カテゴリー「テレビ」の記事

2009年1月20日 (火)

雑談(1)

「氷の世界」などと大仰ないい方をしましたが、気温が氷点下マイナス 10 度の日は実際には二、三日のことで、それ以降は割に過ごしやすい日が続いています。
 それにしても、ラグビーがないとある意味「平和」ですねえ。うっかり週末のハイネケンカップ放映を見逃してしまったための無聊ということでもあるのですが、イスラエルの「ガザ侵攻」、要するにテロリズムでありジェノサイド――あるいはゲットーを対象としたホロコースト――にほかならぬ軍事行動がさしあたって停止されることになったのは何にしろよかった。もっとも、根本的解決には程遠く、というよりむしろ、いろんな人がいろんなことをいっているのですが、「真実」はどこにあるのか、何が根本的解決なのか、全然わかりませんね。むろん、真実がウェブ上に(even in English, you know)ごろりと転がっているわけもなく……。

 どちら様もお気づきにはならなかったと思うので自分からいってしまいますが、このブログは先月 27 日以来、秘かに「戦時態勢」を敷いてきました。シルヴィ・カスパールの朗読しかり、オリヴェイラの映画――ヴェネツィアとともにパレスチナが喚起される――、そして未来主義もまた然り。
 未来主義(とりわけマリネッティによる「宣言」)がいわゆる「戦争の美学化」を明示的に語った嚆矢というのは常識に属す事柄でもあるので、敢えて触れることはしなかったのですが、乱暴にまとめてしまうと、藝術が担うとされてきた道徳的また(広義の)哲学的「有用性」の否定ないし軽視が、半世紀ののちに、五感の満足の手段として、藝術の代わりに戦争へと行き着いてしまったというようなことです。

 タブローを中心に展開されたイタリアやフランスの未来主義藝術を補完するかのように、プルーストは登場人物の一人にこう語らせています、「ドイツ軍の空襲があればもはやヴァグナーは必要ない」と(『見出された時』)。戦争に直面し、映画ではなくヴァグナーの歌劇を引き合いに出すプルーストの感性が古いのか新しいのか、単純に決することは難しいけれど、ともかく彼が批判的に思い浮かべていたものを現代生活のうちに探すとすれば、それは要するに絵プラス音、すなわちテレビということになるでしょう。事実、湾岸戦争テレビ報道はマリネッティの「宣言」のある意味における正しさを立証することになりました。
〈戦争こそがわれわれの五感を満足させる〉というテーゼは、〈スペクタクルは戦争でなくてはならない〉という別のテーゼに容易にそして不断に反転する可能性がある。そのゆえにこそ(と強引に論を進めることが許されるなら)、〈戦争のスペクタクル化〉の装置たるテレビ、とりわけそのスポーツ中継に注目しなければなりません。現代のスペクタクルがその本質からして平面的なものであるとするならば、いかにしてそこに空間性を回復させるかということが問題となるでしょう。
(しかし同時に次のような疑問が湧いてきます。スタジアムでのナマの観戦もつねにすでに「平面」によって媒介されているのではないか? 立体を平面に閉じ込める原理をひとまずキュビスムと呼ぶならば、キュビスト彫刻とはそれでは一体何だろう? パソコン画面で「見る」名画はタブローなのか? などなど。)

 鏡は魔法によって過去を映し出すとオリヴェイラはいっています。鏡とは何の謂いか、よくわからないところもあるのですが、つねに現在的とされるテレビや映画における時間を考えるにあたって、彼の作品は大切なことを示唆しているように思われます。

 夏目漱石の『薤露行』(1905 年)は『アーサー王物語』の翻案――

 世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸という点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏は免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏ったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如くギニヴィアは車夫の情婦のような感じがあるこの一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大に参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似がしたくなるからやめた。
 〔漱石による端書。太字の部分は特に意味はないけれど、何だか面白いので。〕

――として知られますが、鏡についての印象深い一節をそこに読むことができます(第二章「鏡」)。

 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。
 春恋し、春恋しと囀ずる鳥の数々に、耳側てて木の葉隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
 〔…〕
 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳けよりて思うさま鏡の外なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦めば山に遯るる心安さもあるべし。鏡の裏〔うち〕なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛らさはあらず。〔…〕かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。
 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑の霧を含みて、芙蓉に滴たる音を聴くとき、対える人の身の上に危うき事あり。〔…〕
 〔…〕
 鏡の中なる遠柳の枝が風に靡いて動く間に、忽ち銀の光がさして、熱き埃りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘う鷲の如くに、影とは知りながら瞬きもせず鏡の裏を見詰る。十丁にして尽きた柳の木立を風の如くに駈け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼の鎧に満身の日光を浴びて、同じ兜の鉢金よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみさんさんと靡かしている。〔…〕女は息を凝らして眼を据える。
 曲がれる堤に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾を懸けたり。女は領を延ばして盾に描ける模様を確と見分けようとする体であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭を抛げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜の廂の下より耀く眼を放って、シャロットの高き台を見上げる。爛々たる騎士の眼と、針を束ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍に馳け寄って蒼き顔を半ば世の中に突き出す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
 ぴちりと音がして皓々たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉微塵になって室の中に飛ぶ。七巻八巻織りかけたる布帛はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。〔…〕「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期の呪を負うて北の方へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分を受けたる如く、五色の糸と氷を欺く砕片の乱るる中にどうと仆れる。

〔引用は青空文庫のものを使用させていただきました。ふりがなは原則的に省略、また表示できない漢字はひらがなで置き換えてあります。〕

 ルビがないと読みにくい漢字が多いなあ――っていうか首相の麻生は、「漢字力を巡って民主党と質疑」してるんぢゃねえ! 他にやることがいくらでもあるでしょうが。

 とにかく、ランスロ(ット)の眼力はすさまじかったわけですが、では現代において四角四面の「鏡」を割るのは誰か(あるいは何か)、そういう問題が浮上してくるように思われます。もちろん、タイガースが負けるとテレビを破壊してしまう阪神ファンは除いて。

 大衆の時代の到来を十分に意識しつつ制作された未来主義絵画が特権的主題のひとつとして選んだラグビー、「テストマッチは戦争だ」といわれるのとは少し違った意味においてもまた、そして結局のところ本質的に、ラグビーとは戦争なのではないか――そのようなことを考えつつ、二月から始まるシックス・ネーションズを楽しみに待っています。

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2009年1月14日 (水)

「現実が来週から始まる」

 フレデリック・タデイ(Frédéric Taddeï)の司会によるフランス 3のライブ討論番組 Ce soir (ou jamais !) 、14 日は"L'État de notre monde, face à face avec Paul Auster"と題して、歴史家ピエール・ロザンヴァロンと哲学者ベルナール・スティグレール、シャンタル・デルソル、ミシェル・オンフレの四人に、途中からポール・オースターが加わる構成だった。

 なぜこのメンバーなのかと疑問に感ずる向きもあるかもしれない。どうせならエマニュエル・トッドとマイケル・ハートでも呼べばよいのにとか。まあこの番組はそういうタイムリーなゲストを売りにするものではないし、イスラエルの今回の犯罪的軍事行動が起こる前からおそらくすでに出演者は決まっていたのだろう(そもそもイスラエルのテロリズム・ジェノサイドは今回が初めてではない)。一般論として、「外」の出来事に敢えて触れない――それでもオンフレは、彼だけは「ガザ」の名を口にした――というのもひとつの見識ではあるし、それに、大統領がじきじきに調停を呼びかけたことからも明らかなように、フランスの「民意」はすでに固まっており、今更喧々囂々の議論が要請されているわけでもない(それが必要なのは例えば日ノ本だろう)。街頭デモも連日行なわれている。サルコジの行動は実を結ばなかったが、それは彼個人の能力不足ではなく、ただイスラエル国がアメリカ合衆国の出張所である以上、EU による介入の失敗はほとんど必定だったというだけのことにすぎまい。

 石油利権といういい方があるけれども、中東の石油資源を必要としているのは(自分のところで調達できる)アメリカではなく、ヨーロッパそして日本だという説があって、それが事実だとしてもしかし、今のような形で供給される必要はおそらくない。結局、どこかに、世界を現状のままとどめおきたい勢力があり、その意向に沿う形で物事が動いているということなのだろう。

 ポール・オステールはフランスとはもともと関係の深い人であり、作品もよく読まれている。この日の出演がどのような経緯で決まったのか正確なところは知らないけれど、「ユダヤ系」である彼を吊し上げるということではもちろんなく、要するに新作の宣伝だろうと思う(出演者のトークの最中に時折、画面を分割して右半分で近著が紹介される)。いずれにせよ、彼の登場を契機として、話題はオバマ体制に移る。出演者は(アメリカ人作家も含め)みなバラク・オバマへの期待をそれぞれ――たとえばロザンヴァロンがシンボリックな水準での変化を指摘し、スティグレールがそれに同調するなど――口にした。フランスが子ブッシュに恥をかかされ、煮え湯を飲まされたのは確かなので、とりあえず「あいつ以外なら誰でもいいや」というところはあるだろうが、本当に「変化」は起こるのかね。I doubt...  I doubt, I'm afraid.

 締めくくりのオースターの言葉:

昨年九月から今年の一月二十日までというのはわれわれにとってひとつの幻想―― fantaisie と言ったのを司会者が fantasme と訂正する――の物語です現実が来週から始まります(la réalité commence la semaine prochaine)。

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2008年3月27日 (木)

TV5 MONDE

 トラックバックというものが何なのかわからず、もうずっと放置しているのだが、半年ぶりくらいに「一覧」を覗いてみるとずいぶんたまっている。

 その中にフランス語国際放送局からの(そもそも「……からの」が適当かどうかさえわからない)ものがあった。パソコンで視聴できるとのこと。要するに宣伝である。自身や知己のためなら別だが、見知らぬ人、無関係の人の広報をわざわざ買って出る気にはならないし、代価も払わず宣伝してもらおうなんて甘いと思う。第一、なぜ日本人がフランスの宣伝をしなくてはいけないのだろうか?

 という形で宣伝しておく(使い方によっては「フランスの宣伝」以上の意義も見出しうるだろうし、日本に帰ったら自分が利用するかもしれないし、まあ覚書として。ウェールズの試合が見られるかどうか、それが重要なのだが)。

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2007年6月26日 (火)

シルヴィ・カスパールに恋して ARTE 賛江

 フランスのテレビは日本のそれに比べると総じて退屈とされているようである。御当地の斯界で誰が人気者なのか知らなければ、見ていてつまらないということはあるかもしれない。テレビとは、一面において人気者、「旬」の人をいわば野次馬的に眺めるものだからだ。概していうと、ケーブルテレビ等は発達しているものの、フランスは日本ほどテレビというものに期待を寄せていないように見受けられる。ニュースや討論の番組をぼんやり眺めるともなく眺めるのが普通の接し方なのだ。
 そういえば『ル・モンド』でも取りあげられるなど最近話題となったジョーク・サイト「
公徳心と密告を司る省」で、密告さるべき「不審人物」の特徴として挙げられているなかに「TF1を見ない」という項目があった(TF1 は視聴率一位の民放局)。内容はすべて冗談だからニヤニヤしつつ読み飛ばすのが正しいと思うけれども、このサイトの存在自体は、権力というものの発現に対する一種の批評になっている。他人の噂話に詳しい者がある種の権力を掌握するのは多分、偶然ではないからだ。他の項目はこんな感じである。「左翼の遺伝子をもっている」「公共交通機関を利用する」「似つかわしくないほど美しい妻がいる」「バカンスにヨットを貸してくれる友人がいる」「ジョニー・アリデーを聴かない」(笑)「「変」である」「本を読む」(笑)「外国人の友(黒人を含む)がいる」「ジャンマリ・ビガールのギャグで笑わない」「年中日焼けしている」「自分よりいい暮らしをしている」……。
 閑話休題。わたくしの場合、ふだん見るものはだいたい決まっていて、臨時で特殊な番組を除くと、ラグビーなどスポーツ観戦とニュースのザッピング以外では、ほとんどARTE(アルテ:Association Relative à la Télévision Européenne)を見ている。
 アルテは素晴らしい。法律的にいうと、公営企業体アルテ・フランスおよびアルテ・ドイッチュラントTV を構成要素とする、法人格を有した「ヨーロッパ企業連合体」(Groupement européen d'intérêt économiqueの試訳)のひとつであり、1992 年から公共放送として(CM はたまに入る)、一定の水準を保った文化的番組をフランスならびにドイツ(とその周辺地域)に提供してきた放送局、ということになる。仏独二ヶ国語放送を基本としているものの、視聴率はフランス側での 4% 前後に対し、ドイツ側では 1% を切るという不均衡状態が続いている。それでも、1990 年のドイツ統一を見据えつつ、(フランス側では以前の「ラ・セット」を)仏独共同放送局へと発展的に解消した点、フランス側政権が左派から右派に変わっても存続した点はやはり評価さるべきである。日本が韓国や中国、台湾などとこうした放送を運営してゆくことができるようになればどんなによいだろう! ともあれアルテには質を落とすことなく放送を続けてもらいたいと思う(しかし歴史家ジョルジュ・デュビーに続くフランス側の二代目監修責任者が BHL だったとは……)。
 ところで、わたくしがアルテをついつい視聴してしまうのには、プログラムの内容自体もさることながら、実は各番組の合間に入るプログラム紹介を「朗読」する声に魅惑されているからでもある。原稿を「読む女」の名は Sylvie Caspar(シルヴィ・カスパール、実際の発音では「キャスパー」に近い)。前身のラ・セット時代に見出されたというから、彼女のキャリアはそのままアルテの歴史でもあり、実際インターネット・ラジオ「アルテ・ラジオ」で聴くことのできる彼女へのインタヴューは「シルヴィ、アルテの声」と題されている(8 分 37 秒、この下に Shockwave flash プレーヤーがあります、表示されない場合はこちら。また同サイト内検索にて "voix d'arte" を入力するとキャスパーによる朗読作品が見つかります。また "Fictions-Lectures"タブからは例えばヘルダーリン詩篇の独仏バージョンを聴くこともできます )。

 聴けば分かるが、どことなく舌足らずというかたどたどしい響きから、最初「この人は外国人(アルテだからドイツ人)ではないか」という印象を抱いた。しかし抑揚は紛れもなくネイティブ・スピーカーのそれである。シルヴィ・カスパールの声の魅力のひとつはおそらく、彼女が非常にゆっくりと喋るところから来ている。一般のフランス人は全く意識していないのだが、フランス語は基本的に「早口」で話される言語であって、事実、ふつうのネイティブ・スピーカーに「ゆっくり喋ってくれ」といってみても、彼らは「ゆっくり」喋ることができないし(政治家やお年寄りはゆったり喋るがそれはまた別の話だ)、「ゆっくり」喋るということがどういうことなのかそもそもわかっていないのである。試みに別のチャンネル、例えばフランス 3 の同様の番宣を聴いてみればよい。そちらの方はこれでもかといわんばかりに「早く」喋っていて、思わず笑ってしまうほどだが、実際にはそれこそが(ふつうの)フランス語なのである。ちなみにそのフランス 3 の声には非常にエロティックな響きがあって、声自体になまめかしさが含まれているという以上に、その艶が息を継ぐ一瞬に顔を覗かせるように思われる。これも実はシルヴィ・カスパールの声なのではないかと疑っている(恋は「聾者」とはよくいったものである)のだが、それはどちらの場合も、話す、というよりただ声を発することの純粋な喜びが聞き取れるからである――と、脱線はこれくらいにして、ともかく、原稿ををゆったりと朗読することによって、いわばフランス語の襞が開かれ、ふだんは抑圧されている別の肌理がそこに呈されるといえばよいだろうか。そうした「発見」にまずわたくしは惹き付けられた。
 声質自体の魅力はいうまでもない。aérien(空気のように軽やか)でありながら同時に官能的でもある。「ゆっくり(話す)」を parler doucement すなわち「甘美な仕方で、快く(話す)」というけれども
、そのこととも関係づけられるかもしれない。声だけの存在、たぶん彼女は表へは出ないことに決めているのだが、そうした une voix off としての官能性はどこから来るのだろうか。フランスの大多数の女性テレビ人が腹に力を込めて声を出すのとは違って、ささやくように声を出す点がまず大きい。だがそれは甘えているのでも媚びているのでもない。彼女はいわば誘惑しているのである。インタビューを聴けばそれが自覚的であることがわかるが、「シレーヌといわれればそうかもしれない」と慎重に言葉を選びつつカスパールは、自分の声としてのあり方を「古代の〔仮面〕劇」になぞらえている(この辺りはふつうに教養人である)。
『読む女』、すなわちラ・レクトリスという小説がある。ミウミウ主演でかつて映画化されもした『読書する女』(レイモン・ジャン著)である。物語行為が孕みうるエロスを改めて喚起した点では一定の評価を与えらるべき作品ではあるが、主人公の女性が肉体をあっさりと与えすぎるせいで、結局のところ声自体は主人公になり損なっている点が惜しまれる。声の――したがってテクストの――フェティッシュ化を回避するために、女の「生身の肉体」を現前させるやり方がいかにもフランス的というか西欧近代的であるが、実のところ声にも肉体はある。古代仮面劇的マスクもまたそうだ(近代の仮面舞踏会的マスクはそうではない)。そしてマスクの向こう側に何もないのと同様、シルヴィ・カスパールの声の向こう側には何もない。重要なのはその点であり、そのことは彼女自身によって自覚されている。つまり声の存在に自らを限定して聴く者の想像力を強く刺戟しつつ、フェティッシュとなることは巧みに避けているわけだ。インタビュアーが「少し ironique」といったのに対し本人は「確かに ironique なところはあるかも」と答えているが、そうしたところにも彼女の十分に知的な選択が見て取れるのではないだろうか。この場合、ironique は「皮肉を利かせた」というよりむしろ「ユーモアを湛えた」あるいは「いたずら好きな」と翻訳されなくてはならない。
 実際、ただ内容の伝達のみに奉仕するのではないカスパールの声は、必然的にテクストとの間にいくらか距離をとることになる。それが「いたずら好き」ということだ。わたくしは見聞していないが、後期フランス革命を「恐怖政治」によって主導したジャコバン派ロベスピエールの手になるテクスト「フランスに与えらるべき憲法について」を、彼女のそうした声に朗読させるという面白そうな試みがあった。
オリヴィエ・バルダンの 2004 年の展覧会である(Olivier Bardin, Sur la Constitution à donner à la France,  galerie cent 8, Paris)。問題のテクストは、実施されぬままに終ったものの最初の民主的な憲法として知られている1793年のいわゆるジャコバン憲法の精神を、その採択に先立つ国民公会で説いたものだが、こうした危なっかしい代物を扱うのに彼女の声は、その知性、その距離の感覚においてうってつけであるように思われる。こうした文脈においても「アルテの声」が 100%(ミーハー的に)肯定さるべきか迷うところだが、政治と現前のプロブレマティックに関わるものであるとはいえるだろう(この展覧会は雑誌 Art Press, no 303, juillet-aôut 04 でも紹介されている)。

(とはいえ、一度耳にすれば忘れられない声ゆえ賛否両論があることは記しておかねばなるまい。例えばあるブログでは、カスパールの声を絶賛した男性(?)が数名の男女からかなり激烈に批判されており、中には「この声のせいでアルテを見なくなった、放送局はつまるところ視聴者の半数が女性であることを考慮していないのだ」とまでいっている女性(?)もいる。他には嫌悪感もあらわに「アルテの番組宣伝がこんなに官能的でいいのか」と、「階級闘争」(!)といったものまでもち出しながら執拗にいい募る男性もいる。こうした反対意見が「ヤラセ」でないとすれば、わたくしも他人のことをとやかく言えた義理ではないけれども、ただ能天気に賛美していただけのブログの主はさぞ驚いたことだろうと気の毒になる。「階級闘争」うんぬんというなら、しかしマルクスはちゃんとフェティッシュの危険性を認識していたのだが。)

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