カテゴリー「映画」の記事

2009年3月 2日 (月)

クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』

 あるひとつの予感にうち震えつつ、タオが歳上の友人に尋ねる。How many did you kill in Korea?
 韓半島での「功績」により勲章を授けられた、東欧系の名をもつアメリカ人が答える。

  Thirteen, or maybe more. (十三人、いやもっと多いかもしれない)

 オー・ノー、ミスター・イーストウッド、YOU must've killed far more people!
 実際、朝鮮戦争に話を限定しなければ、イーストウッドは文字通り、数え切れぬほどの殺人に手を染めてきた。なるほど『トゥルー・クライム』では誤って極刑を宣告されたひとりの男性の命を救いはした。『ブラッド・ワーク』でも、ストーカー役ジェフ・ブリッジズの息の根を(きわめて官能的な仕種で)止めたのは彼ではなく、相方の女性だった。しかしその女性の妹、発作を起こし命を落とすところだった元刑事に心の臓を提供してくれた女性は、そもそもその目的のためだけに殺されたのではなかったか。また、『許されざる者』には確かに感動させられはしたけれど、ウィリアム・マニーは、というか要するにありとあらゆる西部劇的ヒーロー――そこにはもちろん「荒野の用心棒」や『ペイル・ライダー』の「牧師」も含まれる――を一身に体現したクリント・イーストウッドは、いったいどれだけの人間を殺してきたのだったか。そしてハリー・キャラハン。さらには『ミリオンダラー・ベイビー』……。

 クリント・イーストウッドは言葉の真の意味において不死身だった。誰かが指摘していたように、刃物で肉体を傷つけられることは確かに少なくなかった(監督第一作からしてそうである)。しかし、記憶するかぎりで、彼が銃弾を受けたことは一度もない。撃たれる危険に陥ったその都度、奇蹟が起こるか、さもなくば誰かが身代わりになってきたからだ。銃器のまったく登場しない『スペース・カウボーイズ』においても、犠牲者はしっかり用意されていた。要するにクリント・イーストウッドは、他の誰よりも、生き延びる術を身につけた人間だったのである。

 その不死身の男が、「丸腰」のまま、全く抵抗の素振りを見せることもなく無数の銃弾を浴び、そして斃れる。姉の受けた理不尽な凌辱に憤るタオ少年とほとんど同一化しながらわれわれは、ウォーリーがまさしくウィリアム・マニーのように、「牧師」の、ハリー・キャラハンのように「銃をとる」だろうと予想した。いや、期待したのだ。『ペイル・ライダー』や『許されざる者』のような復讐劇の再現を。それがまさかこのような事態になろうとは! この結末を導く伏線はしかし、さりげなくというよりむしろあからさまな形で張られてはいた。喀血、医師の診断、いくらも残されていない余命の宣告。それでも、われわれの願望はありうべき結末を無意識のうちに拒絶し、不死身のクリント・イーストウッドの再起を求めていたのである。まさか彼が死ぬわけはないと。
 その「まさか」をいち早く目撃してきた友人の「こうしかありえないのだと納得させられた」という言葉にわたくしも同意する。驚きはしたが、やはりこうなるしかなかったのだと思う。

 いつの頃からか映画は――かつて一滴の血を流すことさえ自らに禁じていたというのに――人の頭を平気で吹き飛ばし、躊躇せず顔面に銃弾を撃ち込むようになった(イーストウッド監督作品でも『ペイル・ライダー』や『ルーキー』では額に弾を撃ち込む場面が出てくる)。こういう時代に、多勢を誇る「敵」に立ち向かい、全員を独りで倒しおおせるような「奇蹟」は端的にいってありえない。「牧師」やダーティ・ハリー、W・マニーの出る幕はもはや用意されていないのだ。現代アメリカの都市郊外で十人のストリート・ギャングに対峙し、彼らをある意味で打ち負かしつつ、タオに道を指し示すこと。選択の余地は確かになかった。

 磔刑図のイエスの顔は、身体がどれほど痛めつけられ傷つけられていようと顔面だけは、つねに無傷のまま描かれる。西洋美術史、あるいは聖画の歴史の常識に属す事柄だろうが、たとえばメル・ギブソンの例の映画でもその点は踏まえられていたように思う。キリストの奇蹟は、この美しい顔によって初めて可能となったのだといえるかもしれない。斬首されたある聖人は、パリからサン=ドニ、つまり現在われわれが聖ドニと呼ぶ町まで、おのれの首を抱えて歩くことができた。それはしかしすでに、イエスの奇蹟の徴の下にあったと考えるべきだろう。少なくとも彼の顔は美しいままだったはずである。あるいはむしろ、斬首されたときにあらゆる傷、瑕疵が消え去ったというべきかもしれない。

 私の唇が彼女にふれたとき、祖母の両手が動き、彼女の全身に長い身ぶるいが走った、〔…〕突然祖母はなかば身を起こし、生命を防禦しようとする人のようなはげしい努力をした。フランソワーズは見るに堪えられず、声をあげてすすり泣いた。私は医師がいったことを思いだして、彼女を部屋からさがらせようとした。そのとき、祖母が目をひらいた。〔…〕酸素の音はすでにやんでいて、医師がベッドから離れた。祖母は死んでいた。
 数時間後に、フランソワーズは、最後に、そしてもう痛めつけることもなく、美しい髪を梳かしつけることができた、その髪は、わずかに白いものをまじえていrだけでいままで彼女の年よりも若々しく見えていたのであった。ところがいまは、逆に、それが顔の上に老いのかんむりをおしつける唯一のものとなって、顔のほうは若がえり、そこからは、長年のあいだ苦しみが彼女につけくわえた、しわ、収縮、むくみ、ひきつれ、たるみが、消えさっていた。彼女は、はるかな昔に、両親が配偶者を選んでくれたときのように、純潔と従順の線が繊細にひかれた顔立になり、けがれのない希望に、幸福の夢に、罪のない陽気さにさえ、かがやく頬になっていた、そうした顔立や頬は、年月が徐々に破壊していったものなのであった。生命は、いましがた、ひきさがるときに、人生の幻滅をもっていってしまった。ある微笑が祖母の唇の上に浮かんでいるように見えるのであった。この喪のベッドの上に、死はすでに、中世の彫刻師のように、彼女を乙女の姿で横たえていた。
 〔マルセル・プルースト『ゲルマントの方 II』、井上究一郎訳、ちくま文庫、1993 年、61-62 頁〕

 『グラン・トリノ』のイーストウッドもまた貌を傷つけられることなく死ぬ。被弾の場面はバスト・ショットならぬ「ベリー・ショット」として、つまり弾の撃ち込まれる胸部と腹部のみを大写しにしていた。われわれが次に見るイーストウッドの顔は、教会でカトリックの流儀に則って執り行われる葬儀の場面、銃弾の痕など無縁のまま化粧を施され棺に横たわる彼の死顔にすぎない。
 いや、その前、絶命し、芝の上に仰向けに倒れたイーストウッドの全身をキャメラはしっかり捉えていたのだった。簡潔な、しかし確信に満ち満ちた二本の直線をもって十字と化したその身体を。

L'idée générale d'une action, aussi bien que d'une attitude, peut s'indiquer au pinceau en très peu de lignes. Il est facile de concevoir que l'idée d'une personne sur la croix peut s'exprimer pleinement par les deux lignes droites de la croix ; de même que la position allongée de la crucification de saint André peut se comprendre entièrement par la croix en X.
 [William Hogarth, L'Analyse de la beauté  (1753), traduit de l'anglais par Olivier Brunet, Paris, Nizet, 1963, p. 256.]

 もちろん、ここには近現代の藝術家が多かれ少なかれ取り組まぬわけにはいかなかったナルシシズムの問題もあって、クリント・イーストウッドの頸がたとえば切り落とされたり、額に銃弾を撃ち込まれたり、かぼちゃのように頭部を吹き飛ばされたりというようなシーンは、われわれがそれをイメージできないという以前に、そもそも監督イーストウッドにとっておよそ「ありえない」演出というほかない。十字を描いて死ぬこと。それをナルシスの極みと批判するのは容易い。俳優としてのキャリアの大尾となる作品を自ら演出するというのがある意味ではすでにナルシシズムの発現である。しかし、ダイアルアップ接続中ゆゑ詳細は省くとして、たとえば監督第一作からおのれの死に憑かれている北野武(とりわけ『Brother』)がしばしばその美化へと傾くのに対し、イーストウッドにおける死は美化とほとんど無縁だったという点は押さえておく必要があるだろう。強いて挙げるなら『スペース・カウボーイズ』でのトミー・リー・ジョーンズの死には微かに美化の契機が孕まれていたかもしれないが、クリント・イーストウッドの映画における死はこれまで、つねにただの死にすぎず、それ以上のものでは決してなかった。それがおそらく初めて、死に意味が与えられる、あるいはより正確にいうならば、死の意味を考えさせる契機が与えられることになったわけである。
 生と死の意義をめぐる簡潔な問答が、亡き妻の遺言を口実としてさりげなく物語に導入されている。朝鮮戦争の英雄のその後の生。あるいは、ウィリアム・マニー、「牧師」、ハリーはその後をいかにして生き延びたか。「生についてよりは死についての方が詳しい」というこの元軍人が、残り少ない命とともに行なった生の意味の探究は、難しい神学的知識が要求されるわけではないし、万人に当てはまるような明確な答えを提示するものでもないが、それでもやはりわれわれの胸を打たぬわけにはいかない。

 「意味のある死」とは要するに「国の為に死ぬ」ことかと、難儀な問題をもち出してくる人もいるかもしれない(ま、一面において正論ではあるでしょうが)。死期の近さを悟った人間が友のために犠牲となる点からして、今作は形式的に『スペース・カウボーイズ』と類似している。同作において、イーストウッドが T・L・ジョーンズに次代のバトンを託した云々という、さる映画批評家の慧眼に今更ながら思い至ったが、それはともかくとして、『スペース・カウボーイズ』での供犠たるトミー・リー・ジョーンズは、文字通りの意味において昇天したのであり、単純な美化とはやはり一線を劃されなければならない。そして、『グラン・トリノ』における(唯一の)死の表象の仕方も、美化を戒めつつ、というよりむしろ美化を禁ずるための聖化だったといえるのではないだろうか。あれほど人を殺してきた不死身の人物が、最後の出演作にこのような題材を、そしてそれにふさわしい演出方を選んだこと、そのことにまず驚きつつ、イーストウッドが古典的作家であることをわれわれは改めて確認しなければならない。

 オープニング・タイトルの段階で一度涙腺がゆるんでしまったのは――不覚というよりむしろ自慢だが――作品の内容とはかかわりのない唯の感傷だろうけれど、件の友人同様、わたくしも結末に至ってやはり泣かずにはいられなくなった。涙の量でいえばしかし、『スペース・カウボーイズ』ほどではなかった。何しろあの時は、始まって間もない場面、タンクが「昔々……」(Once upon a time...)と語り出したとたん、ウッと来て、そのままエンディングまで涙が止まらなかったのだから。二回見て二回とも。『グラン・トリノ』は、魂の奥底で何かが揺さぶられ、静かに、だが深く、深く、感銘を受ける、そんな作品だった。万一、クリント・イーストウッドが翻意してまた何かの映画に出演することがあったとしても、この感銘には何の影響も及ばないだろう。

 

〔ああ、『センチメンタル・アドヴェンチャー』では死んでいましたよね、ははっ。でもまあいいんです、そんな些末なことは。〕

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2009年1月10日 (土)

マノエル・ド・オリヴェイラ『魔法の鏡』

 魔鏡、映るはずのないものが映ってしまう魔法の鏡――。クリスマスにまことに相応しい映画が封切られた。先月百回目の誕生日を迎えたマノエル・ド・オリヴェイラの『魔法の鏡』(Espelho Mágico, 2005)である。
 聖母、というよりむしろ聖処女マリアの降臨を願い続け、ついにはその熱望に憑かれ倒れてしまうアルフレーダ夫人(レオノール・シルヴェイラ)。成熟し充実しきった肉体を美しく豪奢に着飾っても満たされることはなく、地に足は着かず、心もここにあらぬ日々を送る彼女の狂気とオブセッションを解放すべく、ルシアーノ(リカルド・トレパ)は友人(ルイシュ・ミゲル・シントラ)と図って偽のマリアの降臨を画策する。偽マリアに扮するアブリル役のレオノール・バルダックを含め、いわゆる「ドリヴェイラ組」といってよいだろう彼らの――動機の点でも手段においてもきわめて現世的・世俗的な――企みが実行に移される前に、しかしレオノールシルヴェイラ(この人も「オリヴェイラ組」)は見てしまう、顕現するはずのないものを。

「マジコ」であろうとなかろうと、古来鏡というものは魔術的な力を備えるとされ、藝術的想像力を豊かな仕方で刺戟してきたのだった。しかしながら鏡の世界が原則として現実界との対立において価値を与えられてきた――鏡の世界からの現実への侵犯でさえこの二項対立に依拠している――ことも忘れてはならないだろう。
 映画の最初からこれみよがしに登場する鏡の数々にもかかわらず、本作品において、顕現が起こるのは鏡の外である。物語の終盤、前置きなしにベッドに臥せた状態で登場するレオノール・シルヴェイラを囲む人々の話から、われわれは彼女が白昼の庭園で突然倒れたことを知る。顕現は現実に起こりうると、つまりタイトルとして選ばれた「魔鏡」は実は現実界そのものを指すのだと、オリヴェイラはいいたいかのようだ。事実、鏡が登場するシークエンスの多くは、スクリーンに映し出されているのが現実なのか鏡像なのか、よく注意しなければ判別がつかないような仕方で設計されている。
 季節は夏だが、レナート・ベルタのキャメラが捉える光はどこまでも柔らかく穏やかである。しかし同時に何かがそこから突如現れ出ても決して不思議でないように思われてもくる。たとえば、あくまで人間的な動機に基づいて行動する男ふたりが戸外で偽マリア降臨の計画を話し合う場面。夕陽と空に残る青とによって息を呑むほど美しいグラデーションに染め上げられた一点の曇りもない西方を背にする二人の姿は、逆光ゆえにまったきシルエットとなってしまう。色を奪われたのではない。彼らはまさに黒い翳りとして顕れ出たのである――そうとでも考えて、もうひとつの奇蹟を対置しなければ気が狂ってしまいそうになるまさに奇蹟のようなショット。これは必見である。
 あるいはまた、寝たきりになったアルフレーダが「見る」回想のヴェネツィアやパレスチナ
。虚空を仰ぎ見るほかない彼女が力なく上方に馳せる視線と同じ角度、同じ弱々しさで、キャメラは水都をわれわれに顕現させる。大島渚監督の『御法度』の細かく震えるキャメラ(栗田豊道)にも似たような衰弊を感じたことが思い出されてくる。いわば死を翳されたこのキャメラの弱々しさは、監督の高齢とは関係のない、きわめて高度な藝術的達成なのである。
 カトリック文化圏にふさわしく降臨を切望されるのはマリアであるけれども、いずれにせよ奇蹟はある、そこかしこに、鏡の外、そして結局は至るところに。あるいは、同じことだが、この世界は、この世界こそが「魔法の鏡」にほかならない。

         *

 明らかにキリスト教信仰の踏まえられた物語には、たんに形式的に解釈したり、換骨奪胎して読み換えたりするだけでは済まない何かがあるはずで、そうすると、信仰をもたぬ人間(例えばわたくし)に本当の意味で理解できるのかということが問題――ただし原理的に答えを出すのが不可能な問題――となるだろう。
 また、やはりポルトガルはヨーロッパなのだなと改めて思わざるをえない。当たり前のことではあるけれど、フランスなどでは十九世紀初頭くらいまで、ピレネー以南はすでにアフリカと半ば以上真面目に考えられていた事実がある(抜きがたい差別意識は決して免罪されぬにしろ、イベリア半島がイスラム圏となっていたのは歴史的事実である)。オリヴェイラの近作『クリストファー・コロンブス』など、ヨーロッパはポルトガルに始ま(りアメリカに終わ)るといわんばかりの構成だった。
 物語へのこうした信仰はヨーロッパのある種の古さ――プレモダンなのかポストモダンなのかはひとまず措いて――が可能にするものでもあるだろう。たとえばクリント・イーストウッドの『スペース・カウボーイズ』。航空宇宙局を退職して牧師となった「タンク」(ジェームズ・ガーナー)はしかし、自身の教会での説教を、アンチョコ・メモを用意してなお、うまくこなすことができない。ある日曜、聴衆のうちに「フランク」(イーストウッド)を認めた瞬間、タンクは気づいてしまうのだ、自分にはもはや信ずべき物語も信ずるに足る物語もないということに。かつて宇宙を目指した「チーム・デイダラス」のそれを除いては。彼はメモにもはや頼ることなく語りだす、once upon a time、そして物語が始まる…。だがそこで始まるのは、昔話ではなく、老いた自分が宇宙を目指して再び特訓を受けることになる夢のような現在についての映画なのである。イーストウッドがアメリカの映画作家以外ではありえないことを雄弁に物語るこの映画は、たとえば旧ユーゴスラビアのエミール・クストリッツァの作品、「昔々…」という台詞で締めくくられる『アンダーグラウンド』と比較すれば面白いかもしれない。

         *

 物語のひとつのテーマとして、贅沢を好む人間に聖処女が降臨するかという神学的(といってよいのだろうか?)問題が持ち出されていたこと、そしてアルフレーダ自身のそうした疑問に対し、「マリアは金持ちだった」と請合って彼女を勇気づけるイギリス人専門家にミシェル・ピコリが扮していたことをいい添えておく。一座がみなポルトガル語で話すなか、一人だけ英語で話しているのに何故か会話が成り立ってしまうという点も含め、いかがわしさ全開のピコリ。物語の途中から詳しい説明もなく故人として語られるようになるのが何だか可笑しい。可笑しくはあるのだが、天使のようなものが現実にいるとすれば、それはおそらく例えばこの映画のミシェル・ピコリのように、いかがわしく、また可笑しな存在(ならぬ存在)なのではないかという気がした。
 今作は台詞が多く、宗教を主題としていることとも
関係はあるのだろうけれど、会話字幕についていけない場面がしばしばあった。内容については誤解しているところもあるに違いない。その意味でも再見する必要がありそうだ。

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2008年12月19日 (金)

コーエン兄弟『読んだら焼却せよ』(Burn after Reading)

 コーエン兄弟の映画は評価が難しい。彼らの長篇第一作『ブラッド・シンプル』は確かにちょっといい作品だったし、好きだという人も少なくないと思うが、同時にそこには一種のマニエリズム的傾向が感じられて、ただそれが何なのかよくわからないという印象をもったことを覚えている。『バートン・フィンク』(の失敗)で明らかとなったのは、彼らがバロックを指向していたこと、だがおそらくその方向は彼らの資質に合わないだろうということだった(アメリカではポール・トマス・アンダソンがたとえばバロック的資質をもつ作家といえるだろう。もちろん筆頭に挙げるべきは何といってもポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラである)。
 結局、彼らの最良の作品は今のところ――とはいえわたくしは『ノーカントリー』を見ていない――、マニエラを捨て去って、いわば「存在論」の次元で撮った(とは、ある映画批評家の言葉)『ファーゴ』ということになるだろう。『ビッグ・リバウスキ』も、可笑しい部分は確かにあるのだが、全体としては笑うに笑えない作品としかいいようがなかった。

 本作は、一昔前の、つまり蓮實重彦以前、というよりむしろ小林信彦以前の評論家なら「人の愚かさを描き出したコメディ」とコメントしていたに違いない映画である。むろん現代の評論家はそう単純なことはいわないだろう。そんなことを鹿爪らしく指摘する者が一番の愚か者となってしまうような仕方で作られているからだ。CIA の分析官(J・マルコヴィッチ)が突然解雇を通告され、彼と直接間接につながる人々の間での、全く利己的な思惑やちょっとした勘違い、手違いが、最終的には死者二名、瀕死の重傷者一名という事件に発展する(F・マクドーマンドだけが自身の望みをかなえることができる)。だが、登場人物の誰もその事件の全容を把握することはできず、中央情報局さえ、何が何だかわからぬまま、しかし組織の機密が漏洩せずにすんだことで満足し、事件のファイルを閉じるほかない。
 ことの次第を知るのはただ観客のみである。それなりに楽しめはしたのだが、同時に何かが不足しているように感じられる。このままでは、鹿爪らしい面持ちで「これは人の愚かさを描き出したコメディである」とか何とか、もっともらしくいってしまいそうだ――要するにこの「コメディ」には笑いが足りないのである。コメディなりファースなりを指向するならば、徹底的に、そう、腹の筋が痙攣するほど笑わせてくれなければ、「人のことを阿呆いう者が阿呆や」という認識に至ることはできない。人間が愚かな存在であるということ。それはもう、人事のアルファでありオメガなのであって、今更いわれんでもわかってまんがな。そのような基本を確認するためにわれわれは映画を見るのではない。これだったら、『我輩はカモである』とはいわないまでも(あれはそもそも指向が違うけれど)、たとえばゴダールの『勝手に逃げろ(人生)』の方がよほど笑わせてくれたと思う。

 アメリカ映画を見て感ずるのは、スターのいない映画を撮ることの難しさである。この作品であれば、実質的に「主役」といってよいマルコヴィッチはともかくとして、少なくとも G・クルーニーと B・ピットなしで撮っていればどうなっていただろう? マネー・メイキング・スターの起用には、商売上の理由もあるし、一概にどうこう言うのは無意味ではあるけれど、あのジョージクルーニーがこんな下品な――本当に下品です、だから純情な女性ファンにはお勧めできない――役を演じているという落差に、ということはつまりスターの「キャラクター」に笑いを任せすぎではないか? 例の(What else ?)「ネスプレッソ」のテレビ CM シリーズ(一作目二作目、現行の三作目)がよく知られていて、テレビでパロディさえ見かけられるこのフランスの客、基本的に脚本家の「ここ、笑うところ!」という合図に敏感かつ忠実なフランス人が、肝腎なところであまり笑わなかったとすればそれは、恃みのその落差が映画的に昇華されていないことを、したがって結局は脚本の不成功(あるいは中途半端な成功)を意味するのではないだろうか。

 全般的にはそれほど悪くはないのだが(出演した俳優はみな達者だ)、帰り道に上のようなことを思った。円高下での学割 6.80 ユーロが安いか高いか、それは何ともいえないけれど、「スクリューボール・コメディ」でないことは確かである。

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2008年12月 3日 (水)

クリント・イーストウッド『チェンジリング』

 C・イーストウッド監督の『チェンジリング』を観る(MK2・ガンベッタ)。今年のカンヌ映画祭出品作のひとつ(黒沢清の『トウキョウソナタ』の封切りはもう少し先、待ち遠しい)。

 元々は自身の企画ではなかった(共同プロデューサーのロン・ハワードが監督する予定だった)とのことだが、手堅く――という言い方は留保が含まれるのか? しかしそういう意味ではなく――きちんと作られていて、物語を堪能できた。途中、心臓に悪い時間帯があって、短時間で済んでわたくしとしては助かった。

 それぞれ独立した映画になりそうな部分――州政府・州警察の腐敗、精神病院の実態、年少者虐待など――が、行方不明となった息子を探す母(アンジェリーナ・ジョリー)の物語と組み合わされており、内容は非常に濃い。二時間二十分余の上映時間に何とかギリギリ収まった、というかこれは言い方が逆で、「副次的要素」を決してなおざりにせず、それぞれに十分な(必要最小限の)時間をかけた結果のギリギリの上映時間というべきだろう。長すぎるという感じは全くしなかったし、撮る人によってはあと10分から15分くらい長くかけてより詳しい説明を試みたかもしれないと思わせるほどだった。ともかく、このようなやり方によって、A・ジョリー演ずる母に対する感情移入の度合いが例えばいっそう強くなるという効果があったと思う。一刻も早く子供を捜しに行かなければならないのに、精神病院に閉じ込められて暢気に(実態は悲惨そのものだが)「治療」とやらを受けさせられているのだから、観ている方も焦燥感を募らせないわけにはいかない。こんなことってあるのだろうか――いや、現実というのはこのような不条理が結構あると、そう思わせるという効果もおそらくはあった。「実話」とわざわざ銘打たれているのは伊達ではなかったということになるだろうか。こうした複雑な構成を、筋を何とか追うことができる形で提示する技倆はやはり見事。

 俳優もよかった。アメリカ映画を観て感心することのひとつは、役どころにピッタリの顔つきをした俳優が(だいたい)いつも出てくる点である。悪徳刑事部長、良心に従って行動する刑事、少年虐待の常習犯、助かったり助からなかったりする少年たち……。アンジェリーナ・ジョリーも(特に好きな俳優ではないけれど)よかったし、ジョン・マルコビッチも当然とはいえよかった。「当然」は言い過ぎか。J・マルコビッチは「普通」の役どころで起用すべきと、わたくしは『シェルタリング・スカイ』以来ずっと考えているのだが、多くの監督さんは何故か彼をエキセントリックな人物として配してきたからだ。やっぱりベルトルッチ、そしてイーストウッドはわかっているんだなと、まあ単なる個人的な趣味の満足にすぎないけど、そう感じた。
 A・ジョリーの凹凸のあまりない(実態は知らぬがそのように見えた)
体躯が 1920 年代風のワンピースに見事にマッチしていた。この起用は成功だと思う。
 キャスティングもそうだし、演技指導の面でもいつも感服させられる。例えばケヴィン・コスナーのこれまでのところ最高の演技は『パーフェクト・ワールド』の小悪党役だし。

 そうそう、今、もう一本、J・マルコビッチが出演している映画をやっているんだった。忘れないようにしなくては。『バーン・アフター・リーディング』(なぜか仏蘭西でも英語タイトルのまま)。意味がわからないので芸もなくカタカナ表記にするほかないけれど、ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットが「普通」の配役だとすると、マルコビッチはエキセントリックな役を与えられていそうな、少し悪い予感がする。監督はコーエン兄弟。微妙なところだ。

 そういえば、スプリングボクスの映画を撮るという話はどうなったんだろう?

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2008年11月21日 (金)

「理想のシネマテークのための百本」

 批評家クロード=ジャン・フィリップの呼びかけで先日「理想のシネマテークのための百本」あるいは「最も美しい百本の映画」という上映企画が始まった(劇場はルフレ・メディシス、来年七月まで)。

 前日くらいにフランス 3 で放送されたフィリップ氏へのインタビューによるなら、「傑作」群(これはインタビュアーの用いた表現)というよりむしろ「教育的」プログラムであるとのこと。つまり映画史的に重要なフィルムを、映画愛好へのイニシエーションとして供すということなのだろう。実際、パリは世界に冠たる映画の都――単純にいって映画館数がきわめて多い都市――のひとつではあって、いわばパリという街をひとつのシネマテークと見立てた企画ということができるかもしれない。パリ市が協賛しているのも当然である(街頭での生インタビューだったのだが、フィリップ氏の要領を得ない話し振りのせいもあって、話の途中で打ち切られてしまったのが何だか可笑しかった)。
 もっとも、選ばれた作品がパリと直接関係しているわけではない。たとえばヌーヴェルヴァーグの作品を見ると、パリの街頭に出てくるのが白人ばかりであることに驚かされる。グラン・ブールヴァール(十九世紀以来の歓楽街、旧シネマテークがあった)近辺がそれら作品で時に舞台となっていたりするけれど、今、たとえばサン=ドニ門あたりなど、白人より黒人、アラブ人、中国人、そしてとりわけインド人の方がずっと目立つ。トリュフォーは野生児を主人公に映画を撮ったが、リヴェットやロメール、シャブロルは――今も現役で、質の高い作品を撮り続けているものの――白人ばかりという印象を与える。そうすると、アフリカの某国の大統領という役柄を与えて、ぬけぬけと黒人をパリの真ん中に登場させるイオセリアーニはやっぱり偉いということになるけれども、とにかく――
 選ばれた百本は、それ自体として順位を付けられているのではないが、選出にかかわった七十八人の批評家・映画史研究家からの得票数が明かされている。順位付けや「トップ 10」というのは、まあ半ば以上遊びであって、あまり真剣に受け取らず、面白がるのが筋ではあるけれど、それにしても何とヨーロッパ中心主義的なのだろう。小津と溝口、黒澤が選ばれているが、特に嬉しくはない。フランス人に認められるまでもなく、彼らの作品が素晴らしいのは明らかなのだから(あるいはむしろ、日本はかくまで西洋化しているというべきなのか)。フランスの企画なのだし、フランス人が多く選ばれているのはある意味で当然としても、非欧米作家としては他にインドのサタジット・レイが顔を出すのみで、イランの作品もなければ台湾の作品もないというのはどうなのか。古典が中心だからかとも思われるし、その意味で時代的な偏りは確かにあるわけだが、近年の作品として P・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』、D・リンチ『マルホランド・ドライブ』、少しだけ遡って J・ヒューストンの『ダブリン市民』などが含まれているのに、しつこいけれどキアロスタミも楊徳昌も侯孝賢も(ついでに北野武も)ない。
 そういえばキャサヴェテス作品も見当たらないなあ……まあわたくしはたぶん行かないと思うけれど、以下はとりあえず覚書として(関係サイトから転載しましたが、正確に百本あるかどうか保証の限りではありません)。

           *

 市民ケーン(O・ウェルズ)……これは映画史上の「傑作」トップ 10 でも選ばれる可能性のたいへん高い、文字通りの傑作。他に『上海から来た女』と『黒い罠』が選ばれている。作品としてはこちらも妥当だが、バランスを欠いてはいないか? (他にチャプリン、ムルナウやルビッチ、エイゼンシュタイン、ドライヤー、ホークス、ヒチコック、ルノワール、オフュルス、カルネ、溝口、レネ、ヴィスコンティ、フェリーニ、ミネリ、タチ、キューブリック、ゴダールらも複数作品が選ばれている。)

 狩人の夜……『市民ケーン』の 48 票に次ぐ、そして J・ルノワールと同数の 47 票を獲得したのは何と!Ch・ロートンのというか、ロバート・ミッチャムの(そしてリリアン・ギッシュの)というべきか、ウェルズの場合とは逆に、何か特殊な意図――たとえば「教育的」配慮など――があって初めて選ばれるだろう作品。いやもちろん素晴らしいフィルムだと思うし、好きなんですけどね、まさか 100 本のうちに入るとは想像しなかった。

 以下、『ゲームの規則』(J・ルノワール)、『曙光』(F・W・ムルナウ)、『アタラント』(J・ヴィゴ)、『M』(F・ラング)、『雨に唄えば』(S・ドーネン、G・ケリー)、『めまい』(A・ヒチコック)、『天井桟敷の人々』(M・カルネ)、『捜索者』(J・フォード)、『グリード』(E・フォン・シュトロハイム)、『リオ・ブラボー』(H・ホークス)、『生きるべきか死ぬべきか』(E・ルビッチ)、『東京物語』(小津安二郎)、『軽蔑』(J=L・ゴダール)、『雨月物語』(溝口健二)、『街の灯』(Ch・チャプリン)、『大列車強盗』(B・キートン)、『ノスフェラトゥ』(ムルナウ)、『音楽サロン』(S・レイ)、……と続く(此処までで二十本)。

 O・プレミンジャーの『ローラ殺人事件』みたいな作品も入っているんだね。でも『三つ数えろ』が(『暗黒街の顔役』の代わりに?)入っていないのは何故?

Citizen Kane (Orson Welles) 48
La Nuit du chasseur (Charles Laughton) 47
La Règle du jeu (Jean Renoir) 47
L'Aurore (Friedrich Wilhelm Murnau) 46
L'Atalante (Jean Vigo) 43
M. le Maudit (Fritz Lang) 40
Chantons sous la pluie (Stanley Donen et Gene Kelly) 39
Vertigo (Alfred Hitchcock) 35
Les Enfants du Paradis (Marcel Carné) 34
La Prisonnière du désert (John Ford) 34
Les Rapaces (Eric von Stroheim) 34
Rio Bravo (Howard Hawks) 33
To Be or Not to Be (Ernst Lubitsch) 33
Voyage à Tokyo (Yasujiro Ozu) 29
Le Mépris (Jean-Luc Godard) 28
Les Contes de la lune vague (Kenji Mizoguchi)
Les Lumières de la ville (Charles Chaplin)
Le Mécano de la Général (Buster Keaton)
Nosferatu le vampire (Friedrich Wilhelm Murnau)
Le Salon de musique (Satiajit Ray)
Freaks (Tod Browning)
Johnny Guitar (Nicholas Ray)
La Maman et la Putain (Jean Eustache)
Le Dictateur (Charles Chaplin)
Le Guépard (Luchino Visconti)
Hiroshima mon amour (Alain Resnais)
Loulou (G. W. Pabst)
La Mort aux trousses (Alfred Hitchcock)
Pickpocket (Robert Bresson)
Casque d'or (Jacques Becker)
La Comtesse aux pieds nus (Joseph Mankiewicz)
Les Contrebandiers de Moonfleet (Fritz Lang)
Madame de... (Max Ophuls)
Le Plaisir (Max Ophuls)
Voyage au bout de l'enfer (Michael Cimino)
L'Avventura (Michelangelo Antonioni)
Le Cuirassé Potemkine (S. M. Eisenstein)
Les Enchaînés (Alfred Hitchcock)
Ivan le Terrible (S. M. Eisenstein)
Le Parrain (Francis Ford Coppola)
La Soif du mal (Orson Welles)
Le Vent (Victor Sjöström)
2001 odyssée de l'espace (Stanley Kubrick)
Fanny et Alexandre (Ingmar Bergman)
La Foule (King Vidor)
Huit et demi (Federico Fellini)
La Jetée (Chris Marker)
Pierrot le Fou (Jean-Luc Godard)
Le Roman d'un tricheur (Sacha Guitry)
Amarcord (Federico Fellini)
La Belle et la Bête (Jean Cocteau)
Certains l'aiment chaud (Billy Wilder)
Comme un torrent (Vicente Minnelli)
Gertrud (Carl Th. Dreyer)
King Kong (Ernst Shoedsack et Merian J. Cooper)
Laura (Otto Preminger)
Les Septs Samouraïs (Akira Kurosawa)
Les 400 coups (François Truffaut)
La Dolce Vita (Federico Fellini)
Gens de Dublin (John Huston)
Haute pègre (Ernst Lubitsch)
La vie est belle (Frank Capra)
Monsieur Verdoux (Charles Chaplin)
La Passion de Jeanne d'Arc (Carl Th. Dreyer)
À bout de souffle (Jean-Luc Godard)
Apocalypse Now (Francis Ford Coppola)
Barry Lindon (Stanley Kubrick)
La Grande illusion (Jean Renoir)
Intolérance (David Wark Griffith)
Partie de campagne (Jean Renoir)
Playtime (Jacques Tati)
Rome ville ouverte (Roberto Rosselini)
Senso (Luchino Visconti)
Les Temps modernes (Charles Chaplin)
Van Gogh (Maurice Pialat)
An Affair to Remember. Elle et Lui (Leo McCarey)
Andrei Roublev (Andrei Tarkovski)
L'Impératrice rouge (Joseph von Sternberg)
L'Intendant Sansho (Kenji Mizoguchi)
Parle avec elle (Pedro Almodovar)
The Party (Blake Edwards)
Tabu (F. W. Murnau)
Tous en scène, The Bandwagon (Vincente Minnelli)
Une étoile est née (George Cukor)
Les Vacances de Monsieur Hulot (Jacques Tati)
America America (Elia Kazan)
El (Luis Buñuel)
En quatrième vitesse (Robert Aldrich)
Il était une fois en Amérique (Sergio Leone)
Le Jour se lève (Marcel Carné)
Lettre d'une inconnue (Max Ophuls)
Lola (Jacques Demy)
Manhattan (Woody Allen)
Mulholland Drive (David Lynch)
Ma nuit chez Maud (Eric Rohmer)
Nuit et Brouillard (Alain Resnais)
La Ruée vers l'or (Charles Chaplin)
Scarface (Howard Hawks)
Le Voleur de bicyclette (Vittorio de Sica)
Napoléon (Abel Gance)

           *

 おまけとして五十人の監督も選出されている(得票数の多い順、票数からすると、ひとりが複数票(例えば「2 点」票と「1 点」票など)を投じる方式だったのだろう)。

Jean Renoir 155 (ルノワールに「2 点」票を投じなかった人が一名いるということか)
Alfred Hitchcock 146
Fritz Lang 143
Charles Chaplin 128
John Ford 124
Orson Welles 114
Ingmar Bergman 113
Luis Buñuel 110
Friedrich Wilhelm Murnau 108
Howard Hawks 105
Jean-Luc Godard 99
Federico Fellini 99
Ernst Lubitsch 98
Luchino Visconti 90
Robert Bresson 90
Kenji Mizoguchi 87
Akira Kurosawa 86
Max Ophuls 83
Alain Resnais 82
Carl Theodor Dreyer 76
François Truffaut 75
Stanley Kubrick 75
Vincente Minnelli 73
Joseph Mankiewicz 73
Roberto Rosselini 73
Josef von Sternberg 69
Michelangelo Antonioni 67
S. M. Eisenstein 65
Marcel Carné 64
Billy Wilder 61
Buster Keaton 61
Yasujiro Ozu 60
Eric von Stroheim 60
John Huston 59
Elia Kazan 55
King Vidor 53
David Wark Griffith 53
Maurice Pialat 52
Jean Vigo 51
Nicholas Ray 49
Jacques Becker 48
Woody Allen 48
Francis Ford Coppola 47
Jacques Demy 47
Charles Laughton 47
Jacques Tati 46
Otto Preminger 45
Leo McCarey 45
George Cukor 44
Raoul Walsh 44

           *

 また、カイエデュシネマからは十月に『ソースはほとんど完璧だった アルフレッド・ヒチコックによる八十のレシピ』(La Sauce était presque parfaite. 80 recettes d'après Alfred Hitchcock)が刊行されている。フランスでは、ベストセラーとまでいえるかどうか、ともかく結構な売れ行きで、わたくしもつい買ってしまった。装幀も写真も綺麗。内容は、映画に出てきた料理を再現するレシピ、それに作品の場面やスティル写真、台詞など。その他詳細はこちらのページを、数ページの「立ち読み」にはこちらのリンクを。
 本には収録されていない「スフレ・アルフレッド」のレシピはこちら(PDF)。

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2008年5月12日 (月)

カサヴェテス

 笠辺哲という漫画家がいる。あまり詳しくないのだが、酔うと漫画を無理矢理押し付けてくる癖のある友人が『短篇マンガ集 バニーズほか』(2005 年)を貸してくれたことがあった。もうずいぶん前のことだ。とても面白く読んだし、評判をとっているらしい『フライングガール』も是非読みたいところだが、まあこれは日の本へ帰ってからになるだろうか。
 ところで、駄洒落の続きというわけでもないけれど、『バニーズほか』を読んだときから気になっていたことがある。笠辺哲って、どう考えても、カサヴェテスだよねえ――と友人には本を返す時に言ったのだが、まるで相手にされなかった。作品自体は、ジョン・カサヴェテスの映画のように暴力があからさまに充満し、時としてそれがほとんど画面から溢れてこちらに迫ってくるような感じではとりあえずないにしても、名前はきっとオマージュの意味でのもじりだろう。誰かがすでにいっているか、あるいはわたくしの友人以外はみな知っていることなのかもしれないが、備忘録として書きとめておく。

〔後日譚 その友人曰く、「知らなかった」のではないとのこと。いずれにしても大した事ではないけれども、いちおう名誉のために補足しておきます。〕

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2008年5月 5日 (月)

マダム C のこと

 暑くなってきたためか、二年前の夏頃、パリの或る映画館でフランス人女性と知り合った頃のことがふいに思い出された。映画好きなら誰でも知っている名画座のひとつ。だが、「名画」としてそのスクリーンにかかる作品の多くは、実際には盛期ハリウッド産のものである。

 フランスは総じて(つまり政治とか科学技術とかいったエリートの領分は別とすれば)「テキトー」な国である。定刻という意味での時間に話を限っても、鉄道のダイヤやテレビ番組、要するに各種プログラムが、予定された通りに実行されることはあまりない(鉄道は将来的には「是正」される可能性もないとはいえないが)。テレビのプログラムなど、予定された枠からは必ずといってよいほど(たいていは後に)ずれてしまうし、付随して出来てしまった隙間を埋めることができずに画面がしばらくのあいだ暗転するといったことも決して珍しくない。日本でなら「放送事故」と称されかねない事例である。日本からフランスに来た人は〈こんなに緩くても社会は回る〉という現実に驚き、多くは羨望を覚えるはずだ。その人間くささに。
 もちろん、こうした鷹揚さというか、余裕といえばよいか、要するにテキトーな態度を保てるのは、フランスが何より広い土地を有す農業国であり、また観光資源にも恵まれているという、経済的な支えがあればこそである(よいことづくめではなく、原子力発電への依存は将来的に深刻な問題となりうるが)。そうした基盤の違いを抜きにして、フランス人と日本人の「気質」を比較するのは愚かだが、とにかく――フランス人は多くの(どうでもよい)局面ではかなり緩い緩い緩いということにしておく。念の為にいい添えておくと、フランス人が時間というものから全く自由ということではない(スペインやイタリアから見れば「セカセカ」しているということはともかくとして)。近代以降の人間は時を、あるいは「時計」を内面化しているのだが、それに対する(いわば質的な時間を生きることを通じての)抵抗の様態が異なっているのである。

 そういう次第で、映画も定刻どおりに始まることはあまりない。件の名画座に戻ると、その日、休憩に出た従業員がなかなか戻らず、ラオール・ウォルシュの『白熱』目当てに立ち並んだ客は館前の歩道で待たされるはめになった。わたくしはすぐ前の女性と苦笑やら「困ったねえ」というような言葉を交わした。それがマダム C だった。相手が話を聞いてくれる人間と見るや、「お喋り好き」(自分でそういった)の彼女は、映画のことや日本文化のことを話し始めたのだった。

 たいていの場合「グッド・リスナー」であるという気質(真に受けないでください、というかワタクシは本気でそう思っているけど、他人は「こいつ阿呆だ」と笑い飛ばせばいいんです)がこの場合、よかったのか悪かったのか、それは何ともいえない。だがとにかく、上映終了後にわれわれはまた出入口前のホールで出会い、かなり長い間立ち話をしたのだった。そして最後に電話番号を交換する――まるで古えの「ボーイ・ミーツ・ガール」ではないか。女性が輝かんばかりに活き活きと話す(のを見聞きする)のは、つねに素晴らしい体験である〔「女は愛嬌」みたいなことをいっているのではありません〕。それがたとえ七十歳の人であったとしても。

 興味深い話もあった。幼時から映画に親しんできた立派な――トリュフォーは好き、ゴダールは認めるけど嫌いという、まるで淀川長治のような――シネフィルならではの体験談。たとえば――第二次世界大戦期まで、映画館にかかる大半がフランス映画だったのが、戦後は一変してハリウッド映画が優勢になったこと。本ですでに知識を得ていた事柄だとしても、 CIA の工作によって感性をまさに変えられてしまった当の本人の口からそれを聞くことができたのは、まあ貴重なことだったと思う。あるいは、エロール・フリンに憧れていたけれど、彼が「親ナチ」だと知らされてからは軽蔑するようになったこと。ああ、そういうのってありますよねえ、そういえばケーリー・グラントが MI6 の依頼でゲーリー・クーパーを監視していたんですってね――と、言いそうになったがやめにした。クーパーのファンだったら気の毒な気がしたから。
 もっとも、そういう「古臭い」映画しか見ないという人でもなかった。彼女が電話をかけてきて「一緒に見よう」と誘ってくれた映画はジョゼフ・マンキーウィッツの『裸足の伯爵夫人』だった。もちろん往年の名画として鑑賞することも十分に可能な作品ではあるけれども、同時にかなり奇妙な映画ともいえるだろうからである。ハリウッドの歴史において、危うい時期の製作だったのは確かである。また、近年の、だが価値ゼロのフランス映画(タイトル等は失念した)上映終了後に、それらしい人(つまりマダム C らしき人)が怒りをあらわにしていたとの目撃情報も得ている。
 『サユリ』も見たそうである。主演女優が実は香港の人だということは知っていたのだろうか。とにかくわたくしは問われて、藝者のことを難儀しながら説明した。多少は嘘も交えつつ。たぶん増村保造の『刺青』なんかも見た方がよいのだが、マスムラのことは知らないようだった。

 醒めた視点からいえば、おそらく、話を聞いてくれる人なら誰でもよかったのだろうという気はする。もちろん、ここのところの日本文化ブームとは切り離せないだろうし、実際、マダム C も書や山水の庭園に憧れを抱いていた。ともかく、繰りかえすがわたくしは、どんなにつまらない話にも耳を傾け「面白く」聞くことができるグッド・リスナーであるし(というか世の中、本当に面白い話などそうそうない)、階段や道路では彼女の手を取り、しばしばその背に手を添えることもした。Vous êtes attentionné. フランス語の勉強にもなった(フランスの若者も敬老精神はもちあわせないそうである)。アジア人を召使と(無意識のうちに)見なしている可能性? ないとはいえないだろうが、それは考えないようにしている。ただ、彼女は、わたくしが映画館前の立ち話に疲れて「喫茶店に行こう」と提案するよう仕向けるだけの手管を失ってはいなかったと、その点は記しておきたい。La très française. なぜなら、代金は誘った方が(当然!)支払うのだからである。

 このボーイ・ミーツ・ガール的物語はある日とつぜん中断する。わたくしの仕事が急に忙しくなったからだ。電話で「traduction をすることになったので映画館にはしばらく行けません」と伝えた。マダム C は最初、わたくしの家族とまったく同じ反応をした。「学校の課題は大変ねえ」。Mais non, Madame... それはただの宿題です。わたくしは本を「拙訳」するんですよ……。
 400 頁超の本を一年で訳そうとすればそれなりの覚悟が必要だし、事実、映画館に行く回数は大幅に減ったのだった。Au revoir. 翻訳が終わって本来の生活に戻った現在も、映画はフランスでしか見られないものに限って見るようにしている。彼女との再会はもうしばらく先となりそうである。だからそれまで、どうかお元気で。
 

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2008年4月11日 (金)

チーズ覚書 その 1

 スーパーでふつうに買えるフロマージュ、つまりチーズをひとつずつ試してみようと思い立つ。考えてみればこれまでカマンベール、ロックフォールくらいしか食った記憶がない。

 先日たまたま(というのはつまりほとんど間違って)買ってしまったイタリア産の何とかいう甘い赤葡萄酒、食事と一緒に摂るには(わたくしには)甘すぎるあのワインには、塩味のひときわ強いあのロックフォールを合わせて中和させよう。

 モルビエは火を通すと餅のように――あるいはピザ上やパニーニ中のチーズのように――よく伸びる。炒り卵が出来上がる直前にフライパンに入れ、ざっくりからめるようにするとよい感じである。

          *

Librairie_marelle_1  チーズとはまったく関係ないが、オタール・イオセリアーニ監督作品『秋の庭』に出てきたと思しき書店を発見する。ほとんど作家の庭といってよい(畏友からの情報)界隈。再開発計画の固まった「旧タンプル市場」の向かい、ペレ通(Rue Perrée)で。
 「旧市場」は現在は服飾関係の市としていちおうの役目を果たしてはいるものの、テニスコートも併設されるなど、ほとんど倉庫状態である。パリ・コレクションの舞台の一翼を担ったのは理に適っているけれど、有効に活用されているとはまあいいがたい。Librairie_marelle_2

 しかし現代的な趣の商業施設が建つと、マレル書店を含むこの界隈の独特な雰囲気は大幅に変化してしまうかもしれない。パリの他の地区同様に立ち並ぶ建物の配置、それは空の切り取られ方、したがって太陽光線の降り注ぎ方や量を決定するものだが、この地区固有のそうした配置はせめて変わらぬようにと願う。

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2008年3月18日 (火)

堀江敏幸、ジャン=ピエール・リモザン(「日本週間」於 ENS)

 パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)が主催する「日本週間」が木曜から始まっており、今日は作家・堀江敏幸氏と、『熊の敷石』フランス語版訳者アンヌ・バイヤール=サカイ(坂井)氏との、同書をめぐる対談がまず行なわれた。

 文学論は必然として翻訳論に横滑りし、あるいはむしろ両者は根本的には切り離すことができず、「熊の舗石」というそれ自体フランス語表現 le pavé de l'ours の翻訳である言葉から生まれたこのテクストが、フランス語と日本語の間を往き来しながら展開していることを改めて認識させられた。御二方のパフォーマンス(同じ章節を日仏それぞれのバージョンの「作者」が朗読したことだけを指すのではない)も素晴らしかったし、創作と批評のコラボレーションとしても価値の高い、非常に聴き応えのあるプログラムであった。映像がいずれ高等師範のサイトで公開されるはずである。

 三番目のプログラム、ジャンピエール・リモザン監督『ヤング・ヤクザ』プレミア上映会までの時間をつぶすため、わたくしの指導教授(円卓会議に列席予定)、堀江先生、サカイ先生とで喫茶店にて歓談(あるいは閑談)。研究を志す人間の自己紹介としてはやや変則的だったが、話が通じやすいので「ベルマンを訳しました」と宣伝してから、論文の主題について手短にお話しする。あとは御三方の興味深いお話を拝聴。

 その後軽食を摂ってから再び ENS へ。カンヌで上映された話題作でもあり、また今日は無料のプレミア試写ということもあって、思ったよりずっと多くの人たちがすでに着席している。日本語に堪能な助監督バジル・ドガニス――Basile Doganis バスケとサックスは玄人はだしで、ストリートギャングみたいないでたち・立ち居振る舞いだが実はパリ・ノルマリアンで、現在リヨンのエコール・ノルマルの先生でもあるという、日本のある種の漫画で簡単に主役を張れそうな若き俊才――の紹介を承けて上映が始まった(上映後は監督リモザンと彼が、客席からの活発な質問に丁寧に答えていた)。

 映画はいわば「実録・××組」といった趣で、ひとりの無為で落ち着かない若者が修行のために組の世話になるところから始まり、彼が無断で遁走する話に、組自体の日常が織り交ぜられる。忽然と姿を消した若者は最後に登場し、友人に近況を報告するのだが、なんとアスベストを剥がす作業現場で働いているという。極道とアスベスト、いずれがより危険かにわかに決しがたい仕事であるが、いわゆる「出口無し」の状況を暗示するのが監督の目的ではおそらくなかろう。若者だってそれくらいのことは自覚しているはずだし、何にしろ仕事を得たのはよかった。

「実録」とはいえ、ヤクザの「素顔」が明かされるというような素朴なリアリズム映画ではない。それはしかし、素顔を見せるといろいろ差し支えがあるからという理由ではなく(もちろん差し支えは多々あることだろうが)、ドキュメンタリーであろうと人は、キャメラの前では必ず演技してしまうという厄介な問題ゆえである。しかも極道の場合、訴求力の極めて強いイメージが映画によって多数提供されているために、何重にも虚実が入り混じったイメージとしてしかもはや存在しえなくなっており、本人たちにも素顔など実はわからないのである。そういう意味で、素朴なリアリズムを排しつつ、それぞれに達者な「演技」のうちに「真実」を見出さなければならないという、眼力の試される作品ではある。彼らの「演技」は本当にうまく、事情を知らなければみな俳優で通ってしまうかもしれない。組長の「演技」――顔、表情、声――だけでもこの映画を観る価値は十分にあると思う。

〔追記 この映画、日本では諸般の事情により公開が遅れているが、フランスでは製作に加わったアルテにおいて三月末から四月初旬にかけて放映される。〕

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2007年10月19日 (金)

イーストウッド、1995 年のスプリングボクスを映画に?

 オーストラリア『デイリー・テレグラフ』紙サイトの「ラグビー・ユニオン」コーナーのウリのひとつはデイヴィッド・キャンピージーのコラムである――というよりむしろ、そのコラムに対する読者コメントを彩る罵倒の数々が面白い。ああ、キャンポはやっぱり愛されているんだなと得心させられることも度々だが、18 日のコラムでは「イングランド・スタイルは退屈きわまりないがプレーヤーたちのガッツは見事だ」という趣旨の投稿が読者の賛同を勝ち得ていた。個人的には 2003 年ほどに退屈を感じないのだが――つまり四年前とは似ているが違うのだとわたくしは考えているのだが――それはいい。「ギタウを SH に!」などと主張して容赦ない痛罵にさらされるラグビー・レジェンドを見るのはつらいことだから、たまには暖かく迎えられればよいと思う。

 ついでにいうと、同じ『テレグラフ』の別の記事では、エディ・ジョーンズの「ラグビーのためにはスプリングボクスが勝った方が良い」という趣旨の発言が紹介されている。「この大会でわれわれはおそらく最高の攻撃力をもっているのだが、まだ十分にそれを発揮するまでには至っていない。〔…〕だからこの週末にわれわれが良いディフェンスをし、良いアタックをして勝利を収めれば、ラグビーにとってはよい幕切れとなるだろう」。ボクスが負ければラグビーの将来は暗黒だとまで言っているわけではないが(彼はただ a good result「よい結末のひとつ」と言っているだけだから)、ジョーンズは、イングランドが優勝すればそのスタイルこそが「ラグビーの正しいあり方」になってしまわないかと危惧しているわけだ。

 これはかつてワラビーズ=ブランビーズ・スタイルがラグビー界を席捲したことに対する反省も込めた発言なのだろうか。それなら傾聴に値するが、というか、そうでなければまともに取り合う必要のない単なる杞憂だが、いずれのチームが勝つにせよ、そのような事態にはならないだろう。どのチームも結局は自分たちにできることしかできないのだから。もちろん「勝った者が正しい」とかいう考えはラグビーのためにならない。ラグビーにとって大切なのは――そしてE・ジョーンズも深いところではこう言いたいのかもしれないが――多様なスタイルの共存(並存)である。

 ところで、「ユニオン」コーナーの記事のひとつが、ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の伝記映画プロジェクトを紹介している。95 年大会のスプリングボクスを中心に据えた映画で、クリント・イーストウッドが監督を務める可能性もあるとのことだ(Jon Geddes, "Eastwood will make Boks' day")。

 マンデラ氏の大統領就任とスプリングボクスの表舞台への復帰とに合わせて主催したワールドカップで優勝し、これ以上ないほど象徴的に「ワールド・イン・ユニオン」を印象付けるという、いささか出来過ぎの感さえある物語をイーストウッドがどのような映画に仕立てるのかという点、また国を挙げての歓喜や昂揚とその後に来る現実とのかかわりがどのように理解されるのかという点で興味深い(「ユニオン」の多義性を恃んだ言葉遊びはここでは無視しよう)。

 さらに、プレーの場面があるかどうかわからないけれど、アメフトとは異なるフットボールをイーストウッドがどう捉えるかという点にも興味が引かれるし、彼はアクション映画をきちんと撮れる人なので(戦争物、西部劇、『ファイヤーフォックス』、『ミリオンダラー・ベイビー』)、実現するなら大いに楽しみである。しかし 77 歳の高齢で南アフリカに出かけたりするのだろうか。

 配役では、マンデラ氏役のモーガン・フリーマンがすでに決定しており、優勝チームの 6 番・主将フランソワ・ピナール役としてマット・デイモンが予定されているというが、イーストウッドがキャスティングすればおそらく別の人選になったろう。個人的にマンデラと交流があるというフリーマンは仕方なかろうが、二人とも、顔を見ただけでは何を考えているかわからない(もちろんそれにはさまざまな理由がある)ピナールやマンデラとはだいぶ違うような気がする。顔立ちが、ではない。 たとえばピナールの一種異様な眼の輝き、あるいは端的にチェスター・ウィリアムズのような人を擁すチームの主将の顔は、デイモンのそれとは別種のように思われる。体格その他はまるで違うが、目の輝きだけでいうなら、むしろ若い頃のハリソン・フォードやトム・クルーズの方が近いように思う。あるいは、それだけにイーストウッドの演出に対する期待がますます高まるというべきか。

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