カテゴリー「パリ」の記事

2008年10月15日 (水)

雑誌 Attitude Rugby

 たまには雑誌でもと思い立ち、ラグビー雑誌を買ってみる。Attitude Rugby。敢えて訳せば「ラグビーという態度・生き方」とでもなるだろうか。わたくしが入手したのは 30 号だが、Jmhernandez 1998 年の創刊から、体裁(サイズその他)や発行間隔を変えて現在のほぼ月刊という形態に至っており、これは装いを改めた――未詳だがその頃に資本が変わったのかもしれない―― 2005 年から数えての号数である。
 「スポーツと社会の雑誌」と副題に銘打たれているけれど、日本でも馴染みとなっているような宣伝タイアップ「記事」もあり――最終ページのスポンサー一覧からいくつか挙げると、アメリカン・アパレル、アジックス(仏式発音)、キヤノン、コム デ ギャルソン、グッチ、ラコステ、ナイキ、パイオニア、プーマ、ヴィヴィアン・ウェストウッド、Y-3、そしてもちろん(!)セルジュ・ブランコ、あ、でもフランク・メネルはない――、曖昧な記憶のままいうと、Casa Brutus あるいは Esquire と似た感じがする。つまり、エディトリアル・デザインのコンセプト自体は、日本の雑誌類とそう大きく違わないように見える。まあ、気の利いた日本人デザイナーならロゴタイプその他をいじりたくなるかもしれないけれど。
 広告に注目してみると、ホテル、ケーブル TV、シャンパン、自動車数社、それに記事だか広告だかよくわからない「ポルシェ 911 タイプ 997」についてのレポートがある――わたくしなどの読む雑誌ではないということか?と思わぬでもないが、まあ雑誌というやつは夢も売らなければならないだろうし、それは気にしない。だいたい値段が 1 部 4 ユーロなんだから。すでに触れたタイアップ部分――「モード」(モデルはレ・ブルー/ラシング=メトロ 92 の L・ヴァルボン、32 歳)と「ショッピング」――を除いた実質 94 ページのうち広告が 11 ページ、写真は多数(というか、物理的に記事より写真の占める割合が大きい)。

 ただその内容がラグビー一色という点で、やはり日本とは大きく異なっている。たとえば『Number』は写真も含め美しいと思うが、あのような体裁の月刊ラグビー専門誌というのは、日本では今のところ想像できない。三年続いているということが、雑誌というものの経営の上でどのような意義をもつのか、わたくしにはわからないけれども、とりあえずラグビーにそれなりの広告がつくということに彼我の差を見せ付けられた。
 こうした雑誌の存在は、ここのところのフランスにおけるラグビー人気を端的に物語っているわけだが、また記事のバラエティには、ラグビーをめぐる現在的事象の豊富さが反映してもいるだろう。実際、ラグビーに関して報じる(べき)事柄が、ここフランスではとにかく無数にあるという印象を受ける(フランスだけでなく、ベルギーやポルトガル、スイス、カナダにも販路を見出しているらしい)。

 相談役兼記者として『エキップ』紙で名を馳せたクリスチャン・モンテニャック――サイトには彼の言葉として「ラグビーとは生のひとつのスタイル、そしてまたひとつの態度なのだ、云々」が紹介されている――が外部から参画していることもあり、読み応えは確かにそれなりにある。ダカール(セネガル)でのラグビー事情、正確には、「ストリートチルドレン」の「更生」(社会復帰)の一助としてのラグビー・スクールについて書かれたレポートなどを興味深く読んだ。

 Slightly out of focus になってしまった写真は、今月号の表紙を飾るフアン・マルティン・エルナンデス。彼はおそらく肥満体質で、気を抜くと顔がアンパンみたいになるから、この「四分の一」の角度くらいが一番よく見えるね。それはともかく、同僚だったダヴィッド・スクレラの移籍を承けて、ようやく 10 番に定着、いっそうの活躍が期待されている。特集記事は Ch・モンテニャックによる短めのオマージュ「異質さの美」(La beauté de l'étrangeté)――あゝ、これはよくわかる、彼は étranger かつ étrange だ――、そして一問一答形式のインタビューから成っている。

(ラグビー?)
――情熱の対象であり、愛だ。〔後略〕

(10番と15番では?)。
――10番。

 また「現在読んでいる本は?」という質問に対しては、ペロンが主導したクー・デタやその後の軍政の時代に関する歴史書と答えている。

 このエントリーに特に「落ち」は用意していません。記事を読んでのレポートを追い書きすることがあるかもしれないけれど、とりあえずこの辺で。

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2008年7月24日 (木)

コニャック=ジェ美術館

 十八世紀の作品を中心としたマレ地区の美術館。無料の博物館としては近所のカルナヴァレ美術館が有名だが、規模はだいぶ小さいものの、こちらもそれなりに見応えがある。

 「廃墟のロベール」と呼ばれたユベール・ロベールの作品を見に行こうと急に思い立ち、自転車で向かう。楕円の形に縁取られた一対の油絵、「事故」(L'Accident)と「家畜用水飲み桶」(L'Abreuvoir)である。いずれも1804年頃の作品。ディドロに「廃墟の詩学」を「発見」させた画家で、実在の廃墟群がありえない組合せで一枚のタブローに登場させるなど、綺想画に分類できないこともない作品を多く描いた。
 一般に廃墟画を完成させたとされるドイツのC・D・フリードリヒ作品とは対照的に、とにかく人がごちゃごちゃ「無意味」に多く描かれるのが特徴で、ディドロなどはその点を最後まで批判しつづけたけれども、古代・中世の「偉大」な廃墟群と、日々の暮らしに没頭し、廃墟の価値にはまるで無関心の人々との対比こそが、この画家における「崇高なもの」を形作っている(建築の領域における「崇高」を絵画の領域に移し変えればこうなる)と哲学研究者B・サン・ジロンはいっている。たとえば「事故」には、廃墟として残るファサードから墜落中のひとりの男が描かれているけれど、その手には花束が握られている、つまり彼は古美術としての廃墟には関心がなく、たんにそこに生えていた草花を摘んでいる最中に足場が崩れて落ちてしまったというわけである。
 もう一方の「水飲み桶」は自身の墓碑を登場させている。わたくしはそのラテン語の碑銘を確認しに行ったのだが、自分の墓(を含む遺跡)を人々が通り過ぎるという、「廃墟となったルーヴル・グランドギャラリーの想像図」(1796年)同様の、二種類(あるいはそれ以上の)時間の同居する
、眩暈を覚えるような時間性が廃墟画のひとつの特質であり、その点を考察することは、藝術作品の時間性を考える際にいくらか有益であろう――今わたくしが取り組んでいるのはそうした事柄である。

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2008年7月 1日 (火)

マドモワゼル X のこと

 久しぶりに大学に行く。パリ市内ではもう見当たらないような古い――題材も写真の撮り方も――感じの絵葉書が売られていて購入する。こういうのを探していたのでちょっと嬉しかった(Stefano Bianchetti という写真家の作品)。いちおう描写を試みると、ちょうどメトロ 6 番線の車両が西日を浴びながらベルシー橋の上を通過する瞬間を切り取ったもの。新国立図書館やボーヴォワール橋(本ブログのプロフィール・ページの橋)が存在しないことから、またメトロの車両が古い型であることから、この写真がそれ以前のものであることがわかる。調べたところではビアンチェッティ氏は〈陸橋を通過するパリのメトロ〉の構図をシリーズとして撮っているようである(わたくしはつい「地下鉄」と呼んでしまうが、パリの「メトロ」は 2・5・6 番線などが一部地上を走っている)。

 生協書籍部のようなものはこちらにはないけれど、ここはやはり土地柄というべきか、移民(と思われる人たち)がキャンパスの一角で古書を商っており、絵葉書もそのコーナーにあったものである。
 校舎に囲まれた区画に新しい建物が出来ていた。工事が始まる前、まだ唯の空き地だった頃、そこで「ビー部」が集っているのを見たことがある。部といっても、わたくしが見た時は五、六人の学生にコーチひとりだけで、女子がふたりほど混じっていた。バックスの何かムーブを反復していたのだが、ディフェンスのいない練習だと男女混合で出来るのだなと妙に感心した記憶がある。彼らは今どこで練習しているのだろうか。

           *

 別の日、国立図書館に行く。こちらも久方ぶり――というより、元々そう頻繁に通ってはいない。行けば行ったで、ほとんど休憩もとらず四、五時間集中して調べ物をするけれども、問題は研究者向けの階層が地下にあることだ。採光はそれなりに確保されるよう設計されてはおり、早い時間帯では机のランプもつけなくてよいほどだが、要は地下に押し込められる感じが厭なのである(正確には地上階なのだが、気分的には地下にいるのと同じだ)。自然光を採りいれる、天井をきわめて高くする、等々の工夫にもかかわらずそうなのだ。確か設計者の回顧展をポンピドゥでやっているはずである。

 とにかく、調べ物が終わるとわたくしは、出口から大体いつもセーヌに面した側の広場に向かう。入口が仏式一階にあり、そして地上階の天井が高い分だけこの部分も高くなっているわけだから、セーヌを結構な角度から見下ろすことになる。左手前方には、対岸へ渡るシモーヌ・ド・ボーヴォワール歩道橋がかかっており、遥か前方を望むとシネマテークも見える。
 川をぼんやり眺めながら普段のようにそこで×××をきめていると、後から声がかかった。
 ×××をおもちじゃないですか、もしかして?
 なぜ×××を請う人たちはいつも「もしかして = 偶然にも
」(par hasard)というのだろう? もっているのは明らかなのに。もちろん、問われた側がそもそも他人からもらったにすぎず、持ち合わせがないということだってフランスでは多いにありえるわけだが。

 仕方ないなあという表情を作りつつ――こうやって助け合うのは悪いことじゃあないし、人間的な感じもするので厭ではないのだが、喜んで差し上げるという風にはどうしたってなりにくい、人情として――わたくしは×××を差し出す。ふだんならそれで片がつくところだった。気分の良いときなどは「二度とやらないからな、覚えとけ」と、その時初めて出会い、二度と出会うこともないだろう人に向かって無意味な説教を余興として垂れることもあるのだが、いずれにせよ連中はさっさと立ち去るのが常だった。ところが彼女は、なぜかそこにとどまり、わたくしの傍らで×××をきめ始めたのである。

 それがマドモワゼル X だった。われわれはしばらく立ち話をした。現在マステール 2 の院生で、アグレガシオンの準備をしていること、課程修了論文はそれが終わってから仕上げるだろうこと、専門はヘーゲルの政治理論(「それは政治的な研究? それとも哲学的なの?」というわたくしの愚かな質問に「政治哲学の問題」とエスプリをもって答えた)、哲学的な議論にちょっと参り気味であること、ただしドイツ語は読めないとのこと、×××は一日一回に決めていること、もっとも例の法律の施行前はそもそも嗜む習慣がなかった(「始めたのはちょっとした子供っぽい反抗心からかな」)とのこと……。

 ×××が尽きると、「そろそろ食事の時間だから」といって彼女は去っていった。わたくしもその日はユーロがあったのですぐ帰路につく。それだけ。後日、友人に話すと、似たような経験を語ってくれた。とりあえずの結論としては「われわれは謙虚」というところに落ち着いたのだが、たぶん彼女たちは純粋に×××が欲しかっただけだとわたくしは思う。というより、そういう「謙虚」な人間と見えたからこそ×××をねだったというところではないだろうか。
 「イクス」嬢というのは単に名前を聞いていないからで、「知らない」という以上の意味はない。次に会うことがあったら尋ねてもよいが―― Xavier (グザヴィエ)の女性形 Xavière だったりして(そんな名前はなかったよなあ)。とにかくアグレガシオン合格に向けて、幸運を祈っている。

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2008年5月 5日 (月)

マダム C のこと

 暑くなってきたためか、二年前の夏頃、パリの或る映画館でフランス人女性と知り合った頃のことがふいに思い出された。映画好きなら誰でも知っている名画座のひとつ。だが、「名画」としてそのスクリーンにかかる作品の多くは、実際には盛期ハリウッド産のものである。

 フランスは総じて(つまり政治とか科学技術とかいったエリートの領分は別とすれば)「テキトー」な国である。定刻という意味での時間に話を限っても、鉄道のダイヤやテレビ番組、要するに各種プログラムが、予定された通りに実行されることはあまりない(鉄道は将来的には「是正」される可能性もないとはいえないが)。テレビのプログラムなど、予定された枠からは必ずといってよいほど(たいていは後に)ずれてしまうし、付随して出来てしまった隙間を埋めることができずに画面がしばらくのあいだ暗転するといったことも決して珍しくない。日本でなら「放送事故」と称されかねない事例である。日本からフランスに来た人は〈こんなに緩くても社会は回る〉という現実に驚き、多くは羨望を覚えるはずだ。その人間くささに。
 もちろん、こうした鷹揚さというか、余裕といえばよいか、要するにテキトーな態度を保てるのは、フランスが何より広い土地を有す農業国であり、また観光資源にも恵まれているという、経済的な支えがあればこそである(よいことづくめではなく、原子力発電への依存は将来的に深刻な問題となりうるが)。そうした基盤の違いを抜きにして、フランス人と日本人の「気質」を比較するのは愚かだが、とにかく――フランス人は多くの(どうでもよい)局面ではかなり緩い緩い緩いということにしておく。念の為にいい添えておくと、フランス人が時間というものから全く自由ということではない(スペインやイタリアから見れば「セカセカ」しているということはともかくとして)。近代以降の人間は時を、あるいは「時計」を内面化しているのだが、それに対する(いわば質的な時間を生きることを通じての)抵抗の様態が異なっているのである。

 そういう次第で、映画も定刻どおりに始まることはあまりない。件の名画座に戻ると、その日、休憩に出た従業員がなかなか戻らず、ラオール・ウォルシュの『白熱』目当てに立ち並んだ客は館前の歩道で待たされるはめになった。わたくしはすぐ前の女性と苦笑やら「困ったねえ」というような言葉を交わした。それがマダム C だった。相手が話を聞いてくれる人間と見るや、「お喋り好き」(自分でそういった)の彼女は、映画のことや日本文化のことを話し始めたのだった。

 たいていの場合「グッド・リスナー」であるという気質(真に受けないでください、というかワタクシは本気でそう思っているけど、他人は「こいつ阿呆だ」と笑い飛ばせばいいんです)がこの場合、よかったのか悪かったのか、それは何ともいえない。だがとにかく、上映終了後にわれわれはまた出入口前のホールで出会い、かなり長い間立ち話をしたのだった。そして最後に電話番号を交換する――まるで古えの「ボーイ・ミーツ・ガール」ではないか。女性が輝かんばかりに活き活きと話す(のを見聞きする)のは、つねに素晴らしい体験である〔「女は愛嬌」みたいなことをいっているのではありません〕。それがたとえ七十歳の人であったとしても。

 興味深い話もあった。幼時から映画に親しんできた立派な――トリュフォーは好き、ゴダールは認めるけど嫌いという、まるで淀川長治のような――シネフィルならではの体験談。たとえば――第二次世界大戦期まで、映画館にかかる大半がフランス映画だったのが、戦後は一変してハリウッド映画が優勢になったこと。本ですでに知識を得ていた事柄だとしても、 CIA の工作によって感性をまさに変えられてしまった当の本人の口からそれを聞くことができたのは、まあ貴重なことだったと思う。あるいは、エロール・フリンに憧れていたけれど、彼が「親ナチ」だと知らされてからは軽蔑するようになったこと。ああ、そういうのってありますよねえ、そういえばケーリー・グラントが MI6 の依頼でゲーリー・クーパーを監視していたんですってね――と、言いそうになったがやめにした。クーパーのファンだったら気の毒な気がしたから。
 もっとも、そういう「古臭い」映画しか見ないという人でもなかった。彼女が電話をかけてきて「一緒に見よう」と誘ってくれた映画はジョゼフ・マンキーウィッツの『裸足の伯爵夫人』だった。もちろん往年の名画として鑑賞することも十分に可能な作品ではあるけれども、同時にかなり奇妙な映画ともいえるだろうからである。ハリウッドの歴史において、危うい時期の製作だったのは確かである。また、近年の、だが価値ゼロのフランス映画(タイトル等は失念した)上映終了後に、それらしい人(つまりマダム C らしき人)が怒りをあらわにしていたとの目撃情報も得ている。
 『サユリ』も見たそうである。主演女優が実は香港の人だということは知っていたのだろうか。とにかくわたくしは問われて、藝者のことを難儀しながら説明した。多少は嘘も交えつつ。たぶん増村保造の『刺青』なんかも見た方がよいのだが、マスムラのことは知らないようだった。

 醒めた視点からいえば、おそらく、話を聞いてくれる人なら誰でもよかったのだろうという気はする。もちろん、ここのところの日本文化ブームとは切り離せないだろうし、実際、マダム C も書や山水の庭園に憧れを抱いていた。ともかく、繰りかえすがわたくしは、どんなにつまらない話にも耳を傾け「面白く」聞くことができるグッド・リスナーであるし(というか世の中、本当に面白い話などそうそうない)、階段や道路では彼女の手を取り、しばしばその背に手を添えることもした。Vous êtes attentionné. フランス語の勉強にもなった(フランスの若者も敬老精神はもちあわせないそうである)。アジア人を召使と(無意識のうちに)見なしている可能性? ないとはいえないだろうが、それは考えないようにしている。ただ、彼女は、わたくしが映画館前の立ち話に疲れて「喫茶店に行こう」と提案するよう仕向けるだけの手管を失ってはいなかったと、その点は記しておきたい。La très française. なぜなら、代金は誘った方が(当然!)支払うのだからである。

 このボーイ・ミーツ・ガール的物語はある日とつぜん中断する。わたくしの仕事が急に忙しくなったからだ。電話で「traduction をすることになったので映画館にはしばらく行けません」と伝えた。マダム C は最初、わたくしの家族とまったく同じ反応をした。「学校の課題は大変ねえ」。Mais non, Madame... それはただの宿題です。わたくしは本を「拙訳」するんですよ……。
 400 頁超の本を一年で訳そうとすればそれなりの覚悟が必要だし、事実、映画館に行く回数は大幅に減ったのだった。Au revoir. 翻訳が終わって本来の生活に戻った現在も、映画はフランスでしか見られないものに限って見るようにしている。彼女との再会はもうしばらく先となりそうである。だからそれまで、どうかお元気で。
 

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2008年4月12日 (土)

タンプル界隈・補遺

 前のエントリで大切なことをいい忘れていた。
 映画『秋の庭』(日本公開タイトル『ここに幸あり』)でタンプル界隈が出てくるときは、実はいつも曇り空だった。空自体が映し出されるのではないけれども、光の具合からして、「薄曇り」に近い天候であると推察できたのである。
 しかし、決して光度が減らされて(ないし奪われて)曇っているというのではなかった。むしろ光は、「中心」たる光源を欠いたことによって、ほとんど均一的な仕方で遍在するようになり、あらゆる人、あらゆる通に区別なく注がれているかのようだった。マルセル・プルーストがコンブレ・サン=チレール教会のグリザイユ様式ステンドグラスについて述べたような、曇っているがゆえにかえって明るく感じられるというようなことが本当に――映画だが――あるわけだ。秋だから、ということも忘れてはならないだろうけれど、ウィリアム・リュプチャンスキの撮影がやはり素晴らしかった。

 パリは寒の戻りから解放されて本格的な春日和となっている。陽だまりでは 20 度にもなる。終日晴れ渡るわけではなく、明るいグリザイユのような空気を通してのみ太陽光線が感じられる時間帯もまだまだ多いけれど、気分はそれでもすでにサンバやボサノバである。
 わざとらしくボサなどに言及してみたのは、ブラジル音楽のよき案内者として知られる(わたくしもむろんお世話になった)岩切直樹さんのブログ(「三月の水」)を発見したからである。もちろん発見というのはあくまでわたくし個人がということであって、御著書同様すでに広く知られていたに違いない。

 しかも素晴らしいことに――といって差し支えなかろう――岩切さんはなんとラグビー愛好者で、ラグビーのために別にブログをおもちだった。
 一番最近のエントリー、村田亙引退試合の観戦記は「しかし、淋しくなってしまうのも事実です。あとは松田努と廣瀬佳司と伊藤剛臣が1年でも長くプレイしてくれることを望むしかありません。」と締めくくられている。ちょっとだけ泣きそうになった。吉田義人の引退試合にあたる全早慶明(これは自分で見に行った)とはまた違った会場の雰囲気だったのだろう。

 ここで素朴な要望を表明することが許されるならば、岩切さんにはぜひブラジル・ラグビーについてのレポートをお願いしたいものである。とはいえ彼の国はとにかく広いからなあ。それにラグビーをやっているのがどういう人たちかも全然わからないし。でもこの方ほどの適任は他に考えられない。

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2008年4月11日 (金)

チーズ覚書 その 1

 スーパーでふつうに買えるフロマージュ、つまりチーズをひとつずつ試してみようと思い立つ。考えてみればこれまでカマンベール、ロックフォールくらいしか食った記憶がない。

 先日たまたま(というのはつまりほとんど間違って)買ってしまったイタリア産の何とかいう甘い赤葡萄酒、食事と一緒に摂るには(わたくしには)甘すぎるあのワインには、塩味のひときわ強いあのロックフォールを合わせて中和させよう。

 モルビエは火を通すと餅のように――あるいはピザ上やパニーニ中のチーズのように――よく伸びる。炒り卵が出来上がる直前にフライパンに入れ、ざっくりからめるようにするとよい感じである。

          *

Librairie_marelle_1  チーズとはまったく関係ないが、オタール・イオセリアーニ監督作品『秋の庭』に出てきたと思しき書店を発見する。ほとんど作家の庭といってよい(畏友からの情報)界隈。再開発計画の固まった「旧タンプル市場」の向かい、ペレ通(Rue Perrée)で。
 「旧市場」は現在は服飾関係の市としていちおうの役目を果たしてはいるものの、テニスコートも併設されるなど、ほとんど倉庫状態である。パリ・コレクションの舞台の一翼を担ったのは理に適っているけれど、有効に活用されているとはまあいいがたい。Librairie_marelle_2

 しかし現代的な趣の商業施設が建つと、マレル書店を含むこの界隈の独特な雰囲気は大幅に変化してしまうかもしれない。パリの他の地区同様に立ち並ぶ建物の配置、それは空の切り取られ方、したがって太陽光線の降り注ぎ方や量を決定するものだが、この地区固有のそうした配置はせめて変わらぬようにと願う。

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2008年1月25日 (金)

パリのゲットー

 わたくしの住むアパルトマンはパリの中でも最も特殊な部類の形状をした建物だと思うけれど、隣人は DJ Mehdi という、その業界――ヒップホップというかフレンチ・エレクトロというかそういう界隈――ではかなり知られた人である。「である」などと断じてしまったが、彼の家族が引っ越してくるまで実は知らなかった。世界は広い。広いのだが、奥方であるグラフィティ・アーティスト Fafi とともに日本にも結構な回数仕事で出掛けているそうだから、その意味では世界は狭いともいえる。ともあれ、夫妻ともにすごくいい人であることは間違いない。

 Mehdi 氏の作品のなかでわたくしが最も好きなのは(なぜか U2 の「ディスコテック」などを思い出させぬでもない) Steed Lord の「ダーティ・マザー」(Dirty Mutha)のリミックス DJ Mehdi Remix だが、これは「好き」というより、壁越しに聞いた回数が最も多いために最も馴染んでしまったという方がむしろ適切かもしれない(試聴はこちら)。面白いのは、彼が越してきた当初、近隣のアパートの住人から「音楽がやかましい」と苦情がくるなど、ちょっとした事件になったことである。これは本当にちょっとした出来事にすぎず、わたくし自身はほとんど迷惑に感じなかったのだが(いやまあ本当いうとうるさく感じられる時もごくたまにないではない)、近辺が静かなためか、苦情が二件隣の建物から来た点が興味深かった。
「閑静な住宅街」といえば聞こえはよいけれど、われわれが暮らすのは、歴史的用法を加味しつつ日本語に訳せば「ゲットー」ということになる(原語のフランス語がもつ複数の意味のうちのひとつを「素直」に訳せばそうなる)。もちろん人はそうした歴史をまったく気にすることなく住まうこともできるわけだが、偶然も手伝ってかかわりをもつことになったその歴史性に何か意義を見出すのも悪くはあるまい。DJ Mehdi がここに(とりあえず)腰を落ち着けることになったのは素晴らしいことだと、勝手にわたくしは考えている。

 わたくし自身はいずれ永住するつもりがないので、自分の身の上に引きつけて何がしかの意味を見出そうと積極的には思わない。ただ、ここも含め「ゲットー」的なものには、その実態とは裏腹な名称が与えられるという一般法則を、同種の「ゲットー」を発見するたびに思い出すくらいのものである。デューク・エリントン、といえば話は通じるだろうか。エリントン公爵(この場合、誰が名づけたかは重要ではない)。
 建物と建物の空隙にたまたま見つけたある「ゲットー」は例えば未来と名づけられている。原語で記せば ... de l'Avenir である。「未来という名のゲットー」。写真を御覧になればわかるはずだが、これほどきつい皮肉もない。いや皮肉以上の悪意そのものというべきである(ザ・ジャムにそんな感じの曲がありましたね)。こんなところに「未来」は訪れるのか、「未ダ来ザルモノ」が?Lavenir_1 あるいは、それでもやはり希望はともかくここから始まるというべきだろうか。
 
この写真を撮ったあと、現在この「ゲットー」は工事が始められており――壁のグラフィティはそのままだが、出入りを禁じていた柵は撤去されている――おそらくアパルトマンが建つはずである。そこに住まう人たちに未来、つまり「コレカラ来ルモノ」の来たらんことを!

Lavenir_2_2

 感嘆符など付けるものだから、もともと何を書こうとしていたか危うく忘れてしまうところだった。一方のお隣は高名なフランス人音楽家、いま一方には日本人がお住まいなのだが、ある時わたくしのところを含めた「向こう三軒両隣」(誤用かもしれない)が少なくとも二枚、同じレコードを所有していることがわかったと、ただそれだけのことで、つまり壁越しに時折、聞き覚えのある音楽が聞こえてくるのである(Mehdi 氏自身の選曲かどうかは未詳)。チェット・ベイカー『シングズ』、マーカス・ミラー『テイルズ』。チェット・ベイカーはもちろんゲットーに響くことを許された、そう多くはないだろう白人音楽家のひとりである。
 一般的には十分ありうることなのかもしれないけれど、わたくし自身はこうした経験は初めてだった。三軒が同時に同じ CD をかけるような状況を期待するともなく期待しつつ、しかし昼食を作りながら踊るのに最近は、デート・コース・ペンタゴン・ロイアル・ガーデンの「ミラー・ボールズ」をかける毎日である。

Lavenir_4 〔追記 暖冬から春にそのまま移行し、桜も咲き始めている三月初旬現在の「未来という名のゲットー」。こうして見ると廃墟以外の何ものでもないけれど、グラフィティで埋まる入口の奥、右に入ったところで immeuble (建物・ビルの意)が出来あがりつつある。車椅子の男性も何か感じたのか、視線を向けている。「おじいさん、ここには未来があるそうですよ。」
 覗きに行って追い出されたあと、道を渡って少し離れたところから撮影。〕

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2008年1月 3日 (木)

牡蠣

 フランスには「松の内」どころか「三が日」さえないけれども、「年越し」はある。「大晦日」の夕刻、自宅で年を越すべく牡蠣を求める人でごったがえす魚屋の臨時店員にさばかれて、わたくしも「年越し」と「元旦」用に牡蠣を入手する。ダース 8 ユーロと 10 ユーロのノルマンディー産のものを半ダースずつ、9 ユーロだから 1500 円くらいになるだろうか。はっきり覚えてはいないが、おそらくこれまでで最も高いクラスのものを買ったことになる。(正味の)身の丈 10 センチ内外の生牡蠣である。

 31 日朝にゲラが届き――それにしても八時半って早過ぎやしないか、UPS さんよおおお――休みなしが確定してしまった正月のささやかな贅沢であるが、年を越しつつ、また新年を寿ぎつつシャンパンと一緒に食う牡蠣は、泣きたくなるほど旨かった。「死ぬほど」という言い方、あるいは「鬼のように」、「ギザ」などさまざまな言い方があるけれども、ここでは「泣きそうなほど」の方がやはり適切に感じられる(関西人は割とよくそういうと思う)。まあ「震えるほど」でもよいがとにかく、泣きそう。うん、泣きそう。

 広島とも宮城とも縁の無いわたくしにとって生牡蠣はフランス留学のもたらしてくれる幸福のひとつなのだが、泣きそうになりながらも同時に、ひとつの科学的な疑問が浮かんでくる。この牡蠣をフライにしたらどうなるのだろう? フランス人は一般にカキフライを好まないらしいけれど、わたくしはフランス人ではないので、想像するだけで唾液の分泌が激しくなる。激しくなる。

 親しい友人が「食べ物は最低三十回は噛んでから嚥下しましょう」イデオロギーについて、「でもよく噛むとみんな喉ごしが一緒になってしまう」と反発していた。至言である。わたくしは例えばケバブ・サンドイッチも好きだが、やはり一緒になってしまってはいけない。もちろん全く噛まずに飲み込むと単なる「鵜呑み」になってしまうけれども、牡蠣は数回噛むともなく噛む――つまり咬むというより食む――うちにどこか知らないところへ消えてしまっていることに後から気づくというのが、あるべき食し方だろうと思う。次の贅沢まで、「あの泣きそうになったアレ」の記憶とともに生きるのである。本当に噛んだかどうかさえすでに定かではないあの感触と慎ましやかな甘みを反芻しながら。

〔付記 ケバブで思い出したが、日本からもってきた数少ない日本語ラグビー文献の一冊、だからいちおう愛読書といって差し支えなかろう『英国・フランス楕円球聖地紀行』に、バゲットにケバブを挟み込んだサンドイッチのことが書いてあった。著者の中尾氏が昔日を振り返りつつバゲット・ケバブサンドの消滅を嘆いているわけだが、わたくしもそれは見たことがない。少なくともパリはピタかアラブ風パン一色である。そこで過日、焼きたてのバゲット――これはわたくしのもうひとつの幸福――にケバブサンドの中身を移して食べて見た。当然のことながら美味であった。サンドイッチというのはそもそもが食道や胃に流し込むために発明されたものだから、あまり大仰に言い立てると野暮になってしまうが、それでもやはり旨かった。〕

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2007年10月11日 (木)

ロラン・バルト通り 1 番地

Rue_roland_barthes1_3 ロラン・バルト通りが出来たのは 1997 年、12 区リヨン駅北側の地画整備に伴い開通した。Rue_roland_barthes3_2 「通り」(rue)と名づけられてはいるものの、実態はどちらかといえば「広場」(place)や「遊歩道」(allée)に近い。駅舎と背中合わせになった SNCF 関連(と思われる)ビルと、P・H・グローウィン(Grauwin)通りという車道とに挟まれた曖昧な espace である。人が行き交い、斜めに横切り、もちろん随意に立ち止まることさえできる不思議な空間。Velib' のステーションがあるけれども、自動車は通行を許されていない。そのことに何か救われる気がする。

 車にはねられて逝去したバルトの名が冠されるにはふさわしい通りといえるが、Rue_roland_barthes2_3 立地はきわめて地味だ。日の射すことがないような裏通り。事件の現場である「学校通り」(rue des Écoles)を改称するのはさすがに難しかろうが、このような場所でなされる「交通安全祈願」は果たして人々に届くのだろうか。いやこの慎ましさがバルト的なのかもしれない。

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2007年9月20日 (木)

Velib' 実践篇

 Velib' に申し込んで二週間弱、ようやく年間契約カードが届く。
 
年間契約のカードは一見ただのプラスチック・カードだが中に IC チップが埋め込まれており、使用時は自転車がドッキングされている borne(端子というかターミナルというかマイルストーンというかそういうもの)に直接かざすだけで済むのが便利である。

 ただ、注意しないと余計な出費生じかねないことが、実践を通じわかってきた。

1 昼間、繁華街に出る場合、20 分を過ぎた頃からステーションを探すべきである。

たいていのステーションにはすでに空きがないので、二つ三つ、場合によってはそれ以上のステーションを回らねばならない可能性が出てくる(各ステーションには近接ステの地図がある)。万全を期すなら、目的地の手前で返却してあとは歩いた方がよい。
 住宅街の場合は逆になる。日中は自転車が一台も残っていないことが多く、待つか歩いて別のステを目指すか、他の交通機関を利用するかしなくてはならない。
〔追記 その後、空きのないステで「15 分無料延長手続」が出来ることを知った。よく考えられた仕組ではある。〕

 他に注意すべき点としては、

2 借りる前に自転車の状態をチェックすべきである。

前のカゴがぐらついているのはかなり多いし、パンクしているもの、チェーンが外れているものも少なからずある。また、ハンドルがどうしようもなく曲がってしまっているものもある(かなりひどいぶつけ方をしないとこうはなるまいと思わせるような状態)。
 
一度借りると、返却後 5 分間は新しい自転車を借りることができないので、時間の無駄を防ぐために必ずチェックして、選ぶべき自転車の番号を決めてから機械を操作するようにしたい。
 
まあ、チェーンは棒切れのようなものがあれば手を汚さず直すこともできるはずだし、パンクの場合でも根性で次のステまで走り抜くことは不可能ではない(というか、わたくしはそうした)。自分が乗っていて故障してしまった場合も、おそらくそのまま返却すればよいようである。修理してくれる人が巡回しているのを見たことがある。
〔自分が壊したのであれ何であれ、具合の悪い自転車をドックに戻す場合、サドルを前後さかさまにしておくのが礼儀というか親切だそうである。〕。

3 また、一方通行の道が想像以上に多いので、目的地までの理論上の所要時間はあてにならない。

先日、自宅近辺から日本大使館まで用足しに、経済観念の赴くまま Velib' で大遠征したことがあった。理論上は 30 分前後のところを乗り継いで(チェーンが外れるなどのアクシデントもあったが)とにかく辿り着き、用事を済ませた。帰りも同じ道順でと思っていたら、なんとオスマン大通りが一方通行だった。つまりわたくしは、つい数十分前に自分が自転車で通った道が一方通行であることに気づかなかったのである。莫迦もたいがいに……と自分で呆れたが、車道を走るのはかなり危険が伴うし、信号のないところや路上駐車の間からひょっこりロラン・バルトが飛び出してくるかもしれないしということで必死だったのと、そもそもかなり広い道ではあったので、一方通行だとは全然気づかなかったのである。

 ともあれ、利用される方は無理をせず、くれぐれも安全運転を心掛けて欲しいと思います。

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