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2022年6月19日 (日)

「ひねもす」?

 フランスで入手したある小説を読んでいた――というか読み進めるのが困難に感じられて(何故だろう、こんなに進まないのは珍しいのだが)読み止しのまま放置していたところ、市立図書館が年一回行なっている廃棄図書の無料提供の際に同書の翻訳を見つけた。驚きつつ喜ぶ一方で、選書方針がおかしいんぢゃないのと、疑問に感じもした。だって、ねえ、こんな本、誰も読まないでしょ! 実際、その本が紐解かれた形跡は認められなかったわけで、このようにして公金は無駄に消費されるのだなと虚しさを感じたのだった。(たとえばミシェル・レリスの『幻のアフリカ』やフィリップ・フォレストの『さりながら』が棚に飾られる一方、マリー・ンディアイは一冊もないなど。)
 思いがけぬ形で日本語版が手に入ったのでそれを読むことにした。この翻訳がしかし妙に苛立ちを感じさせるもので、他人の訳業の気に入らぬところを論うのはよくないと承知してはゐるけれども、一言せずにはゐられなくなった次第である。

 その一言というのがつまり「ひねもす」で、わたくしなどその方面の教養がない人間からするとこの語は蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」くらゐしか知らず、明治時代の用例もあるようだが、いづれにせよ今日では既に古語ないし雅語の範疇に入るものだろう。そのような語が全篇の五分の一足らずの間に二回も用いられている。まだ出てくるかもしれない。(そういえばこの訳者は同じ著者の別の翻訳でも「ひねもす」を使っていたのだった。)
 原文を参照すると、ひとつは tout le jour、今ひとつは presque [paisible]。前者 tout le jour は toute la journée とどう違うのか――というのは時に繊細な問題となりうるけれども、この表現が含まれる段落が le jour se lève... という一節で始まり、la nuit s'achève... で終っていることからして、「一日中」というよりむしろ「日中」「昼間ずっと」という意味だろうと思われる。ひねもすは「終日」。ちょっと違うかもしれないなあと頸をひねりつつ、「ひねもす」なる語の成り立ちを勉強しようと古語辞典を開いてみると、語源に関する記述が何もない。ああ日本の辞書ってやつは……。「ひね」と関係あるのだろうか。仮にそうだとして、では「もす」は? 男もすなる日記といふものを……? うーむ。

 いづれにしてもですね、わたくしがいいたいのは、そういった語義解釈の次元の疑問ではなく、そもそも「ひねもす」なんて今は全く使わないでしょう?ということです。気持はわかります。わたくしも(は?)現代日本語なんか全然好きになれないし、「ひねもす」がたとえば死の底から蘇ればよいと思いもしますがしかし、現実にそうなることはおそらくないでしょう。むしろ「オール・デイ」の方がまだ有望なんぢゃあないですか、といわなくてはならないくらゐ、日本語は別の方向にすでに舵を切ってしまってゐるような気がします。
 そして大事なこと、当の作家(現役です)は「ひねもす」というような言葉遣いはしないと思います。
 そういったことを考えているとこの小説を読む気が失せてきたというか、原文に再挑戦するしかないかという気分になってきたのだが、本稿の小疑問の副産物として「Toute jourtout le jour et toute la journée en français médiéval」なる論文を見つけた。1964 年発表だからかなり古いものだけど、これから読む。こちらの方が面白そうです。

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