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2016年5月21日 (土)

「電通は日本のメディアを支配しているのか」にかこつけて

 日本放送協会がさる番組においてあるジャーナリストの系譜を調査し、それなりに由緒あるものと思われたので公にしたところ、その系譜の本家から誤りを指摘されたという。テレビに出るというのはすなわち見世物になるということで、要するに何でもありなのだろうし、その「詐称」の事実にはさしたる興味もないけれど、番組内で調査結果を知らされたそのジャーナリスト氏の感想が気に障ったので少し書いておこうと思いました。彼は祖先が関ヶ原の戦いでいわゆる西軍側についていたことを知って、おのれの「反権力」的立場に歴史的(系譜的)根拠が与えられたかのように感心していたからです。
 なぜ似非左翼は揃いも揃って莫迦なのか? 関ヶ原の戦いというのは豊臣秀吉死後の権力をめぐる争いだろう。そして石田三成はそもそも権力の中枢にいたわけで、正統性の主張もむなしく、権力を奪われてしまっただけの話でしょう。当然のことながら、もし西軍が勝っていればジャーナリスト氏の「先祖」も権力の側に立ってそれなりの利益を享受していたはず。翻って現代的な、というかジャーナリズムが旨とするような「反権力」とやらは、むしろ権力から身を引いて批判するというあり方を指すのではなかったか。むろん実情がそうではないということ、それをこのお笑いジャーナリストは精神分析的に――とは要するに無意識のうちに――暴き立てたのだが。
 実際、ある程度の規模のメディアは陰に陽に既成権力(エスタブリッシュメント)の一部を成しているのであって、「反権力」など笑止の至りというほかない。

 一部界隈で話題となっているらしい、在日フランス人ジャーナリストによる論説「電通は日本のメディアを支配しているのか」。わたくしも一応、原文ならびに内田センセの丁寧な翻訳に目を通しましたけれど、特に目新しいところはありませんでした。この程度の記事で今更のように騒ぎ立てるなんて……というような厭味は控えますが、一点、気になるところがありました。
 フランス人ジャーナリストM・ゴレーヌ氏は、メディアと電通の関係の分析を専ら広告収入の有無(ないし多寡)という観点から行なっており、必然的帰結として日本放送協会が権力から相対的に独立しているかのごとく論を展開することになるわけですが、果たしてそうか。受信料の法的根拠をめぐるさまざまな問題は別として、NHKが権力から独立しているとはとても思えない。NHKが享受するはずの独立性を脅かすことになる(とゴレーヌ氏は主張する)籾井の会長就任より前からの話です。

 わたくしがずっと気になっていたのは、NHKのプログラムに出演する芸能人、すなわち俳優やタレント、コメディアンの類が多過ぎはしないか、また年を追うごとに増えてきてはいないかということです。例えば朝の連続テレビ小説に続く「あさイチ」ではジャニーズが司会だし、その後近畿圏では吉本が「ぐるっと関西おひるまえ」で司会を務めている。太平サブローは別段嫌いではないけれど、大阪の民放で飽きるほど目にしている人をわざわざNHKで見たいとは思わないし、ジャニーズを見たければ、「ぷっスマ」とか「鉄腕DASH」とかあるでしょう。まあそういったバラエティ番組はまだよいのです。見ないという選択肢があるから。困るのは真面目なドキュメンタリーの場合で、その種の番組の語りにもタレントを起用する事例が増えている。
 巧い人がやるならまだ許せる。たとえば先日の「羽生名人と人工知能」みたいなプログラム――NHKの文化系ドキュメンタリーは実のところ内容がどれもこれも浅薄で、満足したことは一度もないんだけど!――における林原めぐみはやはり巧かったし、それ以上に彼女の声自体が内容に合致していた。反対に、少し前に観覧した「人の住まなくなった福島で猪が栄える」という趣旨のプログラムにおける伊勢谷友介、あるいは若冲を取り上げたNHKスペシャルの小松菜奈は最悪だった。起用の必然性も全く感じられなかったし、それ以前の問題として、単純に下手すぎるよ。ナレーションが出しゃばってよいような番組ではないでしょう。その意味で新・映像の世紀の山田孝之もあまり感心しなかった。

 それで、個々のタレントの技倆の高低や起用必然性は措いておいて、何がいいたいかというと、かくもタレントが出演するようになったことの意味です。というのは、彼らの出演にはまさしく電通を始めとする広告代理店が噛んでいるわけで、つまりこういうことでしょう。テレビ出演で生計を立てている大多数のタレントの言動は、民放であれNHKであれ、電通の検閲を免れえないと。民放で原発問題に対して口を閉ざすタレントがNHKで反原発キャンペーンを展開するというようなことは、どうしたって不可能なのだから。フランス人ゴレーヌの提示するような「NHK/民放」という区分を芸能プロダクションや広告代理店は超越している(これがグローバリズムと同形である点は強調するまでもないでしょう)わけで、要するに、NHKの番組でも矢張り、間接的にではあれ電通チェックが効いていると見た方がよい。裏返していうなら、増加の一途をたどるタレント起用はNHKのノンポリ化の重要な部分を成しているのである。
 もっとも、NHKが権力批判という点でまともなジャーナリズムを体現していたかといえば、むろんそんなことはない。彼らの高給は権力の狗だからこそのものであって、財務の「自立」にもかかわらず権力の代弁(批判しないという姿勢もまた代弁のひとつのあり方なのだから)に勤しんでいるという批判を躱すべく、タレントを表に立てているともいえるし、またそもそも、そうした財務の「自立」などないともいえるだろう。

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 渦中の人、舛添要一。自民党を離れて新党を創設したとき誰もついていかなかったことからして、この人は人望がまるでないんだなー、政治家に向いていないよなー、厚労大臣としても何もできなかったしなー等々とずっと考えてきましたが、案の定、醜聞に塗れてしまっている。都民のことを思うと酒が旨いわけだが、この人は結局学者だろうね。『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)という著書がありまして、憲法についての考えは立派というかまともなんですけどね。あるいはむしろ、他の自民党員がひどすぎるといった方が正確か(ウェブで読める同書関連記事http://gendai.ismedia.jp/articles/print/38416)。高市早苗や片山さつきや西田昌司のような糞野郎共は少なくとも改憲問題に関しては舛添(結局のところ同じような糞野郎だとしても)の爪の垢を煎じて飲むべきでしょう。いずれにしても、2005年発表の「改正憲法草案」に事務局次長としてかかわった経験を綴った同書に示されているのは、舛添の官僚的な意味における有能さであって、政治家のそれではない。今回の醜聞についての釈明会見でも官僚的な論理を弄んでいるよねえ(法律に則っているかぎり何をやってもよいというのは、天賦人権説や法の支配という思想とは相容れない唯の法治主義なのだから)。秘書官なんかが向いているんぢゃないかなと愚考する。
 今次の醜聞に(憲法改正問題で明らかに対立している)安倍晋三が一枚噛んでいるということはありえぬことではないでしょう。でも、たとえば橋下徹は税金を猫糞(ねこばば)したりしないわけでね。ああ、念の為にいい添えておけば、橋下も自民党の2012年改憲草案には反対の立場を明確にしています。

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