殺に追い込まれる子供がいる。これほど不幸な出来事もそうないと思うが、彼らにとって学校生活はきわめて重大な意義をもっていた、あるいは別の観点からいえば、学校以外の場所、そこに逃げ込むことのできるような場所がなかったということになる。
 それゆゑ、子供を本気で護りたいのなら、子供の人生に占める学校の位置をもっと低くするのが最善である。いじめは多分なくならないのだから。学校は勉強するところであって、それ以上でもそれ以下でもないと。「ゆとり」も「道徳」も「同和」も不要だ。いっそのこと、部活動を含む課外活動もなくしてしまってはどうか。授業が終わればさっさと帰宅する、あるいはともかく下校して外で遊ぶ。教員も雑用から解放されて、本来の業務に集中できる。よいことづくめぢゃないか。

 わたくしの妄想はこれくらゐにしておいて、現実にはそうなっていない、つまり学校に寄せられる期待が高すぎるからこそ、市政改革のうちで「教育基本条例案」が特に問題視されたりするわけだが、たとえば山口二郎などは、今の枠組、それも自分で「官僚的になっている」と正しく指摘しているその現状において教員のやる気を引き出すことが大切だとのたまう。そんな無意味なこという為に北海道からわざわざ足を運んでくれなくて結構ですよ。だいたい「学者」の仕事は「文句をいう」ことではなく、事実や現実を正確に分析することだ。さらにいえば、現状に対して何もせず、追認するだけというのは、「政治的中立」を意味しはしない。政治学者がそんなこともわからないとは。いや、わかったうえで敢えてやっているのか?
 同じことが内田樹にもいえるだろう、前市長の顧問をやっていたわけだから、政治的に中立とは到底いえまい。ただ、内田さんはさすがに山口さんより頭がいい、というか少なくとも理路を追って考えようとしてはいる。彼の教育論、レヴィナスにヒントを得た他者論や時間論に基づく教育談義は、関係者が一度は読んでおくべきものだが、その教育というのは抽象的、ないし大学以上にしか当てはまらないような高等な作用であるとわたくしには思える。神戸女学院という、近畿以外の人はあまり知らないようだが、地域随一の賢女が集う(皮肉や戯言ではなく事実)学校で長年教えてきたこともそこには当然関係しているだろう。早い話が、きわめて恵まれた境遇を踏まえた、そしておそらくはその結果として、学校という制度をやや過大に評価した教育論なのである。
 橋下市長が内田さんの新聞談話を批判している(13 日のツイート。ちなみに何故「ツイット」ではないのだろう?)。

内田樹とか言う大学教授です。まず9日読売新聞では、身の丈サイズの共同体を目指せと言っています。僕がやる大阪都構想は時代遅れの成長路線だと。そしてご自身がやっている150人規模の合気道道場こそが21世紀の都市モデルだと。 (posted at 02:18:24)

この御仁、住民が飯を食っていく糧を生み出す共同体と、コミュニティーの共同体の区別もありません。合気道道場だけで1億2000万人が飯を食っていけるわけがない。成熟した国を持続させるだけの経済を支える共同体は広域行政体。住民の支え合いを軸とする共同体は基礎自治体。(posted at 02:26:44)

共同体には大きく分けて2つある。それらを包含するものが国家。内田氏は広域行政体と基礎自治体を完全に混同している。なぜ学者はこんな稚拙な論を張るのか。それは、考えるだけで何も実行したことがないからである。内田氏は理想論を語り、どんなメンバーでも食わせて行くことが基本原理だという。 (posted at 02:29:02)

いちおう補足しておけば、内田さんの論は都市論の枠組でなされたもので、(東京への)一極集中が結局は最も有効なのだとする市川宏雄の論と並べて掲載されている。内田さんは、失われてしまった「コミュニティー」(地域共同体のごときもの)の再生を自身の都市論の核としているのだが、その合気道道場の周りに集まってきた人々はどうやって日々の糧を稼いでいるかという問題が抜けていますよと、政治の話をしたいんだったら、複数の次元をそれぞれきちんと区別したうえで組み合わせるなり重ね合わせるなりしましょう、というのが市長の反論。
 参考までに「集団の適正な規模」について、内田さんのブログでは次のように書かれている(「ポスト・グローバリズムの世界、あるいは「縮みゆく共同体」12 日付ブログ記事)。

これから世界のすべての国が「普通の国」になる。
グローバリゼーションとは、そういうことである。
でも、行き過ぎたグローバリゼーションに対する補正の動きは当然のことながら「ローカライゼーション」というかたちをとる。
具体的には、「共同体のダウンサイジング」である。
共和党の掲げる「世界の警官」廃業論や連邦政府の権限縮小論がはその適例である。
世界の人口は70億を越えた。中国一国で14億である。14億というのは、19世紀末の世界人口である。
それだけの人間を19世紀的なシステムでコントロールできるはずがない。
というので「世界政府」としての国際連合や、「国民国家の廃絶への道」としてのEUの理念が提示されたのだが、それがうまく機能していない。
サイズが大き過ぎたのだ。
だから、世界は今「ダウンサイジング」のプロセスに向かっている。
というのが私の現状理解である。
私自身、「顔の見える共同体」の必要性をつよく感じていることはこれまでも繰り返し書いてきた通りである。
幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化しているような集団がどうしても必要である。
「倫理」とは原義において「倫(なかまたち)」と共にあるための「理法」のことである。
「なかま」のいない人間に倫理は不要である。
「私には仲間はいない。いるのは手下と敵だけだ」という決めの台詞を何かの映画で見た記憶があるが、そういうのが「倫理のない人」である(たしかにこの人物は邪魔な人間、気に入らない人間をじゃんじゃん殺していた)。
仲間がいると人間の可動域は制約され、自由は抑制されるが、その代わりに「ひとりではできないこと」ができるようになる。
「ケミストリー」と言ってもいい。
自分に「そんなこと」ができるとは思ってもいなかったことが「仲間」の登場によってできるようになる。
一方で何かを失い、一方で何かを得る。
帳尻が合う場合もあるし、合わない場合もある。
「仲間がいてよかった」と思うこともあるし、「いない方がよかった」と思うこともある。
でも進化の淘汰圧は「仲間がいる種」だけを残した。
だから、私たちは「仲間とともに生きる理法」を学ばなければならない。
そして、この理法のいちばん基礎的な取り決めは、「最適サイズ」をどこにとるか、ということである。
倫理がきちんと機能するかどうか、それを決定するのは、実は「サイズの問題」なのである。
どこまでを「倫」(なかま)に含めるか。
それについてある程度筋の通った基準を決めておかないと、「理」は働かない。

 
この限りではいいたいことはわかるし、結構大切なことが含まれていると思うんだけど、でもその道場に集う人たちは、他所で金を稼いで(もしかするとその金を月謝のような形で支払って)いるわけだろう。つまり内田さんがイメージしているのは、食うに困らない人々の集団、経済のことは奴隷に任せておけというような古代ギリシャ市民のあり方にも似た仲間づきあいなのである。マルクスのいう上部構造だけを論じているといってもよい。橋下市長は、異なる次元の物事の「混同」といっているが、そこまでバカぢゃないだろう。むしろ内田さんは、下部構造を敢えて不問に付すことで問題を過度に単純化している、あるいは自身がそうしている点を隠しているのである。なぜそうするかといえば、答えは簡単(でも口に出して指摘するのは少々蛮勇が必要)、彼がそれなりに裕福だから、というかその富なり福なりを、「顔の見える共同体」内部で回せば十分と考えていて、行政という回路を通じて社会に流通させる仕組――最も安易で単純なのは金持ちによる寄付――を新たに考案しようとはしていないからだ。
 それはそれで構わないけれども、それだと政治にはならない。したがって、大阪の行政のあり方という文脈でいえば、橋下市長の議論の方に分があるといわなければならない。
 だいたい、「ダウンサイジング」を主張するのであれば何故、行政単位として日本で第二位の規模をもつ大阪市の分割に反対するのか。適正な規模という観点からいえば、内田さんは平松さんなどよりよほど橋下さんに近いし、前市長はそもそもこうした上等なことは考えていないだろう。

 内田氏は今の行政単位がそもそも人工的に作られたものであることの認識がない。人工的に作られたものを人工的に作り直すのは当り前。内田氏はよほど現状を維持したいのだろう。〔…〕。(posted at 02:55:46)

 これくらいのことはさすがにわかっているはず。まともな批評家にとって、「自然」と制度の区別は基本だから。たぶん、内田さんは理のないところに無理を通そうとして、あるいは何かを隠そうとして、自身の議論に理が無いことを却ってあらわにしてしまったのである。

 こうして見ると、やっぱり内田樹も、共産党や労働組合と同じく既得権益の側の人間であると考えざるをえない。

 東京育ちで兵庫在住の人間がなぜ大阪の問題に口を差し挟むのかという根本問題もある。さまざまな意見を拝聴していると、結局どれも大阪は愚民の集まりみたいな話になっていて、さすがに失笑するほかないが(わたくしはそういう場合に怒るより先におかしみを感じてしまうんです)、大阪人も半信半疑で成り行きを見守っているというところだと思う。

 ・独裁だって?

 いま独裁の最前線にいるのは、どう考えても民主党政権でしょう。国会での議論を経ずにいくつか重要な政策を実行しようとしているんだけど。

 市井の人間は、教員も含めた公務員に対して、「厭ならやめてくれて構わない、代わりはいくらでもいるから」と感じています。実のところ、綾波レイぢゃあないけど「代わりがいる」というのは、藝術やスポーツなど、特殊技能が必要となる仕事を除く多くの労働者に当てはまることで(労働者の存在論ですよね)、でも何かの縁でこれこれの会社にたまたま勤務しているというにすぎない。で、運悪く、解雇されたりということもありうることを踏まえれば、なぜ公務員がそこまで護られなければならないか、普通の感覚では理解できない。当の公務員が抵抗するというなら、共感は覚えないけれど、話としてはわかる。でも公務員ではない人までがどうしてそこまでいきり立つのよ?
 一般論としていうと、小中高の教員は――給料が高すぎる点は是正さるべきだが、それは措いて――よくやっていると思う。問題となっている条例案が仮にそのまま成立し、最高裁判決との整合性をクリアできたとしても、教員と児童・生徒との関係はそう大きくは変わらんよ。内田樹さんがつねづね指摘しているように、学校教育というのはもうすでに悪くなっているのだから。橋下さんなどが声高に主張するまでもなく、親が、そして「世間」が、文部科学省が、「目に見える成果」を要求している。そちらの方がよほど問題ではないかしら? そしてそれは行政がどうにかできる範囲を超えている。平松さんだって何もできていないでしょ(彼の場合はそもそも何ごとかをなそうとしたのかという問題がありうるけれど)。

 (未了)

| | トラックバック (0)

2012年1月 8日 (日)

第 48 回大学選手権決勝

 帝京対天理 15-12(12-7) トライ数 2-2

 体格で劣るチームが如何に戦うかという観点からすれば、今回の決勝戦は非常に興味深かった。ここ数年で随一とさえいえるかもしれない。比較対象として――まあわざわざ別のチームと対照させる必要はないという意見はありうる――思い出されるのは、かつての早明戦ではなく、1992 年度大会で優勝した法政だろう。競技のオープン化以前のことゆゑ、今にして思えば牧歌的というか、さまざまな点で異なっていたけれども、軽量だが機動力にすぐれ、よく働くフォワーヅと、決定力のあるバックスから成るチームとしてある程度まで似ているといえるのではないだろうか。
 もちろん、あの時の法政はのちの代表(坂田、伊藤、苑田、秋山)やそれに次ぐクラスのプレーヤー(中瀬とか)を多数擁していたわけで、チーム総合力の純粋な比較というのはあまり意味がないけれど、それでもこうした、やや偏頗な見方が成立するとすればそれは、ただ大学間の試合というにとどまらず、ジャパンの戦い方とどこかでつながっている、あるいはつながっていて欲しいと思わせるところがあるからだろう。
 事実、1992 年当時にテレビの解説をしていた小藪氏は、その後ジャパンの監督となってから、たとえば法政 FW 第一列を起用するなどしていたはずだ(A 代表だったかしら?)。法政のゲームに感心し、しかしそこから何かを学んで代表チームに応用するのではなく、たんにその選手をちょっと使ってみただけというところに、同氏の監督としての浅はかさが表れていると思うし、それが 95 年のワールドカップの惨劇につながったのは間違いないところだが。
 それはともかくとして、法政はバックスのラインを深く敷いていたから、その点では横井章氏の説く方法とも、そして天理のやり方とも異なっていたが、スペースのない状態で攻めることが求められる現代のラグビーに有効なのは、もちろん浅いラインである(もっとも、準決勝の対関東学院戦では立川は飛ばしパスを多用していた)。

 ボールおよび地域支配率で圧倒された天理はよくやったと思う。というか、勝ってもおかしくなかっただけに、プレーヤーも、そして監督も(監督としては)初めての決勝ということもあり、勝ち方、勝ち試合の締め方に甘さがあった点、大いに悔やまれる。
 具体的な敗因としては、ボールを大部分支配されるとう前提でマッチに臨んでいたとすれば、ラインアウトのミスと、ハンドリングエラーということになる。またボール支配率で五分を見込んでいたとすれば、戦略の間違いということになるだろう。
 また、ラック周辺での反則(たとえば横から入るなど)の多さは気になった。レフリーの見逃し・見落としに救われたという面が多分にあって(帝京にも同じことが幾分かいえるけれど)、プレーの質自体がもたらす緊張感は、僅差の勝負にもかかわらず、あまりなかったように思う。

 帝京はディフェンスがやはりうまかった。ボールが取れないこともあって、天理の CTB コンビが辛抱しきれずに強引なクラッシュを仕掛けてしまう場面が目に付いた。天理のフロントスリーは準決勝ではパスのタイミングや受け手の走り込む角度の工夫によって面白いようにラインを突破していたが、今日はブレークできたのはほんの数回だったと思う。それは要するに、帝京のライン DF がバイフとハベアをよく封じたということだろう。クリエイティブという感じはほとんどないが、帝京が総合的に一番強かったのは間違いない。

 手放しで天理を称賛するというのではないけれども、この日のゲームをもう一度ゆっくりと見返していろいろ分析してみたいという気になったし、また例えば早稲田や筑波とのゲームがどのようになるかという夢想に誘われもした。
 立川選手はきちんと育てれば 2019 年の SO になるかもしれない。 早稲田出身の好プレーヤーたちが上手い具合に伸びずに終わるのをわれわれは歯痒い気持で見てきたが、その二の舞にはならぬよう祈るばかりです。

| | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2012年3月 »