« 2014年2月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年9月

2014年9月23日 (火)

『翻訳の倫理学』について

(2015年5月吉日加筆)

 アントワーヌ・ベルマン著『翻訳と文字』の日本語訳刊行から三ヶ月が経過しました。
 『異なるものの試練』(邦題『他者という試練』)の時とは異なって、ベルマン氏のこともある程度は知られるようになっている――ウィキペディアにも彼の項目がいつの間にか立てられていることに驚きつつ、わたくし自身の名前の赤リンクは削除しておきました――ことなどから、補足として殊更に付け加えることはありません。必要とされる方が読んで下されば、訳者としては本望であります。
 宣伝広報も出版社に全面的に委ねており、何部売れたかなども把握しておりません。

 ひとこと表紙カバーの写真について説明をしておくならあれは――わかる人には一目瞭然でしょうけど――パリ滞在中に利用した国立図書館(BnF)と対岸の、シネマテークなどを擁するL・バーンスタイン広場の間に架けられた「シモーヌ・ド・ボーヴォワール歩道橋」です。本の装幀に使うなどとは夢にも思わぬまま無造作に撮影された写真で、解像度が低いなど技術的な問題もあったのですが、それでも何とか他人様に見せられるようになってはいるとすればそれは、ひとえにフォトショップ・オペレーターの匠の御蔭です。
 カバーの表側ならびに本体の扉頁の意匠は、わたくしの原案をデザイナーが仕上げてくれたもの。参考として託した他の写真をカバー裏側(フランス語にいう quatrième de couverture)に利用するというのは編集者とデザイナーの発案ですが、いずれにしても、放っておくと大学の教科書然としたデザインになっていただろう(版元のHP参照)ことを思うと、一般書店に陳列されても特別におかしいところのない程度に仕上がってはいると思います。紙の種類も汚れにくいもので、すぐれた選択でしょう。

 本当のところ、翻訳などというものは、カール・ラインハルトが古典文献学と古典の関係について述べたのと同様、(「ポン・ヌフのように」)堅固な橋ではなく、またそうであってはならないはずです。「原典とは実のところ不動の与件ではなく、ひとつの闘争が生起する場」(ベルマン『試練』348頁)であり、かつまた翻訳する側の言語が翻訳の営みを通して変貌してゆくということが真実であるならば。ラインハルトは次のようにその関係をいい表しています(紙幅の都合上、割愛せざるをえなかった文章の一節です)。

あの(一九三〇年にナウムブルクで開かれた[…])会議で明らかとされながら、はっきりと言明されなかったのは、一八〇〇年頃から一九三〇年頃にかけて、歴史学的=文献学的な意識が自らの展開の結果、座標軸を回転させたという事実です。(中略)喩えを使って私(ラインハルト)に話をさせて下さい。人は歴史主義というますます広くなる流れの中で泳ぎ続けることに疲れ、何か不動のもの、確固とした立場や絶対的な価値、いわば島を求め、それを我々のヨーロッパ文化の全時代の中からギリシャの紀元前五世紀の中に固定された古典的なもの、という理想の中に見出しました。そこで明らかとなったのは、島自体が流れと共に漂流する、ということでした。どうすればよかったのでしょうか? 人はその島を固定するために、ありとあらゆる種類の碇をすべての方向へ投げ、最後には現象学風の個人的な信仰告白という碇すら投げるに至りました。(中略)しかし美しい調和は次第に空虚なものとなり、あるいはこの美しい調和から不協和音が現れました。そしてあの(ドイツ古典主義の)最後の期間ほど、たとえ不協和音がすでに潜在的に調和の下に漂っているにせよ、調和が成就しているように見えることはありません。私たちはドイツ・ヒューマニズムの象徴としてシラーの「ギリシャの神々」を、ドイツの歴史主義の象徴として、その精神における最初の大事業、つまり「ギリシャ碑文集成」の事業の開始を取り上げてみましょう。すると私たちは、この両者が互いに十五年しか離れていないことを見出します。「ギリシャの神々」はその修正を加えた再版が一八〇〇年に出版され、アウグスト・ベークは一八一五年にベルリンのアカデミーにギリシャの碑文を収集するための申請を行いました。(中略)しかし彼は、「碑文」の精神がどの程度の規模でギリシャの神々を破壊することになるのか、予測できませんでした。その後、古代について責任ある仕方で言明された全てのことは、以前のあらゆる言明から根本的に区別されました。それは、模範や理想や思弁的な構築、あるいはしばしば言われたように「夢」の代わりに歴史学的な「真理」という形を取った「現実」が入り込んだためだけではなく、それ以上に直接的な関係、古代の声から直接呼びかけられる代わりに間接的で距離を置いた関係、古代を制限し明らかにする歴史的・空間的な連続性に関する古代のあらゆる言明のその都度の関係への問いが入り込んだためなのです。(Reinhardt, Karl : « Die Klassische Philologie und das Klassische » (1942), Begriffsbestimmung der Klassik und des Klassischen, hrsg. von Heinz Otto Burger, Darmstadt, 1972, S. 68-71.ブルガー編著『ドイツ古典主義研究』相良守峯監修、加藤慶二他訳、エンヨー、1979、曽田長人「近代ドイツのヒューマニズム」『早稲田大学地中海研究所紀要』第5号、2007、46頁、註21より、アラビア数字は漢字に改めたうえで引用した。)

 「すなわち、豊かさが始まるのは/海なのだ」という、ヘルダーリンの詩句(「追想」)が思い出されるようなラインハルトの喩えは、翻訳の領域においてもさまざまなことを考えさせる。翻訳は「島」と「島」の間に橋を架けることなのだと、さしあたってそう考えることが可能として、しかしそれら「島々」が不断に「漂流」するのであってみれば、翻訳も架橋【かけはし】とは名ばかりの浮橋、舟橋となるほかないのではないでしょうか。とはいえ、この本の表紙のためにロケーション・ハンティングを行なう余裕はなかったため、(石造ではない)木が部分的に用いられた橋で妥協することとなりました。いずれにしても、名前がいいですよね。シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋。

 そのような次第で、わたくしは本文・原註の日本語訳ならびに訳註、使用されている三葉の写真、そして表紙カバー表側および扉の意匠原案、また邦題の副題を担当しました。(邦題主題と帯は編集者の領分。)
 本文や原註の内容については原著者本人に問い合わせるのが最善です。訳者は作者とは別人格であって、著者に成り代わることはできませんので。
 訳文についての疑問には訳者として最大限の誠意とともにお答え(お応え)する所存です。

      *

 ついでながら、同様に割愛しなくてはならなかった訳註をもうひとつ。プルースト『花咲く乙女たちの蔭に』より。

 参考のため同時代のフランス語小説における会話の例を紹介しておこう。学校の試験として課された「ソポクレースが地獄からラシーヌに『アタリー』の失敗を慰めて書き送る手紙を想像せよ」という題目に対するあるひとりの「花咲く乙女」の解答を別の「乙女」が他の「乙女たち」に読んで聴かせる場面である(会話ならびに地の文中の「話し言葉」を斜体で、挿入節による重層的な展開を下線で示した。便宜上、改行箇所を増やしてある)。

La lettre de Sophocle à Racine, rédigée par Gisèle, commençait ainsi : « Mon cher ami, excusez-moi de vous écrire […].
[…]. qu’Andrée, consultée comme plus grande et comme plus calée, d’abord parla du devoir de Gisèle […], refit à sa façon la même lettre.
« Ce n’est pas mal, dit-elle à Albertine, mais si j’étais toi et qu’on me donne le même sujet, ce qui peut arriver, car on le donne très souvent, je ne ferais pas comme cela. Voilà comment je m’y prendrais. D’abord si j’avais été Gisèle je ne me serais pas laissée emballer […]. Dès l’exposition du sujet ou si tu aimes mieux, Titine, puisque c’est une lettre, dès l’entrée en matière, Gisèle a gaffé. Écrivant à un homme du XVIIe siècle Sophocle ne devait pas écrire : « Mon cher ami. »
– Elle aurait dû, en effet, lui faire dire : mon cher Racine, s’écria fougueusement Albertine. Ç’aurait été bien mieux.
– Non, répondit Andrée sur un ton un peu persifleur, elle aurait dû mettre : “Monsieur”. […].

ジゼールがしたためているソポクレスのラシーヌあての手紙というのは、こんなふうにはじまっていた、「親愛なる友よ、[…]ここに手紙をしたためることをおゆるしください[…]。
 […]アンドレが頭のいい年長者としてずっと相談を受けながら[…]自分流に、この手紙をつぎのようにつくりなおしたときだった。「まずくはないわ」とアンドレはアルベルチーヌにいった、「でも、もし私があなたで、これとおなじ問題を出されたとしたら――出されるかもしれないのよ、こんなのはとてもよく出る問題だから――私はそんなふうにはやらない。私ならこうやるの。まず、私がジゼールなら、あがってしまわないで[…]。ジゼールは、最初からへまをやってるのよ、主題を述べるときから、ねえ、そうじゃない、チチーヌ、そういってわるければ本文にはいるときから、といったほうがいいわね、だってこれ書簡文なんですもの。十七世紀の人に手紙を送るのにソポクレスが、親愛なる友よ、なんて書くはずはないんですもの。」――「むろん、親愛なるラシーヌよ、といわせるべきだったわね」とアルベルチーヌがせっかちに声を高めた、「そのほうがよかったんじゃないの。」――「よくないわよ」とアンドレは、ちょっと茶化すような口調で答えた。「《貴下》と出るべきよ。[…]。」
(Proust : À l’ombre des jeunes filles en fleurs (1919), À la recherche du temps perdu, édition de J.-Y. Tadié, op. cit., t. II, 1988, p. 264-266.プルースト『花咲く乙女たちのかげに 第二部』井上究一郎訳、ちくま文庫、1992、374-378頁)

これはどちらかとえば裕福な家の子女の言葉である。ちなみにアンドレは、「最良の時間とはジョージ・エリオットのある長篇小説を訳しているとき」と語られるような少女(p. 295)。あるいは

« […]. – Mais alors, il y a une différence immense entre une toilette de Callot et celle d’un couturier quelconque ? demandai-je à Albertine. – Mais énorme, mon petit bonhomme, me répondit-elle. […]. »(Proust : À l’ombre des jeunes filles en fleurs, op. cit., p. 254)

「[…]。じゃあ、カロの装いとそこら辺りの仕立屋の装いではたいへんな違いがあるんですか? 私はアルベルチーヌに尋ねた――もちろん段違いよ、坊やね」。彼女は私にそう答えた。

 ふふふっと、思わず笑みが零れてしまうような一節ですね。井上究一郎はほんとうに文章が上手い。

      *

 翻訳者としては、本の売れ行き以上に、受容のされ方が気に懸かるのですけれど、読んでくださった方全員がWWWで御意見御感想を表明するわけではなく、基本的には待つほかありません。といいつつウェブ検索を敢行してみた限りでは、まともに読んでくださった(うえでまとまった分量の御意見を表明された)のは、やはりというべきでしょうか、中井秀明さんお独りのようです。いわゆる実務翻訳・産業翻訳に従事されながら、翻訳思想について根本から考えておられる中井さんにはわたくしは常々敬意を抱いており、今回の訳本をたとえば献呈申し上げてもよかったのですが(ウェブを介していくらか交流はあります)、何というか、内輪のなれ合いみたいな印象を与えることを恐れ、敢えてそのようにはしませんでした。

 それ以外はというと例えば……あるチッターで要約された本書の内容の一部(たぶん「訳者あとがき」と前半)を読んだのみで

意味のコミュニケーションを理想化した昨今の翻訳工学(トランスレーション・スタディーズ)」という整理は過度に一面的では…と思うけど、訳者の発言をふまえたものなのか。単純に見て、ベルマン以降の〈翻訳の倫理学〉的構えは今日のTSの重要な一翼をなすものだと思うけど。>RT

などと呟いてしまう日本文学研究者とか。(なんだこの人は。日本語で書かれたものなら何にでもとりあえず首を突っ込まずには済ませられぬ「いっちょかみ」ですか! 「TS」問題はもはや「単純に見て」何か有効な指摘を行なえる段階ではなく、戦争が始まっているのですぞ>RT)

 また例えば、広義の文学的翻訳を扱うと著者が述べているのに、そしてだから読む必要はそもそもないはずなのに、同じチッターに反応して(「トランスレーション・スタディーズ=「翻訳工学」は、メウロコ!」って、この言葉づかい……)飛び付いてはしまったものの、想像していたのと違っているので、虚心坦懐に読むことを放棄してしまった「理科系」翻訳家とか。
 理系だろうと文系だろうと、文章はまず正確に(とはしかし作者の意図通りにということでは必ずしもない)読まないと話は始まらないはずなのですが、そして(先に述べたように)訳者は著者とは別人格であって、正確に読まれた上での批判はむしろ歓迎しているわけですけれど、その水準には全く達していないあまりの読めていなさ加減には、ちょっと一言したくなりもします。鱗はまだ貼りついたままだから。

「翻訳の複数性」(同じ原文に対して訳文が複数ありうる)という議論も、これまたまやかしだと思う。というか、ただ一つのものを目指して刻苦勉励しているわけでもある。読まれる状況の複数性の議論とごっちゃになった「翻訳の複数性」の議論なんて、くそくらえ。

 「翻訳の複数性」うんぬんは訳書12頁あたりのことでしょうけれど、その「複数性」は「同じ原文に対して訳文が複数ありうる」などということではありません。『他者という試練』ですでにベルマンは、ヘルダーリンの訳業に関連して、翻訳の恣意的な複数性には否定的な見解を述べています。

[…]ヘルダーリンの作業は、実際の形成時期にまで遡って把握された作品との、根柢的でただ翻訳においてのみ可能な関わり方から来ている。だからこそ、それは恣意的なものでも、解釈の領域に属すものでもないといいうるのだ。最大限譲っていうならこの同じ根柢的な関係性から出発しつつも結果的に別の形の翻訳ができあがる可能性はあるだろう。そうであっても、ヘルダーリンが外国語や外国語作品とのかかわりにおける翻訳行為のひとつの本質的な可能性に、さらにはひとつの本質的な必然性にさえ確実に触れていたとはやはりいえるのであって、それを彼はきわめて厳密な仕方でいい表わしたということなのだ。翻訳は「実際の形成時期まで遡る」からこそ、作品とひとつの関係を、他の関係から類推しえぬというばかりか、より根本的でより「責任ある」関係を結ぶ。〔351頁〕

『他者という試練』は読んでない? ああ、それは仕方ありませんねえ、でも『翻訳の倫理学』を読めば、それが「同じ原文に対して訳文が複数ありうる」というような話ではなく、文学には文学の、法律には法律の、科学論文にももちろんそれ固有の翻訳があるということなのは明らかです(9頁)。考えてみれば当たり前のことなのに、言語学的トランスレーションスタディーズではなぜか一律に、ただひとつの「翻訳」として研究されているのはおかしいというのがベルマンの指摘の要諦です。「読まれる状況の複数性」とやらは、文学の生成研究に属すような「読者論」(最近翻訳研究にも輸入されている)のことだと思いますが、ベルマンは読者のことを考える翻訳について否定的に述べていますよ、まさにこの本で。つまり、「ごっちゃ」にしているのは、批判した気になっている当の御本人ということになります。
 というよりこの方、もしかして文(脈)を読まずに語だけで理解しようとしています? 「速読」法として、視線を斜めに走らせながら鍵語をつかまえてあたりをつけるというのはアリかもしれませんが、そしてそのように読まれるとの想定に立って書かれる本もあるのでしょうけれど、この本がそのように書かれてはいないということに気づきませんか?

 この程度の読解力で、いっちょまえに本を批判した気になる人もいるわけですね。え、と驚く方もいるかもしれませんが、わたくしは驚くよりも呆れてしまいました。この人もいっちょかみだな。いや違う、不真面目なんだ。不真面目で不誠実、非倫理的。
 そうしたこと以上に疑問に思うのは、なぜ必要のない、つまりこの人が携わっているのとは別の翻訳について書かれた、そして結果的には、自身の知性の無残を晒すことになってしまう本をわざわざ読もうとしたのか、という点です。本を御購入くださった大切なお客様ですから、それなりに遇するべきなのでしょうけれど、その購入の仕方が実は問題でね。

さきほどポチりました。日本の研究者側の翻訳論は、翻訳不可能性で止まっているし(現場はその先で七転八倒しつつ成果をあげている)、最近の翻訳スタディーズとやらは、紹介される限りは情報処理工学かという感じだしで、自力でなんとかするしかなく喘いでいたところです。

「ポチ」るというのは、わたくしの拙い翻訳力によれば、amazonで購入するということです。アマゾンでなくともとにかくインターネット通販で買ったと。しかし、広い意味でグローバル化に異議を唱えている本を、そのグローバル化の権化のような企業を通して購入するのはまずいのではないでしょうか。水村美苗の例の『日本語がどうのこうの』のアマゾン・レビューを見たときにも同じことを感じました。あなたがたは、他ならぬアマゾンで「ポチ」ることによって実はこの本の最も深いところにある意図を裏切っているのだと。(まあ、著者の方も、とにかく売れればよいやと思っていたかもしれませんけどね! とするなら読者も作者も真面目さが欠けていることになる。)
 もっと実際的な水準でいっても、本屋で手に取って購入を検討してみれば、自身に関係のない本を買ってしまうなどという世にも不幸な出来事は避けられたはずです。
 (この翻訳家の事例では、冷静に文章を読むことができていれば、そうした「不幸」が「幸福」へと成り変わる可能性もないではなかったろうと思われるだけに残念でなりません。)

 結論、というか教訓

  本は本屋で買うのが最善である。

      *

 変なところに着地してしまったので、今日はこの辺で一旦やめにしておきたいと思います。

      *

 (2015年1月追記)

 久保哲司さんが『図書新聞』に書評をしてくださいました(というか長らく気づかずにいましたが、昨年10月ですね)。どうも有難うございました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2014年12月 »