« 日本 対 アイルランド(A) | トップページ | 衆議院選挙 »

2020年8月14日 (金)

翻訳(論)について

『他者という試練』が版元で品切れになっていることに気づいた。いつ頃そうなったのかわからない。皆が「ポチッとする」例の通販サイトの該当ページを覘いてみると何と! 一万円を超える――どころか二万五千円などという法外な値がつけられているではないですか。いやーこれはちよつと。六千八百円でも高い(自分が学生だったら多分買えない)と思うのに。
 手元に何冊か置いてあるので、欲しい方に(消費税抜きの定価で)譲ることは可能だろうし、是非そうしたいところだけど、それが結局おかしな値段で転売されてしまえば意味はなくなる。いやあ、困っちゃったなあ、というわけで、差し当たりわたくしに出来ることはないので、来るべき重刷に備えて訳文を見直すこととする。重刷がいつになるのか、その際、版を修正することは可能なのか、またそもそも重刷されるのかわからないけれども。

       *

 翻訳論ってやはり難しい。自他の訳業の不備を指摘したり、改善策を提案したりするのは技術的に充分可能としても、それを翻訳行為の本質に結び付ける形で論ずるのはそう簡単なことではない。例えば小説の翻訳に即していうと、文学について、言語について、またもちろん原作についての思考が必要ということがひとつ(それなしでは昔日の「誤訳の指弾」と大して違わなくなるわけだから)。そして、実務との距離が他の研究におけるより近いということも大きい。
 要するに、原文の性質に応じ変わってくる「翻訳」のあり方それぞれについて別箇の考究が必要となるからだろう。その点に思い至らず十把一絡げに「翻訳」と称するものだから、云々。
 一例として、昨今の「翻訳研究入門」みたいな本で必ず一章が割り当てられている「字幕翻訳」。まず名称がおかしい、というのは古えの無声映画で挿入される説明文の翻訳としてなら妥当であろうけれど、現代の有声映画では文字列は、ゴダール作品か、さもなくば劇中で発せられる外国語(米語作品におけるスペイン語など)の説明としてしか殆どそもそもは用いられまい。つまり、「字幕翻訳」と称される作業は――それ自体はもちろん必要なものだが――実のところ原典では声として発せられる言葉を文字に変換し、それをフィルムというか映像に被せているわけで、これは厳密にいうなら、文書の翻訳とは種類の異なる営みだろう。「変換」と、だからとりあえず表現したわけだが、そしてしかしこの「変換」は、いうまでもなく、拡大された「翻訳」として、考究さるべき営みではあるけれども、「字幕翻訳」研究者はおそらくそこまで考えてはいないよね。無声映画時代に活動を始めた作家(たとえばヒチコック)はもちろんのこと、有声映画時代の才ある作家も音声なしで語る術を心得ているはず。それは北野武の作品を観れば例えば直ちに諒解される。初期傑作群の掉尾に位置するだろう『キッズ・リターン』(1996)で不可欠な台詞は一番最後の「まーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな――ばかやろう、まだ始まっちゃいねえよ」だけだよね! それ以外の台詞はなくてもさして困らないはずなので、ええつまり、申し上げたいのは、映像で勝負しているだろう作品の、その映像に、元は存在しなかった文字列をスーパーインポーズすることの意味を、皆さんは一体考えたことがあるのかと、ささやくように問いたいのです、わたくしは。
 現状はというと、制度的な翻訳研究は、そうしたことを考えさせるようにはなってゐないと思う。語られる言葉を書き付けるという営みは、人間一般の言語活動にとって重要というのみならず、実のところ日本語の誕生という世界史上の一大事件にさへ触れている、決して軽々しく扱ってはいけないもののはずだが、そうした事柄とほとんど無関係に産出される論攷の数々にわたくしはうへえとなる。なる。
(うへえとならない為に、翻訳とは別の「現地化 localisation」として例えば考究してはどうかと提案しているのだが、どうなることやら。)

 閑話休題(なんと便利な表現だろう!)。関西大学大学院で講師をしていたとき、院生諸君の笑いを獲得する「鉄板」のネタが少なくともふたつあったことをあなたは知らないでしょう。ひとつは、わたくしはフランス語領域担当ということもあり(他の二人は独語と英語)、ルネサンス前後のいわゆる「知の移転」の概要を講ずる役割を担っていた。というか自分でそのように決めたのだったが、この translatio studii と現代の translation studies、これら両者は字面は似ているよね、ちなみにこのことを指摘したのは世界で私が初めてです――という冗談は受けた(あるいはむしろ、院生さんが優しさをもって笑ってくれたというべきでしょうか)。
 いまひとつ、笑われたのは、例えばイタリア南部の農夫の日常を描いた小説を日本語に訳した場合に、主人公のイタリア人がトマトを握りしめながら「なんでやねん!」などと上方言葉を発するのはありえないというような話(むろん笑いはホワイトボードに「なんでやねん」と書き付けたときに起こる)。
 大切なのは、(日本とまるで無縁な)イタリア農民が日本の一方言を話すことなどありえないということ(これは皆さん理解してくれた)と同時に、ではなぜ共通語は喋ってよいのかという点である。よくよく考えてみればわかることだが、日本のことなど何ひとつ知らぬ、どころか興味さへもたぬイタリア人農夫が、上方の言葉はいうまでもなく、共通であれなんであれそもそも日本語を話すわけがない。話すわけがないのに皆――というのはつまり翻訳された外語人たちは皆――共通の日本語を巧みに操っている。驚くべきことだが、驚くより先にまづはそれが不自然(fremd, étranger, strange)なことと思える感性が翻訳論には必要だとわたくしには思われる。

« […]. – Mais alors, il y a une différence immense entre une toilette
de Callot et celle d’un couturier quelconque ? demandai-je à Albertine.
– Mais énorme, mon petit bonhomme, me répondit-elle. […]. »(Proust : À l’ombre des jeunes filles en fleurs (1919), À la recherche du temps perdu, édition de J.-Y. Tadié, t. II, 1988, p. 254)

「[…]。じゃあ、カロの装いとそこら辺りの仕立屋の装いではたいへんな違いがあるんですか? 私はアルベルチーヌに尋ねた――もちろん段違いよ、坊やね」。彼女は私にそう答えた。

 井上究一郎は文章が上手い。本当に上手い。だがしかし、フランス人が「坊やね」などというだろうか。いいはしまい。というより、「私」やアルベルティーヌはそもそもなぜ日本語で話をしているのか? そこのところに何の疑いも抱かぬような人はたぶん翻訳を論ずるにあたって最重要の資質を欠いていると、わたくしには思われる。
(念の為にいい添えておくなら、そうした資質がなくとも翻訳は可能だし、立派な訳業が産み出されることさえあるだろう。)

 中井秀明さんがウェブサイトをひとつにまとめられるとのことで、以前読んだ評論(2009年2月)を再び読む機会があった。わたくしが上に述べたような事柄が別の角度から触れられている。文章の主題ではないけれども、初読の際に印象に残った箇所である。

「カフカが『aller(行く)』と言うと、訳者たちは『marcher(歩く)』と言う」。このクンデラの言い分がほんとうに正しければ、訳者たちの不忠実は、「aller」と「marcher」の違いが明らかなのと同じだけ明らかだ。でも注意したい。『城』の仏訳者たちはけっして「aller」(フランス語だ)を「marcher」(フランス語だ)に言い換えた(これなら「類義語化」でもいい)わけではないのだ。正確には、「gehen」というドイツ語を「marcher」というフランス語に翻訳したのである。この違いはあいまいにしておいてはならない。なぜなら、このように正確に認識することで、「行く」と「歩く」に対するのと同じような、自動的な不忠実の判定ができなくなるからである。

 えーつまりカフカはあくまで gehen と書いているのであって、aller と書いてはいないということ。きわめて重要な指摘と思う。そして翻訳研究に携わる人は、この一点に先づは立ち止まる、というか躓いて欲しいと願う。翻訳とは、そもそもが無理な営みであると、外語人にこちら側の言語を無理やり喋らせることなのだと。あるいはむしろ、その外語人がこちら側の言語を学ぶ、その手助けを行なうことであると(ふつう人はまづ共通語を学ぶよね、方言ではなく)。
 これまであまり問題とされてはこなかった事柄、あまりに自明だからということだろうか、折角だからベルマンに即していうと、

異国趣味風処理は外国語の土地固有表現を翻訳者の地元の固有表現で訳すことによって鄙俗化へと通じうる。パリの隠語でブエノスアイレスの隠語(ルンファルド)を訳す、あるいは「ノルマン言葉」(parler normand)でロシアやイタリアの農民の言葉を訳すような場合がそれにあたる。しかし残念ながら、土地固有の表現は他の土地の固有表現には翻訳されえない。互いに翻訳し合うことが可能なのは共通言語(コイネー)、「洗練された」言語同士だけなのである。こうした異国趣味風の処理、つまり外国の異なるもの(エトランジェ)を国内の異なるもの(エトランジェ)で訳すというやり方が行き着くのは原典を虚仮=滑稽にすることでしかない(ベルマン『翻訳の倫理学』68頁)。

「互いに翻訳し合うことが可能なのは共通言語(コイネー)、「洗練された」言語同士だけなのである」という点について著者はこれ以上展開してはいないけれども、『他者という試練』などの議論を敷衍して次のように説明することができるだろう。すなわち、ロマン主義者たちが詩と翻訳を同一視したのは、日常の言語から生み出される詩の言葉がある次元においてその日常言語から切り離されている(そうでなければ詩とはいえない)のと同じように、翻訳は元の作品が土着の言語から切り離されるある次元を見つけ出すことによって、その作品を別の言語へと移し替える(そうでないと翻訳は成立しない)という、形式的な同一性のゆゑだった。そして共通語が実のところ誰のものでもない言語、通辞のための便宜上の言葉にすぎないとすれば、まさしくそこにこそ、そしてそこにおいてのみ、翻訳の入り込む余地があるということである。

       *

 ところで、実務に携わる人は躓いているだけでは駄目で、そこから起き上がって翻訳しなくてはならないのでしょう。元々外語人が書いたものなのだから、すらすら読める方がむしろおかしいのだと、個人的には強く強く思うけれど、売れるためには、あるいはともかく商品として売り出されるためには、いくらか妥協が必要である。

 実はある小説を翻訳しようかと思い立ち、翻訳可能性を測るため、久しぶりに読み返してみるということがあったのです。大家の名作のひとつだがなぜか日本では現代語訳がなく、ずいぶん昔のおそらく英語を経た重訳があるのみという、少々変わった扱いを受けている作品。地の文は何とかなりそう、だが問題(わたくし個人の課題)は台詞の文体で、現代日本語における言葉遣いの性差がただただ煩わしいなあと、もやもやしていた。しかるべき方言を恃みにすれば言葉の性差の問題はほぼ解決されるのになあ、云々と。要するに職業としての翻訳家になりたいわけではないので妥協は本当に厭なわけです(わたくしが翻訳に手を染めるのは主として使命感からである)。そうして逡巡しているうちに、ある出版社のサイトで当該作品の翻訳がついに出ることを知り、一般人として純粋に喜ぶとともに、もやもやから(意図せぬ仕方ではあれ)解放されたことに安堵したのだった。

       *

 他にも書くべきことがあったような気がするけれど、一旦ここで留め擱く。

 

 

|

« 日本 対 アイルランド(A) | トップページ | 衆議院選挙 »

翻訳論」カテゴリの記事

翻訳」カテゴリの記事