カテゴリー「音楽」の記事

2008年9月14日 (日)

雑想

 外国語で百数十枚書いて見直すということをやっていると、さすがに気が狂いそうになりますね。もっと穏当に、脳髄が芯から痺れてくるといってもいいですが。
 論文がひとまず片づいても、まだ事務的な文書の作成が残っています。けれど、もう考える余力がないので、少しだけダラけつつやることにします。

 思い返せば DEA 終了後は、きっとそうなるだろうという予感があってわざわざパリまでもって来た『細雪』、中公文庫一巻本を一気に読み直したのだった。その時を上回る枚数を書いた今回は、何をしようか? まずはオリヴェイラの新作。それから? それだけ? それから――中原昌也でも読み返そうと思ったら、人に貸していて今手元にないことが判明したので、どうしよう。ホントは『コインロッカーベイビーズ』なんかを読みたいんだよねえ。とりあえず仏訳で読めば? んー、いづれ読む、いつか必ず読むんだけど、今はその時ではないと判断しました。それに、研究と関係ないフランス語の小説なら、読んでるのが今あるし、なかなか進まないけど。あゝそうだ、折角だからふたりの畏友、ともに酒好きなふたりの M に、その小説から、ひとつ文章を贈っておこう。

Pour quelle raison obscure on l'a suivi dans son bureau, Marin et moi devant cette bouteille de whisky, ainsi qu'on buvait à l'époque, du whisky, ensuite seulement on est passés au cognac qui est une boisson de vieux, disait-on alors, on l'a suivi, l'oncle, et plus jamais quitté quand à l'aube devant la bouteille vide il a dit : il faudrait seulement apprendre à boire moins vite. Mais cela, même sept ans plus tard, on n'avait pas encore appris à le faire.

 もちろん、これは自分にも関係ある。でも疲れているから、文脈を解説したり、和訳したりというのは、無し。太字で誤魔化す。

 まあ、いうほど疲れているわけでもないけど、何しろずっと家に引き篭もって書きものをしていたわけで、その間、何ひとつとしていいことがなかったし。〔中略〕忠節なロリータ、貞淑なナオミ、篤実なカリーナ……。
 でも美と忠実が両立したって別にいいぢゃない?(翻訳論の話ですよ、念の為に。) 

Me          :  Look Lauren Bacall and Gena Rowlands, look Myriem Roussel or Isabelle Huppert; in them live together in perfect harmony beauty and fidelity, don't they?... or am I wrong at all?
The rest of the world: Yes, you ARE wrong "AT ALL" !!!

 感嘆符を三つも使って念押ししなくたっていいぢゃないかよおお……。まあ、ファンタスムであることは間違いないけれど(いったい何を書いてんだか)。

 徒しごとはさておき。疲れている時ってやっぱり慣れ親しんだ音楽を聴きたくなりますよねえ、耳を傾けるというより、身を委ねるという意味で。そういうわけでわたくしは今、スクリティポリティなど掛けております。白人にしてはきわめて「ソウルフル」でありながら、押し付けがましいところが少しもないので、こういう弱っている時にはよい感じ。よい感じ。Songs to Remember。それに初期楽曲の編集盤(Early)。
 今気づいたけど、グリーン・ガートサイドの歌詞には girl という言葉がよく出てくる。まず何といっても The Sweetest Girl がそうだし、他に Cupid & Psyche '85 でもこんな詞がある (The Word Girl)。

To do what I should do to long for you to hear
I open up my heart and watch her name appear
A word for you to use a girl without a cause
A name for what you lose when it was never yours

The first time, baby, that I came to you
I'd do things that you want me to
The second time, baby, that I came to you
Oh, you found my love for you

The third time, baby, that I came to you
Ohoho, I knew
The last time, baby, that I came to you
Oh, how your flesh and blood became the word

Name the girl outgrew, the girl was never real
She stands for your abuse, the girl is no ideal
It's a word for what you do in a world of broken rules
She found a place for you along her chain of fools

 要するに「それはただの言葉だ」と、そういうことのようです。いや、その通りだとわたくしも思います。ポップソングなのに深いですなあ。Each time I go to bed I pray like Aretha Franklin (Wood Beez)とか。他にたとえば Absolute という曲には次のような行りがある〔註 引用した歌詞の著作権者の権利を完全にリスペクトします〕。

Where the words are worn away
We live to love another day
Where the words are hard and fast
We talk of nothing new but the past

Where the words are vodka clear
Forgetfulness has brought us near
Absolute a principal
To make your heart invincible
To love

 ウェーザワーザヴァドゥカクリー、「言葉がウォッカのように澄んでいるところでは」! これは何というか、やっぱり英語の勝利としかいいようがないなあ。しかし上の方の「擦り切れた」というのとは違うわけですね、擦り切れた場合でも透けてくるはずだけど。他にわたくしが好きなのは例えば The Sweetest Girl のこういうところかな。

The weakest link in every chain
I always want to find it
The strongest words in each belief
Find out what's behind it
Politics is prior to
The vagaries of science
She left because she understood
The value of defiance

 

          (未完)

            *

〔註記 身を委ねる音楽としては他にE ・コステロの『グッバイ・クルーエル・ワールド』もそうです。このアルバムは一般的には評価が低いし、たとえばP ・マッカートニーとのコラボレーション以降にコステロを知ったような人々には存在さえ知られていなかったりするのですが、わたくしは何故か愛してしまっています。なぜでしょう? 80年代のものだから? あるいはそもそも友人がくれたものだから? とにかく「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド」(グリーンガートサイドがコーラスをつけている)から「コメディアンズ」への流れが特に好きなのです。〕

〔註記 2 あまりに莫迦莫迦しいので、みなさん、どうか読まないでください。〕

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2008年9月13日 (土)

アルバン・ベルク弦楽四重奏楽団

 今夏に解散していたとのこと。実はベートーベンの中期・後期弦楽四重奏曲群はパリに CD をもってきていて、折に触れ聴いていたのだが、解散を知ったのはつい今しがたのことである。結局、生で聴く機会は得られなかったわけだが、まあそれはよい。覚書として。

 それら CD は「愛聴」しているとひとまずは言えるけれど、安んじて身を委ねられるというものではない。俗にいう「研ぎ澄まされた」音ということもあって、聴く側にも体力・精神力が要求される感じがする。何度聴いても飽きることがないということでもあるのだろうが、たまにはもう少し猥雑な、というのが無理なら――もちろん無理なのはわかっている――アタックのより少なく強い演奏が聴いてみたい。ゴダールの『カルメンという名の女』で使われたのはどこの楽団だったかな、そう、映画ではミリアム・ルーセルが第二ヴァイオリンを弾いていた…… Plat とか、確かそんな名前だったような気がするけれど、あー思い出せない。とにかく、ABQ とは違った感じの楽団を御存知でしたら、ぜひ御教示お願いいたします。

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2008年8月 8日 (金)

パウリーニョ・ダ・ヴィオラ

 アルテで放送された折に録画したものの、そのまま忘れてしまっていたドキュメンタリーを二年後にようやく見る。はや去っていこうとする夏を惜しんでいるさなかに、突然思い出したのである。
 公開は2003年だからもう五年前の映画になる。『私の時代は今だ』(Isabel Jaguaribe, Meu Tempo é Hoje, 2003)と題されたこのフィルムの主人公パウリーニョ・ダ・ヴィオラ(Paulinho da Viola)についてここで諄々と説明することはしない。同年生まれのカエターノ・ヴェローゾのように「世界性」を炸裂させているわけではないが、その分、ブラジルではずっと正統的な音楽家と目されているとはいえる。

 パウリーニョ・ダ・ヴィオラの名を知ったのは、アンビシャス・ラヴァーズによるカバー・バージョンだった(『グリード』1988年)。

 Para não contrariar você 「あなたと意見がぶつからないように」とでも仮に訳しておくが、1970年の『Foi um rio que passou em minha vida』(これはどういう意味になるのだろう、「それ以後、私の人生には一本の川が流れている」――川とは? (時の)流れ? あるいはふたつの岸辺を隔てるもの?)に収められた曲である。

 『グリード』時代のアンビシャス・ラヴァーズ――いちおう訳しておくと「野心を抱く恋人たち」の『強欲』――の貴重な生演奏が現在YouTube で視聴できる。レコードとはパーソネルが異なっていて、例えばヴァーノン・リードはいないけれど、ゲスト・パーカッショニストとしてブラジルからシロ・バプティスタが招かれ、こちらも素晴らしい生ドラムスと絶妙の絡みを生み出すなど、バンド演奏の充実ぶりがうかがえる(Copy Me 他)。
 数少ないシングルカット(ただしクラブ仕様)となった「ラヴ・オーヴァーラップ」が収められたアルバムでもあるが、こうしたバンド・サウンドと対照的な、落ち着いたブラジル風音楽が二曲含まれていて、そのうちのひとつが上記のカバーである。

 アート・リンゼイのアルバムの常として、ポルトガル語の歌詞には彼自身による英訳が添えられており、たとえばタイトルを含む詞行はこのようになっている。

 Muito bem, eu prefiro não falar para não contrariar você.
 〔Very well, I prefer not to speak so as not to conradict you.〕

 動詞 prefer not to do は『書写人バートルビー』で話題となった表現で、ただしあちらは would prefer not to do (仮に訳せば「…しないで済めばその方が好ましいのですが」)という風に仮定法に置かれており、もちろんその仮定法のニュアンスが大切なのだが、ともかく素晴らしい歌詞だと思う。「あなたと意見がぶつかってはいけないから私は喋らないでおきたい」。(喋らずに何をやっているかといえば、どうやらキスしているらしいんですけどね(笑) Se você me provocar / Mas aceito um beijo / Se você quiser me dar 「挑発しても駄目だ/でもキスなら受けるよ/あなたが私にしてくれるというなら」。)
 リンゼイ自身もあるインタビューで「現代ブラジル音楽は、サウンド面ではひどいのも少なくないけれど、歌詞はどれもいいんだ」という趣旨のことを述べていたが、おそらくそうなのだろう。

 楽曲やパウリーニョ・ダ・ヴィオラの歌唱・演奏ばかりではない。アート・リンゼイによるカバーもウットリするほど素晴らしい(MP3 ファイルをアップロードして聴き比べていただければよいのだが、やはり法律的に難しいと思う)。
 リンゼイはポルトガル語には不自由のない人だし、自身で作詞することもできるくらいなのだが、発音やイントネーションには「ガイジン」っぽさが残っている。しかしだからこそこのポルトガル語は、ネイティブが「自然」に発声する場合にそれこそ「自然」にまとわりついてくるだろう様々な意味から解き放たれ、いわば文字通りの、書かれたとおり、話されたとおりの言葉となる。DNA 時代はほぼシャウトするだけだったリンゼイのボーカルが、こういう楽曲ではとことんメロウになれるのも不思議だが、しかしそのきわめて滑らかなマチエールには、ひびといえばよいか、裂け目といえばよいか、ともかく外国性がつねにすでに織り込まれているのである。〈いいたいこと〉と〈いっていること〉とが完全に一致しているといってもよい。

 そんなことがあるのか?と問う人は幸いである、或る意味において。現実に多くの人は、おのれの頭の良さでも誇示したいのか、(こちらが「裏」などない言葉を発しているときでさえ)言葉の「裏」をつねに読み取ろうとする。そういう人たちは、〈文字通り〉ということの恐ろしさ、「裏」のない言葉の凶々しさ、そしてもちろん素晴らしさに撃たれたことがないのだろうと思う。繰りかえすけれど、それはある意味では幸福なことである。

 翻訳のエクリチュールが実はそういうものなのだと、ここで記してもそう唐突ではあるまい。〈いいたいこと〉と〈いっていること〉が完全に一致している、あるいは少なくとも、それらの一致を目指して産み出される言葉。すぐれた翻訳文学を、あるいは多和田葉子のような人のエクリチュールを読めばその点は体得されるはずである。

 中原昌也の文章にもそういうところがあったなあ、ついでに引用しておこう――と思ったら、肝腎の本がない! あゝそうだ、人に貸したんだった。A くん、早く返して。

 ともかく、そういうわけで、〈あなたと意見がぶつかってはいけないから私は喋らないでおきたい〉は文字通りに聴かれなくてはなりません。「文字通りに解釈するとこの歌詞はどういう意味になるのか?」と問う人もいそうですが、いやだから〈文字通り〉というのはそういうことではないのです。

            *

〔註記 『グリード』の枠組でいうと、この曲と、そのひとつ前の「Steel Wool」はパーソネルが共通しており(ギターのビル・フリゼール、ドラムスのジョーイ・バロン)、一続きのものと考えることができる。事実、「スティール・ウール」の歌詞の最終行は Describe how you feel, but keep kissing「どんな感じかいってみて、でもキスはやめないで」となっている。〕

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2008年4月19日 (土)

ある日の会話

 ……そうそう、「カバー・バージョン」読んだよ。「補遺」から遡って。
 読まなくっていいって言ったのに。ま、とにかく、どうも。
 で、いいたいことはわかったんだけど、ひとついっていい?
 うん、何?
 選曲が古い!
 わははは! 古い奴だとお思いでしょうがあああっ。
 ははは。だって、わたしの知らない人が結構いるし。バーズ?とか。
 ああ、バーズ。敢えて日本語に訳すと「鳥たち」。
 ばかにすんな(笑) それくらいわかってるよ。けど曲は知らない。
 あ、でも綴りが違ったかも。まあいいや。とにかく。古い新しいって、でもそんなに重要かなあ? つまり年次が新しいかどうかってことだけど。例えばジミヘンと、んー、レニー・クラヴィッツをさあ、どっちも知らない人に教えなきゃいけないとしたら、どっちにする?
 そりゃあもう、圧倒的に
 ジミだよねえ。つまりそういうことですよ。録音技術の進化も含めて、音楽の歴史性というか、そういうものも忘れちゃいけないけど、ねえ、楽曲の質とそれを直に結びつけるのはどうかなと、いう気がするのでございます。
 でも、じゃあ、ジェームズ・ブラウンとプリンスだったら?
 それは難しいな。選べないかも……ってか、俺の話、聴いてた? せっかく岸田今日子の物真似したのに。
 聞こえてはいたと思うけど、すいません、よく聴いてませんでした。もう一回やって。
 ……。
 あれ、もしもし?
 はいはい。
 岸田今日子。
 ……。
 もしもし~。
 今のはセリーヌのまね、でございます。
 電話でわかるわけないっつうの(笑) とにかく、ねっ。あと、ビートルズ、実は嫌い? なんだか辛辣。
 いえいえ、好きですよ。カラオケで歌う三分の一はビートルズだし。というか、あのリストは、まあもちろん趣味は反映されてるにしろ、好き嫌いじゃなくって、いちおう歴史性を踏まえたつもりなんだけど。音楽的な質も無関係って書かなかったっけ? 翻訳論的に考えてみるという話なので。
 でも、たとえばさ、あの曲をあの人の声で聴いてみたいっていうのは、あるじゃない? 一般的なアレとして。
 うんうん、それはあるよね。ショーケンの大阪で生まれた女とか。
 それが古いんだって(笑) 誰も知らねえよ、そんなの。
 でも音楽業界は残念ながらそういう風になってないっていうか……ああ、スパンク・ハッピーとか、歌い手だけ変えるってやってたよね、確か。でも俺ああいう作為的なのは好きじゃないの。
 結局、好き嫌いじゃない!
 それも~あるけど、あ! 「好き嫌いは否めない」。これは物真似じゃなくって引用。文意がちょっと変わるけど。ともかく、それだと結局カラオケでしょ? 歌と演奏を分けるってのも、おかしいと思うし。カラオケは音楽業界の立派なサイドビジネスでもあるわけだけど。
 山崎まさよしは真似できないよね。
 ねえ、俺の話聴いてる?。
 全然話変わるけど、わたし今、駄洒落に凝ってるの。
 駄洒落って?
 布団がふっとんだ。
 それって古典中の古典じゃん。
 ぎやあああ! そう、わたし才能ないから、人がいうのを聴いて面白がるだけなんだけど。
 じゃあ、これ知ってる? 魚屋での会話。魚屋さん、これはタコですか――イカにも。
 ははははは。
 これにはバリエーションがあって、魚屋さん、これはイカですか――タコにも。
 あはははは! 意味わかんない!
 でも、駄洒落って、理に落ちるとつまんないから。イエス様、この男が私をブッタ。とか。
 それも面白いかも。
 そう? これは自作。俺も才能ないんで、ほとんど理に落ちつつも、例外的にギリギリ踏みとどまってるって感じかなと思うんだけど。
 あと、レインコーツってのも知らない。ってか「ローラ」も。
 ……。ミア・ハンセンラヴの『すべては赦される』って見た? あのオーバードーズの前の晩のパーティで流れてたのがレインコーツのローラ。オリジナルはザ・キンクスってイギリスのグループ。これはねえ、オカマの歌なんですよ。正確にいうと、女装する男色家かな。そういう曲が代表曲になるグループっつうのも変わってるけど、俺は好き、ってか、ビートルズは単なる好きだけど、キンクスは愛してる。これがヒットチャートの上位に入るイギリスというのも相当変な国だよねえ。レインコーツはイギリスの女性グループ。栄光のラフトレードですよ。
 つまり……男が作って歌ういわゆるオカマの歌を女がカバーして歌うわけね。アメリカだとルー・リードにあったよね、ワイルド……あれ、何だっけ、ワイルドなサニーサイド、みたいな。
 ワイルド・サイドを歩け。「ワイルドなサニーサイドを歩け」とか「明るいワイルドサイドで」っつう曲があったら聴いてみたい気もするけど。そういえば、なんきんの漫画で、帯に短し恋せよ乙女、だったか、命短し襷に長し、だったか、そんな駄洒落があったよ。あ、折角だからちょっと今 BGM にかけよう……。
 この曲くらいになるとカバーもありそうじゃない?
 確かにね。けど、ローラと一緒で、やっぱり女性にカバーして欲しいと思うな、というか女性のカバーの方がよさそうな気がするのでございます。そういえば Youtube で、ミドルティーンの白人女性がカラオケでローラを歌ってた。何か罰ゲームみたいなノリでもあったんだけど、結構よかったよ。歌が上手いとかそういうんじゃなく。
 ああ、つまり、性別が変わると、「楽曲自体」?というのが見えてくるってお話でございますよね。
 理想をいうと、そうでございますよね。実はそこまで考えていなかったけど、うん、うん、そういうことになると思う。たぶん。
 じゃあ、美川憲一、っていうかコロッケ?
 コロッケって女性だったっけ?。
 あの人は男性だと思う。
 じゃ、ちょっと違うかも。というより、あれは声帯模写でしょ? すごく上手いけどさ。そうじゃないのかなあ。俺あまり詳しくないんだよ……カバーって、むしろ批評的なものまねに近いんだと思うんだけど。つまり
 松村邦洋みたいな?
 掛布、ね。あるいはタモリとか。
 タモリってものまねやるんだ。
 うん、それこそ詳しくないけど、小林信彦がどっかで書いてた。初期の芸でね、寺山修司の物真似。本当は寺山修司はいってないんだけど、いかにもいいそうなことを「再現」して真似るという。友人にもひとり上手い人がいるけど。あっ、でもそれだと「オリジナルのない翻訳」ってことになるのかな。ま、とにかく、男性と女性の間で歌が行ったり来たりするのは素晴らしいと。
 それ、菊地成孔がいってた。マイ・ファニー・バレンタインでしょ?
 例えば、そうだよね。
 演歌とか、そういうの多そうじゃない?
 そうかもしれない。何か思いついたら教えてよ。
 うん、あとねえ、オセロがうざい。
 もっと上品な言葉を使おうよ……消せってこと?

 というか、勝てないから。
 レベルは何でやってる?
 1 かな。
 じゃあ、1 の白でやってみて、それでもまだ勝てなかったら、0 の黒、白の順番で。何かよくわからないけど、オセロは後攻の方が有利なんだって。
 ふーん。白を選ぶ。黒が先攻だからっと。勝ったらお知らせするよ。そうだ、聞いて! わたしマスカラ変えたの。ヘレナ・ルビンシュタインのね……(後略)

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2008年4月17日 (木)

「カバー・バージョン」 補遺

(以前のエントリー「カバー・バージョン」の補足)

 作品とは「固有の運命として翻訳されることを呼び求めるような言葉の制作物にほかならない」とアントワーヌ・ベルマンはいっている〔『他者という試練』 261頁〕。それはつまり、翻訳されて初めて作品は作品となる、あるいは作品とは決して完成されたものではなく、つねに生成途上にあるということだろう。敷衍しつつ、楽曲もまたカバーされて初めて楽曲となると、仮にしておく。
 もちろん音楽は、歌詞が外国語であろうと聞いて楽しむことはできる。その意味で、カバー・バージョンのあり方は文学的テクストの翻訳のそれとは自ずと異なってくるに違いない。それでも、少なくとも広義の翻訳事象として、楽曲のカバーを考えることは可能だろうと思う(念の為に、ここでは「レコード」として記録された演奏に対するカバーだけを念頭に置いている)。

 ベルマンは別の箇所でこう述べている。「文学テクストの翻訳者各自の経験が証明する」ように

翻訳者と訳されるテクスト(ならびに原作者・原語)は、完成しているにもかかわらず作品がそこにおいては依然として生成途上にあるような地帯を、翻訳者が作品のうちに洞き察る〔つらぬきみる〕という形で関係する〔同書 7 章、246 頁 註 8〕。

 つまり、類推でいうことが許されるなら、カバーする人は元の楽曲のうちに、「完成しているにもかかわらず作品がそこにおいては依然として生成途上にあるような地帯」を見つけようとするわけだ。ところで、わたくしは前回、ビートルズはカバーというものに対しきわめて特殊な関係をもっているかもしれないという趣旨のことを示唆した。ビートルズの楽曲のカバーを聴いても、たいていの場合は楽曲それ自体が迫ってくる感じはせず、オリジナル演奏がかえって思い出されるばかり――ということの方が断然多いからである。ほとんど唯一の例外として、スクリティ・ポリティによる「シーズ・ア・ウーマン」が、オリジナル演奏(むろん名曲の名演だが)によっては見えなかったこの楽曲の別の面〔おもて〕を顕わにするくらいのものだ。〔追記:まあジョー・コッカーの「彼女はバスルームの窓から入ってきた」なんか、ちょっとよかったけど。〕
 そういうようなことを折に触れぼんやり考えていたのだが、先日「ある映画作家のダイアリー。」という副題をもつブログ MINER LEAGUE の「もはや逃避さえ不可能」というエントリー(4 月 7 日)に、興味深い観察が記されていた。音楽にも造詣の深い映画作家の日記である。

ビートルズの『アンソロジー2』『同3』というのを買った。これはジミヘンの『イン・ザ・スタジオ』のようなもので、未完成のものやアウトテイクが入っている。とはいえジミヘンほどスリリングではないのは、やはりかれらが未完成であることに耐えられないイギリス人であることと、やはりかれらがプレイヤーというよりはコンポーザーあるいはシンガーであった、という二種類の限界があるからだろう。完成したヴァージョンを知っている者には「へ~」としか感想は出てこない。ジョージ・マーティンの本とジェフ・エメリックの本の二冊を読むと何か驚くべき発見があればいいのだが。〔強調は引用者による〕

 もちろん、ジミ・ヘンドリクスが未完作品しか残さなかったということではない(それどころか! そもそもジミの演奏もカバーするには相当手強い)。ここでの「未完成」はベルマンの指摘する〈完成にもかかわらず生成途上にある〉とほぼ同じことを意味していると考えられる。ビートルズの楽曲がもはや「生成」をやめてしまったとはいえないにせよ、生成可能性(この場合はカバーされて全く別の面を見せる可能性)の余地がきわめて少ないとはいってよいかもしれない。
 それほどまでに完成度が高いのだという言い方はべつだん間違ってはいないけれど、今更そのようなことを強調してもあまり意味はないように思う。けちをつけたいわけではない。ただ、どうせカバーするなら、ビートルズの流儀でビートルズをやるのではなく、全く別のアプローチをとることで、彼らの楽曲の可能性(そういうものがまだいくらか残されているとして)を垣間見せて欲しいということだ。

「楽曲それ自体」なるものの抽象性に対する批判がありうるかもしれない。しかし、「愛情や敬意に満ちたトリビュート」における「愛情」や「敬意」だって、十分抽象的である。ここでいう「楽曲それ自体」は確かに、オリジナル演奏とすぐれたカバー・バージョンとの間に、たとえば〈いしだあゆみのブルー・ライト・ヨコハマ〉と〈ローザ・ルクセンブルグのブルー・ライト・ヨコハマ(~原宿エブリデイ)〉との間にあ(るといえばあ)り、そしてそこにしかない。だがこれは形而上学的な意味でのイデアとは違う。意味のあるカバーバージョンが存在しなければそもそも出来しえないという意味において、それはあくまで歴史的なものであり、その限りでやはり具体的なものなのである。

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2008年1月25日 (金)

パリのゲットー

 わたくしの住むアパルトマンはパリの中でも最も特殊な部類の形状をした建物だと思うけれど、隣人は DJ Mehdi という、その業界――ヒップホップというかフレンチ・エレクトロというかそういう界隈――ではかなり知られた人である。「である」などと断じてしまったが、彼の家族が引っ越してくるまで実は知らなかった。世界は広い。広いのだが、奥方であるグラフィティ・アーティスト Fafi とともに日本にも結構な回数仕事で出掛けているそうだから、その意味では世界は狭いともいえる。ともあれ、夫妻ともにすごくいい人であることは間違いない。

 Mehdi 氏の作品のなかでわたくしが最も好きなのは(なぜか U2 の「ディスコテック」などを思い出させぬでもない) Steed Lord の「ダーティ・マザー」(Dirty Mutha)のリミックス DJ Mehdi Remix だが、これは「好き」というより、壁越しに聞いた回数が最も多いために最も馴染んでしまったという方がむしろ適切かもしれない(試聴はこちら)。面白いのは、彼が越してきた当初、近隣のアパートの住人から「音楽がやかましい」と苦情がくるなど、ちょっとした事件になったことである。これは本当にちょっとした出来事にすぎず、わたくし自身はほとんど迷惑に感じなかったのだが(いやまあ本当いうとうるさく感じられる時もごくたまにないではない)、近辺が静かなためか、苦情が二件隣の建物から来た点が興味深かった。
「閑静な住宅街」といえば聞こえはよいけれど、われわれが暮らすのは、歴史的用法を加味しつつ日本語に訳せば「ゲットー」ということになる(原語のフランス語がもつ複数の意味のうちのひとつを「素直」に訳せばそうなる)。もちろん人はそうした歴史をまったく気にすることなく住まうこともできるわけだが、偶然も手伝ってかかわりをもつことになったその歴史性に何か意義を見出すのも悪くはあるまい。DJ Mehdi がここに(とりあえず)腰を落ち着けることになったのは素晴らしいことだと、勝手にわたくしは考えている。

 わたくし自身はいずれ永住するつもりがないので、自分の身の上に引きつけて何がしかの意味を見出そうと積極的には思わない。ただ、ここも含め「ゲットー」的なものには、その実態とは裏腹な名称が与えられるという一般法則を、同種の「ゲットー」を発見するたびに思い出すくらいのものである。デューク・エリントン、といえば話は通じるだろうか。エリントン公爵(この場合、誰が名づけたかは重要ではない)。
 建物と建物の空隙にたまたま見つけたある「ゲットー」は例えば未来と名づけられている。原語で記せば ... de l'Avenir である。「未来という名のゲットー」。写真を御覧になればわかるはずだが、これほどきつい皮肉もない。いや皮肉以上の悪意そのものというべきである(ザ・ジャムにそんな感じの曲がありましたね)。こんなところに「未来」は訪れるのか、「未ダ来ザルモノ」が?Lavenir_1 あるいは、それでもやはり希望はともかくここから始まるというべきだろうか。
 
この写真を撮ったあと、現在この「ゲットー」は工事が始められており――壁のグラフィティはそのままだが、出入りを禁じていた柵は撤去されている――おそらくアパルトマンが建つはずである。そこに住まう人たちに未来、つまり「コレカラ来ルモノ」の来たらんことを!

Lavenir_2_2

 感嘆符など付けるものだから、もともと何を書こうとしていたか危うく忘れてしまうところだった。一方のお隣は高名なフランス人音楽家、いま一方には日本人がお住まいなのだが、ある時わたくしのところを含めた「向こう三軒両隣」(誤用かもしれない)が少なくとも二枚、同じレコードを所有していることがわかったと、ただそれだけのことで、つまり壁越しに時折、聞き覚えのある音楽が聞こえてくるのである(Mehdi 氏自身の選曲かどうかは未詳)。チェット・ベイカー『シングズ』、マーカス・ミラー『テイルズ』。チェット・ベイカーはもちろんゲットーに響くことを許された、そう多くはないだろう白人音楽家のひとりである。
 一般的には十分ありうることなのかもしれないけれど、わたくし自身はこうした経験は初めてだった。三軒が同時に同じ CD をかけるような状況を期待するともなく期待しつつ、しかし昼食を作りながら踊るのに最近は、デート・コース・ペンタゴン・ロイアル・ガーデンの「ミラー・ボールズ」をかける毎日である。

Lavenir_4 〔追記 暖冬から春にそのまま移行し、桜も咲き始めている三月初旬現在の「未来という名のゲットー」。こうして見ると廃墟以外の何ものでもないけれど、グラフィティで埋まる入口の奥、右に入ったところで immeuble (建物・ビルの意)が出来あがりつつある。車椅子の男性も何か感じたのか、視線を向けている。「おじいさん、ここには未来があるそうですよ。」
 覗きに行って追い出されたあと、道を渡って少し離れたところから撮影。〕

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2007年12月12日 (水)

カバー・バージョン

 翻訳というものを拡大ないし一般化してとらえようとする考え方がある。極端な場合、人間の行なう認識・創造活動すべてが一種の「翻訳」ということにもなる(たとえばミシェル・セール)。そこまででなくとも、小説や絵画、あるいは音楽の製作を「翻訳」と考える人は多い(マルセル・プルースト、多和田葉子ほか)。
 こうした一般的翻訳論がそれ自体として重要であるのは間違いないし、また狭義の翻訳についての思考に必ず何ごとかをフィードバックしてくれるはずだが、問題がないわけでもない。すなわちこの場合、オリジナルは何処にあるのか。「頭の中」というのは答えとして不十分である。というのも、翻訳が素晴らしいとすればそれは、ひとつには原文と翻訳とが並んであるからだ。長い文章、本一冊丸ごとというのではなく、ほんの一語でも全く構わないが、とにかく「この言葉は英語で何というのか」と、深い意味もなく知りたくなるということは多くの人が経験しているはずである。(見た目の)異なるふたつの外国語が、しかし互いに忠実な関係を結びつつ並んでいること、場合によってはただそれだけで純粋な喜びとなりうるのである。
 ところで、小説を書くことが「翻訳」だといった場合、そのオリジナルは、狭義の翻訳の原文があるという意味においてあるとはいえない。オリジナルはそれを誰かが取り出そうとしたかぎりにおいて「ある」(といえばある)。だから間違いだといいたいのではない。ただ、性急に「すべてが翻訳だ」と結論を出す前に、「オリジナルのない翻訳」や「オリジナルという概念」といったことがらについていろいろ考えなくてはならないだろう……

 そうしたややこしい事柄から離れて、音楽のカバーバージョンについて少し考えてみたい。ここでは外国語の歌の各国語バージョンではなく、ごくふつうの意味でのカバーのことを指している。拡大された「翻訳」の一例として。

 面白いことに、クラシックでカバーバージョンが問題になることはなく、グールドがバッハを「カバー」したとか、そういう言い方はふつうされない。ジャズや現代音楽でも基本的にそうだろう。前者は楽曲のスタンダード化が進んでおり、他方、後者は逆に、演者との結びつき(事件性といってもよい)がきわめて強く、簡単にカバーできそうにないからだ。リュック・フェラーリのカバーなど、想像することさえ困難である。ロックやポップスの場合、(他にもさまざまな理由はあろうが)ここでは楽曲とオリジナル演奏との固着関係がほどほどの強さしかもたないからと解しておきたい。
 言い換えれば、時代や演者との結びつきはそれなりに強いものの、楽曲の別の演奏の可能性を探りうる程度の緩さがそこにはあるということだ。それにしても、別の演奏、別の解釈など本当に必要なのだろうか。個人的にいうと、カバーバージョンを特別聴きたいと思わないどころか、積極的に拒絶したいとさえ思う場合はある。「ビニールが擦り切れるほど」といえばよいか「虎がバターになるほど」というべきか、とにかく何十万回と聴いたもの、たとえばマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン・オン』の歌ものカバーなどは個人的には必要を全く感じない。個人の感傷は抜きにして、しかしこうした意味での固着、楽曲と演奏の緊密で親密な結びつきというものは確かに存在している。ということは、「翻訳」としてのカバーとは、楽曲と(オリジナルの)演奏の間にいわば割って入るものなのである。一旦割り込んでみたものの跳ね返されてしまうこともあれば、その後ずっとそこに居座り続ける、つまり乗っ取ってしまうこともあるだろう(演奏の「スタンダード」化)。あるいはまた、とりあえず割り込むことで、楽曲と演奏者との固着を解放/開放して自由にする、すなわち楽曲そのものの別の魅力の探究を通じてその「スタンダード」化に貢献するようなカバーもありうるはずだ。この場合の「スタンダード」は芸術理論にいう「作品」とほぼ同義で、要するに楽曲の自律性とかかわる考え方である。まさにバッハ作品に対するグレン・グールドの態度につながるような仕方でのカバーというものが、ロックやポップスで増えても別に悪くはないと思う。

 とにかく以下は翻訳論的観点からのみ試みられたカバー・バージョンの分類である(売り上げの多寡による功績はもちろんのこと、純音楽的達成度なども考慮しない)。
 各項目の実例も主観性は免れがたく(また教養の無さも手伝って)、試験的・暫定的なものにとどまっている。いずれにせよ、カバー自体はおよそ無数といえるほど存在しているので、ほんの一例にすぎない。なお、ライブ演奏の扱いは難しいところで、名演も少なくないけれど、ここではレコードとして誰もが聴けるものに限定する。

1) 本人やファンにとって、また印税収入が得られるだろう原作者にとってしか意味をもたないカバー

 無理矢理ポジティブな言い方でさらに分けると
 ・元の曲・アーチストに対する好意や敬意が感じられるもの
 ・科学技術やレコーディング技術の進歩を確かにまざまざと感じさせてくれるもの
 などとなるだろう(スティングの「リトル・ウィング」は両方にあてはまるかな)。
 文学における「外国語からの翻訳」と比較すると、忠実さのあり方が異なっているように思われる。

 トッド・ラングレン『フェイスフル』 A 面……うまいとは思いますがねえ、完全コピーしてどうする。
 フィル・コリンズ「恋はあせらず」……同上。
 テイク・ザット「愛はきらめきの中に」……同上。
 
桑田佳祐「ディキシー・チキン」(ライブ)……同上。ただし桑田というかサザンはオマージュ・ソングがどれも素晴らしい。

2) その曲の「スタンダード」的演奏となりうる(いわば「オリジナル」の地位を簒奪しうるような)カバー

 ビートルズのカバーはそれなりに試聴してはいるけれども(コートニー・パインが「64 歳」を吹いたやつとかマーカス・ミラーの「カム・トゥゲザー」とか)感心した記憶がほとんどない。
 彼ら自身によるカバーがここに分類されることからして、またポール自身による例えば「ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア」のカバーが惨澹たる出来であったことからもわかるように、楽曲に対するアプローチの仕方がビートルズはきわめて特殊なのではないだろうか。楽曲を解き放ち「スタンダード」化するといった態度と無縁であるというか、時代やオリジナルの演者との結びつきがあまりに堅固というか。
 しかしながら、あるいはむしろ、だからこそビートルズのカバーはつねに待望されるわけだが(今更ビートルズでもあるまいという意見には同意する)、私見では今のところスクリティ・ポリティによるもの(次の項目参照)以外にはほとんど成功例がないと思う。何十万回と聴いた楽曲であるにもかかわらず、たった今まさにその楽曲が新たに誕生したと思わせるようなカバー。
 むろん、個人的愛着の度合だけが問題なのではない。すでに触れたマーヴィン・ゲイのような例は誰にもあることと思うが
――だからカラオケで椎名林檎を歌おうとするわたくしに待ったをかけた友人の気持はよくわかる――、その一方で、同様に何百万回と聴き親しんだニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの例えば『テンダー・プレイ』など、まだ楽曲の可能性が採掘し尽くされていないように感じられるものもあるからだ。といって誰が N・ケイヴをカバー=翻訳しうるか想像もつかないのだが(今のところジョニー・キャッシュのやつは除いて)、とにかく

 エルヴィス・プレスリー「ブルー・スエード・シューズ」「ハウンド・ドッグ」など
 ザ・ビートルズ「ロング・トール・サリー」「ミスター・ムーンライト」「ツイスト&シャウト」など
 ジミ・ヘンドリクス・エクスピアリアンス「見張り塔からずっと」
 エルヴィス・コステロ「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド」

3) その曲自体の「スタンダード」化を可能にする(少なくとも別解釈の可能性・有効性を示す)カバー

 これがおそらく文学における「忠実な翻訳」に対応するものと考えられる(アプローチはともかく効果という点で)。詳しくはアントワーヌ・ベルマン『他者という試練』のとりわけ第八章を参照されたい。

 ジョン・コルトレーン「マイ・フェイヴァリット・シングズ」……ジャズだが参考例として。
 
ザ・バーズ「ミスター・タンブリング・マン」
 
ザ・フー「バーバラ・アン」「ヒートウェイヴ」「サマータイム・ブルーズ」
 ザ・ローリング・ストーンズ「むなしき愛」

 ザ・バンド『ムーンドッグ・マチネー』

 吉田拓郎「襟裳岬」……元々自身の作曲したものだが。
 ブライアン・フェリー「激しい雨が降る」
 ロバート・パーマー「セイリング・シューズ」

 
ロクシー・ミュージック「ジェラス・ガイ」「ライク・ア・ハリケーン」(ライブ盤)
 バナナラマ「ノー・フィリングズ」(サントラ)……今なら HALCALI がアナーキーをやるという感じか。色物すれすれだが、セックス・ピストルズの楽曲が「スタンダード」化されるとすればそれはとてもいいこと。
 バウハウス「テレグラム・サム」……個人的にはオリジナルの方がずっと好きだが、いちおう。

 ボーイズ・タウン・ギャング「君の瞳に恋してる」

 ラン DMC featuring エアロスミス「ウォーク・ジス・ウェイ」……個人的には 2 でも構わない。
 ロバート・ワイアット「シップビルディング」
 ローザ・ルクセンブルグ「ブルーライトヨコハマ(原宿エブリデイ)」
 トーキング・ヘッズ「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」

 ジョニー・キャッシュ「マーシー・シート」
 スクリティ・ポリティ「シーズ・ア・ウーマン」「テイク・ミー・イン・ユア・アームズ・アンド・ラヴ・ミー」……とりわけ前者はビートルズのカバーとして例外的な成功といえる。
 矢野顕子「Simon Smith and the Amazing Dancing Bear」「海と少年」……もともと楽曲「スタンダード」化志向の強い人で、他にもすぐれたカバー多数。英語をなぞるのではなく、ふつうに英語の歌になっているところも凄い。
 ピチカート・ファイヴ「マジカル・コネクション」
 桑田佳祐「愛の讃歌」……この場合のオリジナルは越地吹雪。CM 用の録音で、部分的カバーにすぎない点が惜しまれる。
 アンビシャス・ラヴァーズ「パラ・ナン・コントラリア・ヴォーセ」
 スマップ「セロリ」……山崎まさよしの歌の上手さがなくともちゃんと曲になっているプロダクションが見事。

 中谷美紀「クロニック・ラヴ」
 
 原田知世「時をかける少女
」(セルフカバー)……歌、うまくなりましたねえ。プロダクションのせいだけではないでしょう。最初聴いたとき、中谷美紀がカバーしているのかと思ってしまいました(中谷さんが特別うまいとは思いませんが、とにかく聴かせてくれた M 氏に感謝します。しかし M さん、あのあとわたくしは、原田さんのオリジナルを Youtube で探し、テレビでの生歌唱を聴いたのですが、率直にいって腰を抜かしましたよ)。
 デイヴィッド・ボウイ「アメリカ」(ライブ)
 スキップカウズ「オンリー・ユー」……CM でチラッと聴いただけだがとても印象に残った。
 椎名林檎・松崎ナオ「木綿のハンカチーフ」
 アート・リンゼイ「ベイジャ・メ」
 ペット・ショップ・ボーイズ「Where the Streets Have No Name - Can't Take My Eyes Off of You」……例のギターで窒息しかけていた U2 の再生させるとともに(『アハトゥング・ベイビー』と同年の発表)、そして「ホエア・ザ・ストリーツ・ハブ・ノー・ネーム」と「君の瞳に恋してる」の類縁性を示唆したことで知られる(名曲の)名カバー。
 スパンク・ハッピー「フィジカル」(ライブ、一応)
 ダーティ・ダズン・ブラス・バンド『ホワッツ・ゴーイング・オン』
 Sweet Robots against the Machine「Free」

4) 意欲は買えるカバー(楽曲の可能性を拡げたとはいえないまでも 1 に分類するのが惜しまれるもの)、「本歌取り/パクリ」、パロディ、その他

 萩原健一「大阪で生まれた女」
 トッド・ラングレン『Wizard/True Star』に入っているフィリー・ソウルのカバー
 ハイファイセット「卒業写真」
 ヴァン・ヘイレン「ユー・リアリー・ガット・ミー」
 
ザ・レインコーツ「ローラ」
 シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム

 スティング「誰かに見られてる」(サントラ)……「スタンダード」そのものだがスティングの声によく合っていたのと、「見つめていたい」→「セット・ゼム・フリー」という「脱ストーカー」の主題に連なると思われるので(念の為にいっておくと watch over は「監視」というより「見守る・番をする」)。

 PUFFY「これが私の生きる道」

 椎名林檎「本能」……何か「丸の内サディスティック」とものすごく似ているように思われるので。五線譜に起こしてみると全然違うかもしれないけど。
 菊地成孔「ファムファタール」
 
 ソニック・ユース「スーパースター」

    ***

 力尽きたのでとりあえずここで中断する(各実例の発表年など添えるべきだろうが)。最近はカバーのコンピレーションが流行してもいるので、いろいろ面白そうなのもあるだろう。またセルフカバーはほとんど除外したし、一回きりの生演奏と、録音された「レコード」との異動など、触れなかった問題もある。さらに今回、社会学的観点は除外した点を注記しておく。白人による「パクリ」というのは音楽史としてきわめて重要なテーマであろうが、「キャロル・ケイ事件」でも明らかとなったように単純な善悪の構図に収まるものではなく、扱いがとても難しい。

〔追記 カバーのあり方によってではなく、その数の多さによって「スタンダード曲」であることが実質的に証明されてしまっているような例も少なからず存在する。「エリナー・リグビー」や「イエスタデイ」、また「夢で逢えたら」。この場合の「スタンダード」は別の意味合いであって、カバーそれぞれとオリジナルの関係を考えるとやはり上の 1-4 いずれかに分類されるはずである。
 また、上に名の挙がっているアーティストたち自身の、オリジナル楽曲・演奏との関係は多種多様である。文学の領域で、翻訳がその創作に対してきわめて重要な意義を担う作家もいれば、ほとんど無関係な(たとえ翻訳を実際に行なっていても)作家もいるというのと同じことで、翻訳=カバーに対する態度もさまざまでありうる。たとえばロキシー・ミュージックが最も創造的だったのはやはり B・イーノが在籍した時期になると思うが、「リメイク/リモデル」という曲名に表れているように、その創造性は「オリジナルの(はっきりし)ない翻訳」とそもそも深い関係にあったといえるのであって、そのことを明瞭に――つまり模倣や影響ではなく翻訳として――意識していた点に彼らの新しさがあったのだと思う。事実、グループのオリジナル曲のほとんどを手がけた B・フェリーはカバーだけのソロアルバムを複数出し、たとえば「激しい雨が降る」の実にへんてこりんな、だがとても味わい深い解釈を発表している。一方、グループ名義でも「ジェラス・ガイ」や「ライク・ア・ハリケーン」をカバーし(後期のライブ盤『ハイ・ロード』)、人を驚かせるところは少ないものの、ほんの少しの差異を導入することによって J・レノンや N・ヤングの声から楽曲を解放することに成功している。

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2007年10月 5日 (金)

アート・リンゼイ「ベイジャ・メ」ビデオクリップ

 ファッション畑で知られるブラジルの写真家マルセロ・クラジルシックが制作した「ベイジャ・メ」のビデオクリップを見ることができた。制作者本人がミュージシャンの諒解を得てアップロードしているように思われるのでたぶん無問題だろうし、すぐに消されることもないだろうと思われるが、備忘録として書き留めておく(http://www.youtube.com/watch?v=mOJ-nxWDs1U)。

 ベイジャ・メとはつまり「私に接吻して」という意味のポルトガル語で、ブラジル音楽のスタンダードをアート・リンゼイがカバーしたもの。アルバム『インヴォーク』の最後を飾る曲である(Arto Lindsay, "Beija-me", Invoke, 2002)。日本盤ではボーナストラック「フォゲーテ・パルティクラ」のカバーが後に続いており、肩の力の抜けたゆるいゆるいゆるい雰囲気を心地よくも増幅している。

 ヒロインがボサノバ・ギターに合わせて――合っているんだか合っていないんだかわからないいい加減な感じに見せつつ深いところでやっぱり(つまりベースラインに)合わせて――踊っているところに左右から交互に、リンゼイ本人も含む男性たちが次々と現れては「接吻」するという前半、ベースとドラムスだけの間奏に合わせて(?)男性たちが妙な舞踏を決めてから、ヒロインと一緒にサッカーボールを手で運ぶ遊戯――え、もしかしてラグビー? ウォークライ?――に興じる中盤、そしてエンディングでリンゼイがヒロインと同じ衣裳でゆらゆらしているところへ、今度は逆にヒロインが登場して接吻するという構成は、深遠な意味などなくそのまま歌の雰囲気を伝えているだけなのだが、とてもよい感じだ。ブラジルはいいなあと、改めて、無責任だがそう思った。ブラジルのラグビーってどんなだろう、是非見てみたいものである。

 細かいことをいうと、前半部・エンディングの秀逸なアイデアは、実はすでにエルヴィス・コステロの「アイ・ワナ・ビー・ラヴド」のクリップで使用されている(『グッバイ・クルエル・ワールド』1984年、クリップはエヴァン・イングリッシュ&ザ・リッチ・キッズ監督)。が、こちらは豪州メルボルンのとあるインスタント証明写真撮影ボックス内でコステロ本人が次々にキスされるという対極的なもの。歌詞に合わせ、チャーミングではあるが同時にややシニカルでほろ苦い感じが強調されている(http://www.photobooth.net/music/musicvideos.php?musicvideoID=7)。ビデオとしての出来栄えも素晴らしいけれど、同じアイデアが全然違った風に活用されているのが何より面白い。そういえばこの曲もカバーであった。

 挨拶のキスにはいまだ慣れないし、日本も採り入れればよいのになどとはまったく思わない。しかしそれが習慣となっている人たちの所作を見るのは素敵な体験である。コミュニケーションの仕方にもいろいろあるのだなと感心する。そういえば、フランスに来て、人々が力を全く込めずに握手するということを発見し軽く驚きました。

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2005年7月28日 (木)

アート・リンゼイ コンサート(於パリ・ヴィレット音楽都市)

 ホールでのコンサートという形態をいつしか苦痛あるいは窮屈と感じるようになり、ゆるい感じのライブやギグを例外として久しく遠ざかっていたのだが、長年の贔屓アート・リンゼイが来ると聞き、日頃の怠慢を臨時放棄していそいそと出かけた。
 この公演は「アラン・バシュングの私有公物」(Domaine privé Alain Bashung)という一週間に渉る企画の一部で、招かれたゲストとの共演が初日と最終日、あいだにゲストの単独プログラムが挟まれるというものだった。本当はオールキャストの回にも行ければよかったのだが、切符は早々の売り切れだった。当日のプログラムは「前座」として B. Ward というアメリカのフォーク・ブルーズ歌手の弾き語りワンマンショーがあり、次いでやはりワンマンショーとしてリンゼイが演じることになっていた。

 ところで、「前座」の B・ウォードのパフォーマンスはかなりよかった。伝統的なブルーズあるいはフォークを中心とした演目自体は、ボブ・ディランがいかに革新的だったか(とりわけ歌詞・コンセプトにおいて)を改めて思い起こさせるていのもので、いや悪くはなかったのだが、要するにこれはアメリカの伝統芸能であり、それを確かに受け継いでいるという以上にコメントすべきことはない。
 そうした中でわたくしが感心したのは「レッツ・ダンス」のカバーだ。もちろん D・ボウイのあの傑作――というか唯一、まあ好きといえる作品である(1983年)。このイギリス人は、行きずりで寝た女性に「俺はエイズだ」と「戯言」をいって訴えられたほどの大馬鹿者なのだが、ナイル・ロジャーズのプロデュースしたこの曲はとてもよく出来ている。それは結局のところコード進行がブルーズだから、ということが、B・ウォードのバージョンによって改めて明らかになったのである(この辺りは広い意味での翻訳論に通ずる主題だろう)。「レッツ・ダンス……」と彼がおもむろに突っ立ったまま歌い始めたとき、「クスッ」という笑い声がところどころから聞こえてきた。わたくしもたぶん笑ったと思う。そのときまで彼はずっといわば踊るように身体全体を使って熱演していたからだ。だが続く演奏、アコースティックギターのみの伴奏で淡々と歌うという意表に出たスタイルは、「レッツ・ダンス」の骨格を剥き出しにし、いわばその出自を顕現させたのだった。「靴を履き、そして踊れうんぬん」といった歌詞はリズム&ブルーズ系歌曲で馴染みのものなのだが(例えばリトル・フィート/ロバート・パーマーの「セイリング・シューズ」)、それが初めてしっくりきたといってもよい。率直にいって感動した。これはわたくしにとってこの楽曲のベスト&オンリー・バージョンであり、レコードはおそらく存在しないがゆえに一層貴重な体験となった。

 リンゼイの方は、近年のかなりメロウな感じのアルバム(少し前に新作『Salt』が出たところだった)しか知らなかったのであろう一人の妊婦が、最前列に陣取ったせいで気の毒なことに途中退出を余儀なくされるほどノイズ全開のパフォーマンスだった。「ニューヨーク・アンダーグラウンドを聞きたいかい? 昔はカリスマだったんだよ云々」(You wanna hear the New York underground? I used to be charismatic...)。実際に伝説的なミュージシャンであるのだが、アンプを利用したギターのフィードバックのみというシンプルな演奏が明るみにしたのは、上記「レッツ・ダンス」の場合とは逆に、リンゼイの楽曲がほとんど形らしい形をもたぬということだった。DNA 時代を考えれば、そしてギターをチューニングなしで弾くという彼の代名詞的スタイルを思い起こせば、それはもとより明らかではあったはずだが、サンバやボサノバによって辛うじて形態が与えられていたことを改めて知ることになった次第である。
 サンバやボサのリズムを借りた楽曲は決して少なくない。例えばジャズの曲をボサノバに編み直すというのはかつてよく行なわれた。しかし元の楽曲は(つまりその種のジャズは)きちんとした形をもっており、われわれは安んじて耳と身体を委ねることができた。「イージー・リスニング」と称されもするゆえんである。それに対しリンゼイの音楽は、形の不在ゆえに、不安を掻き立て動揺をもたらす。思えばファンク・ロックっぽく聴こえる部分も確かに多かったアンビシャス・ラヴァーズ時代(この時代はピーター・シェラーの貢献もあった)でさえ、その音楽はファンクからもロックからも微妙にずれていたのだったが、アンビシャス・ラヴァーズの不安定感は、単にノイジーなギターやアレンジにのみ起因していたのでなく、根本的なずれのせいであったということだ。そう考えれば「ラヴ・オーヴァーラップ」がクラブ仕様の12インチでシングルカットされたのが信じがたく思われてくる。実際、踊りづらいし。
 ソロアルバム『ムンド・シヴィリザード』に収められた「Qサンバ」という曲の歌詞はこんな感じである。「今の踊り、どうやるの?/ただ適当にでっちあげただけ?/特に名前はついてるのかい?/いや、名前まででっちあげなくっていいよ……」。形はないといえばないし、あるといえばある。でもいずれにせよ名前はない。Q samba, what samba 「どういうサンバか」誰も知らない。そうであるがゆえにアート・リンゼイの音楽は素晴らしいということだ。「何というサンバ!」。
 たとえばディドロは――場違いな感を与えるに違いないだろうけれど、フランスでのコンサートだからということで無理矢理に引用を正当化する――1767 年のサロン評で(ユベール・ロベールの廃墟の素描に関連して)こういっている。

見事な素描/粗描(esquisse)が〔完成された作品としての〕タブロー以上に好ましく思われるのはなぜだろうか。エスキスはタブローより多くの生命をもち、また形態(formes)が少ないからだ。フォルムを導き入れればその分だけ生命は失われてしまう。〔…〕絵を習い出して間もない者が、並の水準のタブローさえ描くことができないにもかかわらず、驚嘆すべきエスキスを作り出すのはなぜか。エスキスは熱情と天才の賜物であるが、他方、タブローは労働の、忍耐の、時間をかけた修練の、そして藝術というものに完全に精通するという経験の所産だからである。[Denis Diderot, Salon de 1767/Ruines et paysages, Hermann, 1995, p. 358.]

生成研究・生成批評の理論的根拠のひとつとなってもいる一節だが、強調したいのは、アート・リンゼイの作品が「エスキス」であるということではない。なるほど音楽の分野でも「エスキス」が完成したプロダクションより感銘を与える場合はある。ベスト盤に収められているザ・ジャム「ザッツ・エンターテインメント!」のデモ・バージョン、あるいはチャーリー・パーカーの「ウォーミングアップ・リフ」などが例えばそうだ。ここでの問題はしかし、リンゼイにおいて、完成されたプロダクション(つまりきちんとプロデュースされた作品)がなぜ「エスキス」の性質をとどめうるのかという点である……
 とまあ、個人的な発見に満ちた一日だったが、ギターだけのソロ演奏は正直いうと少しキツかった。今度はバンド・アンサンブルで聴きたいものである。

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