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2014年2月

2014年2月 8日 (土)

翻訳論二編

 有線放送で最近耳にする楽曲、どこかで聞いたことがあるなあと、でも想い出せない、きっとこの曲自体がそれなりに知られたもので、だから要するに聴覚上のデジャ・ヴュだろう……と思っていたら、「パクリ」疑惑がもち上がっているんですね。それで想い出した。オリジナル・ラブの「接吻」。
 今回、疑われている側が「サンプリング(引用)」を否定しているらしく、ややこしいことになりそうな塩梅ではあるけれども、まあ「オリジナル」の方だってもしかすると隠された元歌があるかもしれないし。
 それで、その問題の一曲を初めて通しで聴いてみたわけですが、うーん、これは……(創作方法としての)剽窃としても、(一種の「翻訳」としての)カバーとしても評価できないな。田島貴男は自分のトム・ジョーンズみたいな声で朗々と歌い上げることを前提に作曲したわけだろうから、そこでは声や演奏と楽曲との間にある種の必然的な関係が存在しているはず。とするなら、本当に意味あるカバーとは、そのような紐帯を一度断ち切ったうえで、別の新たな紐帯というか関係をその曲と自分の声なり演奏なりとの間に打ち立てるのでなくてはならないだろう(声・演奏を言語と捉えれば文学の翻訳と事情は同じ)。そうして打ち立てられた新たな関わり方によって作品の新たな一面が見出されること、それが翻訳の真の意義のひとつである――というのがゲーテ、そしてアントワーヌ・ベルマンの主張だった。そのような意味での発見はないな、残念ながら。
 今回の事例で尚のこと悪いと思われるのは、元歌の核となっているサビをそのまま自身の曲の核心としてしまっている点だ。早い話、いずれの楽曲も、このサビの部分がなければ成り立たないような(というかサビだけエンドレスで聴きたくなるような)ところがあるので、本当に剽窃があったとしてだが、その剽窃よりむしろ、元歌の中核にあるサビをパクって、自分の歌の主役に据えるという曲作りの作法がそもそもおかしいのではないか。
 Pet Shop BoysがU2のWhere the Streets Have No Nameをカバーする際に、あの「君の瞳に恋してる」を一部取り込んだことがあったけれども、あれは何をしていたかといえば、この二曲はどこか似ているよねっていうひとつの発見、つまりは批評ですよね。そういう洒落気があればよかったのですが。

    *

 昨年暮れに翻訳論の注目すべき本が二冊、なんと同日に刊行された。
 ジョン・サリスの『翻訳について』(原著2002年)、そしてアントワーヌ・ベルマンの『翻訳の時代』(原著2008年)。

 後者はなぜか訳者の岸正樹さんが御恵投くださったので、何か書くべきなのだろうけれど、ベンヤミンはちょっとわたくしの手に余るところがあるなあというのが正直なところ。恵投返しで赦してもらえれば有難いのですけれど! 日本語で改めて読み返すことによって発見もあるだろうから、まあ追々に。ベンヤミンの「専門家」たちは読んでいるのかな。そういう人々の感想を聞きたいものである。今のところ、ウェブ上ではそのようなものは見当たらない。
 なぜあの本の前にベンヤミン論が?と思われた人もいるかもしれない。あの本、つまり『翻訳と文字』はわたくしが訳します。もっと早い時期に刊行されているはずだったのが、計画よりだいぶ遅れて三月中に何とか出るかな。今は初校刷が上がってくるのを待っているところです。前の本では著者校正の時間は実質的に一週間しか与えられなかった。一週間では文章の見直しなんかとても出来ないので、今回はたっぷり時間をとるつもりでいたのだが、そういうわけにはゆかないようである。

 前者も、見た限りでは、ひとりだけ、カントを中心に研究している人がチッターで紹介しているのみかな。他に同様にチッターで「この「翻訳」についての書物を西山さんの翻訳で読めるというのが素晴らしい」というような趣旨の「呟き」を漏らしている人がいたけれども、西山達也氏の仕事を知っている者からすれば、そんなことは言われなくてもわかっていることなのであって、これはだからほとんど意味のない内輪褒めである。いやまだ読んでいないわけだから、褒めてさえいないな。むしろ皆、西山氏がいずれ上梓されるであろう翻訳論をこそ心待ちにしているはず。
 以下、乱雑なメモを。

 哲学研究者が翻訳を論ずるとき、ややもすると言葉を論じているのと何ら変わりのない議論になってしまうところがある。それは言葉そして翻訳の本質に根ざす必然的横滑りではあるのだが(デリダなどは当然わかったうえでやっている)、「翻訳」事象一般に還元されてしまうのはまずいようにも思われる。ベルマンが繰りかえし注意を喚起しているのもその点だが、ジョン・サリスは言語と翻訳を同一化してしまうのではなく、両者を切り分けつつ関係づけようとしており、この辺りの問題を整理したい向きには一読をおすすめしたい。もっとも、整理とはいえ、それら二者の複雑な絡み合いが単純化・矮小化されることなく明晰に記述されているということなので、すっきりするというより、問いの所在がはっきりするといった方がよいかもしれない。

 新味があると思われたのは、「無翻訳の夢」という主題、正確には、翻訳の問いを「無翻訳の夢」という主題を通じて考えている点である。
 夢というのは、それが現実にはありえないからだが、にもかかわらずそれは絶えず夢見られる。「翻訳をしないということ」、「あらゆる翻訳を超えたところで思考を開始するということ」〔22頁〕、つまり翻訳の彼岸で考えるということは、実のところは「まったく何も意味することができない無言へと陥ってしまうことにほかならない」〔25頁〕。

しかしながら、たしかに思考が言説によって拘束されていることは間違いないとしても、思考とはまさに翻訳にほかならないのだと主張するためには、翻訳という語の意味を過剰に逸脱させなければならないように思われる。〔26頁〕

 翻訳論のひとつの問いがだからまさにここから始まる。「無翻訳(no translation)」というのは、サリスから少し離れていえば、地球上に言語が唯ひとつしか存在しない、あるいはその裏返しとして、地球上のあらゆる人間があらゆる言語を操る(オムニリンガル?)ような極限の状態ばかりではなく、地球上の諸言語が互いに無関心・不干渉であるような状態、また例えば「英語に訳され易いような日本語で書く」という、翻訳に伴う障壁を無化したり減じたりするような傾向も含まれるだろう。あるいはまた、翻訳の拒絶というあり方(水村美苗『私小説 from left to right』)などもそうかもしれない。サリスもだからグローバリゼーションに言及しているのだが、ちょっとあっさりし過ぎてその点では物足りなく感じた。

グローバル化によって、これらの境界は抹消されるのではなく、たんに通過しやすいものになるだけなのである。どれほど通過しやすいものになるとしても、数々の境界は残り続ける。このことを保証しているものは言語的な差異にほかならない。たとえ境界の存続を保証するものが、ほかに存在しなくなってしまったとしてもである。〔33-34頁〕

とサリスは述べているけれども――そしてサリスは何もグローバル化を時事的に批判すべくこの本を書いたわけではないだろうから過大な期待は無用だが――わたくしはこの点ではそれほど楽観的にはなれない。境界はなくなりはしまい。だがそれは、国際的・多国籍的企業体が、まさしく境界の存在ゆえに利益を得ることができるようなシステムになっているから、まただから、その限りにおいてでしかないだろう。

 ほかにcountertranslationという概念が出てくる。サリス自身が提唱しているもののようである(Boys-Stones, Graziosi, Vasunia, The Oxford Handbook of Hellenic Studies, Oxford University Press)。

〔…〕歴史の厚みと多様性、そして錯綜ゆえに、たとえばギリシアの思考に到達するためには、数多くの折り重なった層を分離し、翻訳作業によって堆積したものを掘り起こすという注意深くかつ粘り強い作業が必要となるのである。近代の言語をギリシア語に翻訳し戻す[translate one’s own language back into Greek]――ギリシア語へと重ねて翻訳する[translate back upon]――ことなしに、近代語からギリシア語へと移行する[translate from one’s own language to Greek]という逆翻訳[countertranslation]によってはじめて、ギリシア語のテクストへと接近することが可能になり、たとえばハイデガーが提起したようにアリストテレスをギリシア語へと翻訳しなおすことが可能になるのである。〔32頁〕

Only by way of a countertranslating that translates back from one's own language to Greek without translating one's own language back into -- back upon -- Greek can one, as Heidegger proposed, translate Aristotole back into Greek, gaining an access to the Greek text. [John Sallis, On Translation, 2002, p. 6]

一読してやや混乱したが、countertranslationとは、サリスが他の書物で

[…] contertranslation, since it runs backward, reversing or undoing translations effected in the history of metaphysics and before that history [Salis, The Gathering of Reason, second ed., Buffalo, SUNY Press, 2012, p. xiv, preface to the second edition]

などと述べていることを考慮するとどうやら、単純に翻訳をなかったことにする(to undo the translation)のではなく、「歴史の厚みと多様性、そして錯綜」を踏まえたうえで、出発点に戻るということのようだ〔234-236頁など〕。そのようにしてギリシャ語に立ち戻らなくては本当の意味でたとえばアリストテレスを解釈(ハイデガーにとっては翻訳でもある)できないと。
 たとえば西欧語話者からすれば、ギリシャ語の手前にラテン語が立ちはだかっており、ギリシャ語との直接的関係を享受できるわけではない。だからといって、間をすっとばすようなことも出来はしない。フランス語なり英語、ドイツ語なりは程度の差はあれいずれもそのラテン語からの翻訳によって出来上がってきた経緯があるからだ。つまりcounter-はこの場合、戻すという意味と、以前の翻訳に抗うという意味の両方をもつことになる。
 哲学を始めとする理論的文章を読むとき、そしてとりわけ自ら理論的に考え、展開しようとするとき、原著・原語に返らなくてはならないわけで、だからサリスがこのように論を展開するのは当然なのだが、そうすると「無翻訳」とこのcountertranslationとの関係はどうなっているのだろうか。

一方で、我々は決して無翻訳の地点には到達することができず、他方で、諸言語が互いに離散している状態を効果的に制禦することで翻訳の作用を帳消しにし、諸言語が完璧に調和しあう無翻訳の地点を事実上回復するような、翻訳/逆翻訳の地点にも到達することができないように思われる。〔33頁〕

とすると、これは同じ事態の二面、単純に善悪と割り切ることはできないだろうけれど、とにかくそうした二面ということなのか。いずれにせよ、サリスは少なくともギリシャ古典研究は理想的なあり方として後者の「翻訳/逆翻訳」を目指すべきといっているように読めないこともない。
 ひとつ疑問に思うのは、現在、ギリシャ古典研究、たとえばプラトンの研究は世界的に英語で行われるようになっている、つまり論文は英語で発表されているのだが、そのことはまったく無関係なのだろうか。プラトンとの直接的関係を夢見ながらフランス語話者が(おそらくは)フランス語で考えたことを英語に「翻訳」する。このいわば技術的な、道具としての「翻訳」作業を英語話者は免れているわけで、この点が言及されてもよかったのではないかと少し思った。簡単には答えが出そうにないので、続きはまた別の機会に考える。

 サリスは、意味の単純な再現(これは伝達と呼んでもよいだろう)を困難にするような翻訳を「非相互的」と規定している。たとえば wine → 葡萄酒 → wine という具合に戻す(すなわち「逆翻訳」する)ことが不可能な翻訳である。厚みをもつテクストの翻訳はどうしたって「非相互的」なものになってしまう。だがしかしと、サリスはつけ加えていう。こうした「非相互的」、非伝達的翻訳が意味を保存・再現し損なったがゆえに、つまり意味を軸とした翻しや「循環」を阻害するゆえに不完全と見なすのではなく、意味なるものの概念を見直すべきだと〔238頁〕。
 意味を中心に翻訳を考えても無駄というのが、メショニックやベルマンの解釈学的翻訳論批判の要諦だった(彼らは解釈学をやや矮小化しているような気がするけれど)。ガダマーに言及するサリスもまた、そうした解釈学的傾向から完全に自由というわけではないが、それでも「精神と文字」という不毛な二元論の再検討の手がかりとして有効な議論が提起されているように思う。とりわけ、翻訳をコミュニケーションと同一視する傾向をますます強める言語学的翻訳研究者たちに読んでもらいたいと願っている。

 それはそうと、これもインターネットで読んだ記事なのだが(http://dotplace.jp/archives/7448)、『翻訳について』は初刷七百部とのこと。ちょっと衝撃を受けますよね。それだけしか売れないと見積もられたのだから。この種の本はもちろん、売れればよいというものでは全くないわけだけれど、それにしてもね。この記事を読んでわたくしは、四月から始まる講義のシラバスの「参考書」欄にこの本を挙げようと決めた。ベルマンの本も挙げましたけど、こちらは間に合うかなあ、また著者校が一週間かよ。

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2014年2月 7日 (金)

選挙

 都知事選はほんとうに誰に票を投じたらよいか迷いますよね。わたくしは東京都では投票権はもっていないのですがね。これなら猪瀬でええやんと、友人と笑いました。もっともその友人は旧道路公団の社員なので猪瀬には反感を抱いているのですけれど。とにかく、これほどまでに人材が枯渇しているということに衝撃を受けました。逆にいうなら、東京は誰が知事をやるのでもそれなりに動くと、そういうことでもありますね。

 対照的に大阪は、維新の会に頑張ってもらわないといけないのですが(大阪の役所や議会がどれほどひどいかはここでは書きませんが)、石原と野合したり、何だか訳の分からないことをやっています。
 わたくしは贔屓目に見過ぎなのかもしれませんが、大阪市の分割というのは、「私/役所」しかない現在の社会に中間的な公共空間、あるいは中間でなくともよいとすれば、ともかく第三の社会的空間をつくり出す契機となるかもしれない政策と思われるので、これが実現しないことになったら、お笑い都知事選どころぢゃあない衝撃で寝込むかもしれない。きちんと説明できない議員たちも悪いのだが、選挙民も自覚がほとんどないようなので、心配は募るばかりです。
 たとえばわかりやすい例を挙げるなら、文楽協会騒動。あのとき感じられたのは、大阪の人間は、私の空間の外の出来事は一切合財を役所仕事と考えているということでした。そんなことをすれば役所は肥大化し、無駄が増えるばかりなのに。というのも、「無駄な金は出さない」という趣旨の橋下の発言は、たとえば金持ちが援助を申し出る、あるいは有志が募金するなど、私でも役所でもない第三の社会的空間が起ちあがるのを期待してのことではなかったでしょうか。でも現実はというと、誰もが「役所は金を出すべきか否か」のみを論じていたわけで、やはり日本には民主主義はないのだなと、強く感じさせられました。

 そもそも政治仕事や役所仕事というのは、共同体がごく小さいものであれば、住民が持ち回りで順番に担ってゆくような類のものにすぎない。少なくとも理屈のうえではね。
 現実にはそうではなく、政治家を含む公務員は一種の貴族階級になってしまっている。維新の会はそこにビジネスの流儀を持ち込もうとしたわけだけど、御存知の通り、上手く運んではいない(公募区長や公募校長どもの不祥事……)。当り前だ。役所仕事というのは、われわれの日々の活動を下から支える地味な業務にすぎず、金儲けを目的として営まれるものではないのだから。近年はわたくしの住むところの市役所でも、市民はお客さん扱いですよ。違う、違うんだ、そうぢゃない。彼らはとりあえずへりくだっておけば、おのれの特権的身分は保証されるわけだから、それでよいのだろうけれど、われわれは客じゃないんだよ。本来は自分たちの手でやる事柄を、規模が大きく、また複雑になってきたので、とりあえず専従者を置いているだけの話なんだから。

 ねえ、みんなジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』くらい読みましょうよ。

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