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2015年8月

2015年8月13日 (木)

「すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを」?

 今最も熱い事案のひとつ、東京オリンピックのために作られたエンブレムの「剽窃」問題に関連して。

 これが剽窃かどうかについて語る言葉をわたくしはもたないけれども、佐野研二郎氏が仮にリエージュ劇場のエンブレムを本当に知らなかったとして、しかし調査不足というか不勉強の謗りは免れがたく(この辺りは学術論文でも同じことだ)、味噌が付いてしまった以上は他のものを改めて選ぶのが妥当ではないかと思う。

 視覚的にいって、非常に辛気臭い感じを与える(要するに気の滅入る)ものが選ばれた点に首を傾げる人は少なくなかろう。ただの印象論だが、まあ何というか、これは喪章だよねと。こういう絵面が恰好よいみたいな感覚はすでに時代遅れだと個人的には思うけれども、それは措くとして、画面構成にどれだけの深遠な思想があるのか調べてみたところ、

世界は、2020年に東京で
ひとつのTEAMになる歓びを体験する。
すべての人がお互いを認め合うことで
ひとつになれることの
その大きな意味を知ることになる。
その和の力の象徴として、このエンブレムは生まれました。
すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。
すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。
そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動。

When the world comes together for Tokyo 2020, we will experience the joy of uniting as one team. By accepting everyone in the world as equals, we will learn the full meaning of coming together as one.
The Tokyo 2020 emblems were created to symbolise the power of this unity.
The black colour of the central column represents diversity, the combination of all colours. The shape of the circle represents an inclusive world in which everyone accepts each other. The red of the circle represents the power of every beating heart.

Lorsque le monde se réunira à Tokyo 2020, nous aurons la joie de ne former qu'une seule équipe. En nous acceptant les uns les autres à travers le monde, nous comprendrons ce que cela signifie vraiment de ne faire qu'un.
Les emblèmes de Tokyo 2020 ont été créés pour symboliser le pouvoir de cette unité.
La couleur noire de la colonne centrale représente la diversité, l'addition de toutes les couleurs. Le cercle représente un monde ouvert à tous où chacun accepte l'autre tel qu'il est. La couleur rouge du cercle représente le pouvoir de tous les cœurs battant à l'unisson.

ということだそうです。気持ち悪いことがいろいろ書いてあるなあ。言葉づかいの水準で厭味をいうと、主語の後に読点を置かずにはいられぬ感性にまず苛立つ。それに「ダイバーシティ」、「インクルーシブ」、「ハート」(「TEAM」は際どいところだけど、T と頭韻を踏むのは英語だけなのにと指摘することは可能だろう)。

 文意もよくわからないな。「ユニティ」と「ダイバーシティ」はどう関係しているのか。「すべての色が集まれば黒になる」というけど、たんに集積するだけではおそらく黒にはならんよ。混ぜて溶け合わせないかぎりは。
 というより、これはもしかして人種的「坩堝」のことをいっているのだろうか。妥当性が何十年も前に否定された理論なのに。完璧ではないにせよ「サラダボウル」や「パッチワーク」、あるいは「モザイク」の方がまだしも現実に近いというのが現在の常識だろう。誰が混ぜ合わせるのか知らないけれど、「坩堝」では目論見とは逆に「ダイバーシティ」とやらが否定されてしまうのではないかな。人種や土地を色に喩えるのもどうかと思うが、それは問わぬことにして、エンブレムの下部を構成している「五輪」、すなわち五つの色は、まさに混合の不可能性をいっているのだろうし、また、それでもなお「手をつなぐことは出来る」と説いているわけだろう。つまりこの意匠は上と下で矛盾をきたしていることになる。デザイナーの意図はだから、矛盾ではなく、「五色 → 黒」という昇華(?)の視覚化・意匠化という点にあったのだろうけれど、一度黒になってしまった各色は分離できず黒のままではないだろうか。ということは結局、「ダイバーシティ」ではなく、「ユニティ」こそが強調されていることになるような気がする。個人的に感ずる気持ち悪さの原因はこの辺りにあるのだろう。
(補足:五輪のうちの黒い輪はアフリカ大陸のことなんですね。その黒と今次のエンブレム上部の黒とは如何なる関係にあるのか。その辺りは突き詰めて考えられては当然いないでしょう。そういう意味では、真剣に検討するのが阿呆らしくなるような意匠ではありますね、そもそもからして。)

 なお、この一文はいわゆる「減法混合」のことをいっているわけだが、それは理屈の上での事柄に過ぎず、現実には真黒になりはしない。ウィキペディアでもこんな風に説明されている。

CMYKはCMYから派生した、減法混合に基づく色の表現法である。理論上ではCMYによって全ての色を表現できるはずであるが、実際にはCMYのインクを混合して綺麗な黒色を表現するのは技術的に困難であり、せいぜい鈍い暗色にしかならない。このため、プリンターなどの印刷機で黒色をより美しく表現する目的としてCMYKが採用されている。また見た目の美しさ以外にも、黒を表現するのに必要なインク量が少なくなるためにCMYの場合と比べてランニングコストが下がる、乾燥が速く高速印刷に向く、といった利点がある。

 鈍い暗色、つまりは鈍色であって、黒ではないということ。屁理屈を捏ねるなといわれそうだが、実際にパレットに絵具を展開して紙や帆布を彩色した経験があれば、こんなことはすぐわかる。理屈を捏ねているのはむしろこのエンブレムの方だろう。閉じられた色彩理論の世界でしか通用しない理屈――いやそうではなく、もやは手や紙を絵具で汚すことのないDTPの世界でのみ通用する理屈。だってこれは要するにイラストレーターに類するソフトの(擬似)パレット上で「黒」をちょちょいのちょいと選択してみただけでしょう? それでは人に感銘を与える意匠にはならんよ。スポーツのフィールド(室内競技も水上競技も含む)とはもはや何の関係もないのだから。
 おそらくこのエンブレムのデザインは、競技場で行われるスポーツとテレビで中継されるスポーツとの混同を戯画的に象徴するものなのである。テレビ観戦に慣れてしまうと、混同とは感じられなくなるけれども、時としてそれが錯覚に過ぎぬことをわれわれは思い知らされる。たとえば今年カナダで開催された女子サッカーW杯決勝における、アメリカチームの先制点。画面の外から矢庭に現われてボールをゴールに蹴り込んだロイド選手は、まさしく画面枠の外が存在すること、あるいはむしろ画面の外にこそフィールドが、世界があることをわれわれに暴力的に思い出させはしなかったか。あのプレーとは異なり、佐野研二郎氏の思想はテレビ画面の外にはまったく届いていないし、そもそも外部なるものがあるなどと微塵も考えてはいないように見受けられる。だから糞なのだとはいわない。他の使い途はあるかもしれないから。でもスポーツには向いていないな。穿った見方をすれば、スポーツの死を宣する喪章、乃至スポーツの死と引き換えに生き長らえようとするメディアの勝利宣言ではあるかもしれないけれど、オリンピックがすべてではないわけだし(来月にはラグビーワールドカップが始まります)。

 もうひとつ理屈をいうならば、「すべての色」とはそもそも何だろう? 色、正確には色の名は無限に存在しうるのだから(われわれは色の名を無限に発明することができる)、あらゆる色を「集める」ことなど、現実には誰にも出来ないはずである。そういった意味でも、本当に浮世離れした、そう、やっぱり、敢えていってしまおう、糞のような思想であると。

 

 それから同時に発表されたパラリンピックのエンブレム

(未了)

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