カテゴリー「映画・テレビ」の記事

2016年12月23日 (金)

決定的なイマージュ

 テレビジョンというメディア(ないし装置)の可能性はまだ十分に汲み尽くされてはいないと思うけれど、現状はといえば、九割五分五厘くらゐは資本主義の走狗、より正確には資本主義を利用して富の不公平な分配を推し進めようとする資本家の走狗となってしまっているわけで、すぐれたプログラムといっても自ずと限界はあるに違いない。
 その点をひとまづ措くなら、『逃げる恥だが役に立つ』はよく出来たドラマだったと思う。まあ初めは「どうせガックスがただただ可愛いだけのドラマだろう」と高を括っていたのだが、そしてもちろんガックスは最後までチャーミングであり続けたわけだが、想定以上に頑張っているなあと。
 物語の内容についてはすでに多くの人たちが語っているのだろうし、そこにさらに何かをいい添えようという気はない。ただ、テレビドラマとはいえ映像作品であるからにはやはりそこにはいわゆる〈決定的なイマージュ〉が無くてはならないはず。このドラマには少なくともふたつ――勿論ガックスその人の声や姿は別として――ずっと記憶にとどめておきたいイマージュがあった。

 ひとつ目。
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 別角度からのショット。
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 原作にこういう場面があるかどうかわからないけれど、これは素晴らしい。字は下手だが。ありえないほど(念の為に、これは「素晴らしい」にかかっていますよ)。資本家の狗にすぎぬ放送局が一体どの口で……などと野暮な事をいうのはぐっと堪え、ただただ惚れ惚れとしてしまう。美女と黒板(あるいは文字)といえばゴダールを思わせるが(ガックスをA・ヴィアゼムスキーに置き換えてもこのイマージュは成立する)、そういえば次のイマージュもゴダール的といえるかもしれない。

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 類似からの思考。性差を越え、人と機械の種別を越えて、ペッパー君、君はなぜこんなにもガックスと似ているのか(いやむしろ逆にガックスがペッパー君に似ているというべきなのか)。
 あれはいつ頃だったか、確か人工知能学会機関誌の表紙に描かれた女性型家事代行ロボットが物議を醸し、かなり強く批判されたことがあった。この場面もそうした批判に通ずるものといえるのではないだろうか。
(もっとも、物語では残念なことにガックスがこのロボットを抱擁することで批判の鋒先を鈍らせてしまっている。ガックスはむしろ助走をつけてペッパー君に跳び蹴りを喰らわすべきだったと思う。)

 今更ゴダールか(しかも60-70年代の「政治的」な)!というような小賢しい(笑)指摘は「役に立たない」。だって日本のテレビはゴダールの水準には全く及びもしていないのだから。とにかくこうした決定的イマージュがあったというだけでも、このドラマは素晴らしいと、冒頭の留保のことなど忘れ去って、強くいいたいのです。

 気になったこと。クールの途中でガックスの顔が変わったように見受けられた。彼女の顔は、額と眉、やや腫れぼったい瞼と奥二重で切れ長の眼の塩梅が南の島の人っぽくってよかったのだが、疲れて瞼の肉が落ちたのだろうか、目が大きくなっていった。だからこそペッパー君と似てしまうということにもなったわけだが、少し脱線して私事を書いておくと、同じような南の島出身の女の知り合いと初めて出会ったとき、誰かに似ているなあ、ああガックスだと感心したことがあった。歳はずいぶんと下だが彼の女は不肖のわたくしに多くのことを教えてくれた。ひとつは〈迎合的な笑い方〉。この笑い方をわがものとした時、自分が大人になったなあと実感したのだった。

 星野源のことは名前そのものを含めて何も知らなかったけれど、声がいいね。少し黒人っぽい響きがあるかと思っていたが(つまりオバマ大統領も声がいいよねというような素材の話です)、あるとき、あっそうだ、スティーヴ・ウィンウッドに似ているのだと思い当った。ああだからある種の、そういった意味での「ソウル」が感じられたというのもあながち間違いではなかったということになるだろう。歌の純粋な上手さという点では比較にならないし、そもそも比較するのがおかしいのだが、何處となく似たところがあるということで。

 ※ 映像はすべて著作権者に帰属します。

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2016年6月25日 (土)

憲法改正、あるいは『朝まで生テレビ !』

 あー観なければよかったといつも思う番組(とはいえこれまで数回しか観ていないけれど)。
 理由のひとつ、たぶん最大の理由は司会の田原総一朗その人だろうね。なぜ人の話を遮るのか。「老害」とはいうまい。この御仁は前からそうだった。ひとつには根本的に莫迦だから。もうひとつ、こちらの方がより重要と思うが、莫迦な一般大衆でしかない視聴者にはこの番組での議論は理解できまいと思い込んでいるから。そのような前提に立ち、敢えて初歩的な質問を次から次へと繰り出すことで結局議論の展開を阻害するというのは、番組の、引いては電波の私物化以外の何ものでもない。予備知識のない、すなわち啓蒙される必要のある「一般大衆」がこんな番組を見るわけないだろう。本当に苛々する。早く引退してくれないかな、この糞爺。
 田原氏くらゐの知名度がなければこの種の番組は主宰できないとでもテレビ朝日は考えているのだろうか。この日のパネリストに名を連ねた三浦瑠璃でもたとえば十分に務まるだろうよ。まあ、議論の質がどうしようもなく退屈なので司会を受けることはなさそうだけど。
 もっとも、三浦氏の各種分析にわたくしは十分に説得されたことは実はない。聡明なのはわかるが、その論理展開には何か誤魔化し、といって悪ければ偏向があるような気がする。突き詰めて分析したことはないけれど。
 それにしてもこの人は自身のエロティシズムに気づいているのだろうか。『ケイゾク』というドラマの主人公・柴田純のような無意識過剰な東大生など現実にはほとんど存在せず、東大女子は実際は人一倍自意識が強いもので、当然(というのはつまり見世物としてテレビに出ようかという人ゆゑ)、三浦氏も自分がどう映っているかには気づいているだろう(自意識の制禦を放棄したような東大男子・玉木雄一郎との対比が興味深かった)。エロといってもそれは、鼻が亀頭みたいな形をしているからではなく、衣装の胸元にスリットが入っているからということでもない。まずは言葉とのかかわり方に宿るある種の資質のことである。『マゾッホとサド』(知らない人は是非読んでくださいね!)のジル・ドゥルーズ風にいえばマゾ的な関わり方なのかもしれない(未確定)。
 念のために急いでいっておくと、この女性をどうにかしたいとかいうことでは全くなく、見世物としてのテレビにおける(自己)演出というテーマに沿った注目です。だってテレビにはそれしかないんだから。
 それから、権力とそのエロティシズムのかかわり。三浦氏はこの場では明らかに一種の権威を身にまといながら(つまりだからそういう演出なので)発言している。そ……

 とはいえ、この日のプログラムで一番重要なのは「憲法改正」の部分である。田村憲久は憲法の何たるかを根本的に理解していない、あるいはむしろ理解しようとしない下種野郎だが、この種の連中が自民党には掃いて捨てるほどいる。たとえば第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢甚遠は「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」(2012年創生「日本」東京研修会)と述べたらしい。ありえない。こんなのパブリック・エネミー・ナンバーワンでしょう。東大法学部から旧労働省。こんな奴が法務大臣とはね――と書いたところで時間切れだー。三十分後に日本対スコットランド戦が始まる。

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2009年1月27日 (火)

「ヌーヴェルヴァーグの 50 年」(France 3)

 1959 年の『美しきセルジュ』から数えて 50 周年を迎えたヌーヴェルヴァーグを回顧すべく、クロード・シャブロル(監督、1930 年生)、ベルナデット・ラフォン(俳優、1938 年生)、ジャンヌ・モロー(俳優、1928 年生)、アンナ・カリーナ(俳優・監督、1940 年生)、アンドレ・ラバルト(監督・批評家、1931 年生)が招かれたこの日の Ce soir (ou jamais !) 。

 お喋りの内容に特筆すべきことはなかったが、みなさん達者だなと、その点に(最も素朴なレベルで)改めて感嘆させられた。シャブロルは数年前、『権力に酔い痴れて』(L'Ivresse du pouvoir, 2006)公開時に、主演のイザベル・ユペールとふたりでテレビ出演した際にもそうだったが、話し振りに老いはほとんど感じられない。 81 歳の J・モローの健在ぶりにはさらに驚く(これはただのレトリック。テレビでよく見かけるので今更驚きはしない)。顔が「汚い」にもかかわらず主役を張り、唯一無二の存在感で人を魅了するジャンヌ・モローと松田優作の登場には衝撃を受けたと言ったのは誰だったか――あ、思い出した、うちの母だ。

 しかし一番驚いたのは、実は久しく見たことのなかったカリーナ。驚いたというのはしかし、あまり健康そうには見えぬその老い方にではなく、『気狂いピエロ』から数えて 44 年も経つと、アンナ・カリーナとジャンヌ・モローとを区別するのにいささか苦労するという事実にである。少なくとも同じにようにしわがれてしまった声を聴き分けるのは困難だ(その分だけ、後者の才気煥発というべき話しぶりと、しばしばつっかえるカリーナの話しぶりとの対比がはっきりしたともいえる)。

 それにしても、ラフォンにせよ、モロー、カリーナにしろ、大写しにされるかつての映像――『美しきセルジュ』、『突然炎のごとく』、『気狂いピエロ』――を背後に従えつつ堂々と振舞っており、彼女たちの自意識はずいぶん健全なのだなと思った。それはもちろん葛藤はあったろうし、今もあるのだろうけれど(特にカリーナ?)、一般論として、フランスが日本より生き易い社会だとはそれでもいえるのではないか。老いたその姿形のまま世の中にいちおう受け入れられてはいるわけだから。わたくしなどはつい『失われた時を求めて』中の「ゲルマント大公夫人邸の朝の茶会」などを思い浮かべてしまったりするけれど、生身の人間に対しああした残酷な観察を行なう気にはさすがにならない。画面をぼんやり目で追いながら、「そうかあ、アンナカリーナの四十年後はこうなるのか」と、底は浅いが(M さん、笑うなよ)まったくの無意味というわけでもない感慨を抱くなどした。
 ちなみに、アンヌ・ヴィアゼムスキーの変わりよう――といっても、きわめて常識的な美人に落ち着いたということに過ぎないが――を見たときの衝撃は、そう、園丁となった愛新覚羅溥儀(『ラストエンペラー』)に対するのと同じ種類のものだった。

 そういえば、俳優で歌手(しかも同じ歌を歌う)でジャンヌという符合から、ジャンヌ・バリバールを「第二のモロー」に見立てる文章をどこかで読んだ。J・バリバール(1968年生)が米寿を迎える40年後かあ。これは想像しがたい。活動ということなら、舞台も含めて芝居を間違いなく続けているだろうし、他にたぶん小説を――フランス人はみんな書くんだよね――刊行してそこそこ売れていたりするのではないか。血筋でいえば、A・ヴィアゼムスキーとよい勝負だろう。

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