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2015年1月

2015年1月17日 (土)

フランスの事件

 さすがに驚きはしましたけどねえ(何も殺すことはないだろうって)、でもこれは「言論の自由」の問題ではないな。
 いや、フランス――とはしかし何か――や西洋諸国はこの事件をそうした自由への脅威と規定するのだろうけれど、日本では既にサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』の訳者が暗殺されているわけだから(1991年)、今更のように「言論の自由」対「テロリズム」とかいった問いを立てるのはおかしい。

 本当に読む価値のある――正しいかどうかは措いて、真の思考に導かれるような――分析は存外少ない。たとえば橋本一径氏によるもの。

もちろん、『シャルリー・エブド』の発行者たちが、自分たちの襲撃された後に、このような大行進が行われることを予想していた、などということが言いたいわけではない。しかし彼らの言論活動には、見えない後ろ盾が強さを与えていたのは確かであるように思う。その後ろ盾が、特異な形で目に見えるものとなったのが、日曜日の行進だったのではないか。

この後ろ盾を一言で言ってしまえば、それは「正義」ということになるだろう。そしてフランスに4年ばかり留学していた頃に、日本とフランスの最大の違いの一つとして実感したものこそ、このような「正義」の有無だった。[…]理念としては、「正義」は最後に勝つ。このような(ひょっとすると根拠のない)確信こそが、フランスに暮らす者の多くに、ある種の安心感を与えているように思う。

[…]

「正義」とはそもそもいったい何なのだろう。「正しい」ことだろうか。では「正しい」こととはいったい何だろうか。ピエール・ルジャンドルならそれを、「理にかなっていること」「合理的なこと」だと言うだろう。だからたとえば裁判でも中世の神判のように「不合理」な判決を下すのはやめて、証言や物証などの「理由」を集めて、「理にかなった」判決を下そうとしてきたのが、西洋の法システムであり、つまりは国家だった。

そこにおいて「不合理なもの」の代表といえば、「宗教」に他ならない。だからこそ西洋は世界中に世俗化を推し進め、各地の宗教的な規範を、合理的な法システムに置き換えてきたのである。イスラームのみならずユダヤやカトリックの教義の「不合理さ」をあげつらってきた『シャルリー・エブド』も、間違いなくこうした西洋的な「正義」のシステムの末裔だ。

だがそのような「正義」の根拠も、結局は「宗教的なもの」、「ドグマ的なもの」なのではないか。そのことをまざまざと見せつけたものこそ、日曜日のあの大行進だったのではないだろうか。あれほどの群衆と、その儀礼性、象徴性…。メッカへの巡礼を例に出すまでもなく、「宗教的なもの」の要素に満ち溢れているではないか。だからそれを見て、たとえばそこにネタニエフがいるのはおかしいだとか、大半の参加者は『シャルリー・エブド』なんて読んだことはないだとかの、一見「理にかなった」シニカルな批判を投げかけるのではなく、恍惚すら引き起こしそうなあの歓喜を、宗教的な儀礼として尊重すること--そのことこそが、「理性」vs.「非理性」の悪循環を食い止めるための、第一歩であるように思う。

370万人によるデモというのは圧倒的である。橋本氏は「動員」という表現を使っておられるけど、実際は「自発的」なものですよね(「動員する」の主語が「正義」だということは大いにあるだろうが)。これは一体何なのか。フランス政府は「戦争上等」っていうか、やる気満々で武力行使の機会を窺っているところだろうが、それとは必ずしも一対一では結びつかないこの「動員」。

 他方、フランス人がいうなら筋としてはわかる(内容には賛同しないけど)というような意見を披露している日本人も少なからずいましたね。例えば(お名前は伏せますが)次のようなチッター

1月16日
風刺に対して通常想定されるのは反論とか、批判といったものです。それに対して暴力をちらつかせるというのはそもそもルール違反で、風刺する側からすれば「不当に喧嘩を売られた」といったところでしょう。彼らは自分の国で伝統に基づくことをやろうとしただけです

テロを行った青年達は、同情に値する個々の事情などあるのでしょうが、暴力により先制攻撃をしたわけですから、その時点で詰んだ、ということではないですか?スポーツでもルールにない武器を持ちだしたら退場でしょう。

「退場」などの鍵語に注意しつつ虚心坦懐に読むなら、この呟きの主が「ルール」の及ばぬフィールドの外部を考慮の埒外に置いているようにも思われます。先の引用と比較して明らかなのは、いわば「フレーム外」に対する視線の有無ということになるかもしれません。リベラルな装いにもかかわらず、この種の議論は結局少数派の抑圧に加担している可能性を否定できないということになるでしょう。
(視野狭窄に陥るような人ではないと思っていたのだが……。この呟きだけを取り上げるのはそれこそ「ルール違反」かもしれない。ちょっとした論争になっています。)

 他には中立的で傾聴すべき指摘を行なう専門家が気の弛みからなのか、つい漏らしてしまった次のような呟き

1月17日

命懸けで風刺して卑劣な凶弾に倒れた同胞がおられるのに、安全な場所でフランス政府の宣伝部が「私はシャルリ」を名乗るとは軽薄ではないか?

同僚のフランス専門家たちから今回いろいろ学んだ。シャルリ・エブドの権力批判の精神は実に立派なものだ。ムスリムがあれをヘイトと受け取ることに気づかなかったのは間違いだし私も批判してきた。だが彼らの批判精神を国威発揚に利用する左派から極右までフランスの政治家達は恥を知るべきだ。

いやその「国威発揚」に利用する主体は政治家に限られたわけではありませんよと、わたくしもここで呟いておこう。国民がまさにこうした一種「宗教的」な寄合を欲していた可能性もあるのではないでしょうか。マラルメがなぜ偉いかといえば、『ディヴァガシオン』におけるフランス語ならざるフランス語と、それから「神の死」以降の、人々が集う機会としての宗教的なものについての思考ゆゑのことですよね。もちろん370万人全員が「戦争上等」と考えているなどといいたいわけではありません。人々の考えはもっと混沌としたもの、「不合理」なものでしょう。そして、だとすれば、一線は何処に引かれるべきなのか、あるいはそもそも線は引かれなくてはならないのかという問いが生ずるはずです、「フレーム外」に視線を馳せることができる人には。

 フランス共和国のライシテ、いわゆる世俗主義の目指すところがこうした衝突の回避にあったとして、しかしもはやそれは機能しなくなっているのかもしれません。状況が変わってしまった。かつては外にいた人々が今では内側にいる――いやしかし、それは本当に内側なのでしょうか。

    *

 「不法滞在者」を犯罪者と同一視するというと、悪名高い「在特会」を思い浮かべる人も多いことでしょうが、韓国の新聞の見出しを次のように紹介している記事がありました。

韓国朝刊。見出しが凄い。
「『犯罪時限爆弾』不法滞在者20万人」
不法滞在者は潜在的な犯罪者という意味。激減に成功した日本の話も。日本の韓国人不法滞在者数も書いてくれたらいいのに。それにしてもこの見出し日本内なら大騒ぎだったんだろうな

似非リベラル、似非左翼はこれを韓国の「右傾化」として批判しなきゃね。日本のことだけ考えていては駄目なのよ。

    *

 いや、もっと大掛かりな攻撃計画の一環なのか。動乱によって儲ける人間もいるからなあ……などとぼんやり考えていたところへ、「#ISISクソコラグランプリ」。
 どうにも笑えないフランス流諷刺画(イスラム関連もそうだが、腕が三本ある相撲取りとかありましたよね)とは違って、わたくしはこれには大笑いしてしまいました。どれだけ糞かと思ったら本当に糞なんだもの。そしてこれは一応「表現(の自由)」対「テロリズム」の「対立」と見なすことができるでしょう(西側先進諸国による中東政策は単純なものではないので、あくまで一側面としてはということに過ぎませんが。)
 もっとも、こうした画像の作成者たちはいわば安全な場所で巫山戯ているのであって、『シャルリ・エブド』の漫画家のように命を賭して戦っているということではないわけですが、その点を除外しうるとすれば、比較は成り立つでしょう。

 イスラム国は金が欲しいはずだから、人質を殺すとは考えにくいし、とりわけこれらコラージュ画像のせいでそういうことが起こる可能性は非常に低いと思う。もちろん、いうまでもなく、これら戯画の力で人質が解放されることもないだろうが。
 いい換えれば、「言論の自由」、「表現の自由」とは、善きにつけ悪しきにつけ、その程度のものなのではないか。言論の自由という観念がしばしば言論や言葉の(無制限の)全能感へと横滑りしているようにも見受けられるのだが、表現とは本質的に不自由なものだと思うし。つまりこれらコラージュ画像はその糞加減によって――湾岸戦争時の藤井貞和の「クソ詩」同様――「言論と暴力の対立」など偽の問いにすぎぬと訴えているのではないでしょうか。
 では真の問いは何処にある?

 

 (未了)

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2015年1月16日 (金)

大阪都構想

 大阪府下の行政の仕組を改変する「大阪都構想」がようやく、住民投票(5月17日)を待つばかりというところまで漕ぎ着けた。2011年の府市同時選挙から足掛け4年。長かったのか短かったのか、いずれにせよここまで進展したという事実に驚く人も大阪の外では多いのではないだろうか。
 もちろん、投票で否決される可能性はあって、直近の世論調査では確か6対4くらいで賛成者の方が多かったのだが、どうなるかはわからない。橋下徹は政治家の中では断トツで頭はいいけれど、肝腎の点をアピールするのは存外下手だなあと、わたくしはやきもきしていましたが、とりあえずはめでたいことであります。

 この構想の劃期的な点はまず、役所仕事を、大阪府(含大阪市)全体に関わることと、大阪市域の住民の日々の暮らしに直接かかわることに分けたところだろう。これまでの大阪市長はその両方を担うというほとんど不可能な任務を課されてきたわけで(それこそ橋下氏のような人であれば何とかこなせたかもしれないけれど、平松氏のような人には絶対無理)、役割の分担が提案されたのはきわめて合理的と思う。
 そういえば平松氏はチッターなどで「大阪市を潰す」とかそういった観点から文句をいい続けている。

1月2日
平松邦夫@hiramatsu_osaka

おはようございます。どうやら年末の騒動で、「住民投票」が実施される運びになりそうですね。大阪市を「潰したい」一心の大阪維新の会の皆さんに対して、「大阪市を潰させない」ために力を合わせましょう。
posted at 06:31:41

「改革改革ってゆうたはるんやから、いっぺんやらしてみたら…。」そんな軽い気持ちで「維新の会」に投票した大阪市民の皆さん、大阪市が潰されると、「いっぺんやらしてみたら」ではすまん。二度と戻らへんのですよ。
posted at 06:34:06

戻らんでもえぇ。大阪府を助けるために大阪市が財産投げ捨てるんや。そう覚悟を決められた大阪市民が圧倒的多数なら、大阪市は壊されます。代わってできるのが政令市としての権限や、また財源も吸い上げられる5つの特別区。おかしいと思われませんか。
posted at 06:37:41

この御仁はいったい何と戦っているのでしょうか。三番目の呟き、これは政治のひとつの務めである「所得再分配」に疑義を投げかけるネオリベ的政治思想の表明にほかなりません。大事なことなので繰りかえしますが、国政の水準では「地方交付税交付金」という形で、東京都や新「大阪都」でも財政調整制度という形で、地域間の所得(ないし税収)格差のある程度の均衡が図られ(てい)るにもかかわらず、平松氏はそうした制度を否定して、自分さえよければそれでよしといっているに等しい。世間――とはしかしのことなのか――では橋下徹が「ネオリベ」などといわれておりますが、それとは裏腹に平松邦夫その人の方がよほどネオリベ的だとわたくしには思われます。
 ついでに、いわゆるネオリベ的な生き方を日頃より批判してきた内田樹がまさに平松氏の側に立っていることを思い出しておくのも無駄ではないでしょう(参考URL:「公共政策ラボ」http://www.with-ppl.jp/ppl/ppl/)。
 だいたい、「大阪市」の財産や儲け、それらがすべて大阪市民だけで産み出されているわけではないという、中学生でもわかる事実を無視している時点で、この呟きはおよそ議論の名に値しないはずです。しかもその公金の使途が出鱈目だったわけで、そのことを知っている人間は、都構想によってそれが正しい方向にいくらかでも向かうのではないかと期待を寄せているのです。バブル時代の何百億円という投資がほぼそのまま負債として圧し掛かってきているという報道がありましたが(637億円の複合ビル「オーク200」、283億円の商業ビル「オスカードリーム」ほか)、直近でも

大阪市は関西電力の筆頭株主ですが、橋下市長は、「これ以上、株を保有するメリットはない」として、全部を売却する議案を提案していました。しかし、自民公明民主系共産の野党四会派は、「今、売却する必要性はない」として、この議案を否決しました。
また、維新が提案した「政務活動費の報告書や領収書をインターネット公開する条例案」も自民・公明・民主系の反対で否決されました。
一方、議員報酬の削減については、維新が「三割カット」。公明が「1割カット」を提案、維新以外が公明案に賛成し、来年四月からの「一割カット」が決まりました。ただし、現在の任期中は特例で「二割カット」されているため、実際には1割増額になります。

というニュースがありました。「自民・公明・民主系・共産の野党四会派」って要するに大政翼賛会でしょう。共産党はさすがに「政務活動費の報告書や領収書をインターネット公開する条例案」には賛成したようですが、それ以外では基本的に自民党と手を組んでいるわけで、同じ穴の貉というほかありません。しかも「三割削減」案が否決されたのは今回だけではないんです。
(関電株は(配当が無いしいうことも聞かないので)「これ以上保有するメリット」もないけれど、「今売却する必要」もなるほど特に見当たりませんね。確かなのは、筆頭株主とはいえ、持ち株が所詮中途半端だからこういう事態になるわけで、いっそ時価総額1兆円余の三分の二超の掌握を目標にすればどうだろう、ハコモノに無駄遣いするくらいなら。)

 市町村や都道府県の境などというものは便宜上のものであって(大阪都構想は現時点では後者の境界内での話なのですが)、それを自明の、また自然のものと見なすか否かで、率直にいうと、政治家の知性はおおよそ測られると思う。そして平松氏には残念ながら、世の多くの同類と同じく、政治家として最低限の知性が欠けている。大阪の人間は、あなたが投票日前日の討論会から逃げたことを――だから大阪では彼は「逃げ松」と呼ばれている――忘れてはいませんよ。

 こういうちょっと頭の足りない議論未満の呟きもしかし、物事を改めて考える切っ掛けにはなったりしますよね。たとえば大阪などというものは実はどこにもないとか。平松氏のような人は明らかに、それを大阪市役所管轄地域と同一視していますが、そしてこれまで地域住民もそのように漠然と考える人が多かったわけですが(一般的イメージとは違って大阪人は「お上」の決め事をそのまま受け入れてきたということです)、役所などというものは、必要に応じてとりあえず作られるものにすぎず、したがってまた必要に応じ組み換え、作り変えの対象となるものでしかありません。早い話が大阪の住民は、大阪市役所が「解体」されてもなお、おのれを「大阪人」へと自己同一化することに何の疑いももたぬだろうということです。
 では改めて、大阪はどこにあるのか。本当をいうと、そんなものは何処にもない。東京も――「東京/江戸」が永井荷風や小林信彦ら小説家のファンタスムの対象となってきたことは承知のうえで――、また当然、日本などというものも何処にも存在しはしない。われわれはただ、境界(のこちら側)を大阪であるとか東京とか日本とか呼び慣わしてきたにすぎません。そしてだからその境界には他者の存在の事実がつねにすでに織り込まれている。しかもその境は究極的には流動的なものにすぎず、未来永劫固定的に存続するものではありえません。
 そのようなわけで、大阪市役所が「解体」されても大阪市の境界はともかくとして、大阪がなくなることはないということになります。いい換えれば、市町村や都道府県の境界などというものは便宜上のものでしかないということに改めて気づかせてくれた点でも、大阪都構想は素晴らしいということですね!
 もちろんそれら境界と、国同士の境界は違うという意見はあるでしょう。形式的には相同だとしても、実際問題としては扱いが大きく異なるのだと。それはその通り。でもわたくしは、平松氏や内田氏のようなリベラルを装ったネオリベより、橋下氏のような人に、より大きな可能性を認めざるをえません。何の可能性か。それはここまでの拙ない小文を読めば明らかなはず。

 橋下徹は興味深い人であって、たとえば何故この人が政治に携わっているのかよくわかりませんよね。わたくしは実は府知事になる以前の彼の活動は全く知らないのです(フランスにいたからかな?)が、稼ぎがかなり減ったということだけを取っても、その情熱が何処から来るものなのか、不思議な気がします。
(参考までに、彼は市長給与42%カット、退職金84%カットを自ら提案・実践、対照的に平松氏はいずれも満額受け取っています。)
 少し前に佐野とかいう「ジャーナリスト」が橋下氏の出自に関する記事を公にして問題となったことがありますね。下種の極みといいますか、イエロー・ジャーナリズムここに極まれりという感じですが、そんなことをいくら調べたって、彼の政治姿勢は何もわからないでしょう。わたくしの印象では、橋下氏は税金・公金に過度にたかることを嫌悪しているのではないでしょうか。それが彼の政治への情熱の大きな原動力になっていると。ここでは「過度に」というのが実は重要で、この留保がなければ、極端な無政府主義に傾いてしまうか、あるいは平松氏のように、市役所や市議会に担がれる神輿になってしまう。

 役所仕事を営利企業と同類のものとして語ってしまうなど、賛同できない点はあるけれど(他にたとえば名称は「大阪府」でええやんと思います)、総合的にはやはり有能な首長のひとりに数えられるのではないかと考えています。

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